ゲーム「アンチャーテッド シリーズ」批評 ジャンプのサスペンス/内向性の運動


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【本稿は前稿に引き続き、エクリヲ5号にて特集される『ゲームのリアリティ(仮)』のため、ゲーム特集の批評のガイドラインをお伝えするような意図で書かれている。】

 先日、カリフォルニアのゲーム会社NAUGHTY DOGが制作する『アンチャーテッド』シリーズの最新作にして最終作であるPS4ソフト『アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝』が、各ゲーム誌が点数をつけて集計するサイト『metacritic』で史上最高点を獲得し、本年度2016年のGame Of The Yearの座をほとんど手中のものとした。本作は、これまでに発売された第一作『アンチャーテッド1 エルドラドの秘宝』(2007)、第二作『アンチャーテッド2 黄金刀と消えた船団』(2009)(本作は同年のGOTYを受賞している)第三作『アンチャーテッド3 砂漠に眠るアトランティス』(2011)の続編に当たるが、各作品とも、非常に高い評価を獲得している。

 それでは本稿ではこのシリーズの魅力に触れながらも、ジャンプのサスペンス/内向性の運動という2つの特筆すべき概念を扱っていきたい。

 

 さて、本作の基本的な筋書きだが、若い冒険家であるネイサン・ドレイクが、世界の様々な手付かずの財宝を狙い、横取りしようとする勢力と争うというものだ。言うまでもなく映画『インディージョーンズ』及びゲーム『トゥームレイダー』シリーズの強い影響下にあり、『アンチャーテッド3』では、なんとハリソン・フォードがゲームをプレイして興奮する動画が宣伝に使われたりした。

 「アンチャーテッド」シリーズは、「映画のようなゲーム」性を謳っており、主部のアクションパートは謎解き(パズル)とクライミング・アクション(ジャンプ)と銃撃戦の3つで構築されている。この3つが高速で入れ替わりながら要求されるゲームプレイは、単純でありながら難易度はなかなか高い。何よりドラマティックな演出が豊富であり、プレイしなくても、映像を見ているだけで手に汗を握るような緊迫した展開を楽しめるだろう。

 さて、第一作から第四作まで、本作の中でも通底して発揮される表現は、ジャンプである。そしていうなればこのゲームにはジャンプしかない。ジャンプ、それは最も原初的なサスペンスであり、興奮を喚起させる装置だ。 
 
 アンチャーテッドのプレイの中では、壁からを壁を伝って出口を探すような場面や、あるいは、追手から遁れるために飛び降りなければいけなかったり、後ろから火の手が迫るような緊迫した瞬間が何度も続け様に訪れる。しかし、普通の感覚ではどう考えても飛べないはずの距離が、飛んだ後に補正がかかって初めて、この距離は飛べたのだ、とわかる瞬間が何度もある。この一回ごとに伸び縮みするような跳躍は、時に客観的に見るとどこか違和感があるほどの飛距離を飛んだりしているのだが、この伸び縮みする跳躍力のために、プレイヤーは常に「飛んでみないことにはわからない」という不均衡と向き合う必要がある。

 もちろん、ある程度の繰り返しのあとなら、距離と出っ張りから、このルートが正解だろうことが今までの経験でわかる。しかし、飛べる段差か飛べない段差かは、飛んでみないとわからない。その実測と結果の差異はゲームに何度でも不均衡を導出し、同時に死=やり直しへの忌避感をもたらす。このように実際の意味でなくても、ゲームの中で「死にたくない」「落ちたくない』と思わせることは、ゲームをドライブさせる非常に有効な機能であり、この機能は、一度クリアして結末を知ったからといって、そう簡単に失効するものではなく、何度プレイしても、まるで初めてプレイしているような感覚を与えてくれる。(以上のようなサスペンスの状態を思考するうえで、三浦哲哉氏の『サスペンス映画史』はその一助になることだろう。)

 そして、このゲームにはただこれだけがあり、たったこれだけの機能を、手を変え品を変え途切れなく提供することに特化したことで、第二作『黄金刀と消えた船団』を世界で何百万本も売り出すことが出来た、と言っては少々言い過ぎだろうか。もちろんこのゲームにはミニゲームとしての宝集めの楽しみや、シビアな銃撃戦や、手元の地図をつかって大きな機巧を動かしていくようなパズルの楽しみもある。とはいえ、この3つの魅力が使い古されても、ジャンプのサスペンスは潜在的には消費され尽くされることはなく、何度プレイしても、確かな興奮を与え返してくれる。

 だが、この特性の恩恵に第一作目からどっぷり浸かりながら、アンチャーテッドシリーズは新作ごとにそれを更新していく。1から2の映像や演出の革新こそ確かに目覚ましいものだったが、2から3の中では、単線的な時間軸を否定して、過去の時間の描写や主人公の幻覚演出が入ることで、ゲーム演出と時系列における近代文学のようなパラダイム・シフトを経た。

 

 だがこの演出は求めていたほどの革新は得られなかったようだ。前作『アンチャーテッド 黄金刀と消えた船団』の、あまりにジェットコースター染みていて、美しい景色を贅沢に消費していくような内容に対してある批評をもたらしたが、同時にジャンプの緊張と爽快感を十二分に発揮するような速度感を殺してしまってもいたので、結果は賛否両論と言わざるを得ない。とはいえこの三作目は、ノーティードッグの今後の展開を与える一つの試金石となっていたと思う。

 というのも、2013年の『The Last of Us』を挟んで三作目から五年ぶりとなる最新作『アンチャーテッド4 海賊王と最後の秘宝』では、明らかにこの最も重要なジャンプの概念を相対化するようなゲーム性を持っている。また本稿では『The last of us』には触れられないが、これも非常に質の高い作品であることだけお伝えしたい。

 

 さて、アンチャーテッド4では、冒険の前に、ネイサンは一作目から旅を共にしてきたエレナと三部の冒険の後に結婚したが、新しい冒険への誘いがあっても、妻のために冒険家業から足を洗い、二人の幸せのために冒険への未練を断ち切ろうとしている場面がある。しかし妻エレナは何もかも見透かしてはネイサンの冒険への気持ちを認めているのだが、彼女との団欒の中で、ネイサンは唐突にゲームをしようと言い出す。そこで持ちだされたのはPS1のゲーム『クラッシュ・バンディクー』である。何を隠そう、このソフトはノーティードッグの処女作だった。本作はスタートアップの作品としては例外的な大ヒットを記録し、続編がいくつも作られた、記念すべき一作である。

 このゲームとアンチャーテッドシリーズを比べると、少々悪辣にとれば、本質的な部分はほとんど変化していないことに気づく。『クラッシュ・バンディクー』には目を喜ばせるようなグラフィック上の意匠はない。だが1997年であれば、純粋なジャンプだけのシンプルでスピード感のあるゲーム体験が人々を熱狂させるのに充分な力を持っていた。それと同じように2007年の『アンチャーテッド エルドラドの遺産』以後も、ジャンプのサスペンスに依拠することで人気を博した。
 主人公であるネイサン自身がこの『クラッシュ・バンディクー』をプレイする前に「飛んだり跳ねたりは俺の得意分野なんだぜ」と皮肉げに語るとき、彼は自らの姿をこの狐に重ねながら、若く向こう見ずな自分をどこか達観している。このような形で、本作はシリーズの中でも唯一、本作を貫くジャンプという主題に対して、ゲーム内ゲームという形で一定の批評を提示している。(ところで、この場面ではなんと実際にゲームの一面をプレイして、ゲームオーバーになるか一面をクリアするまでの間、プレイの首尾に応じた愉快な掛け合いを聴くことができる)

 だがそれだけで終わりならば、セルフパロディの域を出るものではないだろう。然り、ノーティードッグは『The last of us』以後、明らかに異なる新たなゲームへの展望を用意して、ジャンプのサスペンスにぶつけている。それはジャンプ=跳躍に対称的に配置されるべき、プレイヤーによる内在への深く静かな沈降である「内向性の運動」である。

 エレナと住む家の中には、一度紐解いてしまえば旅への懐郷があふれだすために、注意深く折りたたまれて素通りされた無数の思い出、写真や、クローゼットの中のかつての作品で着ていた服や、過去作の人物からの手紙がある。だから、プレイヤーが操作するネイサンが部屋の中を彷徨うとき、空間を横切る大胆な跳躍とは対象的な、折りたたまれて語られることのない沈殿した時間がそこには横たわっており、それらはネイサンではなくプレーヤーがそれに眼を止めるとき、語られないことで、最も雄弁に過ぎ去った時間を物語る瞬間を待っている。この意味で、家の中のディティールは固有のイベントがないからといって、単に非常にリアルに作りこまれた背景にとどまるものではない。それらは全てプレーヤーの注視によって想像的な再生を待っているアトラクティブな経験の起動装置であり、いわば家の中は記憶のジェットコースターなのだ。本作の時間がダイビングから始まるのは非常に示唆的だが、ネイサンが過去作の思い出の詰まった家の中をそぞろ歩くとき、プレイヤーの中では表面的な一歩よりも遥かに長く豊かな内向性の運動がある。これに限らず、例えばゲーム中に通り掛かるマダガスカルの広場の雑踏の中でも、単に通り過ぎるのも道理だが、一方で始めてここに訪れたように新鮮さをもってそぞろ歩くこともできる。すると、フランス語で何か話している人々や、蝿が集っているが新鮮そうな肉売り場や、役所で列を作って待つ人々をを眺めているだけでも、そこにあるドラマを想像する余地が与えられているのだ。

  いうなれば、過去三作が開かれた空間での大胆なジャンプによってプレイヤーを釘付けにしていたのに対して、本作はゲームの本筋から外れた経験を拡張し、映像の溝をプレイヤーに委ねることをまた目的にしている。これに裏付けられたもう一つの意匠として、プレイヤーはゲーム中の美しい景色や小さな発見をフォトモードで、グリグリとネイサンを中心にカメラを動かしながら、様々なエフェクトをかけて撮影して保存することができる。それは物語にとって通り過ぎられるべき景色であっても問題なく、プレイヤーが特別だと感じた景色に、長い時間をかけて向かい合うことができるということだ。この撮影モードは奥行きやコントラストなど多くの項目を設定できるだけでなく、なんとプレイヤーキャラであるネイサンや他の人物すら撮影のために捨景することができるほど、風景への拘りを大事にしていることがわかるだろう。これもまた、ゲームの目的の中では通り過ぎられるだけの景色に逆行する『内向性の運動』だと言える。とある記事では、「フォトモードが最高すぎて本編に興味がなくなってしまった」と興奮を込めて語っている。

 

 もちろん『アンチャーテッド4 黄金刀と最後の秘宝』は、作品が本来持っていたドライブ感を捨ててはおらず、依然として醍醐味である壁登りやスニーキング・アクションなども健在だ。だが、彼らはいまや、ゲーム内の経験を意図的にゲームのくくりの中で解消させようとする作為から、意図的に抜けだそうとしているように見える。サスペンス装置の一環として、確かにジャンプは非常に有効だが、滑り台かジェットコースターのように次から次へと矢継ぎ早にスリルを与えるようなスタイルは、時にゲームをいわゆるゲームらしさのフィクションの中に閉じ込めてしまう。

 しかしアンチャーテッド4では、このジャンプのサスペンスに対置されるような内向性の運動を用意することで、このタイトルは明らかにひとつ上の展望をゲームに提供した。確かにジャンプアクションはゲームのスリルそのものと言っていいサスペンスを牽引している。しかし、同時にゲームの外から世界に対してゲーム的なもの以外を看取しようとする、プレーヤーの欲望を開くようなシステムを用意することも達成しているのだ。物語の中に語られなかった文脈を読み取る/読み込むこのような内向性の運動は、今やジャンプのサスペンスと同じほどに、プレーヤーをゲーム世界に引き込むサスペンスだと言えるのではないだろうか。