斎藤環の方法論を精神分析する


斎藤環のものす批評は、一見してとてもスリリングで説得力がある。だが彼の文章を仔細に読めば、そこにはいくつかの大きな陥穽が見られる。この小論では、主に彼の文芸批評に的を絞って、その陥穽の在り処を示したい。

まずは、彼の「診断」の安易さを指摘したい。文芸批評における彼の主たる方法論は、持ち前の知識を活かして、様々な病理概念を作家および作中人物に当てはめていくというものである。例えば、『文学の徴候』における古井由吉を論じた章で、『杳子』における登場人物杳子の病理を、現実のしかじかの人物であるかのように手際よく「診断」する様は、一見して鮮やかで興味深いものではある。だが、斎藤の本より25年も前に書かれた『現代文化の境界線』における上野昂志の言葉を見た後だとどうだろうか。彼は『杳子』を、あまりにも直接的に病気という題材を扱っているがゆえに、あまり買うことができないのだという。この評価の是非は措くとして、おそらく上野は、「古井は書くことのそのものの狂気を描ける作家なのだから、わざわざ物語の題材に病気や狂気を導入することはない」と言いたいのだろう。斎藤には文学を論じるにあたって、このような視点が欠けているように思われる。また古井が描く病理を診断するのは良いが、それが作品Aではこのように機能し、作品Bでは別様な効果をあげている、といった視点もない。小説の肝は、それが描き出すひとつのテーマではなく、あるテーマが他の様々なテーマといかに結びついているかという点にこそあるのに、斎藤にとって重要なのは、「作者」と「しかじかの病理」という一対一の対応関係でしかないのだ。そこに「診断」の陥穽がある。

続いて、同書で阿部和重を論じた章を見てみる事にしよう。斎藤は、阿部の大作『シンセミア』のあるシーンを「すぐれて映画的」と評すが、ここからは二つの問題点が見えてくる。彼は「ダンプカーによる殺戮シーンが画になるから『映画的』なのではない。音や気配による徴候から、ふと視点を転ずることでその恐るべき本体に一気に逢着するという場面の移動、このイメージの動線こそが『映画的』なのだ」と語るが、そもそも文学作品を評価するにあたって「映画的」という言葉を使うのは、あまりにも安易である。彼は別の本で、宮崎駿のアニメが「テーマ」や「思想」といった文脈だけで語られてしまう状況を嘆き、宮崎は「アニメ固有の表現」を追及しているからこそ賞賛されるべき作家なのだ、と訴えていたのだが、これでは同じ穴の狢ではないか。真に「ジャンル意識」の高い人物ならば、この発言を皮肉や侮辱ととっても致し方ないだろう。さらに斎藤は、作品から「(…)博徳は、驚きのあまり足が竦み、息を呑んだ。眼前の景色全体が、映画のスクリーンにでも変貌してしまったかに思えた」という箇所を引用し、ご大層に傍点までつけているのだが、作中に「映画」と書かれているからといってそれを「映画的」だとしてしまう身振りもまた短絡とは言えまいか。これが二つ目の問題点である。阿部は『シンセミア』において、ロリコン、のぞき魔といった何人もの倒錯した人物を描いており、その点との関わりあいで見ればここはむしろ、現実を虚構のようにしか見る事のできない男の視野の狭さを強調する為の表現と読むべきだろう(じっさいこのような表現は随所で見られる)。斎藤は阿部に対しても、「解離」といった用語を使って「診断」していくわけだが、そのような振る舞いが、何にもまして阿部作品の登場人物的な視野の狭さを想起させ、殊に彼を論ずるにあたってはその試みが空転しているように感じられてしまうのだ。

最後にふたたび古井論を参照したい。斎藤はこう書く。「古井の描写が、しばしば凡々たる日常を描くかに見せて、それが不意にめくれあがり異化されていく瞬間をたくみに生み出すことができるのは、こうした匿名化、あるいは動物化(東浩紀の用法において)する瞬間を、無造作に掴みだしてみせるような身振りに長けているからにほかならない。そして動物化といえば、もちろん傑作『先導獣の話』が参照されなければならない」。読者は当然、これに続く部分において「先導獣の話」のしかるべき箇所の引用、および分析を期待するだろう。しかしその後に引かれるのは古井の対談なのである。そして続けざまに五つもの異なる対談から古井の発言を引用してみせるのだが、「先導獣の話」の本文が引かれることはついに一度もない。これは彼の方法論における重大な特徴だと言ってよいだろう。斎藤が何かを語る時、自らの主張の論拠のほとんどが、作品ではなくインタビューや対談に置かれているのだ。彼にとって「対談の言葉」は「テクスト」は等価、いやひょっとするとそれ以上なのかもしれない。そしてしかるべき作品のしかるべき箇所の引用は、その「作者の発言」の証拠として付随的に引用されているように見える。これでは明らかに順序が逆ではないか。

以上、ごく簡単にではあるが、斎藤環の方法論における陥穽を、その文章をたどることによって「精神分析」してきた。彼の論旨を単純化しすぎたきらいがあるし、かなり論難の色が強くなってしまったことも否めない。だがあえてそういったパフォーマンスに出たのは、彼の分析こそなによりも分析の対象になるのではないかという確信の上で、である。斎藤の方法論が文芸批評に新たな角度からの光を当てたことは間違いない。だが、もし彼の方法が形骸化しただけの批評が巷間に溢れたとしたら、それこそ文学にとってある種の危険な「徴候」ではないだろうか。

 

 

 

《参考文献》

斎藤環『文脈病』

斎藤環『文学の徴候』

斎藤環『文学の精神分析』

上野昴志『現代文化の境界線』