「である」ことと「なる」こと―ジル・ドゥルーズ「文学と生」(『批評と臨床』所収)短評


「文学は錯乱である」「文学とは健康の企てである」―ジル・ドゥルーズ「文学と生」に見られるこのようなアフォリスティックな文章や「死を賭した生成変化」などの表現は、文学を娯楽として楽しむ者にとってはいささか大仰に聞こえるかもしれない。ドゥルーズは、みずからの思い出を語る文学やファンタジックな物語としての文学を否定し、その新しい捉え方、可能性を提唱する。

彼が繰り返し強調する「生成変化」とは何か。それは、端的に言えば、「~になる」ということだが、単にあるものが別の何かに変化した結果ではない。というのも、それはやはり「~である」状態を表しているに過ぎないからであり、そうではなく、変化そのものが重要なのだ。文学における生成変化とは、母語の解体、そして統辞法の創造による新たな言語の創出であるとドゥルーズは主張する。プルーストの言葉で言い換えるならば「一つの言語の内部における外国語=異語の発明」だ。例えば、多和田葉子『文字移植』は次のように始まる。

 

  において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも、地面に、横たわる者、としての、必死で持ち上げる、頭、見せ者にされて、である、攻撃の武器、あるいは、その先端、喉に刺さったまま、あるいは……

 

主人公の「わたし」はとある島でひとりドイツ語の小説を日本語に翻訳しようとするのだが、その翻訳は、上記のように構文は原語のまま、単語だけを逐語訳したものである。ここにおいて言葉はドイツ語でも日本語でもなく、ドイツ語から日本語に変わりゆくさま、つまり言語における生成変化として表現されていると言えるだろう。「ひとつの単語を読んだだけでもう息が苦しくなってきて」しまう「わたし」は、カフカの泳ぎを知らない水泳チャンピオンと同様、翻訳できない翻訳家にほかならない。彼女はこのような翻訳しかできないことを嘆きながらも、「ひとつひとつの単語の馴染みにくい手触りには忠実なのだと思うとそのことの方が今は大切かもしれない」と考える。彼女の手によって言語が一度解体され、そこから新たな言語が創出してくるさま、これが「錯乱の中からの健康の創造」である。

また「わたし」は一方では翻訳作業に励みながらも、他方で「翻訳を完成させたくない。完成させたくないしもちろん中止もしたくない。ずるずるとやっていく以外に名案が浮かばない」と思索する。翻訳だけでなく、島民とのいまひとつ噛み合わない会話や、明確な方向も見えずにどこか夢うつつで進んでいく物語など、この小説はどこを切り取っても、どこかに安住し「~である」状態におさまることを嫌い、変化する「あいだ」=宙吊りの状態に留まり続けたがる性質を漂わせているように見える。

ところで、なぜドゥルーズにとって、そして我々にとって「生成変化」が重要なのか。また個々の存在は何のために「生成変化」するのか。これらの問いは次のように転倒させるべきだ。まずはじめに「生成変化」があり、我々はその流れの中で、恣意的に様々な存在を知覚しているに過ぎないのだ、と。言い換えればそうした存在(「~である」という状態)をア・プリオリなものだと信じ込むことによって、われわれは生の可能性を狭めているとも考えられる。我々の人生も一点一点を見れば「~である」状態の連続のようにも見えるが、更に細分化していけば、そこに存在しているのは常に生成変化の連続=異なり続けることのみなのだ。我々の生とは常に自己に対して差異化し続ける持続としての生なのである。このような視点に立つことではじめて、生成変化の重要性、および「文学と生」のつながりを見ることができる。「~である」という状態に比べて、「~になる」という生成変化は捉えがたく不安定なものである。しかしこの不安定さこそ生の本来の姿であり、生成変化の意義とは、一つの目的への収斂ではなく、あくまで開かれた生の可能性の解放なのだ。