連載・『三体』から見る現代中国の想像力 第一回/『三体』における閉域と文脈主義


※本記事は『エクリヲ vol.11」に掲載されたものです。

連載・『三体』から見る現代中国の想像力 第一回
『三体』における閉域(ヴァーチャル・リアリティ)と文脈(コンテクスト)主義[1]

 〈三体〉シリーズ[2]はいわば中国SFの起爆剤となった。この作品によって、中国SFにまつわるすべてが変わってしまった。それは今日の中国文化の中心になったとすら言える。

 オンラインかオフラインかを問わず、書店はSFの作品に埋め尽くされ、その多くに〈三体〉の著者である劉慈欣(りゅうじきん)の推薦コメントが載っている。IT企業の億万長者たちがこぞって〈三体〉のファンであることを公言し、中国やアメリカの国家指導者が『三体』の本に付箋をびっしりと貼ったりしている。中国の全国人民代表が北朝鮮の核問題を論じる際に〈三体〉を引用している。これらは誇張でもなんでもなく、実際に起きていることである。

 中国SFには多様性があるにもかかわらず、なぜ〈三体〉が、それだけがこれほどの熱狂を巻き起こしつづけているのか。それにはいかなる理由あるいは背景があるのか。なぜ中国国内だけでなく、世界が〈三体〉に強い興味を持つようになったのか。〈三体〉および中国SFの特殊性とは何なのか。何がSFを社会現象たらしめているのか。〈三体〉はSFというジャンルのみならず、ほかの文化領域にどのような影響を与えているのか。

 本連載ではこれらの問いに取り組んでいく予定である。〈三体〉という現象を通して、現代中国における文化的想像力の輪郭を描き出すことを目指す。この目的を達成するため、〈三体〉というSF作品から出発しつつも、必然的にSFというジャンルの外部に向かわざるをえない。「SF語り」も楽しいが、中国SF自体が身をおいているより大きな文脈に目を向けることで、中国を理解する道が開ける。言ってみれば、本連載はSFを一つのジャンルではなく、人々が世界と世界を超越した何かを想像し、表現し、理解するための思考や感性の「モード」として扱うことで、現代中国の文化の輪郭と方向性を捕捉しようとするものである。

 事実として〈三体〉シリーズは中国という言説空間において、ある種の全体性を獲得している。より正確に言えば、中国では〈三体〉に対して、自らの世界とその意味を説明し、何らかの原理を与えてくれるような普遍的な説得力を求めてしまうという慣性が強く働いているのである。作品が社会を反映する、という素朴な社会反映論ではなく、作品と社会が互いに強い相互作用を引き起こしているということである。そうであれば、作品そのものと作品が受け入れられた環境、さらに作品がほかの作品に与えた影響の分析を通して得られた知見が、中国における想像力の形に関して何らかの真実を含んでいると想定するのはあながち間違っていないように思われる。

一.文化大革命、現実世界、VRゲーム『三体』

 第一回では、日本でも翻訳され、出版されたばかりの〈三体〉第一作[3]を取り上げて詳しく分析していく。先行する評論や研究ではあまり重視されていない作品だが、『三体』シリーズ全体を理解するのにきわめて重要である。

 『三体』という小説のナラティブは主に三つの部分によってモジュール的に構成されている[4]。それぞれ、文化大革命時代の中国、『三体』というVRゲーム、そして「現在」の世界である[5]。内容の紹介も兼ねて、それぞれの内容を見てみよう。

 まず、文化大革命時代の部分について。葉文潔(イエ・ウェンジエ)という若い女性が主人公である。理論物理学者である彼女の父が紅衛兵たちによって惨殺された後、彼女も内モンゴルの国境近くの兵団に送られる。そこではある男性記者を信用して、現在の森林伐採という名の環境破壊を批判する彼の手紙を代わりに清書するも、政治的に問題視されたとたん彼に裏切られ、政治的な罪を着せられてしまう。最終的に、天文学専攻だった彼女は、かつての知人に拾われる形で秘密の軍事プロジェクト「紅岸計画」に参加することになる。この計画は実は地球外生命体との交信を試みるものだった。彼女はそこでも信頼した人に裏切られ、人類に絶望した彼女は、「三体人」という異星人にメッセージを送り、地球の座標を暴露した。人類が生み出す環境問題に絶望したアメリカ人のマイク・エヴァンズとともに「地球三体協会」という三体人を迎え入れる組織を作り、後の彼らによる地球侵略の道を開いた。

 次に、現在の世界について。本作の主人公である、ナノマテリアルの研究者の汪淼(ワン・ミャオ)は、突然軍の作戦本部に呼ばれ、科学者が次から次へと自殺している事件に関して、〈科学フロンティア〉の調査を依頼される。その後、目に謎のカウントダウンが表示され、さらに宇宙背景放射のありえない挙動(宇宙全体の点滅)が観測されるなど超越的な力の存在を見せつけられる。後にそれが三体人および彼らの地球における代理、地球三体協会の破壊工作だと知り、彼らを止めることに力を貸す。

 最後に『三体』というVRゲームについて。汪淼は〈科学フロンティア〉の科学者がプレイしているのを目にして、自分を襲うさまざまな不可解な事件を解明するヒントを求め、プレイしはじめたのだが、その圧倒的な情報量に驚く。ゲームをプレイし、謎を解いていき、最終的には、予測不可能な動きをする三つの太陽を持つ三体世界のシミュレーションだと判明する。それは周の文王、墨子、コペルニクス、ニュートン、フォン・ノイマンなどの歴史人物のキャラクターを用いて、三体世界の凄まじい恐怖を体験させるとともに、彼らは我々といかに異なっているかということを見せつける。

二.恐怖としての「SF」

『三体』全体を貫くもっとも明白な主題は恐怖である。

 文化大革命時代の中国において人間の手によって行われたさまざまな残忍な行為、信頼し恋心さえ抱いた人物による冷酷な裏切り、環境を破壊しつくそうとする人間の盲目さ、これらはすべて特殊な時代と場所における特殊な事件ではなく、人類そのものに内在する普遍的な悪がもたらした恐怖の災厄として葉の目に映る。人間のもたらす恐怖は人間の否定へとつながる。

人類と悪との関係は、大海原とその上に浮かぶ氷山の関係かもしれない。海も氷山も、同じ物質でできている。氷山が海とべつのものに見えるのは、違うかたちをしているからにすぎない。じっさいには、氷山は広大な海の一部なのではないか……。
〔中略〕
人類がみずから道徳に目覚めることなどありえない。自分で自分の髪の毛をひっぱって地面から浮かぶことができないのと同じことだ。もし人類が道徳に目覚めるとしたら、それは、人類以外の力を借りる必要がある[6]。

 そのため、彼女は文字通り人類以外の力、すなわち三体人を地球に呼び寄せる。彼女の頭の中には、科学技術力が進んだ文明なら道徳もまた進んでいるはずだという想定があるが、三体人の冷徹ぶりを目の当たりにするにつれてそれが否定される。三体人は純粋に我々人類を滅ぼし、恐怖をもたらす侵略者であり、たとえその種族の内部の社会においても彼らの道徳は我々の目からすれば暴虐なものである。

 また、『三体』という没入型VRゲームにおける彼らの歴史の追体験を通して、そのような道徳の欠如の正当性を見せつけられる。すなわち、三つの太陽が(三体人から見れば)まったくでたらめに予測不可能な形で動き、次の瞬間にも無秩序の中で文明全体が崩壊してしまうかもしれないという恐怖の中で生きてきた者なら、道徳が欠如していても無理はない、むしろ当然であると納得、もしくは共感してしまうのである。三体人の経験してきた恐怖は、地球三体協会による彼らの侵略に対する肯定へとつながる。

 しかしながら、彼らは今度は陽子を使ったハイ・テクノロジー「智子(ソフォン)」を用いて、地球に無秩序の恐怖をもたらす。世界各地に建設された高エネルギー粒子加速器における粒子衝突の結果を操作し、まったくのでたらめな結果を出させる。その結果、「物理法則は時間と空間を超えて不変ではない」、すなわち「物理学は存在しない」というあまりにも恐ろしい事実[7]に対して、多くの優秀な科学者が自殺に追い込まれたのである。こうして三体人は「科学」という宇宙における法則=秩序の探索の試みを文字通り「殺す」。

 物質の根本的な性質には、ほんとうに法則がないのか? 世界の安定と秩序は、ただたんに、宇宙のある片隅における動的平衡状態、カオス的な流れの中に生まれた短命な傍流にすぎないのか?[8]

 読者は主人公の汪淼の視点を通してその恐怖を味わう。目の網膜に謎のカウントダウンが表示されるのみならず、宇宙全体が彼のために「瞬き」をする。超越的な存在との圧倒的な力の差を見せつけられるのである。彼は〈科学フロンティア〉の学者たちにならって、サイエンス・フィクションの略語である「SF」を別に読み替える。すなわち「射撃手(Shooter)・農場主(Farmer)」である。的という平面に生きる我々は、別の次元の射撃手が気まぐれに撃った銃弾の跡が等間隔であることをあたかも宇宙の普遍的な法則だと思いこんでいるのではないか。また、家畜である我々は、毎日決まった時間に餌を農場主からもらっているだけで、それを物理法則のような不変の真理だと勘違いしているのではないか。

 このような科学という「メタ言語」の喪失こそ、作品において最大の恐怖として描かれているものである。後で詳しく論じるように、こうして「サイエンス・フィクション」から「射撃手(Shooter)・農場主(Farmer)」へと「SF」を読み替えることこそ、〈三体〉および劉慈欣の創作の基礎的なモードをなしているのである。文化大革命と三体世界における恐怖などはこの「SF」的な恐怖を掻き立てるための小道具にすぎない。それは人類のこれまでの歴史、積み上げてきたすべての物事を否定する。陸軍少将の常偉思の言葉がこのことをもっとも明瞭に言語化している。

「そう、人類の歴史全体が幸運だった。石器時代から現在まで、本物の危機は一度も訪れなかった。われわれは運がよかった。しかし、幸運にはいつか終わりが来る。はっきり言えば、もう終わってしまったのです。〔……〕」[9]

 人類の歴史全体が一つの偶然であり、そしてそれは幸運な偶然であった。二つの世界大戦と冷戦下の核の恐怖、さらにあらゆる人類の歴史上の悲惨な事件ですら幸運のうちに含んでしまうようなこの言明は、どのようにして成り立つのか。『三体』という作品はどのようにそれを成り立たせているのか。

三.三つの閉域(ヴァーチャル・リアリティ

 この問いに取り組むためには、作品の三つの構成部分がナラティブ以外のところにおけるある種の共通の構造、すなわち「射撃手(Shooter)・農場主(Farmer)」的な世界観へと駆り立てる原理を析出する必要がある。

 先に結論を言えば、文化大革命、VRゲーム『三体』、現在の世界はそれぞれ三つの「閉域」、もしくはVRゲームにならって「ヴァーチャル・リアリティ」を形成していると言えるのである。

 「ヴァーチャル」という言葉をここでいくつかの意味で用いているが、まずそれは一つの潜在的に可能な仮想現実=虚構であること、次に、複数もしくは無数の可能な(仮想)現実がありうることを意味する。その帰結として、ヴァーチャルであることとは、それが絶対的なものではなく、偶然もしくは恣意的なものだということを意味し、「『今ここ』からの離脱」を目指すものとなる[10]。

1.文化大革命

 文化大革命そのものの描写に関しては、『三体』という作品に特別なところはなく、むしろステレオタイプな描き方がされているとさえ言える[11]。しかし興味深いのは、文化大革命の言説と科学の関係である。紅衛兵たちの批判集会に引っ張り出され、殺されてしまった葉文潔の父、物理学の教授である葉哲泰(イエ・ジョータイ)と紅衛兵の会話が象徴的である。相対性理論を授業に取り入れることの正当性を主張する葉に対して紅衛兵は反論する。

「アインシュタインは反動的学術権威だ。欲が深く、倫理に欠ける。アメリカ帝国主義のために原子爆弾をつくった男だ!革命を起こす科学を築くためには、相対性理論に代表される資産階級理論の黒旗を打倒しなければならない!」[12]

さらに、葉を裏切った妻が紅衛兵に迎合するように言う。

「同志たち、革命の若い闘士たち、革命の教職員たち。われわれはアインシュタイン相対性理論の反動的な本質をしっかり見極めねばなりません。その本質は、一般相対性理論にもっともはっきりと現れています。反動的相対性理論が提案する静止宇宙モデルは、物質の運動の本性を否定し、弁証法に反するものです! それは、宇宙に限界があるとみなす、完全なる反動的唯心論なのです……」[13]

 重要なのは、ここで言われているのは、単に科学理論が政治的な解釈によって歪められている、ということだけではないことだ。ここで起こっているのは、ある特定の考え方の枠組みをすべての物事――たとえまったく無関係だとしても――に応用しようとすることである。革命の言説は人々に、自分こそ世界を説明する正当性を持つ唯一のものであると認めるように強要する。言い換えれば、革命の言説の枠組みによって規定された世界とは、外部に出ることが許されない、虚構=人工的な現実であるということだ。『三体』における文化大革命とはこのような閉域であった。作品は文化大革命と科学を対比させることでそのことを強調している。

 スラヴォイ・ジジェクは「三体星における無秩序な生活〔……〕は、文化大革命という混沌を自然界において表現したものではないか」[14]と述べているが、作品の読解としては端的に間違っている。以上の分析で明らかになったのはむしろ逆の事態、すなわち特定の秩序=言説をすべてに当てはめようとすることこそ『三体』の描く文化大革命を特徴づけているのである。

 実際、文化大革命が終わった後に、葉文潔が父を殺した紅衛兵たちに懺悔の言葉を求めたとき、彼女らはそれを断固として拒否した。

「〔……〕映画の最後に、セクト争いのあの時代に死んだひとりの紅衛兵の墓の前で、大人がひとりと子どもがひとり、じっと立ってるんだ。『この人たちは英雄だったの?』と子どもが訊ねると、大人は『いや、違う』と答える。『敵だったの?』〔……〕と訊かれて、大人はこう答える。『歴史だ』」[15]

ここでの「歴史」という言葉の意味ははっきりしている。すなわち、紅衛兵という存在およびその行動は、単に特定の時代における特定の言説下で出現した人工的な枠組みであり、時代が進むにつれてたやすく相対化されてしまうような仮想現実だということである。

 さらに、歴史改変的な要素として地球外生命体との交流をはかる「紅岸計画」が描かれていることが重要である。作品では紅岸計画の立ち上げに関する行政文書という形式を導入してそのリアリティを演出している。実際、文革が終わり、科学が政治的な言説の桎梏から解放されると同時に、中国の科学技術や国防予算が大幅に削られたという歴史的な事実がある。すなわち、もし地球外生命体との交流をはかったというオルタナティブな歴史を構築しようとするのなら、文革期を除いてほかにないということでもある[16]。『三体』が描いているのはそのような「実際ありえたかもしれない」という潜在的(ヴァーチャル)な平行世界でもある。

 それが意味するところは、作品外の我々が「今ここ」で生きている現実には別の可能性があったということであり、現在の状態が実現されているのはあくまで偶然にすぎないということである。つまり、歴史によって相対化されるのは何も文化大革命だけではない、我々が生きている現在もまたたやすく相対化されてしまうのである。こうして、我々の生きる現実にも外部が存在するのだが、そのことが逆に「今ここ」の現実こそ一つの人工現実=閉域であると強調する。

2.『三体』というVRゲーム

「〔……〕ゲームの『三体』は、人類の歴史を借りて三体世界の発展をシミュレートしたものだということです。なじみのある環境でプレイしてもらうことが目的ですが、現実の三体世界と、ゲームの中のそれとのあいだには、大きな違いがあります。ただ、三つの太陽の存在は真実です。それは、三体世界の自然構造の基礎となっています」[17]

「地球三体協会」の潘寒(ファン・ハン)が『三体』というゲームについてこのように説明している。しかしながら、人類の歴史を借りて三体世界をシミュレートするということは、単に人間になじみのある環境を提供するだけではなく、我々との関係において三体世界のことを考えることを要求するものである。三体世界の歴史に接した後、翻って我々自身を考えたとき、どのような変化が生じるのかとゲームは問うてくる。

 まず注目すべきは、墨子、コペルニクス、ニュートン、ライプニッツ、フォン・ノイマン、アインシュタインなどは人類の世界ではそれぞれの時代における技術や科学の礎を築いた者であり、彼らの業績がなくては現在の人類世界はこれほど発展できなかったかもしれないほど重要であるにもかかわらず、これらの人類の歴史における偉人たちは三体世界において例外なく失敗し、惨めな最期を迎えているということである。一般相対性理論を構築したアインシュタインでさえ、三体運動のあまりのカオスさによってまったく無用な人間となり、乞食にならざるをえない。三体世界では、神は日常的にサイコロを振るというわけだ。

 これが意味するのは、人類の発展の歴史などまったく無用で無意味なものになるほどに過酷な世界がほかに存在するということである。『三体』というゲームはその視点から人類世界を見ることを人々に要求する。その視点にたやすく同化してしまうのは、すでに「人類以外の視点からの問題を考えはじめていた」「強い疎外の力」に突き動かされていたエリートたちである。彼らからすれば、アステカ文明を侵略し、虐殺したスペイン人の暴挙だって、後世から見れば、アメリカ的な民主主義の礎を築いたとして正当化される。そしてそれゆえに、三体人による人類の撲滅もまた、きっと素晴らしい世界を現出させるだろうという。

 また、これらのエリートはゲームからログアウトした後に現実に対して物足りなさを感じ、現実こそ張りぼての偽物なのではないかという疑念を抱くに至る。主人公の感想が象徴的である。

『三体』は、たんなるファンタジー空間を意図的に装っているが、じっさいはもっと奥深い現実を隠している。一方、目の前にある現実世界は、表面的には複雑に見えても、実際はむしろシンプルな、「清明上河図」ではないかという気がしてきた[18]。

『三体』をプレイしたほかのエリートたちも同様の感想を抱く。

「ぼくは現実の世界にうんざりしているんだ。『三体』はすでにぼくの第二の現実になってる」と若い記者が言う。
〔中略〕
「わたしもだ。『三体』とくらべると、現実はほんとうに低俗で味気ないよ」IT起業の副社長が言った[19]。

 三体文明の視点からみれば、人類は世界にあまりにも無知である。ゲームを通して、人類のエリートたちは世界に関する自分たちの知識があまりにも少なく、盲目であることを痛感するのである。すなわち、VRゲーム『三体』を体験した後は、逆に自分が身を置いている現実こそが一つの虚構=ヴァーチャル・リアリティのように感じられてくるのだ。そして、この逆転した感覚は、三体人が自らの世界を飛び出し、地球に向けて侵略することの肯定へとつながる。それは、否定すべき人類がはびこる現実が、別の潜在的な可能性――それが実際いいものかどうかさえわからないとしても――に取って代わられることを希求するという地球三体協会のイデオロギーとして結実する。言い換えれば、地球三体協会は我々の実現(アクチュアル化)した世界を再ヴァーチャル化することを求めており、その手段として三体人を利用しているのである。

3.科学が殺された世界

 思弁的実在論の代表的論者の一人であるカンタン・メイヤスーは「科学外フィクション(エクストロ゠サイエンス・フィクション)」を論じる際に、アシモフの「反重力ビリヤード」を引き合いに出している。すなわち、物理法則が未来永劫に変わらずに継続するものではなく、一瞬後にまったく異なる物理法則――重力に反するように動くビリヤード玉のように――を持つ可能性がある世界に関するフィクションを論じている。

『三体』ではまさに「反重力ビリヤード」を例に使って、科学の存在しなくなった地球を描いている。

「違う実験結果を想像してみてください。一回目は白球が黒球をポケットに落とした。二回目は黒球が脇にそれた。三回目は黒球が天上まで飛び上がった。四回目は、黒球がびっくりしたスズメみたいに部屋の中を飛びまわり、最後にあなたの服のポケットに入った。五回目は、アシモフのあの小説みたいに亜高速ですっ飛んで、ビリヤード台のへりをぶち破り、壁を突き抜け、地球の引力圏を脱出し、ついには太陽系から出てしまった。もしそんなことが起こったら、どう思います?」
〔中略〕
「それが現実に起こったんだね。そうだろう?」[20]

 前節でも言及したように、このことは「物理法則は時間と空間を超えて不変ではないということを意味」し、「物理学は存在しない」と結論せざるをえない。「世界の安定と秩序は、ただたんに、宇宙のある片隅における動的平衡状態、カオス的な流れの中に生まれた短命な傍流にすぎない[21]」というわけだ。多くの科学者はこのことに恐怖し、絶望した。

 しかし、なぜそのことが恐怖をもたらすのか。メイヤスーが論じているように、物理法則がないからといってカントの言うように直ちに無秩序な世界になるわけではない。最終的な審級である自然の規則がたとえ偶然的なものでも、それはカオスというよりも社会の規則性に近いものになるだろう。つまり、経験的な世界はそれほど変わらず、認識可能であるし、生活可能である[22]。

 にもかかわらず、『三体』における科学者たちは相次いで自殺していく。作中ではそれを宗教的な信仰の喪失として説明している。だが問題は、その宗教的な信仰の内実である。

 メイヤスーが簡単に定義しているように、いわゆる「サイエンス・フィクション」とは、「科学知識や科学による現実支配の可能性の変化――多くの場合は拡張――した、架空(フィクション)の未来を創造するというもの[23]」である。この定義を現在のSFに照らしてみたとき、きわめて古典的な定義だと感じられるだろう。しかし、アーサー・C・クラークをこよなく愛し、黄金時代のアメリカSFこそ自らにとって最良のSFであるとし、「新古典主義者」とも称される劉慈欣の作品に対しては、むしろもっとも適合している[24]。すなわち、劉慈欣の科学(小説)観とは科学による現実の「拡張」である。彼はこのような科学観を『三体』内の科学者に投影しているのである。

 したがって、科学者にとっての信仰とは、現実を拡張し、その外部に出ること、もしくは現実の規則(コード)=メタ言語を操作可能な形で手にすることである。科学が「殺された」ということは、世界に関する「メタ言語」を喪失したことを意味する。宇宙が完全なる偶然性の集積であるということは、人類が絶対的な必然性の中に閉じ込められたということでもある。宇宙の規則(コード)=メタ言語を入手できないということは、現実は現実のままにとどまり、それを変えることができなくなるということを意味するからである。

 もちろん、メイヤスーの議論と異なって、『三体』の宇宙における物理法則は実際にでたらめであるわけではなく、三体人が太陽系に送り込んだ「智子」によって作り出された「いつわりの宇宙」であるという「科学内」の説明がなされる。主人公の網膜に謎のカウントダウンを表示させ、宇宙に彼のために「瞬き」をさせたのも「智子」だ。三体人はこの計略を「奇跡[25]」と呼び、地球人に看破できないような「虚構」の宇宙を作り出すことを目的とするものである。つまり、「科学を殺す」というのはそもそも太陽系ごと「ヴァーチャル・リアリティ化」し、人類を閉域に閉じ込めることだったのである。

 以上のことを考慮に入れると、ヴァーチャル・リアリティと閉域の意味が明らかである。すなわち、潜在的に存在しうるさまざまな(科学によって拡張された)世界があるにもかかわらず、その中の一つの内部だけに閉じ込められてしまったことこそ、科学者たちの恐怖を引き起こしたのである。このようにして現実の世界は操作や拡張が不可能な閉域となる。

 同時に、三体人の圧倒的な力とはまさに現実を別様に改変する能力である。その力の前では、すべてが操作可能に見えてしまう。三体人が超越的に見えるのはその点においてである。彼らは宇宙の規則というメタ言語を手にし、人類の現実の条件そのものを操作しているのである。重要なのは、そのことは逆に、人類の現実とは操作可能な人工現実のようなものであるということを強調してしまうのである。

 これまでの分析で明らかにしてきたように、作品を構成する三つの部分は、共通して三つの閉域、そしてヴァーチャル・リアリティとして描かれている。いずれの部分も、人類の歴史と現実はあくまで無限に存在する潜在性の中の一つでしかなく、それがいつでも変化する/させることができる、偶然的で、虚構的なものでしかないと示す。同時に、人類はそれを変化させるためのメタ言語を奪われたがために、永遠にその中の一つに閉じ込められてしまったことを強調しているのである[26]。

 したがって、「射撃手(Shooter)・農場主(Farmer)」の恐怖は、自分の現実は堅固なものではなく、あくまで可塑的なものであり、射撃手や農場主といった超越的な主体によって恣意的に作り出されたものであると同時に、人類自身はそのことにまったく手を出せずにいるということに由来する。

 この結論を踏まえて、別の問いが浮上してくる。すなわち、経験的に強固であるはずの現実を、作品全体を通して一つの人工現実、そして閉域として執拗に描こうとすることの背後には、いかなる感性の構造もしくはモードが存在しているのか。

四.劉慈欣にとってSFとは何か

 その問いに答えるためには、そもそも劉慈欣にとってSFとは何か、言い換えれば彼がいかなる思想の下でSF作品を著しているのかを考えなければならない。そして、劉が中国SFを代弁し、牽引する存在だからこそ、このことは中国ではSFというジャンルがどう受け止められているのか、いかなる意義を持つのかということにも関連する。

 SF作家としての劉慈欣は、いわゆる主流文学――「文学とは人の学」だというイデオロギーを持つリアリズム文学――に(強迫的といっていいほどの)強い対抗意識を持っている。これからは、彼のSF観が余すところなく語られているエッセイ「ナルシシズムを超えて――SFが文学に与えるチャンス」を中心に見ていこう[27]。彼から見ると、人間そして人間的な価値にしか興味のないリアリズム文学は人類の「スーパー・ナルシシズム」である。

 文学にとっての世界のイメージは依然としてニュートン以前の世界、ないしコペルニクスあるいはプトレマイオス以前の世界である。先に述べたように、文学の精神世界においては、地球は依然として世界の中心なのだ。

 劉は主流文学に対抗する形で、自らのSF文学論を展開していく。彼によれば、SFのもっとも重要な特徴の一つに「マクロ・ディテール」と彼が名付ける技法の存在がある。SFは個人ではなく、種族、環境や世界を物語の主体にすることで、個人のスケールでは広大に見えるものをディテールとして描くことが可能であるが、主流文学にはそれが不可能である。主流文学は現実という既存の秩序を前提としてその内部の出来事を描くのに対して、SF文学は現実の秩序そのものを可塑的なものとして描く。言ってみれば、「主流文学は神が創造した世界を描くが、SF文学は神のように世界を創造してからそれを描く」ことで、「海の視点から一滴の水を眺める」ことを可能にする。

 そしてその帰結として、人類は必然的に相対化される。劉のいうように、人類史では、人間は手段から目的に変わっていく過程でもあるが、科学の視点では逆の過程をたどる。「人間は神の創造物から、万物の霊長になり、ほかの動物と本質的な区別のない存在に成り下がり、最終的には宇宙の片隅にある砂の上の取るに足らない細菌に退化してしまうのである」。

 この事実を踏まえて考えると、『三体』における葉文潔やマイク・エヴァンズ、そして彼らに同調する地球三体協会のメンバーたちは、単に悪の形象として、否定すべき価値観の持ち主として描かれているわけではないということがわかる。彼らはむしろ劉のSF思想の挑発性の代弁者として描かれているのだ。もちろん、劉は人間を滅ぼすべきだと考えているという危険な思想の持ち主だなどと言いたいわけではない。そうではなく、三体人や地球三体協会といった存在は現実と人間の価値を相対化しうるという事実を突きつける機能を持つという意味で、劉の創作思想を体現しているということである。

 実際、劉はさまざまな分野の専門家からの質問に答える形式の「劉慈欣の思想実験室」というポッドキャストで、虚構としてではなく、自分の考えとして人間の価値の相対化を強く訴えているのである。中国の著名な映画研究者・批評家の戴錦華の「技術によって改造されサイボーグ化した人間は人間だと言えるのか」という質問に対して、劉は「誰が人間性というものを定義する権利を有するか」ということが重要だと強調した上で、以下のように答える。

もし改造された人間が人間を定義するのなら、何の問題もない。彼らは常に自分を人間だと考えるだろう。彼らがどのように変化しようとも問題ない。たとえすでに原型をとどめていなくとも、コンピュータのメモリの中の電気信号に変わったとしても、彼らは依然として自分を人間だと考える。逆に彼らは我々を人間の定義に含めないだろう。人間のアイデンティティとは強い自己指向性を持つものであり、自分を人間ではないと考えることはない。したがってこの定義は発展し続ける人間自身がするなら何の問題もないだろう……。[28]

 劉の思想では、近代以降の世界において絶対視されてきた人間性(ヒューマニティ)というものは相対的な概念であり、歴史の推移によってたやすく変わってしまうものであり、我々の自己定義や価値などすぐに過去のものになってしまう。それこそ紅衛兵が「歴史」となったのと同じように。そして、逆にそのような動的な概念を固定化し、絶対視しようとすることこそが問題なのだということを劉は言外に強調しており、人間中心主義を強く否定しているのである。

また、劉は自らの創作人生を以下の三つの段階に分けることで、自らの創作の特徴、もしくは原理的なものを提示しようとしている。

1  純SF段階:人間と人間社会にまったく興味がない。「冷たい方程式」に封じ込められた科学の美を開放し、大衆に届ける。
2  人間と自然の段階:人間と自然の関係を描く。互いにまったく異なる二つの世界を同時に描く。すなわち、我々が良く知る灰色の現実世界と、最も遠く最もミクロなスケールをもって描かれた神秘的なSFの世界を対比させることで強烈なコントラストを作り出す。
3 社会実験の段階:極端な環境下における人類の行為と社会形態を描く[29]。

 劉によれば、今回分析してきた〈三体〉シリーズの第一作目は第二段階に属するという。実際、これまで見てきたように、人類と三体文明というあまりにもかけ離れた二つの世界を衝突させて、強烈なコントラストを作り出しているのである。しかしながら同時に、第三段階の社会実験の試みでもあると言える。というのも、三体文明の存在が人類社会に知られ、そして科学と社会が撹乱されているという極端な状況における人類の行為と社会形態を描いているからである。そして、劉は第三段階で発見したSFの機能とそれに対する彼自身の感情を以下のように吐露している。

〔……〕SF文学が奇妙な機能を持っていることに気づいた。現実世界におけるどのような悪でも、SFの中でそれに対応する世界設定を見つけることができる。さらに、それを正当なもの、ないし正義に変えることさえできるし、逆もまたしかり。SFにおける正義と不正、善と悪は、それに対応する世界のイメージの中でこそ意義を持つ。私はこの発見に夢中になり、すっかりその邪悪な快感の虜になってしまった[30]。

 SFにおいては、世界の設定次第で価値をいくらでも変えることができ、そして自分はその快感に取り憑かれているということが言われている。それは社会実験というよりも、そのポッドキャストの名称のように「思考実験」に近いものになるだろう。

 その意味で、第二段階の「人と自然」の関係に彼が注目したのも、自然(宇宙も含む)との対比において人間にとっての正義と善が、不正と悪に変わるからだと言える。さらに、科学の美を解放するという第一段階もまた、それが「冷たい方程式」として人間社会の道徳や価値を解体していると言える。すなわち、現にある現実と人間的な価値を逆転させ、相対化するような思考実験こそ、彼の創作において一貫して現れているものであり、この三つの段階とは、彼がだんだんとそのことに自覚的になっていく過程だと言える。

 したがって劉にとってのSFとは思考実験だと言える。そして、思考実験という言葉で劉が示そうとしているのは、絶対的に見えるようないかなる価値や観念も実際は限定的なものであり、より包括的な、もしくは単に別の文脈を与えることで、たやすく相対化されてしまうような可塑的で、ヴァーチャルなものであるということである。「射撃手(Shooter)・農場主(Farmer)」的なSFとはまさに、人間世界の限定性と可塑性を提示するために、別の文脈を提示する機能を持つという意味で、劉が理想とする思想実験としてのSFの特徴をよく表現している。

五.文脈(コンテクスト)の無限拡張

しかしながら、思考実験としての「射撃手(Shooter)・農場主(Farmer)」的なSFは、その名称どおり、科学的である必然性はない。すなわち、それは宇宙や物理学などに必ずしも関連するわけではなく、合理的でさえあればいいような、より広範な思考や感性のモードとしての性格が強い。科学はむしろそれに合理性を提供する手段のような位置付けになるだろう。言い換えれば、第一義的にそれは科学よりも、むしろ文脈の合理的な適用という語用論的な問題に関わるものである[31]。科学はその語用論的な枠組みの適用を正当化するためのものである。

 そして、このことはSFの基本的な特徴の一つでもある。SF作家のサミュエル・ディレイニーはインタビューにおいて、SFとはある種の「記号の慣例に関する巨大な遊び」であると述べている。例えば「彼女の世界が爆発した」といった記述がどのような意味を持つかは、それがSFなのかそれとも普通のリアリズム小説なのかによって変わってくる。

 我々のSFに関する具体的な期待はある問いによって組織される。すなわち、物語で描かれている世界における、我々の世界とのどのような違いが、このような文が普通に発されることを可能にするのかと[32]。

 すなわち、「彼女の世界が爆発した」という文の意味を決定するには、それがいかなる世界において発されるのかということが決定的に重要であり、SFであれば、それが文字通りに受け取られること、つまり比喩でも超自然性の記述でもなく、「普通」で合理的な言明であることを可能にするような世界=文脈を与えることが必要となる。

 アダム・ロバーツがディレイニーの定義を言い換えて、SFとは「読みの戦略」であると述べている[33]。「戦略」という言葉からわかるように、そこにはある種の二重的な意識が要求されている。つまり、文の意味を自らの経験=文脈の中で受け取るのではなく、常にその意味の背後にある理論=文脈を操作可能なものとして扱うことが必要なのである。ディレイニーが「遊び(play)」という言葉で言い表そうとしているのはまさにこのような文脈=慣例の操作のことだと言える[34]。

 もちろん、すべてのSFを包括的に定義するにはこの定義はあまりにも狭い。しかしながら、本論に接続して考えると、劉慈欣が理想としているようなSF――特に「射撃手(Shooter)・農場主(Farmer)」的なSFとは、まさにこのような文(テクスト)と文脈(コンテクスト)の関係の操作を根本的な原理としているものだと言える。

 これを踏まえて、劉のSF思想を検討しなおしてみよう。劉による思想実験が常にある種の非常事態を想定するのは、それが文脈の限界を示し、それを踏み越えようとするからである。それは我々が慣れ親しんでいる世界や考えをより大きなスケールを持つ文脈の中に置くことで、その限界を示そうとする。人間の倫理――正義と悪など――はそのような操作の中でたやすく逆転する。思考実験や社会実験とは、文脈を極度に操作可能な状態にすることである。

 また、人類や種族、そして世界を一つの主体として扱うことが可能なのもこの原理に由来している。例えば、個々人にとって、人類や種族などは一つの大きな文脈をなしている。劉のいうリアリズム文学はまさにその文脈のなかで、それを疑問視することなく展開されるフィクション形式であるのに対して、SFはかつて文脈であったものを一つの文に変えて、それに別のより大きなスケールの文脈を与えることで相対化する。言い換えれば、かつて地であったものを図に変えることこそ、彼のいう「マクロ・ディテール」の内実である。

 これまで論じてきたように、『三体』という作品において、文化大革命、VRゲーム、現在の世界という三つの部分はそれぞれ歴史、虚構、現実を表しているが、表面上の対立とは別に、実はその身分は共通しているのである。いずれもその文脈としての限界や根本的な操作可能性が強調されている。そしてそもそもヴァーチャル化とは、特定の文脈から自由であること、「脱領土化= 脱文脈化」ともいうべき事態を意味する[35]。その意味において、三者は等しくヴァーチャルなものだということになる。三体人と地球三体協会という表象はその操作可能性を現実化し、すべてが絶対的なものではなく、文脈操作によって相対化可能だということを強調する機能を持つ。だからこそ、たとえ人類の歴史がどれほど残酷さに満ちていようとも、三体人による絶滅という文脈では、生き残っているだけでとてつもなく幸運な歴史だったということになる。よりスケールの大きい文脈を適用することによって、元の文脈における意味や価値が無効化されてしまうのである。

 したがって、劉慈欣と〈三体〉が提示する思考や感性のモードとは、常にそのような限界と文脈の可塑性を意識することであり、「読みの戦略」という文脈主義の我々自身の現実への適用を通して、その意味や価値を無効化することであると言える[36]。

 とはいえ、このような文脈の可塑性がたとえどのような状況においても常に残りつづける。メタ的な文脈の拡張はちょうど入不二基義が「地平線」という言葉で比喩的に述べているように、絶えず逃げ去っていくものである[37]。そして、劉慈欣の特徴とは、文に対する文脈のメタ性をそのまま物理的な空間スケールと同一視し、絶対視していることであり、そのことが彼を単なる相対主義者やポストモダニズムから区別している。そのため、文脈の操作は絶えずスケールを大きくしていき、無限に拡張しつづけ、宇宙の果てにいたるまで決して終わらない。実際、『三体』の二つの続編もまさに宇宙の果てまで突き進んでいくのである。そもそも〈三体〉三部作の内容は「歴史外の記述」だということになっている。

 しかし、「新しい実在論」の提唱者であるマルクス・ガブリエルが批判しているように、「宇宙」はけっしてすべてではなく、物理学の対象領域にすぎないという意味で、例えば現在という時代の属する対象領域と包摂(メタ)関係にあるのではなく、並行関係にある[38]。その意味で、劉慈欣の文脈主義自体が選択と限定の産物である。

結びにかえて

 紙幅が限られているため、続編に関する議論は次回以降に譲るとして、最後にこれまでの議論を踏まえて第二の主人公――にもかかわらずほとんど論じられてこなかった――とも言える大史(ダーシ)(史強(シー・チアン))という人物の意義を明らかにしたい。

 大史という人物はきわめて市井的な人物として描かれており、目的のために手段を選ばない、俗世的な価値観を貫く人物である。しかしながら、まさに彼のような人間が作品の中である種の希望を提供している。これはとても奇妙なことである。というのも、俗的な人物、言い換えれば「今ここ」の世界にどっぷりと浸かっているような人物こそ我々に超越的な世界と対抗するための力を与えるということになるからだ。これはなぜなのか。

 重要なのは、彼が「不思議な出来事にはかならず裏がある」(原文の中国語ではもっと世俗的な言い方をしている)という信念を強く持っているということだ。その意味は本論の議論に接続すれば明らかだろう。すなわち、彼は常に現にある文脈の操作可能性と外部の操作主体の存在に敏感であり、絶えずそれらを意識している人物だということである。

 さらに、もし三体人が人間を虫けらだというのなら、彼は科学者たちのように絶望するのではなく、虫けらとして何ができるのかを考える。そしてこの考えが作品の最後である種の癒やしと希望を与えている。これは、彼は現にある世界が別の文脈によって相対化されても別に構わない――それこそ世界の中心からただの虫けらになったとしても、単に生存するという目的が実現できればそれでいいと思っているということを意味する。すなわち、彼は「生存」という目的を、文脈の推移によって相対化されることなく、それを超越するものとして定位しているのである。そして、この「生存」はまさに三体人が真理として奉じているものでもある。大史の存在によって、両者は同じ土俵(コンテクスト)に乗ることになったのである。

 第二作では、第一作目の主人公である汪淼の出番がなくなってしまうにもかかわらず、大史は重要な登場人物として残っていることからもわかるように、彼が象徴する思考のモードは〈三体〉の中心的な位置にある。そして実際、この生存というテーマが『三体』第二部では最重要テーマの一つとなっている。この特徴について、次回で詳細に扱うとしよう。

(第二回へ続く)

関連書籍

『エクリヲ vol.11』
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つづき

第二回/未来は否定から生まれる――『三体2:暗黒森林』について

[1]本論考はJSPS科研費18J13478の助成を受けたものである。

[2]「『地球往事』三部作」というのが正式名称であるが、ここでは一般的に流通している、よりわかりやすい呼び方として「『三体』シリーズ」と呼ぶ。

[3]劉慈欣『三体』大森望、光吉さくら、ワン・チャイ訳、立原透耶監修、早川書房、二〇一九年。

[4]このモジュール的な構成は、続編ではより前面に出ている。趙柔柔が指摘しているように、それは歴史を描いているが、実際はむしろ「脱歴史化」の効果をもたらす。このことは、本論で後に論じているように、「脱文脈化」という、より基礎的な原理として作品全体に現れているのである。赵柔柔.逃离历史的史诗: 刘慈欣《三体》中的时代症候. 艺术评论, 2015(10).

[5]三体世界に関する描写もあるが、作品の主な構成部分ではないので、ここでは詳しく論じない。

[6]『三体』、二九頁。

[7]『三体』、七七-七八頁。

[8]『三体』、八一頁。

[9]『三体』、七二頁。

[10]ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?:デジタル時代におけるリアリティ』米山優監訳、昭和堂、二〇〇六年。

[11]作家の陸秋槎が指摘しているように、「傷痕文学」的な形式を多分に借りている。そして実際には、「傷痕文学」はその後の文化大革命を語る際の一つの定型的な語り方となっているのである。陸秋槎「傷痕文学からワイドスクリーン・バロックへ」『S-Fマガジン』二〇一九年八月号、早川書房。

[12]『三体』、一三-一四頁。

[13]『三体』、一五頁。

[14]スラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気: グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム』中山徹、鈴木英明訳、青土社、二〇一八年、一六〇頁。

[15]『三体』、三三二頁。

[16]王洪喆. 冷战的孩子│刘慈欣的战略文学密码. 艺术评论, 2016(8).

[17]『三体』、二五二頁。

[18]『三体』、一六五-一六六頁。

[19]『三体』、二五〇頁。

[20]『三体』、七六-七七頁。

[21]『三体』、八一頁。

[22]カンタン・メイヤスー『亡霊のジレンマ: 思弁的唯物論の展開 』岡嶋隆佑、熊谷謙介、黒木萬代、神保夏子訳、青土社、二〇一八年、一二八頁。

[23]同上、一〇〇頁。

[24]実際、劉慈欣に関する先行研究の中で、彼がクラークから受けた影響に関する研究が大量に存在しており、一つの「定番」となっているとさえ言える。

[25]中国語の原文では「神蹟」となっている。神的な超越的主体の存在をより強調するものとなっている。

[26]もっとも、作品の最後で描かれた三体世界では、人間社会の人文主義が自分たちの世界に対して悪い影響(平和主義など)を及ぼす可能性に敏感に反応し、これを抑圧しようと躍起になっている。つまり、三体世界もまた一つの閉域として描かれているのである。

[27]刘慈欣. 超越自恋│科幻给文学的机会.山西文学, 2009(7 ):75 -81.

[28]刘慈欣的思想实验室. “2. 1 被技术改造后的人还是人吗? ( 嘉宾:戴锦华)”. 2019 – 01 – 29 .喜马拉雅 FM.

[29]刘慈欣. 重返伊甸园│科幻创作十年回顾.南方文坛, 2010 (6 ):31 -33.

[30] 同上。

[31]ジャン゠マリー・シェフェールによれば、そもそもフィクション=虚構を成り立たせているのは、「これはフィクションである」ということを示すパラテクスト=コンテクストといった語用論的枠組みである。ジャン゠マリー・シェフェール『なぜフィクションか?: ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』久保昭博訳、慶應義塾大学出版会、二〇一九年、第三章。

[32]Delany, Samuel.Silent Interviews: On Language, Race, Sex,Science Fiction, and Some Comics—A Collection of Written Interviews. Hanover/London: Wesleyan University Press. 1994. p.31

[33]Roberts, Adam. The History of Science Fiction. 2nd edition. London: Palgrave Macmillan. 2016. p.2

[34]ミゲル・シカールによれば、「プレイ Play」とは、文脈と戯れるものであり、規則というメタ言語を変形させる力も持っている。また、デヴィッド・グレーバーはより政治的にプレイの規則生成的な側面を論じている。ミゲル・シカール『プレイ・マターズ:遊び心の哲学』(松永伸司訳、フィルムアート社、二〇一九年)、およびデヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア:テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(酒井隆史訳、以文社、二〇一七年)を参照のこと。

[35]ピエール・レヴィ、前掲書、三七頁。

[36]中国における『三体』に関する先行研究では、劉自身の言説に沿って、宇宙の「崇高性」といった概念で語られることが非常に多い。それに対して本論考ではその文脈主義的な基底を析出することで、いわば『三体』とそれに関する言説の「脱崇高化」を意図している。これによって、SF以外の文化領域に開かれ、中国における広範な『三体』の影響と同時代性を明らかにすることができるようになる。

[37]入不二基義『相対主義の極北』ちくま学芸文庫、二〇〇九年。

[38]マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』清水一浩訳、講談社選書メチエ、二〇一八年。