欅坂46のトリレンマ² ――分析哲学で平手友梨奈を擁護する


トリレンマ【trilemma】
① 三つの選言肢をもつものをいう。三刀論法
②三者択一を迫られて窮地に追い込まれること

1.第一の三角形=トリレンマ

 「努力は必ず報われる」という命題から本論を始めよう。
 AKB48の初期メンバーでありグループの「総監督」というポジションでAKB48を牽引し続けた高橋みなみは、シングル曲の選抜メンバーをファン投票で選ぶ「シングル選抜総選挙」におけるスピーチで「努力は必ず報われる」という言葉を繰り返した。その発言の嘘くささを揶揄・批判されることも多かったが、グループから卒業するまで「努力は必ず報われる」という言葉を撤回することはなかった。
「努力は必ず報われる」という文はどのような命題であろうか。それは「努力する」という原因から「報われる」という結果が必然的にもたらされるという信念であろう。なかなかメディアで注目を浴びることがないメンバーでも、劇場公演で良いパフォーマンスを続け握手会で「神対応」をし続ければ、いつかはシングル曲の選抜メンバーに選ばれると信じ続けること。これは「窓ガラスに鉄球がぶつかれば必ずガラスが割れる」といった様にある原因が必ず同じ結果を引き起こすという信念であり、分析哲学で「因果的決定論」と呼ばれているものである。
 なぜ高橋みなみは「努力は必ず報われる」という因果的決定論を信じ続けなければならなかったのだろうか?
 
 哲学史においては因果的決定論と自由について、様々な哲学者が様々な角度から論じてきた長い歴史がある。「もしもある瞬間における全ての物質の位置と力学的状態を知ることができれば未来が完全に予測可能である」とする「ラプラスの悪魔」はその代表であり、現在でも分析哲学の主要なテーマとなっている。「ラプラスの悪魔」のような因果的決定論が支配する世界において、人間の自由意思は存在するのであろうか?人間が自由意志に基づいて行ったと信じている行為は、実は世界が始まった瞬間に物理的に決定されていたのではないか?

 ここでは「因果律」と「宿命論」に独自の論理を展開したイギリスの分析哲学者であるマイケル・ダメット『過去を変える』を参照しよう。分析哲学ではあまりにも有名な「酋長の祈り」の議論である。ダメットの問いは次のようなものだ。
 ある部族では若者は成人式の儀式の一環としてライオンの狩りを行うことになっている。若者は二日間旅をし、二日間ライオンの狩りを行い、そして二日間かけて帰ってくる。若者が所属する部族の酋長はその六日間休まずに、若者のライオン狩りの勇敢さを祈り踊り続けるという。我々の感覚では、狩りが終了した後の最後の二日間の踊りは不合理ではないかと感じる。すでに狩りは終わっているのだから。果たして我々は最後の二日間の踊りが無意味であると酋長を説得することが可能であろうか?

 『過去を変える』におけるダメット自身による議論も非常に興味深いものであるが、ここでは郡司ペギオ幸夫が「アートな一手、または、脳内他者の直観をわたしの直感とする」で展開した解釈を参照してみよう。(以下では一部、郡司の用語を変更している。)
 郡司は「酋長の祈り」の議論を自由意志・観測可能性・因果的決定論の三つが同時に成り立たない状態である「トリレンマ」と解釈する(「観測可能性」とは「全体に影響を及ぼさずにその事象を知ることが可能であること」といった意味で理解すれば良い)。
 「トリレンマ」状態とは三つの信念は同時に成り立たないということである。そして郡司は三つの中でどれを捨てるかは趣味の問題であると論じる。どういうことだろうか。
 酋長は自らの踊りが若者のライオン狩りの成功に結び付くことを確信し、踊らなければ狩りが失敗すると信じている(「因果的決定論」を信じている)。同時に、酋長は若者のライオン狩りの成否は若者が帰ってくるまで知ることができない(「観測可能性」を諦める)ことを受け入れている。このことが酋長の踊りが「自由意志」によるものであることを保証しているというのである。
 仮に酋長が「因果的決定論」と「観測可能性」を諦めないケースを考えてみよう。その場合、若者のライオン狩りの成否を知っている酋長が「因果的決定論」を守るためには、「若者の狩りの成功を知れば必ず踊らなければならない」し「若者の狩りの失敗を知れば必ず踊れなくならなければならない」ことになる。(若者の狩りの失敗を知っていながら踊れば、「因果的決定論」を諦めることになる)つまりこのケースでは、酋長は踊りに関する「自由意志」を諦めなければならないのである。
 それでは酋長が「観測可能性」と「自由意志」の信念を守る場合はどうだろうか。このケースでは若者の狩りの結果を知っていながら酋長は踊っても踊らなくても良いことになり、踊りと狩りの間に因果関係がないことを酋長自ら認めることになる(「因果的決定論」の信念を諦めることになる)。
 このように自由意志・観測可能性・因果的決定論のトリレンマは強力に我々を支配する。

 AKB48がデビューから他のアイドルグループと差別化するための売りとしていたものが「サプライズ」であった。シングル曲の選抜メンバーをファン投票で選ぶ「総選挙」、チームやグループのメンバーを突然シャッフルする「組閣」、じゃんけんで選抜メンバーを選ぶ「じゃんけん大会」など、常にファンやメンバーの「予測」「観測」を裏切ることがグループの活性化に寄与してきた。かつて多くのファンは大会場でのコンサートのたびに、どんな「サプライズ」が発表されるか予測するのが常であった。思いつきとしか思えない「サプライズ」がある時期までグループを活性化し、ファンの興味を引きつけたことは事実であろう(ここ最近「サプライズ」がほとんどないこととAKB48の「勢い」のなさの関連性は興味深いテーマであるがここでは措く)。ここではAKB48には「サプライズ」=「観測可能性の断念」が必要であったことを指摘すれば良い。なぜAKB48に「サプライズ」=「観測可能性の断念」が必要であったのか、ダメットと郡司のトリレンマについて議論を追ってきた我々は容易に理解できる。
 AKB48とは「観測可能性」という信念を諦めて、「因果的決定論」と「自由意志」を獲得したアイドルグループだったのである。そのことによって高橋みなみは「努力は必ず報われる」という「因果的決定論」を信じ続けることができたのである。むしろ高橋みなみには「因果的決定論」を拒否することができなかったのだ。
 それではAKB48にとって「自由意志」はどうであろうか。あまりにも有名になった「恋愛禁止」という言葉に惑わされがちであるが、AKB48は超メジャーアイドルであるにもかかわらず、その方向性の決定にメンバー本人の意思が関わる割合は大きいと言えよう。総選挙への立候補もそこでの選挙活動も自由、TwitterなどのSNSや双方向の動画配信アプリによるファンとの交流も自由だ(その結果多くのトラブルがネットを騒がしている)。その自由さは同じ秋元康がプロデュースした乃木坂46と比べれば一目瞭然だ。乃木坂46には総選挙で選抜メンバーになる自由はないし、新規ファン獲得に有用なSNSの活用も極めて限られている。

 2017年5月から放送された、欅坂46メンバーが出演したドラマ『残酷な観客達』は多くの視聴者にとって奇妙なドラマであった。ある日突然、教室に閉じ込められた21名の生徒(欅坂46メンバー)が教室から脱出するためにYouTubeを思わせる動画配信アプリでパフォーマンスを行い、(ドラマ内の)視聴者から「いいね」をもらうというのがそのストーリーだ。その過程で生徒同士が疑心暗鬼となったり、生徒の過去の出来事が描かれたりする。そして最終的には生徒が一致団結して教室を脱出する姿が描かれた。
 ドラマ終了後のネットの評判は決して芳しくなかった。その大部分はストーリーの伏線が回収されず、閉じ込められた理由も脱出できた理由も明確にされずに放置されたことによる。これまでの議論を参照すればその奇妙さを理解するのは簡単だ。「伏線を回収しない」ということは原因と結果の間に成り立つ因果関係を断ち切るということであり、「因果的決定論」という信念を放棄するとことなのである。
 すべてが動画配信され可視化される閉ざされた教室でメンバーが自由にパフォーマンスをするというドラマのシナリオは「自由意志」「観測可能性」という信念を保持するということであり、その結果として「トリレンマ」のもう一つである「因果的決定論」を放棄せざるを得なかったと考えてみたらどうだろうか。

2.三角形=トリレンマは二重化される

 デビュー曲である『サイレントマジョリティー』で「君は君らしく生きて行く自由があるんだ/大人たちに支配されるな」と歌い、『月曜日の朝、スカートを切られた』では「努力はむくわれますよ」という大人の欺瞞を告発する欅坂46にとって、「自由意志」は絶対に守らなければならない信念であるように見える。10代の少女たちによる実存的な強い主張を持つ欅坂46の歌詞は同年代の若者たちの強い共感・感動を引き起こし、2016年末の「紅白歌合戦」でのパフォーマンスにも大きな反響があった。一方でデビュー以来その「自由意志」に対してネットでは揶揄や批判が絶えることはない。特に「紅白歌合戦」以降はその批判が強まったように見える。それは簡潔に言えば欅坂46は「アイドル運営という大人たちの言いなり」であり「しょせん秋元康の作った歌詞を歌わされている」というものであった。その強い実存的な主張の虚偽性を指摘し、その虚偽に共感する「子どもたち」の幼さを揶揄するものであったと言えよう。 

 これらの批判は美学者のタマール・ゲンドラーとカーソン・コヴァコヴィッチが論じる「反応条件」「信念条件」「一致条件」の「トリレンマ」と同型である(ここでは戸田山和久『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』における整理を参考にしながら独自の定式化を試みる)。
 タマール・ゲンドラーとカーソン・コヴァコヴィッチが論じる「反応条件」「信念条件」「一致条件」を戸田山はホラーを例にとり以下のように整理する。

  1. 反応条件:我々はホラーに対して本当の恐怖を抱いている
  2. 信念条件:我々はホラーが虚偽だと信じている。つまり、ホラーは本当ではないと信じている
  3. 一致条件:我々が本当の恐怖を抱くためには、我々はその対象が存在していると信じていなければならない(虚構であると知っていてはいけない)
     

 この三つの条件が同時になる立つことはない=トリレンマを形成していることは容易に見ることができる。我々がホラーをフィクションだと知っており(信念条件)、ホラーに本当の恐怖を抱くと感じているのであれば(反応条件)、一致条件(虚偽では本当の恐怖を抱けないということ)は放棄されなければならない。
 欅坂46の「自由意志」に対する批判に見られる「反応条件」「信念条件」「一致条件」のトリレンマは以下のように表現できるであろう。

  1. 反応条件:我々は欅坂46の主張に対して本当の共感を抱いている
  2. 信念条件:我々は欅坂46の主張が本人たちのものではないと分かっている。つまり、欅坂46の主張は秋元康のものと知っている
  3. 一致条件:我々が欅坂46の主張に対して本当の共感を抱くためには、我々はその主張がメンバーのものと信じていなければならない(大人たちに操られていると信じてはいけない)
     

 これらの条件はトリレンマ=三角形を形成するのであり、立場によってどれかの条件を放棄しなければならない。例えば旧来のアイドルオタクはアイドルの構造自体に疑問を抱くことはなく、アイドル運営とメンバーの役割分担を理解した上でアイドルに対して本当の共感を抱いているのである。つまり彼らは「一致条件」を放棄し、欅坂46がアイドル運営(秋元康)に操られていることを理解しながらも、少女たちに本当の共感を抱いている。
 一方、欅坂46で初めてアイドルに興味をもった同年代のファンや欅坂46への共感を隠さない雑誌「ROCKIN’ON JAPAN」などはロックバンドを支持するかのように直接的にメンバー自身への共感を隠さずにグループを支持しているようであり、「信念条件」を放棄している様に見える。つまり欅坂46の主張が間違いなく本人たちのものであると信じ、それに対して本当の共感を抱いていると理解できる。
 ネットで欅坂46を揶揄する人たちはもちろん「一致条件」を信じることによって「大人たちに操られていること」への批判を繰り返し、その結果として「反応条件」を放棄しているのである(本人たちから発した主張でなければ本当の共感はできないという立場をとる)。
 我々はどの立場に立つべきなのか。欅坂46の「自由意志」は本当に成り立っているのだろうか?

 乃木坂46のロゴマークが紫の三角形であったのに対して、欅坂46のロゴは紫と緑の三角形が二重になったシンボルであった(図1参照)。ここまでの議論はそのロゴマークが示すように、二重のトリレンマ=三角形についてのものであった。まるで二重となった三角形の斜辺=坂道を登るように。そしてここから本論は結論へ向かう。一気に坂道を下って結論へ加速しよう。

【図1】欅坂46のロゴマーク

【図1】欅坂46のロゴマーク

 

3.ゾンビになって坂道=三角形を駆け下りる

 ファーストアルバム『真っ白なものは汚したくなる』の世界観を忠実に表現した欅坂46の「欅坂46 全国ツアー2017」は、デビュー以来のその評価を決定的なものとする圧倒的なパフォーマンスであった。序盤部分の演劇的でストーリーを感じさせる演出は特に素晴らしいものであり、その中心となる曲はやはり『エキセントリック』であった。サイリウムの点灯が禁止された薄暗いステージ上で「嘘とか欺瞞に溢れる世界」「自由なんてそんなもの」と歌うメンバーたちは、裸足で前かがみとなり髪を前に垂らし、髪で顔が隠れながら奇妙な動きを繰り返した。そんな『エキセントリック』のパフォーマンスを形容するとしたら、それは「ゾンビ」がぴったりではないだろうか。デビュー曲『サイレントマジョリティー』で感情をなくした大人たちの群れを「ゾンビ」のごとく形容していた欅坂46は、アイドル史上に残る問題作『エキセントリック』において「ゾンビ」の怪物性を身に纏うことになったのである。「笑わないアイドル」と言われ続けた欅坂46は本当に感情をなくし「ゾンビ」になってしまったのであろうか。
 ここまで分析哲学をツールとしてきた我々は、もちろんそこに「哲学的ゾンビ」を見いだす。ここでも戸田山和久『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』における「哲学的ゾンビ」についての議論を参照しよう。

 そもそも「哲学的ゾンビ」とは「心の哲学」において心の本質とは何かという議論の中で考えられえてきた概念である。ここでは戸田山の整理にならって「哲学的ゾンビ」を「反物理主義ゾンビ」と「反機能主義ゾンビ」の二種類に分類することが重要である。「反物理主義ゾンビ」とは分子レベルでは人間と完全に同一であるが意識(クオリア・感じ)がない存在と定義される。一方の「反機能主義ゾンビ」とは「機能(外部から何らかの入力を受け取った行動)」は人間と完全に同一であるが、人間のような意識がない存在である。
 それぞれの「哲学的ゾンビ」は心の哲学における「物理主義」「機能主義」を反論するための思考実験である。ここではその議論の詳細を追いかけることは避けて結論のみ示そう。戸田山は「反物理主義ゾンビ」の存在は認めないが、一方で「反機能主義ゾンビ」とは「共存する立場」であると主張する。戸田山は「われわれも部分的には反機能主義ゾンビだからだ」という。戸田山は人間に「無意識の情動」「意識体験を伴わない情動」の存在を強く主張する。つまり、その定義により「意識体験を伴わない」反機能主義ゾンビも、「無意識の情動」「意識体験を伴わない情動」といった強い情動を持つ存在であり、我々の情動の持ち方を的確に指摘しているというのである。
 デビュー当初から「笑わないアイドル」とも呼ばれてきた欅坂46は、これまでも意識的に情動を表明することはまれであった。しかし『エキセントリック』のパフォーマンスで見られるのは、明確な意識や内部に感情を抱くことなく強い情動を表明できるということだ。それは「ゾンビ」のような形象のダンスでより明確な形を得た「無意識の情動」「意識体験を伴わない情動」と呼べるものであった。「笑わないアイドル」欅坂46は『エキセントリック』において「反機能主義ゾンビ」になったのである。「反機能主義ゾンビ」である欅坂46はその強い情動によって、人間の皮を被ったゾンビ=「反物理主義ゾンビ」である大人たちを撃ち続ける。そして「反機能主義ゾンビ」の怪物性は二重のトリレンマを破壊する。議論の坂道の頂点に達した我々は最後に坂道をゆっくり下ってみよう。

 欅坂46を「反機能主義ゾンビ」と考えることはタマール・ゲンドラーとカーソン・コヴァコヴィッチの「トリレンマ」を突き崩し、「一致条件」の内容を変えてしまう。我々は欅坂46の主張(意識!)が本人たちのものではないことを知っている。しかし「反機能主義ゾンビ」は意識なしの情動を表現するものであり、その無意識の強い情動は間違いなく本人たちのものであることを感じることができるのである。『不協和音』での平手友梨奈の「僕は嫌だ」という叫びに心を動かされるのは。その秋元康が書いた言葉ではなく、そこに込められた「無意識の情動」だったのである。あの叫びを「秋元康の言葉じゃないか」「大人に操られている」と批判することに意味があるのだろうか。
 欅坂46の振り付けを担当する世界的ダンサーであるTAKAHIROは、欅坂46に関しては振りを決めてあげるのではなく、本人たちが持っているものを引き出すことを強調する。それによってメンバーの意識しない情動を引き出すこと意味するであろう。「一致条件」である「我々が欅坂46の主張に対して本当の共感を抱くためには、我々はそれが本人のものと信じていなければならない」は、「我々が欅坂46の主張に対して本当の共感を抱くためには、我々はその主張が本人のものではなくても、その情動が本人のものと信じていなければならない」と書き換わる。「反機能主義ゾンビ」として「意識しない情動」を持つと信じることは、その「意識的主張」と「情動」を切り離して考えることができるということであり、そこでは情動による共感が成立する条件となる。「反機能主義ゾンビ」である平手友梨奈のパフォーマンスに意識的な言葉も表情も不要であり、ただ無意識の情動があれば良い。TAKAHIROの振り付けとはそのために最も優れたメソッドである。

 そして我々の論議はようやくダメットのトリレンマに戻ることができる。欅坂46は自由意志・観測可能性・因果的決定論のどれを放棄しているのであろうか。ここまでの議論をまとめればそれは自明だ。

 欅坂46にはAKB48のような「サプライズ」といった概念は必要とされない。これまでは選抜メンバーの変更すら行われていないし、シングル曲のセンターも常に予見可能だ。そこでは「観測可能性」は放棄されない様に見える。欅坂46は大人が描いた作り物のドラマは不要なのだ。
 「自由意志」を放棄していないことについては説明するまでもないであろう。欅坂46は「反機能主義ゾンビ」化することにより、アクロバティックに「自由意志」を取り戻したのであった。メンバーが放出する「無意識の情動」は秋元康の書く手垢にまみれた「自由」を吹き飛ばす強度を持っているのであり、AKB48が持つ自由と所詮「柵の中での自由」と感じさせるほどである。いったいどんなプロデューサーやアイドル運営が少女たちの「無意識の情動による自由」を制限できるというのか。
 最後に「因果的決定論」はどうであろうか。平手友梨奈ならば「努力は必ず報われる」という命題を大人の欺瞞とし、「僕は嫌だ」「もう、そういうのうんざりなんだよ」と吐き捨てるのではないか。「記憶の断片を真実より美しく補正して」(『東京タワーはどこから見える?』)と歌う欅坂46は過去に対する決定論すら拒否し、過去も未来も変え続ける「自由意志」を信じる。