遠藤麻衣子インタビュー:連載「新時代の映像作家たち」


特異な音響設計

――音響の話も伺いたいです。『KUICHISAN』では現場の音と効果音がかなり混じった状態で鳴っている印象を受けました。制作プロセスとして、現場の音と効果音のどちらが優先されるのでしょうか。

遠藤 撮影しているときに現場の音は録ってあって、ここに音楽が必要だなと思うところに追加の音を貼っていくという感じです。それが時間が経つにつれて層が重なっていくと、繫ぎ目がなくなっていく。その繋ぎ目が自分でも分からなくなるくらいが理想です。

――音と映像のシンクロが特徴的だと思います。ただ、それが決してMV的になっていかない、決して「ノる」ためのものになっていない。音楽のみならず、環境音やあるいは無音もとても効果的に使用されており、複数のレイヤーを行ったり来たりしている気がします。

遠藤 音の設計は完全に自分の感覚によるところが大きくて、なかなか言語化が難しいですね。色々なレイヤ―の音がありつつも、それが自分にとっては一つのまとまりのあるものに聴こえるようにするという作業を編集でしています。それはけっこう明確に意図があって音を編集しています。

――『TECHNOLOGY』にはクラシック音楽が流れる場面がありますね。あの作品でクラシックが流れるのが異様だと思いました。

遠藤 あの年頃に特有のことだと思うんですけど、すごい自分に酔っている。19~20歳くらいのナルシシズム、死に対するロマンチシズムですね。理想に浸っている感じが、役を演じている彼にぴったりだなと思ってあの曲を使ってます。

――遠藤さんは音楽で創作をしたいと思ったことはないんでしょうか。最初から映画が撮りたかったんでしょうか。

遠藤 私、普段あんまり音楽を聴かないんです。あと音楽は親に言われて始めたものなので、そう考えたことはないですね。映画を作る上で音楽をやってきたこと(※遠藤監督はNYでバイオリニストとしても活動していた)が役に立っている部分はあるとは思いますが。

――『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』両作で音楽を担当している服部峻さんが過去にインタビューで作品に参加したときのことを語っています。遠藤監督からは「神が眠る音楽」のような抽象的な指示があったと服部さんは語っていますが、具体的じゃなくて雰囲気や象徴性を意識した指示を出しているんでしょうか。

遠藤    何小節に何拍みたいな、そういう指示の出し方はしないです。イメージを伝えるのが大事で、たまに具体的に低音がほしいとかは言いますね。イメージと全然違うものが上がってきたりもするけど、今度はそっちに合わせて編集したりもします。

 
「日本映画」と遠藤麻衣子

――『TECHNOLOGY』では3.11が発想に影響を与えたとのことでした。『KUICHISAN』でもそのような社会的な出来事はありましたか。舞台が高江なので米軍機が空を飛ぶシ―ンも作品には映されています。

遠藤 私は沖縄にそういう政治や歴史を勉強しないで行きました。ただやはり現地に行くと、そこで起こっている問題が目に入ってきます。『KUICHISAN』に出てくる主人公の少年(石原雷三)は高江にある「やんばる」っていうジャングルに住んでいる子なんです。高江は普通にヘリパッドがあって、両親が座り込みで抗議をしているような家でした。そういう目にしたものを映画に入れないわけにはいかない。でも、それを前面に押し出すというわけではなく、そこにあるものとして映すということです。

――これまでに沖縄を舞台にした日本映画ってご覧になっていましたか。

遠藤 日本映画ってこれまでも沖縄を多く撮ってきたと思います。沖縄問題にも取り組もうとしている。でも、どの映画を観てもそれは事の核心に入り込み切れていないところがある。そのくらい沖縄の歴史や問題にはすごく難しい部分があると感じていました。大島渚とか名だたる監督たちですらもやり切れていない。アメリカに住んでいたときに旅行で沖縄に行って、一本目はここで映画を撮ろうと決めました。日本映画とはなんぞやという事を意識して取り組みました。

――ちなみに高嶺剛監督の『ウンタマギルー』(1989年)はご覧になったことはありますか。『KUICHISAN』とも近い、神話的で象徴的な作品だと思います。大島渚のように政治性を前面に出すというよりも、地元の神話を使って撮る姿勢が似ています。

遠藤 観ました。『ウンタマギルー』は沖縄そのものという感じがあって、言葉もしっかり伝統的なものを踏まえている。高嶺さんの8mmで撮った短編とか好きです。

――高嶺さんは沖縄の土着的なものと一体化している感じですよね。一方で遠藤さんはご自身がNYと東京を行ったり来たりしているのもあって、コスモポリタン的な態度を感じます。そういう土地で育った人特有の視線が『KUICHISAN』にも『TECHNOLOGY』にもあるように思います。

遠藤 それは絶対そうだと思います。「よそ者」として現場に入っていって、「よそ者」として撮る。自分自身が根無し草のような存在、社会にフィットできない部分があるので。

――『KUICHISAN』を観ていると、子どもの描き方や画面の質感に寺山修司や石井輝男の作品、ATGのような日本のインディ―映画を想起させるものがありました。以前のインタビューでは勅使河原宏監督の『サマー・ソルジャー』(1972年)を挙げています。自分の美学に近いと思う日本映画はありますか。

遠藤 『とべない沈黙』(1966年、黒木和雄監督)とかはいい映画でしたね。あとは足立正生の『椀』、石井聰亙(岳龍)の『シャッフル』(1981年)という短編は気に入っています。『天使のはらわた 赤い淫画』とかも。大林(宣彦)監督、柳町(光男)監督、相米(信二)監督、中川信夫、鈴木清順とかあと往年の名作も観るけれどタイトルとか全部観た物がごっちゃになってこれって言えないです。バイオリンを弾いてても協奏曲イ短調なんちゃらとかでは全然覚えられなくて聞くと旋律を思い出します。

――『KUICHISAN』のルックは塚本晋也監督を想起させる部分もあります。塚本さんの作品はお好きでしょうか。

遠藤 何本かいいなと思ったものはあります。比べられるのは分かるけど、自分と完全に同じではない。向こうの方がギトギトしている気がします(笑)。

――『TECHNOLOGY』ではサックスを吹くシーンがありますよね。そのシーンを観たときに(アレクセイ・)ゲルマンの『神々のたそがれ』(2013年)を想像しました。あの作品も笛を吹いて始まり、笛を吹いて終わる。ある種のグロテスクさや寓話的な部分もゲルマンと遠藤監督は近いのかもしれません。

遠藤       おとぎ話的な要素でああいうキャラが出てくるっていうのは絶対あると思います。ただ『神々のたそがれ』は観たんですが、それは『TECHNOLOGY』の撮影後でしたね。すごいいい映画だとは思いましたが。

――『KUICHISAN』で豚が出てくるショッキングなシーンに、インダストリアル・ノイズのような音を重ねています。『TECHNOLOGY』だと牛が出てきます。遠藤さんのなかで動物は象徴的な存在なんでしょうか。

遠藤 豚は沖縄にとって古くから関係がある生き物ですよね。メタファーとして入れた部分があります。動物だけでなく、わりとすべてがメタファーというか象徴的なものだと思っています。

――両作品を貫くイメージに月があったと思うんですけれど、それこそ服部峻さんのアルバムのタイトルも「MOON」ですよね。月っていうものに対して、それもお客さんに意味を委ねるというのはあると思うんですが、遠藤さん自身が月に対して抱いているイメ―ジをお聞かせください。それが作品に投影されているように感じました。

遠藤       月に限らず星とか天体とかにはもちろん興味があるんですが、今回、主人公は月から来たのがいいんじゃないみたいなことを彼女(インディア)が言い出したから、じゃあ月にしよっかみたいな感じで、月になりました。月に関するタトゥ―とかも(体に)入れてて、彼女自身がすごく月に興味があったんです。だから自分も月により興味持たなきゃと思って。それで神話的な月の意味合いとかを調べつつ、占星術や占いも全部見ましたね。調べていくなかで自分もどんどん変化して行って、月も前よりも見るようになっていきました。月=何かしらの恋心じゃないけど、私のなかでもそのぐらいのものになりました。

――月のイメージから連想される水のイメ―ジも『TECHNOLOGY』には豊饒にありましたね。月が水をコントロールするじゃないですか。そこに同時に女性性のイメージも仮託しているんだろうかと思いました。

遠藤       水はすごく意識して撮るようにしていましたね。インドだと川の存在感もあるし、やっぱり自然を撮りたかった。

――インドで手持ちカメラで(街の中に)入っていく感じなど、同じアジアを撮っていることもあってアピチャッポンを連想しました。付随してお聞きしたいのは、アピチャッポンはもう映画の枠を超えた先鋭的なインスタレーション制作にも向かっていますよね。映画っていう枠組みから逃れようとしているところがあると思うんですが、遠藤監督も「映画」の枠組みに窮屈さは感じますか。

遠藤       窮屈だなって思う必要がない映画を作っているつもりです。

――その意味では、(映画の)枠が壊れているように感じました。こんなに音楽のアタックが強い映画はなかなかないですよ。

遠藤       なんでそういう映画があまりないんでしょうか。そういう映画が作られていないのか、プロデューサーなり映画祭のプログラマー、選ぶ方がそれを全部蹴っているんでしょうか。

――遠藤監督にも通じるような作品は過去になかったわけではないと思います。でも実験映画とはまた違った魅力があると思います。遠藤監督の映画はまったく退屈せずに見られるところがある。なにが既存の実験映画と遠藤監督を分けているんでしょうか。

遠藤       実験映画の人が私の作品を見たら、こんなのは実験映画じゃないって絶対言うと思うし、自分でもそう思います。本当にシンプルなんですよね、実験映画の人たちってその素材自体を加工したりとかをしますが、私は切って貼っているだけなので。そこは絶対的にちがう。でも、実験映画っていう言葉が出てきて、実験映画の概念というのも固まってきている。だから何をもって実験映画と呼ぶかは私にはわかりません。あと、私は全然前衛的なものも好きと言えば好きなんです。だけど、一方でポップさじゃないですが、王道的なものが好きな部分もあります。そのバランス感覚だと思います。

――遠藤さんは短編やMVを撮ったりすることに関心はありますか。それとも長編にこだわっていらっしゃいますか。

遠藤       今、東京で短篇を撮ろうと思ってます。だけど、その短篇は長編につながっていくための短篇みたいな感じです。

――「話」、ある程度のスト―リ―や構造がある作品を撮りたいんですね。

遠藤       そうです。「世界」があるものですね。入れたいものがいっぱいあるんだと思います。レオス・カラックスとかもそうだと思うんですが、彼もあんまり短篇を撮らないし、彼の「世界」が絶対あるから。そういうことなんだと思います。

――インドも沖縄も辺境的な場所だと思うんですが、東京で撮るというのはこれまでの作品とは違う試みになるんでしょうか。

遠藤       そうですね。都会かどうかということよりも、やっぱり自分の育ったところだからっていうのが一番違います。

――同世代で気になる映像作家はいますか。

遠藤 ロマン・ガブラス、ガブリエル・アブランテスはいい作品を作っていると思います。ウィリアム・ラブリは今編集者としての活躍の方が目立ちますが、この先監督としても出てくるのではと思います。

――お話ありがとうございました!

 

遠藤麻衣子(えんどう・まいこ)
1981年、ヘルシンキ生まれ。東京で育つ。2000年にニューヨークへ渡り、バイオリニストとして、オーケストラやバンドでの演奏活動、映画のサウンドトラックへの音楽提供など音楽中心の活動を展開した。2009年アメリカ製作のドキュメンタリー映画『Beetle Queen Conquers Tokyo』で共同製作を務めたのをきっかけに、11年日米合作長編映画『KUICHISAN』で監督デビューを果たす。同作は、12年イフラヴァ国際ドキュメンタリー映画祭にてグランプリを受賞。11年から東京を拠点に活動し、日仏合作で長編二作目となる『TECHNOLOGY』を完成させた。

 

<作品情報>

映画「KUICHISAN」 ©A FOOL

KUICHISAN
2011年 / 日本、アメリカ / 76分 / 配給:A FOOL / 監督・脚本・編集:遠藤麻衣子 / 撮影監督:ショーン・プライス・ウィリアムズ / 出演:石原雷三、エレノア・ヘンドリックス、李千鶴ほか

 

映画「TECHNOLOGY」 ©A FOOL, the cup of tea

TECHNOLOGY
2016年 / 日本、フランス / 73分 / 配給:A FOOL / 監督・脚本・撮影・編集:遠藤麻衣子 / 出演:インディア・サルボア・メネズ、トリスタン・レジナート、スレンダーほか

 

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