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※紙面をそのまま電子化したものです
Contents
- 特集 テン年代小説
- 特別企画 青木淳悟インタビュー
- 青木淳悟は、小説とは「時間/空間」を書くものに二分できると語ります。一般的に小説の面白さとされるのは<時間>、つまり線的な展開≒物語でしょう。しかし<空間>を描く青木淳悟の小説は、プロットが用意されずに書き出され、唐突に終わります。<純文学>と聞いて一般的に連想されるのは、美しい文章表現や固有の<内面>描写かもしれません。しかし、青木淳悟は「文学になりにくい題材を選」び、「人物描写でも内面を描かない」と語ります。通常<文学的>とは見做されない紋切り型の言葉を使って、空間(物語ではない!)を描写するのです。描写でも<主体>を排除した観察を目指し、プロットも定まらぬまま執筆された青木淳悟の小説は<書く>という行為の緊張感を現前させることに成功しているのかもしれません。執筆時の環境から影響を受けた作家まで多岐に渡るインタビューです。
- かなり長めのインタビュー後記、あるいは「書かれなかった青木淳悟論」のために(谷口惇)
- MF式『匿名芸術家』論(福田正知)
- ロラン・バルトは、かつて「写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に〈驚くべきもの=不意を打つもの〉となる」と語りました。青木淳悟『匿名芸術家』は、私たちが普通「文学」に期待する物語が薄弱です。「なぜ書かれたのか」という理由を欠く、土地の描写や日記が続いていくのです。作中人物の「私」は往復はがきに、今日思いついたこと/したことを左右に分けて綴ります。通常、「宛先」という目的を持って書かれる往復はがきに、誰に向ける訳でもなく書かれる理由を欠いた言葉は、果たしてバルトのいう「真に」文学たりえるのでしょうか。
- 「経験」と「体験」のはざまで――滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(谷口惇)
- 芥川賞作家となった滝口悠生の前候補作『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』は、曖昧な記憶をめぐる「信頼できない語り手」を持つ作品です。主人公の回想は過去から更にその大過去へと移ったり、時間を伸縮させます。この「伸縮」は、映画など他ジャンルよりも小説の得意とする領域でもあります。「思い出そうすれば焦点が生まれ、焦点が生まれればどこかがぼやける」という特性を持つ〈回想〉にこそ、滝口悠生は小説の本質を捉えたのかもしれません。『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』と題にあるように「体験」として小説を読むことに気付かされる作品です。
- 若さと女という残酷物語――藤野可織『爪と目』(なかむらなおき)
- 朝吹真理子論 肌・人称・時間(横山祐)
- 朝吹真理子の小説はときに主体が不明瞭で、行為者としての相貌に欠けます。しかし『流跡』における主客の未定性は、渡部直己が「移人称」と呼び、佐々木敦が「パラフィクション」と呼ぶ同時代の作品に共通する傾向で、氏だけの特異性には還元できません。ここで朝吹作品の「時制」を考えてみましょう。芥川賞受賞作『きことわ』では、現在/過去完了/現在完了という3つの時間それぞれが分かたれずに流れます。『流跡』もまた一つの行為に幾重にも重なった「時間」が集結し、同時に終始点をも持ちません。朝吹真理子の小説は常に「完成から遠い」のです。
- 『アルタッドに捧ぐ』をめぐる架空の対話(谷口惇)
- 第51回文藝賞受賞作である金子薫『アルタッドに捧ぐ』は、作品内に架空の小説が登場するという入れ子構造を持つ「枠物語」を採用した小説です。語り手・作中人物の「本間」・「本間」が書く小説という構造なのですが、この三層の「枠」はときに曖昧で破られているようにも読むことが可能です。選出した保坂和志は「メタフィクションのようでそうでない」価値を本作に見出しています。つまり「枠物語」の形式を採る一方で、そこに留まらない作品です。「虚構」と「現実」の境界を処女作的筆致で綴る本作に対話形式で迫った論考です。
- 前田司郎の小説に見る、自分の人生の失敗(吉田髙尾)
- 現実と理想の二人三脚――又吉直樹『火花』(なかむらなおき)
- 特別企画 青木淳悟インタビュー
- 小特集 D・W・グリフィスに出逢うよろこび
- 「映画」の誕生、あるいは「物語」と逸脱する「運動」(山下覚)
- 「映画の父」と称されるグリフィスですが、その名と共に記憶されるクロースアップや並行モンタージュ等の映画技法の「起源」ではないと撮影担当のビッツァーは吐露しています。しかし、グリフィスはそれらの技法を用い「劇≒物語」を巧みに語ることに成功した最初の作家であることは間違いありません。映画の誕生期、観客は「映像」それ自体に驚き、現実の再現前として受け取めました。一方でグリフィスが活躍した時代は映画が急速に「劇」映画へと変質する最中にありました。映画の「運動」の表象から「物語」へと至る発展史観は常識的ですが、グリフィスの真価はその二項対立を突き崩す点にあります。例えば『少女と信頼』(12年)をみてましょう。そこにはサスペンスの駆動と同時に、「物語」に回収されない「運動」が併存しています。グリフィスから深作欣二、ペキンパーまでを通底する「運動」の鈍い意味を考察します。
- D・W・グリフィス『死のマラソン』における三つの発明(谷口惇)
- 映画研究には「Dead Time」という概念が存在します。例えばホークス『赤ちゃん教育』では、電話で助けを求められた男が自室を出ると、直後のカットで女の家のドアが開いて男が現れます。現代の観客には当たり前ですが、このシークエンスでは男が女の家に移動する時間が「省略」されています。この「Dead Time」は映画の黎明期には決して流暢には表象されていません。私見の限りでは「映画の父」グリフィスもキャリア5年目の1913年『死のマラソン』にして、その原型を発見することができます。グリフィスの作品は、他にもこのような映画技法の発展が克明に記録されているのです。映画技法の発展の過程を知る事で、「Dead Time」が当たり前になった中でのストローブ=ユイレの試みが、ショットが円滑になったからこそ、それを脱臼するゴダールの意義が明白になります。グリフィスは今もなお示唆的であり続けているのです。
- グリフィスと演劇の関係性について(吉田髙尾)
- 演劇には当然ながら「喜劇」と「悲劇」の2種類があります。これらは相反するものですが、かつて作曲家シュトラウスと劇作家ホーフマンスタールは『ナクソス島のアリアドネ』に、この2つを同居させました。同じことを映画で試みたのが、映画の誕生以前に生まれ、劇脚本家を志していたグリフィスです。グリフィスが映画作家として活躍し始めた1900年代、映画は1リール分の長さ≒15分の短篇ばかりでした。そんな状況において、グリフィスは1911年『イノック・ガーデン』を皮切りに30分超の「長篇」を制作し始めるのです。やがて「喜劇」と「悲劇」の2つを一作品で描く名画を撮ります。それが『國民の創生』(1915年)です。KKKをめぐる「悲劇」と、ある家族の「喜劇」という2つのスケールを持った作品です。その後『イントレランス』でこの形式を発展・複雑化させます。グリフィスにおける深い「演劇」の影響を考察した論考です。
- D・W・グリフィス作品リスト
- 「映画」の誕生、あるいは「物語」と逸脱する「運動」(山下覚)
- 批評
- 伊達じゃないぜ愛の力は!『うたの☆プリンスさまっ♪』主題歌から考える恋愛文化(高井くらら)
- 「人間」としての限界、「生物」、「存在」としての可能性――ゴリラを批評する(なかむらなおき)
- 連載企画 ジャン=リュック・ゴダール論 (谷口惇)
- ゴダールを巡る言説は凡そ2つに大別することができます。1つは『気狂いピエロ』など代表作を扱い「ヌーヴェルヴァーグの巨匠」として論じるもの(山田宏一、四方田犬彦等)。もう1つはテン年代以降のゴダールを扱い、音/映像のモンタージュや知覚拡張の文脈から論じるもの(佐々木敦、平倉圭等)。しかし、この2つの言説で見落とされてきたのが「ジガ・ヴェルトフ集団」名義を経て、79年『勝手に逃げろ/人生』で商業映画に復帰したゴダールの「20年」です。いわば「反物語」の作家として60年代に活躍したゴダールから、テン年代の唯物論的ともいえる作品を多く撮ったゴダールの「間」です。積極的にこれまでの批評の対象とされてこなかったゴダールの「空白の20年」を、『フォーエヴァー・モーツァルト』(96年)、『カルメンという名の女』(83年)の二作品を中心に分析した、ゴダール連載企画(前編)です。
- レポート、エトセトラ
- 天使もえマジ天使――男として生まれ蔑まれ…そして救われ(吉田髙尾)
- なお散歩――ドラマ『アオイホノオ』エキストラ体験記(なかむらなおき)