川上未映子『ヘヴン』書評


著者にとって初めての長編小説となる『ヘヴン』は、小説というジャンルの持つ特質に対する強い意識を持った作品であると言えるだろう。斜視である中学生の主人公「僕」は、二ノ宮や百瀬といった級友からいじめを受ける日々を送っているが、ある日クラスで同じような境遇にある女の子コジマから届いた手紙によって、二人の交流がうまれていく。

何を見ても奥ゆきを感じられず、物との距離感をうまくつかむことができない「僕」は、他者とのコミュニケーションにおいてもたびたび齟齬をきたしてしまう。斜視が原因でいじめられていると思い込んでいた「僕」は、そのことといじめは全く関係がないという百瀬の言葉に愕然とするし、斜視が手術で治るかもしれないというコジマへの何気ない報告は、図らずも彼女との決別を引き寄せてしまう。作者は、主人公の視線の屈折とコミュニケーションの不完全性―「見ること」と「コミュニケーション」はどちらも「表徴」(物の表面/身振りや言葉)から「奥ゆき」(物の立体感/相手の心内)を読みとる行為だといえよう―を並行的に描くことで、両者の持つ原理的な一方向性を巧みに描き出しているのだが、それだけではなく、一人称視点を選択することで、他人の視点に立てず苦しむ「僕」の苛立ちやもどかしさを、読者にも追体験させることに成功しているのだ。

また、小説における視界の問題が、避けがたく言葉の問題に飲み込まれてしまうという点についても本作は意識的だ。目に見えたままの光景(ありのままの世界)は、言葉の存在によって切り分けられ本来の姿を喪失してしまうのだが、小説には言葉しかない以上、すべては名づけられ、意味を付与されたものとしてしか存在することができない。この「意味を与える」ということは本作の登場人物達が抱える大きな問題でもある。コジマは、「うれぱみん」など自分だけの言葉を使ったり、色々なものの「先端」を少しだけ切ることで安心を得たりと、徹底してあらゆる物事に自分なりの意味を与える存在として描かれているが、それに対し百瀬は、あらゆるものに意味などなく、それゆえに各々が恣意的に意味を捏造しているのだと言う。その二人の間で揺れ動く「僕」の葛藤は、ありのままの世界を描くことの不可能性に苦しむ小説家のそれと重なって見える。

 手術によって斜視を治した主人公が、いつも通っている並木道の、いつもとはあまりにも違う光景に打ちひしがれ、涙を流す場面でこの小説は幕を閉じるのだが、そのような名状しがたい光景や感動が「それはただの美しさだった」という言葉の繰り返しによって表されている点には注目すべきだ。さまざまなものに意味を付与する存在であったコジマが小説の舞台から姿を消したあと、「僕」のもとに降り注ぐのは「美しさ」というただの言葉なのである(この構造は、最新作『すべて真夜中の恋人たち』のラストシーンにもそのまま受け継がれている)。物語が不意に姿をくらまし、言葉そのものの手触りが前面化するその一瞬を、ぜひその目で確かめてほしい。