ジブリ映画をめぐる個人的覚書


私は『千と千尋の神隠し』を少なくとも十五回は見ているが、見るたびにどうしても涙を堪えられない場面がある。それは、映画が始まって1時間45分頃、千尋とカオナシが湯屋を離れ、ゼニーバの住む家へと電車で移動する場面だ。この場面は、なぜあれほどまでに美しく、感動的なのだろうか。

この映画は、主人公千尋がトンネルをくぐるところから始まり、異世界での冒険の後、再びそのトンネルをくぐって元の世界に戻ってくるところで終わる。これは単に、物語の起点と終点、異世界への入り口と出口を表しているだけではない。重要なのは、そういったトンネルの象徴性ではなく、トンネルの形状そのものだ。横長のものから始まり、横長のもので終わる。このことにいったいどんな意味があるのか。同じく、『コクリコ坂』のラストシーンにも私はある必然性を感じる。この作品は、主人公メルと恋人風間が二人で船に乗り込む場面で終わりを迎えるのだが、物語的な結構を抜きにしても、この場面でエンディングテーマが流れるに違いないと人々に確信させるものは何なのか。

ここで、さらに疑問を重ねてみよう。ジブリ作品に出てくる建物は、なぜ皆あんなに高いのだろうか。『ハウルの動く城』の城、『借り暮らしのアリエッティ』の家(それはアリエッティたちが小人であるからだが)、『コクリコ坂から』のカルチェ・ラタン、そして『千と千尋』の湯屋……。『アリエッティ』の小人たちは、ロープを使い器用に人家の中を上下動するし、『コクリコ坂』で海沿いの家に住むメルは、毎朝船に見えるように旗を上げ、そして家の二階に登り、海を眺める。『千と千尋』において千尋は、湯屋の狭いエレベーターを往復し、せっせと働く。ジブリの登場人物たちは、(ジブリ作品にはおなじみの空を飛ぶというテーマも含めて)盛んに上下動する。そのことの意味は何なのか。

これらの疑問に答えるためには、垂直(縦長)と水平(横長)という視座を導入すればよい。例えば、TVによるロケット打ち上げの映像を思い出してみよう。縦に長いロケットは、横に長いTVの画面には収まりきらない。ゆえに選ばれる道は2つ。思い切り引きで撮るか、カットを割るか。だがどちらを選ぶにしても、どこか心地の悪い思いは拭えない。なぜなら、画面は横長だからだ。普段TVや映画を見る人はつい忘れがちの事実、つまり画面が横長であるということが決定的なのある。ジャン=リュック・ゴダールの映画『軽蔑』に登場するフリッツ・ラングが、「シネマスコープで撮れるものは蛇くらいだ!」と言うシーンがあるが、その冗談が示すとおり、横長の画面には横長のものが馴染むのであり、縦長のものばかり移されると、見るものは無意識的に違和感を覚えざるを得ないのだ。ジブリ作品に話を戻せば、ハラハラドキドキを志向する「冒険」がいつも上下動の中で巻き起こってくることには、こうした必然性がある。

まだまだ例を挙げて解説することは可能だが、ここでひとまず冒頭に掲げた疑問に答えておくとしよう。『千と千尋』の電車の場面が感動的なのは、今まで湯屋で散々縦移動をさせられてきた千尋が、不意に、上下動を禁じられた、水平の空間に置かれるからであり、『コクリコ坂』が船の場面で終わるのも、そこがあらゆる上下動を禁じられた水平的空間だからだ。これが、(私にとっての)ジブリアニメの感動の根源なのだ、ととりあえずは断言しておこう。こうした個人的な覚書を綴ったのには、上記のような画面の質の明らかな推移を見落とし、「神話的」だの「エコロジー」だのといった言葉でこの映画を「見た」ことにする解説本などの類が後を絶たないからである。映画を「理解する」のではなく、子どもの気持ちで映画に「ワクワクする」こと、そしてそのワクワクを言語化すること、そういったジブリ論が今後増えていくことを願いつつ。