やがて来る〈危機〉の後のドラマ――濱口竜介論


0.  導入

 この連載は「『新』時代の映像作家たち」と銘打たれているが、果たして私たちは「新しさ」についてどのくらいのことを知っているだろう。ある芸術作品がそれまでの作品にないなにかを持っているのだとしたら、その「新しさ」はどこからやってくるのだろう。そう、つまり新しさとは作り出されるのではなく偶然やってくるものなのだ。あるときはどれだけ待ってもやってこず、あるときは全くこちらの気も知らないで突然やってくるかもしれない。本稿はそんな新しさとの戦略的な出会いに取り組む一人の作家をめぐるものだ。

 2014年、後に国内外での絶賛を獲得する濱口竜介監督『ハッピーアワー』(2015)の企画は神戸で17人のプロではない俳優を集めてのワークショップとして始まった。当初1ヶ月ほどの予定だった撮影は8ヶ月に延び、2時間半ほどを予定していた本編は5時間を超える超大作に仕上がる。おそらく企画者の誰一人、このような企画になるとは予測していなかっただろう。なぜこんなに長くなってしまったのか。なぜ監督は、当初予定されていた脚本を徐々に放棄し、そして作品はおそらく作り手さえ予想しなかった形に完成したのか。しかし、きっとそうでなければ「新しい作品」は出来上がらなかった。

 『ハッピーアワー』がそれまでの作品になかった価値を持っているとすれば、おそらく度重なる脚本の改稿作業の中でもたらされた何かにそれは起因するだろう。脚本はもちろん、本作では3人の脚本家が書くのだが、それは多くの場合、なにかの伝えたいテーマのために書き出されるのではないだろう。もしくはそうしたテーマがあっても放棄されていくはずだ。何度も行われる改稿がその証拠だ。そうして作品とは自分がどんな作品であるか、つまりどんなテーマや意味や意義をもったものであるかわからないまま完成する。それはいわばシニフィエ(意味内容)を持たないシニフィアン(記号の表象そのもの)として生まれてくるのだ。そして生まれた後で、思いもよらなかったシニフィエを獲得する。それが新しさというものだ。

 では、その中身のないシニフィアンはどのようにひねり出されるのだろうか。それを紐解くために、映画がまだ効率よくそのテーマを伝えることを目指していた時代に遡ろう。濱口が最も大きな影響を受けたと名を挙げる映画監督の一人に、ジョン・カサヴェテス(1929~1989)がいる。映画監督・塩田明彦はカサヴェテスとはいかなる作家であったか、その詳細な分析1をまず彼以前の古典ハリウッド映画の分析から始める。塩田はフリッツ・ラングの『復讐は俺に任せろ』(1953)を例に挙げ、「今や失われたハリウッド映画の話法」は「省略」と「行動」によって全てが語られたとする。

「映画には映画独自の言葉遣い、話法というものがあって、これまでも語ってきたように動線だとか、衣装や美術の設計だとか光の明暗だとか、とにかくありとあらゆる演出の技術と、それから作劇の技術が相まって、一つの世界を創り出していくんですね。その作劇と演出と演技が映画史上、もっとも単純かつ強力なかたちで結びつき合っていたのが、ハリウッドの古典的な話法というもの」2

 形式的な語りは形式的な「シーン」と「キャラクター」の使用に由来する。これはアメリカ映画に限った話ではなく、ある程度成熟した物語の芸術には確固とした語りのコードがある3。そして、重要なことはカサヴェテスは、この原則をラディカルに崩す者として登場したということだ。塩田によれば彼は、「性格(=キャラクター)4ではなく「感情」を主役にし、「人間の感情の一挙手一投足にフォーカスを当てた」5

 なぜ、カサヴェテスはこのようなことをしたのか。このように問うとまるで、カサヴェテスが何かを企み、意図的に新しい方法論を立ち上げたかのようだが、本稿の見立てはそうではない。むしろなにかのはずみで彼の元に生まれた方法論が、それまでにはなかったリアリティを獲得したのではないか。
 それは作られるのではなく、あたかも災害のようにやってくるのだ。ここに「新しさ」を巡るラディカルな契機がある。演出家はその新しさを待ち、誰よりも早く受け止め、作品によって意味を与えてそれ以外の大衆たる、観客一般に受け渡す役割を負うのだ。

 本稿はその最も戦略的な見張り番として濱口竜介について分析するものであり、彼の特異性を際立たせるために何人かの物語芸術の作家に登場願う。第1章では、一つ目の見立てとして濱口も実践する脚本の特徴的な位置付けについて分析する。濱口は「電話帳のようにセリフを読」ませるという念入りな本読み6の実践者として知られているが、よりラディカルな脚本(=戯曲)の扱いを目指す作家として劇作家平田オリザと映画監督ロベール・ブレッソンを取り上げ、俳優が脚本に徹底的に従うことによってどのように作品が意味への開放性を持つのかを分析する。第2章では、先に取り上げたカサヴェテスと濱口の作品の比較を行い、別のやり方での作品の開放性と、濱口の特異性を浮き彫りにする。第3章では濱口の最新作『寝ても覚めても』(2018)を分析し、本稿の「新しさ」に関する問いに決着をつける。

 濱口の作品での試みのいくつかは、彼が名前を挙げる古典映画の巨匠たちに先例を見ることもできる。つまりそれは「相対的には」新しくないものかもしれない。しかし彼の作風は、作っている本人にとってもどのように完成するかわからないという点において「絶対的に」新しいものであるはずだ。彼の作品の秘密を知ることは映画のみならず、私たちの日常生活に止むことのない新鮮さをもたらすだろう。本稿は、私たちの人生そのものを常に新鮮な「幸福な時間」へと変えるための試みとして開始される。

(次ページへ続く)