反復の掟ーー岡崎乾二郎覚書


過日、広尾駅から歩いて少しのところにあるギャラリー、Takuro Someya Contemporary Artで、岡崎乾二郎の新作絵画を見てきた。今から7年ほど前に初めて岡崎の文章に触れて以来、折にふれて気にかかる存在であったのが、ここへきてある種の水域を超えたので、何か書いてみたいと思う。しかし彼の魅力を語るということは、困難な営みである。彼が絵画や造型作品の実作者であると同時に偉大なる理論家でもあるという事実にどうやって「落とし前」をつけるか、すなわち、『ルネサンス 経験の条件』のような書物を書けてしまう人間が、まだ、なおも自分の手でやれる事柄(世界に産み落とせる作品)を模索しており、そしてその結果ああいったものが産まれ出てくるという事実を、あらゆる意味で彼の何十歩も後を行くこの私がどう消化するかという問題が立ちはだかってくるのだ。
とりあえず、テーマをできるだけ限定しよう。ここで論じられるのは彼の絵画作品に限る。しかも私には、残念ながら彼の絵をひとつひとつ見分ける眼さえない(タイトルが覚えられないということもあるが)。よってここでは、抽象的になることを承知の上で、彼の絵画作品を体験するという行為がどのような意味を持つか、ということを書いていきたい。まずは下の絵を見ていただきたい。

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左:《平面ばかりつづいて家のひとつもない真一文字の道を猛スピードで走っていれば、なおさら気分も座ってくる。この道や行く人なしに秋の暮。日除けの陰で顔は緑に蔽われ、そのくせ眼の輝きはまっすぐ向こうを見つめている。野菜が少なかろうと海で魚がなかろうと恐れるにたりない。米を一粒播くとかならず三百粒の実をつける。》
右:《それを辿れば間違いなく家に戻れる一つしかない煉瓦敷きの道をゆっくり歩いていれば、どっと笑いがとまらない。やがて死ぬ景色は見えず蝉の声。陽の光をさんさん受けた気楽な世界のただ中で影に包まれ、爪先だって歩いている。自分が茄子であるのか南瓜であるのか分らなくてもよい。一生のうちに一回きっと 蝶は飛んでくる。》
引用元URL http://www.dnp.co.jp/artscape/artreport/it/k_0602.html

岡崎の絵画は、上の作品のように、その多くがディプティック(二枚一組)として私たちのもとに差し出される(長大なタイトルの文字数まで合わせられている点にそのこだわりがうかがえる)。そしてその一対はよく見ると、相互にかなり似たところがあることがわかる。片方の絵のある場所の筆跡を、もう片方の絵の同じ場所(あるいは違う場所)に、違う色(あるいは同じ色)で見つけることができ、一種の絵合わせパズルのようでもある。それはおそらく子どもたちのある種の遊び、原初的な発見の喜びに近いはずだ。ところで、こうした原初的な発見の持つ痛快さを批評の文脈に取り戻したのが、文芸批評の世界で言うところのテーマ批評である。テーマ批評(テマティスム)とは、詩や小説の意味(これが何を象徴しているか、など)を問うのではなく、あちこちに広がるあるモチーフの反復、変奏を取り出す操作のことであり、創始者としてはフランスの批評家ジャン=ピエール・リシャール、日本におけるその導入者としては蓮實重彦などが知られる。私は美術論の文脈には全くもって疎いので文芸の世界のことを書いたが、おそらくは美術の読み解き方においても、イコノロジー的なものに対してフォーマリズム的なものがあるのだろう。しかし、岡崎の絵(を読み解こうとすること)に特異性があるとすれば、このようなモチーフの反復を指摘して事足れりとすることはできない、という点であろう。なぜならその反復は、明らかに彼の意図のうちにあり、それを指摘するだけでは何も言ったことにならないからだ。

では、いったい何を言えば、彼の作品について語ったことになるのか。私はここで「フック」という概念を導入したい。出自をどこにもつ言葉なのか、単なる俗語なのかはわからないが、私の捉えるところでは、フックとは以下のような意味である。作家がある作品をつくるに際して、読者や批評家のアンテナを反応させるために、意図的にそういった(彼らを「釣れ」そうな)言い回しやテーマを作中に忍ばせること。おそらくあまりよい意味合いで用いられる言葉ではないが、敢えて岡崎の絵を「フックによってできた絵」ーーさらに言えば「フックだけによってできた絵」ーーと呼んでみたい。すなわち、意図的にフックを仕掛けられるということは、自分の言うこと/書くこと/描くもののすべてをフックだけで成立させることができるのではないか、と問いを押し進めること。ある種の思考実験めいてくるが、例を挙げてみよう。「あの人、皆を元気にする言葉を言ってくれるよね」と称えられるような人が、そのじつ、自分の内的な感情(とはそもそも何か?  そんなものが言葉より先に存在しえるのか?  といった論点に関して、詳しくは柄谷行人『日本近代文学の起源』などに譲りたい)とはまったく無関係に、ただ人を元気にするフックをばらまくだけの純然たる機械だとしたら……? このような妄想は、何か生産的な意味・意義というよりも、ある種のパラダイムシフトを、それを行う者にもたらすだろう。言葉が内面の発露であるという考え方を脱して、そのすべてが操作しうる手札のようなものだと捉えることで、「自分」というもののレイヤー(捉え方)もまたひとつ、後戻りのできない形で変化する。

念のため付言しなければならないのは、岡崎の絵画には作者の思想なり内面が一ミリも込められていない、という批判をしたいわけではないということだ。岡崎の制作の地平(あるいはそれを鑑賞しそこからものを考える地平)において、「そこに作者の思想が一ミリも込められていない」と言うことと「そこに作者の思想があらん限り込められている」と言うことは、まったく同じ意味を持つのである。それが、理論(批評活動)と実践(作品の製作)の問題を統合する私なりの「落とし前」のひとつである。理論と実践という言葉を、「考えること」と「感じること」という風に置き換えてみれば、話はもう少しわかりやすくなるあろうか(「置換」や「代入」はすぐれて岡崎的なテーマである)。「考えるな、感じろ」といった言明が示すように、この両者はふつう別の領域の能力が行うことのように思われている。だが、少なくとも岡崎の絵を見るとき、鑑賞者のなかで起こっている事柄は、上のように単純ではない。そこでは「考えること」と「感じること」がまったく同時的に起こっているように思われる。「考えること」を「悟性」、「感じること」を「感性」とさらに言い換えれば、そのふたつが相互媒介的に働き合う場面をして「経験」と呼んだカントがすぐさま想起される。そして、この「経験」の条件を問うこと、すなわちこうした意味での「経験」がいかにして可能になるかという条件の基盤を問い直すことが、岡崎の企てなのである。そして私は、岡崎だけでなく、優れた芸術家のすべてが一度は立った(あるいは立っている)地平とは、そのようなものではないだろうかと妄想する。

(谷口惇)