新たなるリアリズムの創出―阿部和重論


 

絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。

                                 ―パスカル『パンセ』§134[1]

 

 

なぜ阿部和重か

 

阿部和重が現代文学を代表する書き手である所以について、積極的に考えねばならぬ時が来ている。言葉や物語への信頼がますます疑わしいものになりつつある現代において、こうした問題を阿部ほど真摯に問い続けている作家もそういないからだ。阿部の評価については、手放しの賛辞を惜しまぬ者から、「くだらない」と一蹴する者まで毀誉褒貶あるだろうが、彼がインターネットやロリコン、暴力といった現代的なテーマを自作に積極的に取り入れているというのが、彼を評する際のひとつの紋切型になっているのということはひとつの事実であるようだ。その言説自体は誤ったものではないだろう。だが、もし阿部が「現代の光景を描き出している」といった理由のみで評価(あるいは批判)されてしまうとしたら、そのことには決定的な異議を差し挟まずにはいられない。なぜならば、そういった認識は、そもそも根本的なレベルで阿部の問題意識を取り違えた所に成立するものであるように思えるからだ。これから見ていくように、それはいわゆる「リアリズム」に根ざした考え方であるといえるのだが、結論から言ってしまえば、そのようなリアリズムこそ、実は阿部が創作を通して批判し続けている当のものにほかならないのだ。

では、いわゆるリアリズムとは何か。端的に言えば、それは現実と虚構の一致という幻想の謂である。言葉が現実を過不足なく写し取ったものであり、思ったことをそのまま書けば、それがそのまま伝わるといった素朴な考え方。これが、2012年現在も未だに残存し続けているリアリズム―ここからは同じ意味で「反映論」という語彙を用いることにしたい―の正体である。日々巷間にあふれ消費され続けている「感動」なるものを支えているのは、総じて、作品の作り手と受け手の間に暗黙裡に存在しているこのような共犯関係(メカニズム)にほかならない。虚構人物への「共感」や「感情移入」といった事柄が成立しうるのは、作品の受け手が現実と虚構を同一視しているからであり、また大抵の創作者もそのような錯覚を抱かせることに腐心している。しかし、このようなメカニズムそのものが多分にフィクショナルな操作性を帯びたものではないだろうか。いわゆるリアリズムが問題となるとき、そこで問われているのは、じつは現実そのものではなく、「何がリアリティを醸し出すか」という技術的側面の方なのだ。そして阿部が常にこそ問題化してきたのもこの点である。

だが急いで付言するべきなのは、このような考え方が、決して阿部独自のものではないということだ。これは少し考えてみれば当たり前の話で、実際にフィクションを創作する過程に身を置いたことがある者ならば、そのジャンルに固有の論理と現実の論理の間にずれがあることを誰もが知っているだろう。従って、反映論に対する批判的姿勢が現在時にあってもなお有効かつ必要なものであることは間違いないが、われわれが注目するべきなのは、その問題意識そのものよりも、それを阿部が具体的にどのような形で実践しているか、という点である。

 

フィクションにおけるリアリティ

 

阿部は、一般的なリアリズム=反映論に対するものとして、「フィクションにおけるリアリティ」というものを繰り返し問題にしている。彼は佐々木敦との対談で、自らの方法論について次のように語っている。

 

フィクションというものの存在そのものがまず不自然なものとしてあるわけですね。現実に似たもの、現実をそのまま写し取っているものがリアルだと、それこそがリアルだという風に捉えられたり言われたりすることが非常に多いですけれども、しかし現実をそのまま写し取るということは、原理上不可能なんですよ。フィクションというのは必ずズレを孕んでしまう。〔…〕じゃあフィクションにおける真のリアリティってどういう物かと考えると、創作というのは色んな原理で作られていますけれどもそれぞれの表現形式の持っている、それぞれの規則、ルールがあるわけですよね。〔…〕で、表現形式それぞれのルールに従って何か物を作っていく時に、現実の写実からはむしろ遠ざかってしまう、あるいびつな部分。それをいかに明示するということじゃないかな。〔…〕つまり表現形式上のルールを愚直に守っていって、愚直に守りすぎたがゆえに露呈される不自然さというもの。その不自然さという限界点こそが、フィクションというものを覆っている現実であり、一つの真実なんだと。それを方法化することも出来ると思うんです。[2]

 

作家が述べていることが自作に対する正しい解説たりえるとは必ずしも言えないが、それでもこの発言は阿部の創作の核となる部分を正確に言い当てているように思える。しかし、彼がここで「リアリティ」(=現実性)という言葉を用いているのは非常に逆説的なことだ。そのじつ彼が問題にしているのは「虚構の虚構性」にほかならないからであり、それを指して彼は「リアリティ」と呼んでいるのである。このことから、彼が「現実/虚構」という二項対立的な考えに拠っていないことがわかるだろう。阿部が一貫して問うているのは、現実の虚構性であり、また虚構の現実性である、とひとまず言うことができるかもしれない。その内実をつぶさに見ていく以下の論考においても、便宜上「現実」「虚構」という二つの言葉が多用されることになるが、それらが互いに排斥しあうものではなく、むしろ互いに侵食しあうような概念であるということは忘れないでいただきたい。

たとえば一般的な映画において、鏡を真正面から撮ることはできない。ひとたびそれを行ってしまえば、たちまちフィクションという世界の約束事が音を立てて瓦解してしまうからだ。しかし阿部和重は、そこにこそ新たなるリアリズムがあると考え、積極的に鏡に正対してカメラを構えようとする。その鏡には、反映論の信奉者たちが、その存在を諒解しながらも、なかったことにしようとしつづけてきた創作者本人の姿がありありと映し出される。そしてその結果、これまで見たことのなかったような小説が書かれてしまうのだ。その鏡に映った彼の表情は、果たしてシニカルなものだろうか? それとも真剣なものだろうか?

 

 

 

1.距離と欲望のドラマ

 

イメージの恐ろしさ

 

阿部和重は、われわれにとっての現実(と思われるもの)がいかに虚構(物語や情報)に侵されているか、ということ(現実の虚構性)を執拗に描き続けている。2005年に刊行され、芥川賞を受賞した『グランド・フィナーレ』の中の次のような場面は、そのことを端的に表している。少女達のヌード写真を撮っていたことが妻に発覚し、愛娘との接近を禁じられてしまった主人公の沢見は、友人を通じて携帯電話に送ってもらった娘の写真を見てあることに気付く。

 

  携帯の画面だけに、映し出されているのは非常に小さなイメージでしかなく、鮮明とも言い難い代物でさえあったのだが、満八歳になったばかりの娘の姿を間近にいながら見逃していたわたしにとって、それはまさにお宝にほかならなかった。

  しかしそのお宝に宿ったマルチメディアの精霊は、悦びや思慕の情を引き出すことよりもさらに熱心に、わたしに対してある残酷な忠告を囁きかけてくるのだった。

  ちっぽけでぼやけたデジタルの像を見つめることによって感受されるのは、やはりどうにも埋め難い、被写体との間の距離だった。

  そこに映っているのは確かにちーちゃんの姿ではあるものの、たったそれだけのことにすぎず、その意味を解釈するうちにわたしは、改めて次の事実を思い知らされたのだった――自分にとって我が子が、手の届き得ぬ存在になってしまったのだということを。

 

ここで沢見が直面しているのは、言ってみれば、イメージというものの本質的な恐ろしさである。写真という形による愛娘の現前は、他ならぬ彼女自身の不在をこそ告げ知らせているからだ。つまりは、生身の娘と図像の娘の間にある「どうにも埋め難い」「距離」が彼を絶望の淵に立たせる。沢見は「写真などという、どう転んでも原物とは一致し得ないまやかしを生み出し続けることに血道を上げ」ていたが為に、現実にそこにいたはずの娘を失ってしまったのだ。

1994年に発表された処女作『アメリカの夜』の主人公、中山唯生もこれと似たような体験をする。彼は、ツユミという知り合いの女の子が短編映画の中でタマネギを切っている姿を見て、すっかり惚れ込んでしまう。唯生いわく、有名な映画女優達に似たような感情を抱くのは日常茶飯事なのだが、そうした女性たちは「そもそもが虚構であり、想像せねば姿を消してしまうこの世にはいない亡霊に等しい」。それに対してツユミは、映画の中にも存在し、現実にすぐそばにもいるという点において唯生の心を激しく捕らえる。彼は「一瞬にして、虚構と現実の間にある境が消滅してしまうといわれるような、距離感覚が極端に混乱に陥った状態」にさえなってしまうのだが、しかしそのことによって唯生が気付かされるのは、映画の中のツユミと実際のツユミとの埋め難い距離なのだ。現実のツユミはというと、いつも「アハアハアハ」と笑っているだけで「会話らしい会話など成立するはずがなく」、端的に言ってちっとも魅力的でないのだった。

2001年に発表された『ニッポニアニッポン』の主人公、鴇谷春生は、例によって誇大妄想にとらわれつつも、随所で「現実の虚構性」に対する鋭い視点を見せもする。彼は自分の苗字に「鴇」という文字が入っているという理由からトキにシンパシーを感じるようになり、インターネットでトキについての様々な情報を検索しているうちに、トキを殺害しようと考えるに至るのだが、例えば、ネットで見つけた、トキの国籍が日本か中国か、といった記事に対して「欺瞞だらけだ」と感じた春生は次のように考える。

 

『ニッポニア・ニッポン』という学名を付けられてしまったばっかりに、トキの問題は常に国家の話と結び付いてしまうらしい。〔…〕トキという生物それ自体以上に、『ニッポニア・ニッポン』という名称に執着しているものが少なからずいるわけだ。

 

そう、実際のトキという生物の中には、「日本性」を醸し出す要素などないのであり、それに付与された記号こそ全ての問題の原因なのだ。しかしこのようなことに気付くだけの眼を持っているはずの春夫も、佐渡島へ行く際の交通機関を選ぶにあたって、「全没翼型水中翼船ジェットフォイル」の陳腐な広告文(「宇宙航空技術を駆使した究極の超高速船!」)を一読するや、「途方もなく素晴らしい船なのだ」などと思い込んでしまうのだし、そもそも彼がトキの境遇に過度に感情移入したり、あるいは「裏切られた」と勝手に感じたりするのも、すべてはインターネットで得たトキの情報をめぐってなのだ。果たせるかな、半年以上の時間をかけてトキ殺害計画を練ってきた春夫は、いざ佐渡島に上陸しトキと対面するや、「いつまで経っても捕まえられず」、ついには「もうどうでもいいや」と感じてしまうのだ。これは、春夫にとって重要だったのがトキそのものではなく、あくまでもトキにまつわる情報や物語にすぎなかった、ということの証左にほかならない。

 

同一化の病

 

このように、阿部作品に典型的な作中人物―彼らを「阿部的存在」と呼ぶことにしたい―は、いつも現実と虚構の間にある距離に悩まされる。しかし、逆説的なことだが、現実と虚構の間にある距離が体感されるのは、その距離をなくそうとする運動によって、なのである。結びつかないはずの二つのものを無理に結びつけようとした時に、はじめて「ずれ」が顕在化されてしまうのだが、阿部的存在―そして、我々も?―は、そのことを欲望せずにはいられない。このような趨勢を一言で「同一化の病」と呼んでみることにしたい。このような「同一化の病」は、物語内容・叙述形式の両面にわたって、阿部作品の随所で繰り返し表れてくる。

「同一化の病」の最も分かりやすい形は、容貌の一致(という幻想)である。『ニッポニアニッポン』の春生は、トキ殺害計画実行のために佐渡島へと向かう途中でひとりの少女と出会うことになるのだが、偶然列車と船が同じだったという理由だけで彼女のことを意識し始めた春生は、片想いのままに自殺してしまった同級生、本木桜の面影を彼女に重ね合わせる。

 

彼女はどことなく、面影が似ている、というか、そっくりだと言っても過言ではない、彼女は確かに、本木桜と見た目が瓜二つ、まるで生き写しだ。

  その少女は、本木桜のように眼鏡を掛けてもいなければ、髪を三つ編みにしているわけでもなく、色白でもなければ、垂れ目ですらなかった。                〔ゴチック体原文〕

 

似ても似つかない人物を妄想によって「生き写しだ」とまで言い切ってしまうこと。これこそ「同一化の病」にほかならないのだが、このような病の原因は単に主人公の歪んだ心理だけに還元されるものではなく、小説そのものの特性とも大いに関わるものであることを指摘しておきたい。つまり、小説を読んで「この主人公は私だ」「この人物は○○さんに似ている」などという感想を漏らす人が後を立たないのは、単に彼らが、娯楽映画の観客のような「感情移入の化け物」(加藤幹郎『映画とは何か』)であるからだけではない。それは端的に言って、小説には「顔がない」からなのであり、読者のそれぞれが書かれた文字から視覚的イメージを立ち上げなければいけないゆえに、春生的な「同一化の病」が頻発することになるのだ。

一方、『アメリカの夜』は、「模倣」する男の物語であった。この作品は、もともと主人公という特権的な地位を付与されてあるはずの中山唯生が、みずから主人公(=ヒーロー)になる為にある種の「自分探し」を行う様をアイロニカルに描いた作品であり、唯生は様々な虚構的存在を自ら模倣しようと努力する。だがもちろん阿部は、そのような探されるべき「自分」の存在などはじめから信じてはいない。むしろ彼が描きたいのは、理想の自分を追い求めれば追い求めるほどありありと感じられてしまう、いま・ここにいる「探す私」と、未来に想定される「探される私」とのずれなのだ。そしてそれはまた、「語る私」と「語られる私」という、一人称そのものに孕まれる人格分裂的性格とも関係してくるだろう。二重人格とされてきた唯生と重和(Sとも呼ばれる)が小説の最後でほんとうに二人の人間に分裂してしまう(重和いわく唯生はフランスに旅立ったのだそうだ)のも、こうした文脈において考えれば、ある種の小説的必然だといえるかもしれない。

ところで、視点を極限まで拡げれば、「同一化の病」は、何よりも、言葉そのものの性格に関わっているものではないか。言葉が現実を模倣しようとする性格を持つものであることはひとまず否定できない。だがひとたびあるものが言葉に置き換えられてしまうや、対象それ自体は切り離されてしまい(ジャック・ラカンが「ものの殺害」、モーリス・ブランショが「死」と呼んだのはこのような事態だろう)、言葉だけが独り歩きすることになってしまうのだ。人間が抱える欲望においても事態は同じである。本来欲しかった対象から、その代替物を欲望することにシフトした時点で、倒錯は始まっているのだ。このようなことまで考えれば、阿部和重の物語世界は、言語や人間の本質を突いていると言えるかもしれない。

 

欲望のあいまいな対象

 

大略このようにして、阿部的存在たちは皆、現実の何かではなくその代替物を欲望することに躍起になってしまうのだが、ここで重要なのは、このような物語を描くことによって、阿部が決して「現実の大切さ」を説いているのではない、ということだ。問題となっているのは、はじめに確固たる現実があり、それが虚構によって侵されているので、それに惑わされず真実を見極めよう、というような単純な事態ではないのだ。むしろ、真に恐ろしいのは、そのような実体そのものがはじめからない、ということなのだ。

『公爵夫人邸の午後のパーティー』には、公爵夫人と呼ばれるある女性の「熱烈な信奉者」たちが登場する。彼ら/彼女らは皆、「夫人の真似をやりとおすことのみを生きがいにして」いるような人間たちなのだが、同時に「模倣に徹すれば夫人とは似ても似つかぬ姿になってしまう」ことにも気付いており、それゆえお互いに示し合わせたかのように、皆一様に「西部劇のガンマンやギャングスター」の恰好(夫人と「適当に似る」こと)におさまっている。ここで是非とも指摘しておかねばならぬのは、肝心の公爵夫人そのものは作品に一度も姿を現さないということだ。模倣(=欲望)される対象は、不在なのである。『公爵夫人邸』に収録された「ヴェロニカ・ハートの幻影」の中にも、このことに関連する興味深い挿話がある。不良少年が、山の中で起こしたいざこざによって同級生を怪我させてしまった事実をごまかすために彼を「野犬に襲撃されたことに」したことから挿話は始まるのだが、はたして「事件は妙な方向に進展」してしまう。山に野犬が出て、子供たちが襲われているという噂を耳にした「一部の狂信家の親たち」が、勝手に使命感を抱き、野犬狩りに乗り出すことになるのだ。「ねじ曲がった事実が伝わってゆくうちに、いつのまにか犬の数も襲われた子供の数も増えて」いく様は「伝言ゲームみたい」と形容されるのだが、そのじつ彼らは「存在しないはずの野犬を残らず仕留めてやるつもりで躍起になっていた」にすぎないのだ。

そして、2012年に刊行された最新作『クエーサーと13番目の柱』では、そういった人物の欲望がさらに倒錯した形で表れている。この作品に登場するカキオカサトシという男は、盗撮などを専門とするスパイ組織を牛耳り、Q(クイーンあるいはクエーサーの頭文字)と呼ばれるある女性アイドルの私生活をすべて手中に収めることを欲望する人物として描かれているのだが、その組織に属する一人、主人公といえるであろう人物、タカツキリクオによると、カキオカは「〔Qの―引用者注〕存在そのものではなく、クイーンにまつわるありとあらゆる情報〔…〕を残らず手もとに溜め込むこと」を「目論見のすべて」としており、生身のQ本人に関してはどうでもいいのだという。その証拠にカキオカは、情報戦に勝利し、インターネット掲示板での言い争いにおいて優位に立つことを唯一至上の楽しみとしている。おまけにカキオカは「いくら情報を集めたところで、手の届かない存在っていう現実は変わらないし、距離は少しも埋まらない」ということをはっきり自覚しているのだが、他の阿部的存在なら絶望するはずのその事実を彼は転倒させ、「絶対に縮まることのない距離さえあれば、クイーンであるという値打ちは毛ほども減りゃしない」と考える。『ニッポニアニッポン』や『グランド・フィナーレ』で描かれていた「接近禁止」の主題が、ここでは見事に反転した形で表れていると言えるだろう。カキオカは、「相手への直接の接近を自分に禁じて、執着心を保つことを優先する」あまり、「好きでいつづけるために、決して近寄ってはならない」という「アンビバレンス」を抱えることになるのだ。

果たして彼は本当に幸せなのか? あるいは、これは現代のオタクの姿そのものなのではないか? などと問うてみたい気にもなる。しかし、そういった現実と虚構の同一化を何よりも警戒しなければいけないことは、これまでに何度も確認してきたとおりだ。ここまで見てきたのは、主に物語内容の面で阿部が何を問題としてきたかであるが、しかしこれだけで分析を終わらせてしまえば、阿部が描いているのは単なる教訓譚だ、ということにもなりかねない。しかしそれではあまりに不十分なのだ。言葉が現実と切り離された時、現実と言葉のつながり(これを「縦軸」と呼ぶことにしよう)ではなく、言葉と言葉のつながり(これを「横軸」と呼ぶことにする)が問題になってくるのであり、阿部の小説がその真に特異な相貌を見せるのも、実は縦軸においてではなく横軸において、なのである。我々がこれから目にすることになるのは、もはや「現実」を遥かに逸脱した、まさに「フィクションにおけるリアリティ」としか呼べないような光景である。

 

2.小説、この「めんどくさい」もの

 

描写でもなく、文体でもなく

 

阿部の作品を読む時、どんなにナイーブな読者であれ、「嘘っぽい」と感じずにはいられない瞬間がある。もし阿部の作品に対しても「感情移入」しようとする読者がいたとしても、彼らはそこで突き放されてしまうだろう。そうした「嘘っぽさ」は時に「くだらなさ」へと変わり、否定的評価の対象ともなってしまうのだが、確かに阿部は、自身にとって重要な問題であるはずの試みを、いかにも馬鹿馬鹿しく描く。しかしそういった阿部的ユーモアのひとつひとつを分析していくことは、決して無駄ではないだろう。そこにこそ阿部の方法や問題意識が隠されているからだ。いや、隠されているという言い方は適切でないかもしれない。そこには彼の言う「フィクションにおけるリアリティ」がありありと顕在化されているのだから。

阿部的ユーモアの根幹にあるのは、「過剰さ」であることをまず押さえておこう。フィクションが現実を写し取ったものであるという錯覚を与える為に考案されたいくつもの約束事を、「過剰さ」によって自壊させてしまうのが阿部の戦略だといえる。ところで、小説にとってのそうした「過剰さ」の最たるものが「描写」にあることは、言を俟たないだろう。ある物を長々と描写すればするほど、現実の論理からは離れ、そこに小説そのもののリアリティが表れてくるからだ。ヌーヴォー・ロマン派と呼ばれる作家たちはその点に小説の可能性を求めたりもしたのだが、しかし携帯小説やライトノベルが隆盛を極める現代にあって、小説における描写の役割がみるみる減少していることも事実だ。端的に言って、阿部は描写にはあまり可能性を見出していないように思える。

では、小説ならではの要素として誰もが思いつきそうな「文体」についてはどうか。序章でも引用した佐々木敦との対談において、阿部は文体にも可能性を見出していないという旨の発言をしている。彼によると、インターネットが現れてから、文体模倣などといったものは、いとも簡単に、誰もが行うことができるようになってしまったものであり、もはやそこに「個性」を求めることはできないのだという。しかしそんな中でも存続する「ある種のナイーブな文体信仰」に対しては、彼は懐疑的である。

 

パソコンを使って、そしてインターネットを利用しながら小説を書いてるという作家はもはや大 半なんじゃないかと思うんですけど、そうやって小説を書いている人達っていうのは、もはやそういう風にしか小説を作れなくなっているというか。その作家そのものの個性みたいなものは、所謂文体というような形で読み取れるものではない。

手書きだと、作家の身体と書かれた言葉が非常に繋がっているという感覚があるじゃないですか。そこである種の文体信仰みたいのが産まれる。コピー&ペーストと検索ということを繰り返しながら書かれている文章というのは、作家の身体と繋がっているなんて風には、もはや書き手自身が感じられないわけです。[3]

 

念の為付言しておくと、阿部は文体に全くこだわっていない、ということではない。文体への強いこだわりが窺えた初期作品を除外し、近年の作品だけを見ても、『ピストルズ』と『クエーサー』の間には文体上の大きな違いがある。そして『クエーサー』のような、読みやすくある意味で平板な文体でさえもが、ひとつの技術的配慮の元に成り立っていることも言うまでもない事柄だ。従って、より正確を期するならば、作風に応じて文体を選択、変更することなど阿部にとっては当たり前の話なのであり、彼の力点はもっと違うところにある、ということになるだろう。

阿部は、『ピストルズ』で谷崎潤一郎章を受賞した際のスピーチで、自作が「めんどくさい」小説であると認めたうえで、「現在の文学の多くは、めんどくさくない方向に流れてしまっているのではないか。しかし小説とは本来めんどくさいものではなかったか」といった趣旨の発言をしている。彼は「描写」でも「文体」でもない要素にその「めんどくささ」の可能性を賭け、大きな潮流に抵抗する形でひとり反映論に抗おうとしているのである。これから見ていく阿部的ユーモアは、そんな彼が発明した新しい技法だと言っても過言ではないかもしれない。

 

細部の肥大化

 

阿部の「過剰さ」は、徹底した細部へのこだわりという形で表れてくる。例えば、彼にとっては、『グランド・フィナーレ』で、主人公が妻との諍いの末、妻を突き飛ばしてぶつけてしまう机は単なる「机」ではなく「パインウッド製のライティングビューロー」でなくてはならないし、赤外線通信機能で画像をやり取りする際に出てくる携帯電話は、「二つの携帯電話」ではなく「二つの携帯電話―ムーバN504isとムーバF504is―」でなければならない。これらは、一般的な意味での「リアリティ」に奉仕するためのものだとは考えられない。明らかにそこだけが異様に突出しているからだ。だがしかし、これらは細密描写というわけでもない。阿部は、読みやすさに失調をきたさない範囲で、しかし異様な形で、細部を肥大化させているのだ。このようなディテールにこのような形で執着した小説家がかつて存在しただろうか。

そういった執着(こだわり)の極めつけの例が「鏖(みなごろし)」にある。主人公のオオタタツユキがレストラン「デニーズ」に入り、メニューを見る場面がそれなのだが、一見して異様なのは、メニューに記された料理が「キングサーモンの塩焼膳(小鉢・ライス・みそ汁・香の物つき\ 856kcal 4.8g)」などといった調子で、事細かに記述されていることだ。さらにそれはひとつやふたつではない。オオタが実際に料理を注文するまでの箇所を少し引用してみよう。

 

いつもなら、ケイジャンジャンバラヤ(925kcal 6.8g)とほうれん草のソテー(196kcal 1.0g)に加え、桃とりんごのヨーグルトシェーク(328kcal 0.1g)を、さらにデザートとしてベリーベリーチーズケーキサンデー(429kcal 0.2g)かミニキャラメルサンデー(407kcal 0.2g)を注文するはずなのだが、いまの体調では、それを平らげることは、まず確実に無理だった。〔…〕最終的に、彼が出した結論は、まぐろ山かけ丼(みそ汁・香の物つき\ 617kcal 3.3g)と、「季節のおすすめデザート」のスムージー(巨峰ベリー\ 134kcal 0.0g)だった。オオタタツユキは、まぐろ好きなのだ。

 

頼みもしない料理を延々列挙したあげく、「最終的な結論」などと大仰に構えて、結局は主人公がまぐろ好きであるといった全くどうでもよい情報を、いかにも大事そうに語ること。この呼吸こそ阿部的なユーモアにほかならず、これを冗長だと感じたりして楽しむことができない者は、阿部との根本的な相性の悪さを嘆くよりないのだが、それはともかく、重要なのは、阿部がことほどさように、物語の本筋とは何の関係もない部分の記述にこだわるということである。阿部は、まるでここをこそ書きたいのだ、といわんばかりだ。

普通の小説にとってどうでもよいような細部が肥大するということは、逆に、普通の小説にとって重要な場面とされる所が軽く扱われる、ということを意味する。例えば「ABC戦争」の冒頭、音声と文字の関係や、谷崎潤一郎についての考察―いつもながら多分に自己言及的なものだ―が10ページほど続いた後、初めての作中人物、種田秀史郎が姿を現すことになるのだが、そのわずか三行後にはこう記されている。「まもなく彼はいともあっさりと死んでしまうだろう。けれどもその死じたいは、《機械》にとっては配線を接合するハンダのごときものでしかない」。普通の小説がクライマックスに取り上げるような人物の死は、こうもあっさりと―しかも彼が誰であるかもほとんど判然としないうちに―明示されてしまうのだ。

このような場面に、読者がおかしみ―あるいは不審や嫌悪感でもよいのだが―を抱くとすれば、それは読者のうちに、「パインウッド製のライティングビューロー」は単に「机」と書かれるべきであり、作中人物の死は大々的に取り上げられるべきだと言う思いが無意識裡に働いているからに違いない。そのような意識こそ、われわれが刷り込まれてきた「リアリズム」の賜物であり、阿部はまるで、そのような節度は、現実と虚構の間に程よく折り合いをつけることでしかなく、そのようなイデオロギー的抑圧装置によってフィクションの豊かさが肯定されることなど決してありはしない、と弾劾しているかのようだ。本当にリアルに書こうとしたら、こんな風にならざるを得ないんだ、といった挑発とも取れるかのような阿部の「饒舌さ」は、ディテールへのこだわりに留まるものではない。

 

饒舌な人々

 

阿部的存在の大きな特徴である「饒舌さ」も、細密描写に変わるものとして阿部が発明したひとつの手法だといえるかもしれない。

 

 しかし僕は、こうしてあなたのような、何と言うか、良質の社交性を備えた人とお話が出来て、今、とても喜んでいるところなんですよ! ええ、そうです、そうですよ! あなたは並外れて社交的な人なんですね。そうだとしか思えません。本当にそうだとしか思えないんです。いままでもよく、いろいろな人からそんなふうに言われてきたのではありませんか? もう飽き飽きするほど、あなたは大変社交的な人だと、これまで言われ続けてきたのではありませんか? たとえそうではなくても、間違いありませんよ。あなたは確かに社交的な人です。素晴らしい話し手ですよ!〔…〕

 

これは「トライアングルズ」に登場する「先生」が発した長大な台詞のほんの一部なのだが、文脈やディテールはこの際無視してもよい。是非とも感取されるべきなのは、ある種の中毒性を持った独特の呼吸と、長さに比してよりいっそう際立つ情報量の少なさである。ここで述べられている内容は「あなたは社交的な人だ」というただそれだけのことであり、話者はそれをどこまでも引き伸ばし、反復しながら語るのだ。阿部作品における「饒舌さ」については、精神科医の斎藤環もたびたび取り上げており、彼の指摘―饒舌を通して阿部が描こうとしているのは決して登場人物の「心理」や「内面」ではない、というものなど―には概ね首肯することができる(もっとも、そこから彼が導き出す結論には疑義を差し挟みたくなる点もあるのだが、それはここではひとまず措くことにしよう)。われわれの文脈に引き寄せれば、阿部的存在の饒舌において重要なのは、喋りすぎるあまり、結局はじめに言いたかったことからはどんどん遠ざかってゆく、ということである。話者は、自分の心の内を「もっと正確に」伝えようとするあまりつい饒舌になってしまうのだが、そのじつ正確さからはどんどん離れていってしまう。これは細密描写の抱え込むパラドックスともよく似ていないだろうか。

オノマトペについても同じことが言える。評論「伝達という闘争」の山城むつみも注目するとおり、阿部の用いるオノマトペは、本来の機能である「擬‐音」(音を模すること。これこそまさに反映論的装置の極みだといえるかもしれない)を大きく逸脱する。

 

 ギャッ、チャリン、やめろよ、中山、死んじゃうよ、いやああ、ギャッ、チャリン。ついに意を決したという様子で雪ちゃんが唯生の前に立った。ちかくにはツユミの姿も見えた。泣いているのだろうか、唯生はツユミを見つめた。石田を蹴ったときにころがった缶ジュースが足にあたった。雪ちゃん、やめたほうがいいよ、チャリン、チャリン、チャリン。ツユミは泣いているようだった。倒れて動かない坊主頭を蹴るのはやめて、地面にちらばった小銭を足ではらった。ジャリジャリ、チャリンという音がする。カチャリ、雪ちゃんは愛用のナイフを手にもっていた。缶ジュースをひろう。おい、やめねえと刺すぞ、雪ちゃんが凄んでみせた。ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー、警報機の音にどこかのだれかが気づいて通報したのだろう、パトカーが窃盗集団をつかまえにきたようだ。「ガキども」を助けようとつわものぶって愛用のナイフをだした雪ちゃんが滑稽に見えてしまう。ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー。缶ジュースの蓋を開けると、バシュッ、という音をさせて中身の炭酸飲料がとびだし、唯生は黒白の顔をぬらした、ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー……[4]

 

確かに馬鹿馬鹿しい場面ではある。だがここからは、阿部の様々な工夫を読み取ることができるだろう。先だって述べた通り、音を模す為につくられたはずのオノマトペが、その機能を失調させ、むしろ異物感を持った言葉そのものとして立ち現れてくるという点がひとつ。また、様々な音が同時に鳴っているという状況を表すのに、線状性を持つ言語ではどうしても列挙的にならざるをえない、という事実をこの場面が暴き立てているという指摘も可能だろう。しかし、ここにただ様々な音が氾濫している、と読むだけではまだ甘い。「描写」「説明」「分析」「対話」、そして「オノマトペ」といった、小説技法における様々な要素がここにおいて混交しているのであり、だからこそこのようなカオティックな状態が生まれているのだ。さらにこの引用箇所を細かく見ていくと、彼が「当たる」「拾う」「持つ」「出す」などといった簡単な動詞を、すべてひらがなで記していることもわかるだろう。数ページ後には「媾曳(あいびき)」「偸安(とうあん)」「怯懦(きょうだ)」といった難読語が読まれたり、「ガキども」の台詞を「リョオガアエシテエクダサアイ」とカタカナで表したりしていることからもわかるように、阿部は言葉そのものの異物感を、ひらがな、カタカナ、漢字の全てにおいて顕在化させている。難読語を用いる傾向に関しては、その後の『シンセミア』や『ピストルズ』などの作品でさらに推し進められていくことになるのだが、インターネットで何でも表現できる(かに思われている)現代にあって、そのことを最も積極的に主題化している(かに思われている)阿部が、ワープロ変換では出てこない、漢和辞典を引かなければ知ることの出来ないような言葉を用いているということは、ひとつの注目すべき事実であるだろう。いずれにせよ、ともかく現実にだけは似ないこと。これが阿部的存在の至上命令なのだ。

登場人物の発する台詞について、もうひとつ奇妙な事例を挙げておきたい。それはこのようなものだ。

 

  ―彼女がぞんざいにものをあつかう身振りは、まるでフォードの映画でジョン・ウェインが女の尻を叩く動作のようにすばらしいよ![5]                

 

「先生はとても自意識過剰な人なのね。笑わずにはいられないくらいに!」[6]

 

小説の登場人物が発する台詞として、あまりに奇異な印象を受けないだろうか。何がしかの違和感を覚えたとすれば、それは、われわれの中にリアリズムという観念が刷り込まれているからであろう。このような台詞は、単に笑いを誘うだけでなく、それが文字として書かれた虚構である、という事実(書き言葉と語り言葉の間にあるずれ)をも共示しているように思われる。われわれは語学の教科書などでこういった虚構的な台詞に日々接しているのかもしれないが、あまりそれを不自然とは感じていない。しかし小説内にこういった台詞が現れることで、それを読む我々は、そういった語学の教科書的なものがある「約束事」のうえに成り立ったフィクションにすぎないということに気付くことになるのだ。このような台詞を書く作家に対して、登場人物の心理や内面を描けている/いないといった批判がそもそも成立しないことは明らかだろう。

 

寓意の縦糸か、表層の横糸か

 

このような細部へのこだわりは、自らの小説が「活字として読まれる意識」に由来している、とも言えるのではないか。反映論を信奉する者たちが日々行う執筆上の努力は、このような意識を抹消せんとするためのものだと言っても過言ではないのだが、彼が漢字ひとつにまでどれほどこだわっているか、ということを「ヴェロニカ・ハートの幻影」の中に見てみたい。この短編は、四重の入れ子構造という複雑な語りの形式をとっており、例によって細部が驚くほど緊密に絡み合ったテクストなのだが、ここでは、先章でも触れた、犬を探すというテーマ―このテーマは、複数の語りのレベルにおいて登場するのだが、どの犬も一向に見つからない―のみを問題とする。注目したいのは、先程も引用した、「ねじ曲がった事実が伝わってゆくうちに、いつのまにか犬の数も襲われた子供の数も増えていたのさ、伝言ゲームみたいに」という部分である。この文章中の「ねじ曲がった」という所に、作者は一般的に用いられる「捻」でも「捩」でも「拗」でもなく、「」(手偏)に「戾戾」という、JIS漢字コードにさえ存在しない字を当てている―「存在しないはずの犬」はこんな所に身を潜めていたのだった―のだ。阿部の「活字として読まれる意識」がいかほどのものであるか、既に贅言は必要ないだろう。

そして、そんな阿部が、数字や日付、記号、アルファベット、さらには登場人物の名前などにこだわりを見せるのは当然の成り行きだともいえよう。それらは何よりもまず「読まれる」ことでその機能を果たすからだ。ここでは、登場人物の名前へのこだわりと、寓意の問題について考えてみたい。

大岡昇平が『現代小説作法』の中で用いている言葉を使うなら、阿部の登場人物は総じて「扁平(フラット・)人物(キャラクター)」だと言えるだろう。心理的な深みを持ち、読者の感情移入を誘うとされる「円球(ラウンド・)人物(キャラクター)」に対して、「扁平(フラット・)人物(キャラクター)」はむしろ、小説のテクストに奉仕するために存在している。そのような人物を作り上げている阿部は、彼らにおいてもっとも表層的な要素である名前にも当然並々ならぬこだわりを見せている。例えば『クエーサー』で、スパイ組織に属する人物たちの名前には、アカザワ、アオヤギ、ミドリカワ、クロイワといったような色の名、またヒガシジマ、ニシタニ、ナンゴウ、キタザトといった方角の名が用いられている。組織のボスであるカキオカにとってみれば、彼らは弁別的特徴さえあればよいただの駒でしかないのだが、彼らは自らの名前においてもそれを体言しているのだ(当然、彼らの心理が描かれることなど一度もない)。『ピストルズ』には、「みずき」が4人、「しょうこ」、「としこ」が2人ずつも登場するのだが、作品をめぐる対談で作者自ら述べているように、一般的な小説においてこのようなことはそうそう起こり得ないのであり、なぜかといえば、そうしたことは現実にもめったにないから(そしてそういった「現実」に従うことが反映論的な「約束事」のひとつだから)である。さらに、阿部作品の中でもとりわけ実験的試みが前景化した一品だといえる『プラスティック・ソウル』に登場する5人の登場人物―アシダイチロウ、イダフミコ、ウエダミツオ、エツダシン、オノダシンゴ―には、複数の意味(ア→イ→ウ→エ→オ、1→2→3→4→5、「ダ」の反復)が付与されているが、これらはいずれも、何度も書かれ、読まれることによって、読者の記憶に「嘘っぽさ」の印象を刷り込ませる機能を持っているといえるだろう。

ところでこういった意味づけは、寓意という形をとって現れてくることもある。渡部直己が『不敬文学論序説』で細かく指摘するように、『シンセミア』に登場する「田宮家」の構成は、まるごと天皇家のそれをなぞっている。阿部との対談において同じく渡部が指摘するように、『インディヴィジュアル・プロジェクション』に登場する登場人物名も実在人物から取られたものであり(それらの名前は当然、作中に登場する日付や映画、暴力のテーマとも関わっている)、『ニッポニアニッポン』の登場人物は、文庫版解説の斎藤環によると、アニメ作品「カードキャプターさくら」と「おジャ魔女どれみ」のキャラクターがもとになっているのだという。さて問題は、これらの事実をどう読むかという点である。渡部は、様々な作品を横断しながら、技術的側面から看取される阿部の「不敬性」を指摘している。斎藤は、「阿部の「引用」を隠喩的に深読みしてはならない」としたうえで「本作こそは、「天皇萌え」の可能性を示唆した最初の作品でもあったのだ」といった独特の指摘をしているが、一方で陣野俊史は、阿部の日付や年号へのこだわりようのうちに「戦争の影」を読み取っている。しかし、いずれの批評家においても、彼の小説を寓意性そのものにおいて評価しているわけではない、ということには注意しなければならない。彼らの読みを単純化して、阿部の作品を単なる寓話として処理してしまうとしたら、それは短絡でしかない。それでは、あの反映論に戻ってしまうからである。確かに阿部はこれまで「神町サーガ」という試みや、ウェブサイトや他の小説からの大量の引用といった試みを通して、現実の断片を作品に導入してきた。だがそこにおいて重要なのは、「導入している」ということそのものではなく、導入したものを本来の文脈からいかにずらすか、という点なのだ。つまり、ここにおいても重要なのは現実そのものではなく、そこで顕在化してくるずれの方なのだ。現実との接点という形(縦軸)で導入された日付や名前は、小説内の他の言葉との表層的なつながり(横軸)をなすことによって、小説に新しい相貌を与えているのであり、そのことがこれまで問題にしてきた「活字として読まれる意識」にも大きく関わってくるのだ。

最後に、『グランド・フィナーレ』を例に挙げて、現実との接点を持っている(ことは否定しようもない)ある日付が、単なる寓意としてではなく、他の主題群と有機的に絡み合うことで豊かな小説空間を作り上げている様を見ておくことにしよう。

この作品に導入されるある日付とは、「2001年9月11日」である。「雨降りの景色を眺めているうちにわたしは、いつしか昨年の九月一一日の出来事を思い出していた」といった回想とともに呼び込まれるその日において、虚構内の世界においても、われわれが目撃したそれと同じ事件が起こっていたようである。はっきりと名指されはしないものの、「朝方に目覚めたのんびり屋のわたしは、新聞の一面とテレビのニュース番組を目にして腰が抜けるみたいな混乱の感覚を味わい、自分が娘に寄り添って微睡んでいた時間帯に生じた重大事件の映像をただ茫然となってしばし見守り続けていた」という記述は明らかにそれを表していると言えるだろう。

だが、これは単なる現実世界への目配せではないのだ。「911」という日付は、いとも簡単に反転して「119」となる(まるでハワード・ホークスの映画のようだ!)。物語の後半部において、亜美と麻弥という二人の少女がそれに向けて練習に励むことになる「演劇発表会」の日付が「1月19日」に設定されているのだ。さらに愛娘の誕生日である「10月29日」の「29」を分解すると「1‐1‐9」になって……、というような驚くほどの細かさに就くことも一興だが、ここでは「9月11日」に起きた「爆弾テロ事件」が小説のどこにつながっているかを見ることにしよう。このテーマはまず、クラブΧ(カイ)でI(アイ)やY(ワイ)たちが話題にする、バリ島での爆弾テロ事件の話に飛び火する。その30ページほど手前で、愛娘が雨の中遊ぶ様子をわざわざ「レゴンダンスの踊り手のよう」(レゴンダンスはバリ島の伝統的な舞踊である)と形容する点に、阿部の心憎いまでのこだわりようを見ることもできるが、作品全体の中でより重要なのは、バリ島と並べて語られる各国の事件の話の方である。作品を一読して、ストーリーの進行とは一見無関係なこの部分が異様に肥大していることには誰しもがある種の違和感を覚えたのではないか。これを、ロリコン話というある種の軽薄さとのコントラストを作るための「重い話」と捉えることもできるだろうが、ここでは、そこに刻まれている言葉を丹念に読むことの方を選びたい。まずバリ島の事件と共に語られるのはロシアの事件である。「モスクワにある劇場がね、ミュージカルやってる最中にテロリストが入ってきちゃって占拠されたってゆう事件」とIは語るが、これが後半部で描かれる演劇の主題(さらには、そこに差し込む不安の影)を予告しているのは間違いない。また、話がアフリカに移ると、Iはこのように語る。

 

 アフリカだってどこも悲惨じゃない。アンゴラ、ウガンダ、エチオピア、エリトリア、コンゴ、ザンビア、シエラレオネ、スーダン、ソマリア、モザンビーク、リベリア、ルワンダ、もっとあるかも。

 

つい先程まで「もしかして痩せたんじゃないの頬こけ気味だよ相変わらず色白いよねってゆうかあたしより色白いんじゃんくやしー」などと喋っていたIがアフリカの国名をこれほど知っていることだけでも異様だが、なにより違和感を抱かせるのは、それらが五十音順になっていることである。短編「鎮痛剤」の中で「あ」から始まる言葉を112語も列挙する金井美恵子にはさすがに敵わぬものの、阿部は、物語全体の均衡を崩さない範囲で、十二分に異様なことをしていると言えるだろう。言ってしまえば、これだけでも、作品の「リアリティ」を損なうには十分な措置であり、逆に言えば、このような現実への言及が、現実問題を視野に入れているというアピールなどではないことの証左とも言えるだろう。そしてそのことは、「何十万人が死んだとか難民は何百万人だとか、結局は数しか記憶に残らないって感じなんだな」というYの台詞の中にも仄めかされている。現実問題について真剣に語り合っていた(と思い込んでいた)彼らも、そのじつニュースで見聞きした数字などの情報について語っていただけであり、現実においては「クラブいてバツとか食ってる」に過ぎないのだ。このように、ここまで見てきた物語内容面での工夫と叙述形式面での工夫は、表裏一体のものとして作品に描かれている。阿部の作品を読むうえで、このどちらかでも等閑視してしまっては、真に作品を読んだことにはならないだろう。

 

3.「作家」阿部和重の戦略

 

意味に憑かれた人々

 

ところで、このような阿部の創作方法に対して懐疑的、あるいは否定的な人々も少なからず存在するだろう。「群像」誌上の創作合評は、そのような意見を得るにあたって恰好のサンプルになるのだが、私見によれば、残念ながらそれらの大半は、正当な批判たりえていない。合評の参加者にはベテラン作家が多く、阿部の作風に対して皆多少なりとも戸惑いを抱いているのだが、そのことは、単に世代論的な問題だけに回収できるものではないように思われる。むしろ、言葉を読み、書くことについての認識をめぐって、評者たちと阿部の間に大きなずれが見られるのだ。しかしそのような批判を取り上げて再検討に付すことは、阿部の問題意識を逆照射する為にも大いに有効であるという判断から、そういった人達の意見にしばらく耳を傾けてみることにしたい。

まず取り上げるのは、『公爵夫人邸の午後のパーティー』についての創作合評[7]で、小説家の加賀乙彦が述べた発言である。まず加賀は「何とも申し上げることはない、言葉を失った」という感想から口火を切るのだが、まずは登場人物について、「感性の凝縮度とか、周りの人間の心理のあやとか、人間関係の鋭い考察というようなものはない」「登場する中年男にしろ、女子高校生にしろ、若い男にしろ、ギャングにしろ、みんなどこかで私がかつて読んだ、あるいは見たような感じの人たち」であると評する。それを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかという違いを度外視すれば、この意見はわれわれのそれとさほど相違ない。しかし、作品の「現実味のなさ」を指摘した後に述べられる、「私は、現実離れしているということはちっとも悪いことじゃないと思っています。夢幻的な世界というものは認めます。ただ、私の考えている夢幻的な世界は、やはり現実社会の何かをすくい取って、〔…〕それを記号化するなり、象徴化するなり〔…〕」といった発言には大きな問題がある。もはや言うまでもないが、このような物の見方、捉え方こそ、阿部が創作を通じて批判している当のものだからだ。さらに加賀は続けてこのように述べる。「そういうふうに〔細部にまでこだわって―引用者注〕つくられているなということは私もわかるんですよ。ただ、〔…〕それまで仕掛けをしたならば、その仕掛けのさらに奥に、〔…〕現実の世界の何かに呼応する、〔…〕そういうものが感じられればおもしろいんですけれども、それが感じられない」。こうした主旨の発言は、その後も「現実との接点」「隠れた意図」「メッセージ」「何のために書いているのかわからない」といった言葉によって何度も繰り返されるのだが、このような認識が、現実/虚構という二分法によってなされていることは疑い得ない。

 つまるところ、加賀は単なる素朴な反映論信者に過ぎないのだが、その態度は「私だったら二行くらいで書けるところを、半ページぐらい使っている。随分むだな書き方をするなと思いました」という発言において決定的なものとなる。彼は一貫して現実と虚構のずれを認めようとはしないのだが、そのような認識が、言葉と現実の間に本来あるずれを隠蔽した所に成り立つものであるのはいうまでもなく、つまり、彼の言う「現実との接点」は、テクストそのものの「現実」を無視した所にしか成り立ち得ないのだ。加賀が長年の作家生活でそういった点にどのようにして折り合いをつけてきたかはわからないが、いわゆる「リアリズム」という観念が、現実の秩序と言葉の秩序の間に本来あってしかるべきはずのずれを隠蔽する政治的かつフィクショナルな装置であることを忘れてはならない。阿部の方法は、そのような狭くイデオロギー的な読みから文学を解放するために編み出されたものなのであり、加賀のような人の目を開かせる為にこそ阿部和重は創作を続けていると言っても過言ではないのだが、彼がそのことに気付く日は果たして来るのだろうか。

 

「映画的」な小説?

 

また、この合評の参加者達は、『公爵夫人邸』とクエンティン・タランティーノの映画『パルプ・フィクション』との類似性をしきりに語っているのだが、このように阿部作品を別の芸術ジャンルに喩えるコメントは非常によく見られるものである。講談社文庫『ABC』に付録として収められたゲームクリエーターによる座談会「阿部和重ゲーム化会議」では、文字通り阿部作品をゲーム化する構想が語られているし、「鏖」は三宅乱丈によって実際に漫画化されてもいる。「映画みたい」といった発言は、肯定的な文脈で述べられる場合もあれば、そうでない場合もあるのだが、ここではそうした指摘の正誤というよりも、そのような読みが、果たして作品に豊かな相貌を与えることに寄与するのだろうか、と問うてみたい。

『文学の徴候』で阿部和重を論じた斎藤環もまた、『シンセミア』のあるシーンを「すぐれて映画的」と評する。彼は「ダンプカーによる殺戮シーンが画になるから「映画的」なのではない。音や気配による徴候から、ふと視点を転ずることでその恐るべき本体に一気に逢着するという場面の移動、このイメージの動線こそが「映画的」なのだ」と語るのだが、彼が「映画的」だと言っているのは、作中の次のような場面なのだ。「〔…〕博徳は、驚きのあまり足が竦み、息を呑んだ。眼前の景色全体が、映画のスクリーンにでも変貌してしまったかに思えた」。この文章を引用し、ご大層に傍点までつけているのは斎藤本人なのだが、作中に「映画」と書かれているからといってそれを「映画的」だとしてしまう身振りはあまりにも短絡ではないか。なぜ傍点部のような表現を阿部が採用したかは、もはやいうまでもないだろう。『シンセミア』にもロリコン、のぞき魔といった何人もの倒錯した人物が描かれているが、その点との関わりあいで見ればここはむしろ、現実を虚構のようにしか見る事のできない男の視野の狭さを強調する為の表現と読むべきなのだ。このような表現が最も極端な形で用いられているのは「無常の世界」だろう。文庫版にして20ページほどの短編なのだが、その中には「中吊り広告」や「テレビのワイドショー」「週刊誌の広告」といったイメージが溢れており、そのような虚構にまみれた主人公は、はたしてありもしない幻覚を見てしまうことになるのだが、斎藤の小説読解も、何にもまして、そうした阿部作品の登場人物的な視野の狭さを想起させてしまうのだ。確かに阿部がシネフィルだということは事実であるし、現在活躍している小説家の多くが映画や演劇、音楽に関わりのある人だという事実を鑑みても興味深い問題ではある。しかし、作品のテクストを仔細に見つめることなしに、印象のみで「映画的」などと語ってしまうと、論者もまた「同一化の病」に陥ってしまうのである。

 加賀もまた、このように発言していた。「これはやっぱり小説なわけで、文章を書くんですから、文章でなくては表現できない何かがなければならない。映画を追っかけたり、劇画を追っかけるのは結構だけれども、その世界を書くならば、文章で書く以上は、文章でなくては書けない劇画の世界とか、映画の世界を書いてほしいわけですよ」。しかし加賀が批判している『公爵夫人邸』を実際に一度でも読んだことがあれば、こういったコメントがナンセンスなものでしかないことはもはや明らかである。「文章でなくては書けない」ことをしているのは明らかに阿部の方であるからだ。加賀はそういった、いわば一番オイシイ所を見落として、「B級」「映像的」といった紋切型イメージに就くことで、虚心に作品を読むことを自ら放棄しているのだ。阿部が好んで取り上げる紋切型イメージを批判しておきながら、自身が紋切型に溺れてしまうとはなんとも教訓的な話である。『アメリカの夜』の中にある「随分むだな」表現を借りるならば、「まるで「ミイラとりがミイラになる」ように、または「木菟(ずく)引きが木菟に引かれる」ように、あるいは「人捕る亀が人に捕られる」ように、さらには「羊の毛を取りにいって自分の髪を切られて帰る」よう」なものだ。この素晴らしき冗長さ!

 

「情報公開」小説

 

続いて取り上げる室井光広の発言もまた、阿部を論じようとするわれわれにとって教訓的なものとなるかもしれない。彼は『グランド・フィナーレ』についての創作合評[8]の中で、作中の「この一年間、わたしの人生は鼻をかんだあとのちり紙みたいなものだったが、どうやら一年が経過して、ちり紙も乾きつつあるようだ。/使用済みの乾いたちり紙が使い物になるのか否か、わたしは実験してみようと思った」という箇所に注目し、「この文章が、この作品を何か象徴しているような気がする」と述べている。自身も小説家である室井は、おそらく細部まで見落とすまいとしてこの小説に臨んだのだろう。だが、細部が生きるのは、いつも他の細部との関連のうちにおいてである以上、このように、ある一点にだけ注目し、作品全体をその一点に集約させてしまっては、阿部作品の細部を味わったとはとても言えないだろう。

念の為、件の文章に使われていた比喩がどのような機能を持ったものであるかを確認しておこう。「わたし」を喩える言葉として召喚された「ちり紙」のイメージが、その場で棄て去られるのではなく、次の行まで持続するといった具合にして生かされていくこの技法を、ジャン・リカルドゥーは「構造的な隠喩」と呼ぶ。このような技法は阿部の他の作品でも度々用いられており、「トライアングルズ」にはその最もわかりやすい例として「人間として一皮むけたような気もしたよ。事実、僕はその時さっそく洋服を脱いでみたりもしたよ。急いで全部脱いでみたんだ。そりゃあもうまるっきりさ!」といった文章がある。とはいえこれらは、イメージを一行先までしか持続させていないという点において、「構造的な隠喩」の中では最もレベルの低いものであり、実際は単なるユーモアと受け取った方がふさわしいだろう(反対に、召還されたイメージを数十行、あるいは数十ページ先まで持続させるといった高度な技術を用いている箇所も、阿部作品の中にはいくつも見つけることができる)。いずれにせよ、阿部作品を読み、論じようとする者は、細部に淫するあまり、そのひとつひとつに細部同士の連関を統べる高次の意味(縦軸)を付与しようとしてはならず、あくまで、横へ横へと作品の表層を読まなければならない。阿部的なリアリティは、そこにしか生起しないのだから。

阿部が細部にこだわるのは、そこに寓意や象徴といった謎を隠すためではない。謎は何ひとつ隠されてなどおらず、すべては作品の表層に刻まれているのだ。そうした阿部の作品を「情報公開小説」と名付けたのは、文庫版『ABC戦争 plus 2 stories』に解説を寄せる蓮實重であるが、例えば『アメリカの夜』が群像新人文学賞を受賞した際の「受賞の言葉」からも、その「情報公開」性はありありと見て取れる。

 

三度目の応募でこの賞をいただくことができ、非常な喜びとともにある不吉な驚きを覚えたのはなぜか。それが三という数字を介した出来事だったからである。いわば「三度目の正直」で賞を得た当選作の本文中に氾濫する三の多さをあらためて確認しながら〔…〕おもわず茫然としてしまった。この三が示す抑圧的な機能ぶりをまえにして、劣勢にたたされた四という数を救いあげずにはいられないが、いったいそれはどのようにおこなわれるのだろうか。[9]           〔傍点原文〕

 

いかがわしい。これはまるで「阿部的存在」そのものではないか、と一読思わずにはいられない。しかしそのような印象については後に再び取り上げるとして、まずは阿部の言う「三の氾濫」について確認しておこう。たしかに、この小説には数字の「三」が溢れている。三年制の映画専門学校を卒業した中山唯生は、自身の誕生日である「九月二十三日」に運命的なものを感じているし、彼の友人である喜代三は恋愛の「三角関係」に悩んでいる。祖父の三回忌の場面で幕を閉じることになるこの小説には、他にも「三週間」「三時間」「三十分」「三十秒」といった言葉が刻まれており、さらには「大江健三郎」といった固有名詞も見られる。ところで、その大江健三郎の作品を数字のドラマとして読み替え、それまでの大江論の地平を一新してしまった蓮實重の『大江健三郎論』が著されたのは1980年であるが、阿部がこの本を読んでいたことはほぼ間違いなく、さらに自らその系譜に連なろうとしていることさえ明らかだろう。だがここにおいて重要なのは、そのような影響関係よりもむしろ彼此の差異にある。蓮實の大江論がある種の衝撃を与えることに成功したのは、作者である大江自身が十中八九意識しておらず、だがしかし作品の表層にありありと刻みつけられてしまっている言葉たちを蓮實が読み解いていったからだといえる。だが阿部の場合は、それを意図的に行っており、あまつさえ、批評家の先手を取る(批評家の手を封じると言い換えてもよいだろう)かのように、それを自ら公開してしまうのである。阿部は、批評しようとする者を食いつかせる餌を随所に撒き散らしているのだが、そのあからさまさゆえに、逆に論じようとする者の手が止まってしまうのだ。『アメリカの夜』をはじめ阿部の初期作品群の多くは同じような構造を有しており、これまでまとまった阿部論がなかなか書かれてこなかった原因の一端も、その高度な戦略性、および自己言及性にあったのかもしれない。

 

虚構人物としての「阿部和重」

 

 阿部の高度な戦略性は、自身のキャラクター化という点にも差し向けられているように思える。例えばそれは、『シンセミア』に「阿部和重」という人物を登場させてしまう、というようなあからさまな形でもなされているが、彼の戦略はそれほど単純なものには留まらない。今度は『無常の世界』で野間文芸新人賞を受賞した際のコメントを見てみよう。

 

九〇年代は、激動の時代だったということなのでしょうか。恐らくそうなのでしょうし、全然違うと判断することも出来ると思います。けれども私たちにとって、それを明確に言い表すことは非常に難しいのかもしれません。なぜそうなのかも、真に答えにくいですし、何だかよく判らないのです。

極めて重要なのは、どうやら「二一」という数字のようなのです。二一世紀が待望されているのも、そうした理由によるのでしょう。このことはつまり、「二」と「一」を足してみるとすぐに理解できそうに思えます。とにかく大勢の皆さんに感謝せねばなりません。[10]

 

ここで再び「三」が仄めかされている点も気になるが、ここでは先程保留しておいた印象、つまり文章全体から立ち込めている独特のいかがわしさの方に焦点を当ててみたい。まずはじめに「九〇年代は、激動の時代だった」という大きな題目(=紋切型)を掲げ、それに対し明確な解答を出すことのないまま徒に文字数を使い、結論を引き延ばす。そして「二一世紀」を、なかば妄想的に数字のドラマとして読み替え、本来もっとも大々的に書くべきような感謝の文句を、最後の一行で慌てて書く。大略このように分析できるかもしれない阿部の文章は、端的に言って、彼が「阿部的存在」を描くときのそれとほとんど変わらないのだ。なぜ彼がこのようなことをするかといえば、この論考の書き手は当然、「受賞の言葉」が持つ「現実性」とフィクションの「虚構性」という二分法を揺るがすため、と答えるだろうし、ある意味ではそれが結論でもある。だがここではさらに一歩踏み込んで、そうした戦略と、阿部作品が持つ表層的な豊かさがどのようにつながっているのか、ということを確認しておきたい。それはいわば、阿部的ないかがわしさの空間が生起するための土壌のようなものだ。

言葉が意味の深みへと送り込まれず、表層をどこまでも横滑りしていくような阿部の作品にあって、いったいどのような事態が起きるのだろうか。この問いかけがあまりにも茫漠たるものであるとすれば、反対の場合を考えてみるのがよいだろう。例えば一般に、現実的な小説の場合、性転換の問題などは重く取り扱われる。なぜなら現実において、そうしたことが気軽にできることではないからだ。だが阿部が目指しているような虚構的な虚構作品の場合、すべては記号でしかないのだから、数字や男女の性などは容易に反転しうるだろう。2011年に刊行された阿部の対談集が『和子の部屋』と名付けられており、そこで阿部が「和子」という女性キャラクター(?)として登場すること(実際に女装などをしているわけではなく、あくまで「設定上」の話だが)も、こうしたことと関係するだろう。ホークスの作る映画の登場人物がたやすく女装したり逆立ちしたりするのと同じように、形式主義者たる阿部もまた、虚構上において自身の性を変えてみせる。そもそも、阿部の出発点である『アメリカの夜』の主人公である唯生の本名、重和も、こうした転倒の産物ではなかったか。

阿部和重という特異な作家において、狭義の小説作品だけが「フィクション」なのではないことは既に明らかだろう。彼の名が付されたテクストはすべて「フィクション」として捉えるべきなのであり、また本来これは、阿部ひとりだけの問題ではないのだ。そもそも、様々なテクストの書き手として遡行的に把握される主体(=作者)もフィクショナルな者なのであり、言ってみればひとりの「キャラクター」なのだから。そして、そのような観点に立つ者にとって、2010年に刊行された著者初のノンフィクション『幼少の帝国』は、彼の新境地を開くきわめて興味深いフィクションだと言える。

 

  このところまた、日本人の「成熟拒否」が随所で盛んに議論されています。

  ミーハー主義を標榜するわたしたちとしましては、今更ながらもとりあえずはその尻馬に乗ってみようかと考え、本書を企画した次第です。

 

ロラン・バルトの著書『表徴の帝国』をあからさまにもじった一編は、このようないかがわしい文句とともに始まる。この本の語り手もまた「阿部的存在」のひとりであることは間違いない。阿部は、いくらノンフィクションといえど作者と語り手がそのままイコールで結ばれるということはあり得ないことを知悉しており―彼が文章上の主語を一貫して「わたしたち」としていることも、この点に関わるのかもしれない―、虚構人物だけではなく自らをも徹底的に戯画化することによって、フィクションとノンフィクションという、それ自体多分にフィクショナルな垣根を粉砕しようと試みているのだ。

また、「日本人に成熟拒否の傾向が見られる」という大きな題目(=紋切型)から始め、「それが紋切り型であることを自ら認めつつも、にもかかわらずそれに敢て乗ってみせる」(佐々木敦「DAYDREAM BELIEVER」)という戦略は、先程詳覧した「受賞の言葉」とも軌を一にする阿部お馴染みのものであるのだが、別の雑誌に、自身が今まさに書きつつある論考と似たような論旨の記事を見つけるや否やそれを「じつに喜ばしいなりゆき」とことほぐ阿部は、次のように述べる。

 

そのようななりゆきが、今後もこのまま持続し拡大することをわたしたちは願っています。仮にそうなれば、わたしたちの主張もいっそう相対化され、単なる一個の「常套句中の常套句」として埋没してゆくこととなるでしょう。あるいは当の時流を加速させた果てに、「日本人の成熟拒否」などともはや誰も口にしなくなるようにすることこそ、本書の使命なのかもしれません。

 

このような記述は、明らかにフローベールの『紋切型辞典』―およびそれを取り上げた蓮實重の『物語批判序説』―を意識したものだろう。ここでも阿部は自身の戦略をあっさりと開陳してしまうので、この本を「安手の論考だ」と難じることはおろか(仮にそのような者がいたとしたら、それは阿部の問題意識をまるで捉え損ねていると言うほかない)、彼の戦略を積極的に擁護することすら封じられてしまっているかのようだ。

ところが、そんな高度な知略を粉砕するかのような出来事が起こる。連載途中に起こった東日本大震災がそれだ。実際、震災以降に書かれた箇所には阿部の少なからぬ動揺も窺うことができ、そうした歪みがこの本をいっそう興味深いものにしていると言うこともできるのだが、阿部の企図は、震災というまぎれもない現実の出来事によって「木っ端微塵に打ち壊されてしまった」(佐々木敦「DAYDREAM BELIEVER」)のだろうか。なるほど確かに、震災によって大勢の人が被害にあっているという「現実」は否定しがたく存在する。だが、「虚構」や「物語」に対する並々ならぬ鋭敏さを持つ彼は、震災後の世の中にはびこった様々な「虚構」―それは時に人を助けもし、時に惑わせもする―をも同時に目にしたことだろう。そのような中で、彼はどのような点にフィクションの可能性を求めていくのだろうか。『幼少の帝国』の後半部があのようなものでよかったのか、あるいは最新作『クエーサー』がこういった問題に対して十分な解答を与えられているのか、といったことについて、現段階で一面的な評価を下すことはできないが、来るべき「神町サーガ」の完結作などを通して、阿部がこの問題になんらかの解答を与えてくれることを期待したい。

 

作者性の在り処

 

阿部は、北野武監督による映画『Dolls』を論じた文章の中で、文楽について次のように述べている。

 

 文楽は、上演の行為がそのまま表現の仕組みの暴露にも繋がる、きわめてユニークな古典芸能だ。物語の語り手を務める太夫と音響担当の三味線奏者がいて劇を進行させ、人形とその遣い手が共に舞台上で演じ続ける―これら総てを客席から直に見聞きしている文楽の観客は、上演の過程を二つのレベルで意識しながら受け止めてゆくことになる。文楽という「表現」と「内容」の二点だ。すなわち文楽自体が種明かし的構造を有した芸なのであって〔…〕[11]

 

これこそ、「情報公開」小説の書き手たる阿部自身による、何よりも雄弁な自註であろう。念の為確認しておくと、ここで文楽は、一般的な人形劇との対比で捉えられている。一般的な人形劇においては、傀儡師は舞台の後ろに隠れるなどすることによって、実際に観客の目に見えているのは人形(と釣り糸)だけである。このような場合でも当然、観客はそれを誰かが操っている、ということは諒解しているのだが、観客はその事実をカッコに入れてしまう。それが人形劇を正しく見る(=物語世界に没入する)為に傀儡師と観客の間で交わされる、暗黙の諒解であるからだ。これが、われわれがこれまで見てきた、一般的な意味での「リアリズム」と軌を一にするものであることは言うまでもない。しかるに文楽は、人形一体につき三人の操り師がいるのだが、彼らは観客から完全に見える位置にいる―あまつさえその中の一人は黒子の格好をすらしていない―ゆえ、観客は、表現形式を切り離して内容だけに没入するということができない。だがこのことは、文楽に内容面(情感など)が欠落している、というようなことでは全くない。文楽の観客もまた、舞台を見てある種の感動を得るだろう。その感動は、人形からでも、傀儡師からでもなく、言ってみれば両者の「あいだ」から生起するのだ。

 

 

誤解される部分がもしかしたらあるのかもしれないですけれど、僕がこだわっている部分っていうのは〔…〕一貫して作者性をいかに保存するかっていうことだと思うんですよ。[12]

 

言うまでもないが、ここで阿部が言っている「作者性」というのは、現実に生きている阿部和重という人間のことではない。そうではなく、それは「これは阿部和重が書いているとしか思えない」というような刻印のことである。これまで見てきたように、それは狭義のフィクションだけでなく、ノンフィクションやエッセイにまではっきりと刻まれていた。「作者の死」などと口に出して言うことは簡単だが、あからさまな作為性を見せる阿部の作品を、阿部和重という作家の刻印を抜きに読むこともまた難しいだろう―文楽の人形だけを見ることが困難であったように―。しかしそれは、作品を統べているのは作者であって、阿部がそのような、一部の隙もない建築物のような作品を書こうとしているということを意味するのでもない。阿部和重の阿部和重たる所以は、つねに構造から漏れ出る「過剰さ」の中にこそあるのであり、「阿部和重」という虚構の存在を捉えるには、阿部的存在と作者本人の「あいだ」に目をこらすほかはないのだ。この知略に満ちた存在は、つまるところ非常に捉えがたいものなのだ。しかしそのような捉えがたさのうちにこそ、彼のいう「作者性」があるのではないだろうか。

阿部和重が、あたかも時代に迎合するかのように現代的なトピックを積極的に利用したり、ある向きには不快感を抱かせてしまうような特異な書法を用いたりすることの意義は、これまで確認してきたとおりである。初めに断ったとおり、この論考の書き手は、ここまで「現実」「虚構」といった語を、敢えて曖昧さを残したまま使い続けてきたのであるが、ここで筆を擱くにあたって、最後にほんとうの「現実」の話をしたい。それは次のような、いささか粗雑な問いかけである。つまり、阿部和重を読んだわれわれは、いったいどうなるのか?

ある者は大いに笑うかもしれないし、ある者は憤慨して本を叩きつけるかもしれない。このような解答はある意味で正解かもしれないが、こうした粗雑な応答ではもちろん意味はない。そういったいわば「好き嫌い」の次元は、この論考の書き手のあずかり知らぬところだからだ。そうではなく、答えはこうである。阿部和重という存在に触れた後で、元来持っていた言葉や物語への信頼が、多少なりとも揺らぐこと。この論考全体を通して書き手が述べたかったことは、畢竟この一言に尽きるのかもしれない。われわれがこれまで見てきた「フィクションにおけるリアリティ」とは、現実を無視した言語遊戯の謂ではないのだ。「リアリズム」が読者にもたらすのが「共感」や「感動」であるとすれば、「新たなるリアリズム」は、われわれが物事を認識する地平それ自体を変えてしまう。阿部和重が行っているのはきわめてラディカルな試みなのであり、そういった意味で、彼の戦略は徹頭徹尾、現実的なものであると言えるかもしれない。そうした世界に触れる覚悟ができたなら、この論考など真っ先に擲ち、今すぐ書店へと駆け出さんことを。

阿部和重が現代文学を代表する書き手である所以について、積極的に考えねばならぬ時が来ている。

 

 

[1] 訳は前田陽一、由木康(『パンセ』中央公論新社、2001年)による。

[2] 佐々木敦『小説家の饒舌』

[3]佐々木敦『小説家の饒舌』

[4] 阿部和重『アメリカの夜』

[5] ibid.

[6] 阿部和重「トライアングルズ」

[7] 「群像」1995年07月号

[8] 「群像」2005年01月号

[9] 「群像」1994年06月号

[10] 「群像」2000年01月号

[11] 阿部和重『映画覚書 vol.1』

[12] 佐々木敦『小説家の饒舌』

 

 

 

 

≪参考文献≫

 

阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮文庫、2000年)

    『アブストラクトなゆーわく』(マガジンハウス、2000年)

『アメリカの夜』(講談社文庫、2001年)

    『ABC戦争 plus 2 stories』(講談社文庫、2002年)

    『無常の世界』(講談社文庫、2003年)

    『ニッポニアニッポン』(新潮文庫、2004年)

    『映画覚書 vol.1』(文藝春秋、2004年)

『阿部和重対談集』(講談社、2005年)

    『シンセミア』Ⅰ‐Ⅳ(朝日文庫、2006年)

『プラスティック・ソウル』(講談社、2006年)    

『グランド・フィナーレ』(講談社文庫、2007年)

『ABC 阿部和重初期作品集』(講談社文庫、2009年)    

    『ミステリアス・セッティング』(講談社文庫、2010年)

『ピストルズ』(講談社、2010年)

『IP/NN 阿部和重傑作集』(講談社文庫、2011年)

『和子の部屋』(朝日新聞出版、2011年)

    『幼少の帝国』(新潮社、2012年)

    『クエーサーと13番目の柱』(講談社、2012年)

阿部和重、三宅乱丈『鏖』(小学館、2007年)

渡部直己『リアリズムの構造』(論創社、1988年)

『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』(新潮社、1992年)

『泉鏡花論 幻影の杼機』(河出書房新社、1996年)

『現代文学の読み方・書かれ方』(河出書房新社、1998年)

    『かくも繊細なる横暴』(講談社、2003年)

    『不敬文学論序説』(ちくま学芸文庫、2006年)

    『私学的、あまりに私学的な』(ひつじ書房、2010年)

    「雌蕊たちの「愛の力」」(朝日新聞出版「小説トリッパー」2010春号所収)

    『日本小説技術史』(新潮社、2012年)

蓮實重『大江健三郎論』(青土社、1980)

    『物語批判序説』(中央公論社、1985年)

『魅せられて』(河出書房新社、2005年)

    『「赤」の誘惑』(新潮社、2007年)

    『映画論講義』(東京大学出版会、2008年)

    『随想』(新潮社、2010年)

佐々木敦『小説家の饒舌』(メディア総合研究所、2011年)

「DAYDREAM BELIEVER」(講談社「群像」2012年08月号所収)

ジャン・リカルドゥー『言葉と小説』(紀伊国屋書店、1969年)

宮川淳『宮川淳著作集Ⅰ』(美術出版社、1980年)

絓秀実『複製の廃墟』(福武書店、1986年)

松浦寿輝『平面論』(岩波書店、1994年)

山城むつみ「伝達という闘争―阿部和重論」(新潮社「新潮」1998年08月号所収)

加藤幹郎『映画とは何か』(みすず書房、2001年)

斎藤環『文学の徴候』(文藝春秋、2004年)

伊藤氏貴「淫靡な戦略―阿部和重の<核>なき闘い」(「群像」2005年10月号所収)

前田塁『小説の設計図』(青土社、2008年)

中島一夫『収容所文学論』(論創社、2008年)

安藤礼二『たそがれの国』(筑摩書房、2010年)

芳川泰久『金井美恵子の想像的世界』(水声社、2011年)

陣野俊史『戦争へ、文学へ』(集英社、2011年)

池田雄一『メガクリティック』(文藝春秋、2011年)

「群像」1995年01月号、1995年07月号、1996年01月号、1997年02月号、1997年04月号、1998年01月号、1998年08月号、1999年01月号、2001年07月号、2005年01月号、2010年05月号

「文学界」2004年07月号、2005年03月号 、2010年05月号、2012年08月号

「文藝」2004夏号