1983年のピンボールーーレオス・カラックス『ボーイ・ミーツ・ガール』論


いかにも皮肉めいた事態だ。映画の発明から90年近く経ち、技術で言えばトーキーやカラー、流派で言えばシュルレアリスムやヌーヴェル・ヴァーグなどを通過してきた1983年に、「ゴダールの再来」などと喧伝され現れた若き映画作家、レオス・カラックスが発表した第一長編のタイトルが『ボーイ・ミーツ・ガール』とは。ボーイ・ミーツ・ガール、あらゆる物語の起源……。

ところで、『ボーイ・ミーツ・ガール』から『ポンヌフの恋人』(1991)までのいわゆる「アレックス三部作」を振り返って、大寺眞輔や佐々木敦はこのように言っている。

 

 アレックス三部作に関して、物語的な側面から言いますと、その一本目の作品名である「ボーイ・ミーツ・ガール」がすべての主題になっていると言えるように思います。要するに、男の子が女の子と出会うということですね。      ――『現代映画講義』

 

誤解を恐れずに続ければ、実はそれらはすべて「同じ」映画なのである。カラックスはこれまでずっと、結局たったひとつの事柄しか語っていない。〔…〕最初の長編のタイトルに、それは明白に示されていた――”BOY MEETS GIRL”  ――『映画的最前線』

 

少なくともこの三作において、カラックスは一つの主題しか描いていない、というような見方がされることが多かったことは疑いない。既存のカラックス論に頻出する「恋愛の不可能性」などの主題系も、その根幹は同じであるといってよいだろう。しかし、カラックスの新しさは、ありふれた古典的メロドラマを現代に再興させたという点にはもちろんない。『映画覚書vol.1』の阿部和重も述べるように――そして上記の論者もおそらくは言外に理解しているように――、彼の登場がもたらした衝撃は、ありふれた物語をいかに語るか(ジェラール・ジュネットの用語法を使えば物語言説がこれにあたるだろう)、という点にかかってくる(「古典的な物語を古典的なスタイルで描いても誰も興味は示さないのだから」)、とひとまずは言えるだろう。じっさいカラックスは、古典的映画へのオマージュを作中に幾つも散りばめてはいるものの、斬新な構図やカット割りなどで見る者――シネフィルたちと言い換えてもよいだろう――を驚かせた。だがしかし、である。その点を改めて確認したうえで、私たちはそもそもの前提からして疑ってかかりたい。すなわち、『ボーイ・ミーツ・ガール』は、そもそも本当に「ボーイ・ミーツ・ガールもの」なのか?

 この一見して難攻不落の要塞のごとき問いかけに応じる為に、まずは、先程からしつこいほどに現れている「ボーイ・ミーツ・ガール」という文言=定式に、改めてこだわってみよう。この定式は、「AがBに出会う」という形に変形できることが容易にわかる。この場合、AもBもひとつの確固たる主体として捉えられている。主人公アレックスが監督カラックスの分身と見なされることが多かったのも、これゆえである。主体の問題に関してはやや後で述べることにして、しかし、この作品においてカラックスが描いている人間関係の諸相は、これほど単純なものだろうか、と問いを進めたい。この作品を見る者は、男女は出逢う、という物語内容だけでなく、彼らがいかにして出逢うか、という点にこそ目を凝らす必要があるのだ。

男女の出逢い方。たとえば、現実に鑑みてみるなら、職場での出逢い、友人からの紹介、学校での出逢い、ナンパ、合コン、等々。だがこの映画における人物同士の出逢い方は、それほど単純なものではない。例えば、作品の冒頭部分をやや詳しく観てみよう。この作品で最初にはっきりと画面に映る人物は、母親(マイテ)とその子どもである。マイテが、詩人でまた画家である夫のアンリに別れ話の電話を持ちかけ、息子のパンプルネルが可愛らしい声でそれを制しようとするという場面だ。その後、アンリの描いた絵を川に捨てた彼女は、画面左へと歩いていって、一人の男性(トマ)に出くわし、彼に時間を訊ねる。彼が受け答えをした後、また逆方向へと歩む彼女が落としたハンカチを男が拾った所で、「トマ!」と呼びかける声とともにやってくるのが、ドニ・ラヴァン扮するアレックスだ。物語の円滑さに重きを置くなら、アレックスとトマとの出逢いから語り起こせばよいものを、カラックスは、上述のように迂回的かつ複雑な方法で人物同士を出逢わせる。さらに言えば、アンリは物語中盤のパーティーのシーンで(後姿だけの登場ではあるが)画面上に姿を現し、アレックスと同じ空間を共有することになるし、パンプルネル(おそらくありふれた名前ではないだろう)も、物語中盤画面に映し出される子ども番組にその名前が登場する。そして、マイテが落としたハンカチは、物語のラストにまで飛び火する重要な小道具である。同じことは、ここで紹介しきれない多くの人物についても言える。つまりカラックスは、あたかも伏線を回収するかのように、様々な人物の邂逅――本人たちがそれに気づいていようがいまいが――を入り組んだ形で描いているのだ。この空間および人間関係の厚みこそが、この映画の特徴、およびカラックスの人間の描き方の斬新さだと言えるのではないだろうか。その点に注目せずに、「ボーイ・ミーツ・ガール」という共通項だけを拾い集めても、きっと得られるものは少ない。

ところで、『映画=イマージュの秘蹟』の前田英樹は、そのような視点をとる我々にとって非常に有益な言葉を残している。

 

『ボーイ・ミーツ・ガール』は、〔…〕彷徨する複数の人間のあいだで起こるいくつかの出来事の系を語っている。これらの出来事は、ある人物の意志的な行動をとおして引き起こされる事件ではまったくなく、複数の人物たちがめいめい勝手に語り続ける言葉の、言わば決して交わることのないさまざまな意味作用の線をとおして成り立っている。

 

「出来事の系」あるいは「さまざまな意味作用の線」は、確固たる主体というものを批判する非-存在とも言える。さて、いよいよこの作品が「ボーイ・ミーツ・ガール」ものに留まらないという、不可能な証明を始める時がきた。

上記のような複数の線の交点に位置し、物語を展開させる非-主体的人物たちを、私たちは丹生谷貴志の論考「雲の肯定」(『家事と城砦』所収)を援用し、「シフター」と名づけたい。丹生谷は、小説家、阿部和重の中篇「鏖」を論じながら、このように書く。「タツユキ〔鏖の主人公――引用者注〕は言わば無数のビー玉の群れの中にほとんど意志を欠いたまま投げ込まれぶち当たり続けるシフターの玉であり、その衝突が連鎖的に予想外の結果を生み出して行くのである」。丹生谷の論考中には明記されていないが、シフターは「転換子」とも呼ばれ、「それ自体としては空虚で」あるが、「文脈によってその意味内容を変化させる言語記号」のことを言う

(http://artscape.jp/artword/index.php/%E8%BB%A2%E6%8F%9B%E5%AD%90参照、2014年11月8日閲覧)。

そして、これはそのまま『ボーイ・ミーツ・ガール』のアレックスにも当てはまるだろう。丹生谷はビー玉という卓抜な譬えを用いていたが、私たちはこの作品の序盤と終盤に登場するピンボールマシンにひっかけて、アレックス=ピンボール玉説を提唱したい。その時彼は、意思をもったひとつの主体とはいささか異なり、関係や情動の網の目の中に投げ落とされたシフターであるということができるのではないだろうか。

だが、私たちは決してアレックスだけがシフターだと言いたいわけではない。そうだとすれば、それは彼が確固たる主体であると言うのとなんら変わりないからだ。そうではなく、無数に存在するシフターの玉=登場人物たちの中で、本作品中一番活発に動き回る玉がアレックスであり、だからこそ彼は「主人公」と呼ばれるに足る人物たりえているのだ。

 つまり、「ボーイ」よりも、そして「ガール」よりも先に、「ミーツ」があるのだ。存在に先行する「何か」を示す為に、しかしそれを決して名状しない為に――名指されればそれは存在と化すからだ――、われわれはここまで言葉を紡いできた。『ボーイ・ミーツ・ガール』は、その内容がタイトルを裏切っているゆえに、これまで誤読されてきた、と言えるのか。あるいはこの論考自体がひとつの大いなる誤読?! だとしても、きっとここに刻まれた妄言の類は、豊かさにこそ資すれど、貧しさにはつながらないと信じたい。1983年に弾かれたピンボールの玉は、それから30余年経った今でも動きを止めることがなく……。