「動かない」いくつかの疾走をめぐってーーレオス・カラックス『汚れた血』論


アルチュール・ランボー「地獄の季節」中の一篇「悪い血」Mauvais Sangの名を借りたこの作品は、瑞々しい若さがみなぎった、カラックスの代表作と言ってよいだろう。なかでも、ラジオから流れてくるデヴィッド・ボウイの『モダン・ラブ』に乗せて、ドニ・ラヴァン扮するアレックスが目的もなく不意に夜の街を疾走し始めるシーンは、映画史上に残る名シーンといっても過言ではない。だが、このあまりにも有名なシーンについて、私たちはまだまだなされるべき問題提起を果たしていない。もちろん、『鏡の迷路』の加藤幹郎のように、この疾走シーンについて分析してみせた論考が世の中に存在しないわけではない。しかしそれらの論考も見落としているのは、もっと、そしてもっとも素朴な問い、すなわち「アレックスはなぜ画面上で左から右へと走るのか」というものである。おそらく、このシーンに少なからぬ感動を覚えた経験のある観客であれば、すぐに「なぜ」と答えることはできなくとも、ここは左から右でなくてはいけない、逆はあり得ない、という感覚を共有することができるだろう。俳句の世界から用語を借用すれば、このシーンは「動かない」と言える(「動く」/「動かない」とは、俳句の17文字において、ある言葉が別の言葉と代替可能であるかを示す用語であり、動く箇所とすればその句は完成度が低いとされる)。対照的な例として、先頃公開された『フランシス・ハ』が挙げられる。同じようにデヴィッド・ボウイの『モダン・ラブ』に乗せて走るシーン(明らかに『汚れた血』へのオマージュだろう)があるこの作品だが、そのじつ、この曲に乗せて走るのが「あの時」「あの場所」である映画的必然性はこれっぽっちもないのであり、極端に言えば、適当に走っているシーンに『モダン・ラブ』をかぶせれば一丁上がり、という程度のものでしかない(実際あの映画に、「これしかない」というようなショットがひとつでも存在しただろうか)。それは感覚的なものではないかと言われればそれまでだが、私たちには、その感覚や感動を頼りにし、それを言葉にするという以外の方法を持っていない。別役実の演劇論『舞台を遊ぶ』は、私たちにその手がかりを与えてくれる。

別役はこの本で、舞台における「目に見えない空間の癖」として、「舞台には、上手から下手に風がゆるやかに吹いている」というテーゼを掲げる。彼によれば、なぜだかはわからないが、舞台においては上手から下手が「順路」で、下手から上手が「逆路」になっているという。興味深いのは、これを役者に体感させる為の方法として、彼が演劇の話を飛び越えて、フェルメールの絵について語っているという点だ。絵画にも上手から下手への風が当てはまるとすれば、『汚れた血』にもそれが当てはまってよいのではないか。

また別役は、この「風」と物語との関係の例として、次のように書く。

 

  たとえば、「あてのない旅に出る」という場合は、上手から下手への移動がそれらしい。そして「その旅からの帰宅」は、下手から上手への移動がふさわしい。「借金を返してもらいに行く」のは下手から上手へであり、「返してもらえなくて引揚げてくる」のは、上手より下手へである、という具合である。

 

ひとつひとつの例は感覚的なものもあって、必ずしもすべての向きにピンとくるものかどうかはわからない。だが『汚れた血』のアレックスの疾走の場合はもっとわかりやすいだろう。「コンクリートが詰まったよう」な腹を何度も叩きながら、そして途中、何か見えない壁にぶつかったかのように仰け反りながら走るアレックスは、何かに抗い、何かと戦っているのであり、もしその疾走が右から左にやすやすと実行されてしまうものであれば、何の面白味もないだろう。ここでの疾走が向かい風を伴うものであるのは、そういった物語的必然との絡み合いにおいてである、と言えるかもしれない(もちろん、演劇や絵画に当て嵌まる事柄が即映画にも当て嵌まると言えるのか、また、日本と海外における上手下手の扱い方の違いはどうなのかなど、指摘されるべき欠点はいくつか見出せるだろう。だからこの想像はなかば妄想に近いとさえ言える。しかしそれでもこのシーンの「動かなさ」だけは妄想ではないと断言したい)。

私たちは問いをさらに一歩押し進めてみたい。アレックスは果たして、ほんとうに前へ進んでいるのだろうか。このいささか滑稽な問いに答えるためには、アレックスが走っている背後の壁に注目する必要がある。誰もがすぐに思い浮かべることができるように、背後の壁は白と黒と赤の縦縞だ。この形状から我々は、映画が発明される以前のおもちゃ、ゾーエトロープを想起することができるだろう。

ゾーエトロープとは、円柱状の機械をくるくると回転させ、縦に空いた穴から覗くと中の絵が動いているように見える、という仕掛けのものだ。現物を見ればすぐにわかるように、ゾーエトロープの中の絵は実際には動いていないし、回転による動きを与えられたとしても、決してそれは前進せず、同じところをぐるぐると回るのみである。このゾーエトロープを『汚れた血』のアレックスになぞらえてみると、アレックスの疾走は、前へという時間の前進を示しているのではないこと

がわかる。そのように読めば、この不意の疾走シーンは、アレックス自身の内面の葛藤、苦悶、つまりエモーションの表現として置かれているのであり、畢竟彼は、滑車を回るハムスターのように、いつまでも終わらない青年期を生きていると言えるのではないだろうか。そして、『ホーリー・モーターズ』では、皮肉にもカラックス自身がこのシーンにオマージュを捧げている。すでに初老となったドニ・ラヴァンは、同じように縞模様の背景のもと疾走するが、その走りはランニングマシンの上でのことであり、実際のところ彼は前に進んでいないのだった。

『汚れた血』に戻ろう。この疾走=ゾーエトロープ的性格は、もうひとつの名シーン、つまりラストのジュリエット・ビノシュの疾走シーンにおいても指摘できる。このシーンにおいて、ビノシュ扮するアンナはやはり動機なく矢庭に走り出す。詳しく見れば、彼女はまず空港の滑走路を左から右へと走り、続いて画面奥から手前に向けて、正面ショットで疾走する。前者において言えるのは、すでにこの世ならぬ人となったアレックスとアンナの呼応である(じっさい、『モダン・ラブ』の疾走が不意に中断した後に口笛(?)のような音で鳴らされる音楽は、物語の掉尾を飾る、あのベンジャミン・ブリテン『シンプル・シンフォニー作品4 第三楽章 感傷的なサラバンド』だ)。アンナはアレックスへの無意識の追悼として左から右に走っていると言い換えてもよいかもしれない。後者において興味深いのは、コマ落としという手法だ。これは、一見するとアンナの際限ない加速を見るものに感じさせる。だがゾーエトロープ的な視点をとる我々には、このシーンはエンディングへの収束=失速として映ずる。つまり、一度回したゾーエトロープがゆっくりと動きを止めていくにあたって、なめらかに動いていた絵がカクカクと動きだすように、このシーンのアンナも実は、映画の終わりに向けて動きを失いつつあるのだ。事実この疾走の途中で画面は不意に真っ黒になり、出演者のクレジットが表示される。この映画において、果てしない解放感を観るものにもたらす疾走は、じつのところ前進を伴わない無益さを伴うものであり、加速と失速は軌を一にするものであるのだ。だが私たちは決して、これらの疾走シーンから得られる感動を貶めたいわけではないし、画面上の運動をすべて心情的なものに帰着させたいわけでもない。言いたいことはこの一言に尽きる。何の目的をも持たぬ疾走ほど美しいものが、果たして存在するだろうか。