コピペの美学


コピー&ペーストを略して「コピペ」と呼ぶことは、いまや誰もが知っている。大学におけるレポートのコピペ問題などのせいか、この言葉からはあまり良いニュアンスが感じられないが、今日はその考えをちょっとだけひっくり返してみたいと思う。コピペが表現の臨界に触れる瞬間を垣間見ることで。

まず取り上げるのはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の第9話「瞬間、心重ねて」である。使途の急所が二箇所あり、倒すためにはその2箇所を同時に攻撃しなければならないとわかったシンジとアスカは、毎日のように同じ生活リズムを刻むことで、呼吸を合わせる訓練をするというストーリーだ。特に有名なのは戦いのシーンで、62秒間の戦いを丸々ノーカットで描き、しかも爆発などの効果音の代わりにシンジたちの耳に流れる曲を視聴者にも聞かせた点である。だが私たちが注目したいのは、シンジの乗るエヴァンゲリオン初号機と、アスカの乗る2号機の描画が、色を除きまったくのコピペであるということだ(この点についてはこれ以上説明を加えないので、万が一対象のシーンを見ていない人は、まず見てほしい)。もしこれがアニメでなければ、シンジたちの庶幾する「完全にシンクロした攻撃」は不可能だし、もし映像をコピペしたとしても、噴飯ものの出来にしかならないのは目に見えている。しかしアニメというジャンルにおいては、そのシンクロ=コピペは時として芸術の域にまで達することを、エヴァは証明したのであった。

次に見るのは、こちらも有名な手塚治虫の漫画『火の鳥』の異形編だ。物語のあらましを簡単に押さえておこう。話は、左近介という美形の侍(のちに女である事がわかる)が八百比丘尼という尼僧を殺すところから始まる。今に斬られんとする八百比丘尼は「私が死んでも他の人間が代わって私となり、永劫それが続く」、「あなたはここから抜け出す事ができない」、「この場所では時間が逆行する」などと不気味な言葉を残す。左近介はかまわず斬り殺すが、その言葉どおり寺から出る事ができなくなってしまう。そのうちに八百比丘尼をたよって民衆が集まって来たので、左近介は仕方なく八百比丘尼の格好をしてやり過ごす。しばらくすると、左近介が生まれる以前に起こったはずの応仁の乱が今まさに起こっている事がわかる。八百比丘尼の言葉どおり時間が三十年逆行したらしいのだ。そして十二年後、今や八百比丘尼となった左近介は、自分であるはずの左近介が最近生まれたという話を聞く。そう、自分が殺した八百比丘尼こそが自分自身だったのであり、その自分もまた自分によって殺される運命にあったのだ。

この作品の最後の7ページは、冒頭の7ページとほぼ全く同じ絵とセリフがそのまま繰り返されている。このまったき反復は、この作品が高い完成度を持っている事の一番の要因であるように思われる。使われている絵とセリフがほぼ全く同じであるにもかかわらず、読者の視点は1度目と2度目で明らかに変化しているのだ。読者ははじめ左近介を主人公に据えて読んでいく為、八百比丘尼のセリフや表情は不気味なものとして受け取られる。だが、その後の物語を読んだうえで(八百比丘尼の運命に対する激しい葛藤を知った後で)再び出てくる2度目のシーンでは、読者はみな八百比丘尼に感情移入して読むだろう。そして先程不気味に思われた八百比丘尼の表情は、今では運命を受け入れた強い女性の覚悟の表情として感じられるのだ(まったく同じ絵をくり返し見せられているだけなのに!)。もしこの2度目の場面において、八百比丘尼の感情に寄り添ったような絵やコマ割、あるいはセリフに変えてしまったら、この作品の完成度は大幅に落ちると思われる。これもまた、コピペという一見誰にでも可能な技術が、人の心を揺り動かす芸術となった瞬間であろう。

さてさて、このように、コピペはかならずしも悪いものではないことがおわかりいただけただろうか。ちなみに余談だが、筆者は大学時代、コピペを固く禁じているある授業のレポートにおいて、とある小説の引用だけでひとつのレポートを作り上げてしまったことがある。え? 評価は何だったって? それは……。