映画時間論序説―Dead timeのゆくえ


映画の中に流れている時間が、実人生における時間とは全く異質なものであるということに、映画を楽しむ一般の観客たちはどれほど敏感なのだろうか。そういった点にこだわりすぎると、フィクションとしての物語を楽しみづらくなる、といった意味において、多くの観客たちは積極的な鈍感さを選び取っているのかもしれない。だが、虚構と実人生がすれ違う点にこそ興をおぼえるわれわれとしては、そうした視点に貫かれた映画論の、ささやかな序説程度のものでもここに提示してみたいとおもう。

なお、予め断っておけば、『マトリックス』や『ワイルドバンチ』に見られるスローモーションや『勝手に逃げろ/人生』に見られるストップ・モーションなど、流れている時間そのものを歪めるような操作(小説で言えばこれが細密描写にあたるだろうか)は、今回の考察の対象とはなっていない。我々が注目したいのは、いわゆる「時間処理」の操作である。時間処理と一口に言ってもそこには様々な種類があることはジュネット『物語のディスクール』などがつとに明らかにしているが、その中でも今回は時間の「省略」について考えてみたい。そもそもヒッチコックの『ロープ』など特異な例を除けば、映画の上映時間よりも虚構内で経過している時間の方が間違いなく長いのだから、どの映画においても必ず省略が行われているというのが事実だ。だが実際、そのつなぎ目は巧妙に隠されるため、我々の意識にはそれが届いていないだけである。シームレスであらんとしてきた省略の、そのつなぎ目に指を入れこじ開けてみると、いったい何が見えてくるだろうか。

まずは、古典的ハリウッド映画として名高いハワード・ホークスの『赤ちゃん教育』を見ることで、ごく一般的な省略について確認しておこう。この映画の中に、ヒロインのスーザンが主人公のハックスリーに電話で助けを求めるというシーンがある。スーザンが電話越しに「助けて、今ヒョウに襲われているの」と訴えると(実際の所、これはでまかせなのだが)、その声を聞いたハックスリーは、「待ってろ、今すぐに行くから」と言い、自室のドアを出る。と、次のシーンでは、スーザンの部屋のドアが開き、慌てた様子でハックスリーが入ってくるのである。あまりに当然のことでほとんどの観客は何の疑問も抱かないであろう箇所だが、ハックスリーがスーザンの家に駆けつけるまでの移動時間は確かになくなってしまっているのだ。こういった、説話の経済上カットされてしかるべき時間は、映画研究者の間で「Dead time」と呼ばれている。

『赤ちゃん教育』が示す模範的な(?)省略は、今日の我々の目から見てもなんら違和感を覚えさせないものであるが、次に挙げるフリッツ・ラング『復讐は俺に任せろ』の省略はどうだろうか。物語の中盤、主人公とその妻が自宅にて束の間のラブシーンを演じた後、妻が(どういう理由によってかは失念してしまったが)家の外の車へと向かう。家に残り、娘と幸せそうな会話を交わす主人公。すると突然、外でものすごい爆発音がする。悪の組織が車に仕掛けた爆弾(その狙いは夫の方だったのだが)で、妻が被害にあってしまったのだ。主人公が慌てて家を飛び出し、車に駆け寄って妻を抱きかかえ車外に連れ出すシーンが続く(この時妻の顔はいたってきれいであるため、観客は、怪我程度で助かったのか、などと思ってしまう)。しかし驚くべきはここからである。そのシーンの直後に映し出されるのは、主人公が勤める警察署の上司の部屋で、しばらくするとそこに主人公が入ってくる。観客は一瞬話のつながりを見失うはずだが、その後の主人公と上司との会話によってさらに驚くこととなる。台詞から察するにこの場面は、妻の爆発事故から数週間過ぎ去った後であり、妻の葬儀(妻が死んでいたということもあっさりと明らかになる)も既に終わっているというのだ。主人公はといえば、悲しみにくれているというよりは、もうすっかり復讐に取り憑かれているといった様子だ。当時の観客がこの大胆な省略にどのような反応を示したかはわからないが、テレビドラマなどを見慣れている今日のわれわれにとっては、この省略は相当に驚くべきものである。妻が爆死した後のシーンとくれば、われわれは、葬儀のシーン(亡き妻の死化粧を施された顔と泣き叫ぶ主人公の顔の切り返しショットまで目に浮かんでしまう)や、その後悲嘆にくれる主人公(慰める友人があってもいいかもしれない)、そして「よし、絶対にこの復讐を果たすぞ」などと意気込む狂気じみた主人公の顔(場面を盛り上げる音楽も必須だ)などを想像してしまうだろう。そこを描かずにどこを描くのだ、といった声さえ聞こえてきそうである。だがラングはそういった諸々の感情的表現を一切省略し、シーンを次へ次へと進めてしまうのだ。とはいえ、この省略が、ラングの叙情的感性の貧しさを表している、などと言いたいわけではない。映画全体を見れば、こうした大胆な省略を行うことが大きな効果をあげていることは言うまでもない。だがしかし、このシーンはハリウッド的省略のひとつの極点としてやはり興味深い。

 こういった省略を更に押し進めた結果、もはや説話の経済性といった文脈をはるかに超えて、省略それじたいの過剰なまでの暴力性を主張しているフィルムがある。ロベール・ブレッソンの『スリ』がそれだ。物語を要約すれば、ある時盗みを覚えてしまった主人公ミシェルが、次第にスリにのめり込んでゆき、やがて逮捕されてしまう話、とでもなるであろうこの作品は、しかし物語の結構よりも、いつも無表情のミシェルの顔や、スリが行われる際の手のクロースアップ、それに何度も反復される音楽など、どれも断片的な印象ばかりを観るものに残す。その印象は、この作品が持つ時空間表象の特異な性格に起因するものであるだろう。

この映画には、色々なものがない。例えば、たいていの映画において各シークエンスの冒頭に置かれる全景ショットや、シークエンス間の移動ショットが『スリ』には全くない。先ほど取り上げた『赤ちゃん教育』のシーンでも移動ショットはカットされていたが、あまりにそれをやりすぎると、人物がどこにいるのかが観客にわからなくなるため、多くの場合には現在地を示す全景ショット、あるいは「移動してますよ」ということを示すためだけの移動シーンが10秒ほど挿入される。だがブレッソンはそれを行わず、観客はまさしく方位感覚を失ってしまうのだ。より具体的に言えば、A地点から退出した人物は、B地点へとそのまま入場してくることになるのであり、これが何度も続けば、われわれは、あたかも登場人物がずっと歩き続けているかのような印象を覚えることになるだろう。そして観客が目にすることになるのは、意味や目的を欠いた純粋な運動の提示なのだ。スリのシーンの途方もない美しさを見よ。その美しさは心理によるものではなく、省略の結果、画面に運動が―そして「映画」が―生きていることの美しさなのだ。

しかしそんな「失われた時」がどうしても気になってしまったら……?

 最後に、そんな疑問に応えるかのような、そして今までの議論をたちどころにひっくり返すような恐るべきフィルムを導入したい。ストローブ=ユイレの『歴史の授業』である。この映画では、驚くべきことに、上映時間80分程のうちおよそ30分が、ただの「移動時間」なのである。登場人物が車で市街を走る様子を、後部座席から10分間延々と映し―そこに叙情的な音楽がかかるわけでもなければ、何がしかのナレーションが入るわけでもない―それが3セット繰り返される。2セット目ともなれば、どんな観客でも、今画面上で異常なことが起こっているということに気がつくだろう。どんな映画ファンも、移動時間そのものを劇場で味わったことなど絶えてなかったからだ。しかし、日常に照らし合わせれば、移動にそれくらいの時間がかかることはむしろ当たり前のことなのであり、そのことに対して感じるショックとは、まさにフィクションと現実がすれ違う地点に対してのショックなのである。ストローブ=ユイレが映画にもたらした功績は他にもたくさんあるだろうが、今回の文脈で言えば、彼らは今まで映画が映し出すことのなかったDead timeを映画に取り戻した作家として記憶されるべきだろう。

 われわれは、省略することの是非そのものを問いたいわけではない。そうではなく、いくつかのフィルムの具体的な表情に迫ることによって―それ以外に映画を語る方法などあるだろうか―映画というジャンルの持つ多様性や豊かさを示したかったまでだ。カサヴェテスやアンゲロプロスなど、時間処理の問題を考えるに当たって外せないと思われる幾人かの作家についても触れることができなかったが、そうした新たな項についてはいずれ追加できればとおもう。

 

 

≪参考文献≫

塩田明彦『映画術』(イースト・プレス、2014)

蓮實重彦『ハリウッド映画史講義-翳りの歴史のために』(筑摩書房、1993年)

濱口竜介「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」(「美学芸術学研究」22号所収)