ヱクリヲ vol.4 特集 ニッポンの批評――現代日本の外に出る/外から見るためのX冊


総合批評誌『ヱクリヲ』 Vol.4

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Contents

  1. 特集 ニッポンの批評――現代日本の外に出る/外から見るためのX冊
    • 特別企画 安藤礼二インタビュー
      • 安藤礼二は、かつて日本の批評は柄谷行人を核とした「言語至上主義」に陥っていたと語ります。それは言葉という対象を言葉で論じるという、批評の不可能性に無自覚な言説と換言できるかもしれません。ここで参照すべき「批評家」はボードレールです。「言葉とは何か」という問いを手放さなかった詩人たち――ボードレールやランボーは「近代」初の批評家でもありました。理論(研究)でもなく、体験(感想)でもない「批評」の持つ本質には、近代(グローバリゼーション)という今なお続く時代によって必然的に導出されたジレンマが存在しています。「批評」を考えることは、近代がもたらした複数の層が一つに重なりあう「場所」について考えることです。対象をISまで拡張しつつ、今西錦司の生物学論、鈴木大拙の仏教論、折口信夫、ボードレール、ランボーから「ニッポンの批評」の外に出ます。
    • ヱクリヲ編集部が選ぶ批評本X選
      • アウターヘヴンからアジアへ(楊駿驍)
      • 批評をポジティブに捉えるための5冊(横山宏介)
      • 文字とその周辺(原暁海)
      • 単行本未収録の批評3選(谷口惇)
      • サブカル自意識野郎でしかない僕たちが「公」につながるための3冊(茂野介里)
      • 「サブカルチャー」の外側に出るための3冊(山下覚)
      • ポスト・ニッポン音楽/音響批評を考える3冊(佐久間義貴)
      • 演出家による演劇論3冊(吉田高尾)
    • ニッポンの批評を懐疑する(茂野介里)
      • 「日本近代批評の祖」とされる小林秀雄は後年、新進の批評家たち(蓮實重彦、浅田彰、柄谷行人……)による批判の対象とされていきます。しかし、蓮實による「映画に対する畏怖が足りない」という警句はあまりに小林的ではないでしょうか。浅田彰の座談会での交通整理の身振りもまた小林を想起します。大澤聡氏が指摘するように小林秀雄の「方法」を批判したとしても、それは小林を中心とした文壇メディアを強化する側面があります。つまり、小林の磁場から遠く離れるためにはその批評の「方法」ではなく「主体」を問い直す必要があるのです。そして、ここで参照されるべき思想家は三島由紀夫です。自己とは何か、という問いに小林秀雄は「彼は彼自身にしかなり得なかった」と答えるに留まります。三島は自己を徹底的な相対化から考えた作家です。三島にとって天皇は選択された真理に過ぎず、その相対化された主体意識をニッポンの批評は現在も獲得できていません。
    • 他者に他者はあるか(横山宏介)
      • 柄谷行人の批評には「外部」という中心的なコンセプトがあります。共同体「と」共同体の間、どこにも属さない「外部」との出会いによって「内部」における自明の理を疑うことができるのです。しかし、『批評空間』など柄谷を中心とした磁場はやがて、文字通り「外部」不在の“空間”となっていきます。この90年代の批評シーンにおける「外部の内部化」という陥穽は、本質的に批評という営為が抱え込むジレンマによく似ています。つまり批評は主に言葉で書かれた対象を言葉でもって論じる(超出する)という不可能性を持ちます。批評は常に既存の「批評」という領域を解体し続ける営為でもあります。『批評空間』の終刊は、柄谷を中心とした「外部の内部化」の終わりであると同時に、「批評のジャンル化」の終焉をも意味していました。ジャンルとしての「批評」が明確に像を結ばなくなった今、その空白――深淵を命がけの飛躍によって飛び越えることは可能でしょうか。
    • 「オタク批評のクリティカル・ポイント」試論(山下覚)
      • かつて中森明夫によって名指された「おたく」は、その6年後(89年)に宮崎勤事件によって「オタク」として言説に浸透し始めることになります。岡田斗司夫や大塚英志ら第一世代は、オタクを「被差別層」とする自己規定が特徴的です。そこから非オタク層≒外部への闘争、オタク内部での闘争という二重のアイデンティティ政治が導出されるに到ります。あらゆるオタク言説から、その構造を導く論考です。※論考内では大塚英志が拘り続ける「おたく」、対立項とされた「サブカル」の新聞言説上の流通数をグラフ化して掲載
  2. 小特集 アニメ(ーター)見本市
    • 日本アニメ(ーター)見本市批評への序 – アニメーションとアニメの脱構築のために(横山祐)
    • 全35話作品レビュー
    • 日本アニメーションの未来のために- 日本アニメ(ーター)見本市総論(高井くらら)
      • スタジオカラーとドワンゴによる共同企画「日本アニメ(-ター)見本市」は、全35話の短編シリーズです。庵野秀明は本企画を「ささやかなレジスタンス」だと語ります。これは製作委員会方式では収支が成り立たず、「円盤」が売れなければ続編が制作されない商業シーンへの抵抗を意味しています。商業アニメからの逸脱として3DCG等の技術的実験が目立ちます。2Dとの融合、必要不可欠と思われる「キャラ」に依存しない作品等「見本市」は多くの「抵抗」を行っています。アニメ(-ター)見本市の全35話レビューと併せて読んで頂きたい論考です。
    • あしたのために(その1)過去の作品を知り、活用する (なかむらなおき)
      • 日本アニメ(-ター)見本市の最終話である『カセットガール』は数多くのオマージュに満ちた短篇です。特に『DAICON Ⅳ』のパロディは印象に残ります。庵野秀明、井上伸一郎ら80年代の「オタク第一世代」から、日本アニメ(-ター)見本市を考察します。
    • アニメーションからアニメへ 概論 (横山祐)
      • ウォルト・ディズニーの『白雪姫』に用いられた『マルチプレーンシステム』は、アニメーションの条件である『フレーム間性』を視覚化します。これはアニメーションを考える上で、強力な思考の道具になります。このフレーム間ではまた、正しい遠近「法」=パースペクティブは今や、我々の視覚に悖った遠近「感」に変貌するのです。その問題における日本アニメの果敢な試みとして、金田伊功や板野一郎などアニメーターの巨匠の試みが立ち上がってきます。アニメーター見本市から敢えて距離を取り、アニメーションの条件を考えるために、フレーム間や緊張など独特な概念を用いながら、今までのアニメーション論を刷新するために、序論で掲げられた「アニメーションとアニメの脱構築」に果敢に挑戦していきます。
  3. 小特集 エドワード・ヤン ――楊徳昌電影的再照射
    1. 論考
      • 不在の音響――あるいは「脱中心化」するエドワード・ヤンの映像世界 (山下覚)
        • 『カップルズ』は、エドワード・ヤン作品を通底する特質を看取できる映画です。それは本作最終盤にあたる、逆光の中に配されたラブロマンスの成就を描くショットに集約されます。二人の接吻の表象の中、「音響」は雑然とした台北の騒音を捉え続けます。エドワード・ヤン作品は監督自身述懐しているように満足な撮影環境を持たず、必然的にロケーション撮影を多用し、同録された「音響」は台北の生活音に満ちています。先のショットでは、背景に置かれた街の人々はあからさまに視線をカメラに投げるなど、ヤン作品には常に「仮構」の外側が汎在します。エドワード・ヤン作品の特徴を第一にその「音響」に、そして『恐怖分子』に代表される「無人の空間」や、処女作から『ヤンヤン 夏の想い出』までを貫く「父の不在」、『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』に顕れる「群像の表象」など4つの論点から、その脱中心性に迫ります。
      • 映画の「外」の「外」について – 理論編&実践編 (谷口惇)
        • 『恐怖分子』はそのスクリーンを注視すればするほど、一見滑らかなショットの連鎖が“視えなくなる”という映画の視覚性を問う作品です。冒頭、アパートの一室から飛び降りる少女シューアンを映した直後、画面はその落下音に気付いた警察官を映します。しかし、次のショットではシューアンより後に飛び降りた男が警察に捕まる様子が捉えられます。シューアンの落下は画面の連鎖の<隙間>に入り込んだかのようです。スクリーンを凝視すればするほど、「事件」に出会い損ねるパラドックスを『恐怖分子』は抱えています。
      • 楊徳昌的説話構造(エドワードヤンのナラティブ) (佐久間義貴)
        • エドワード・ヤン作品には戸口の奥を捉えたショットが数多く存在します。同郷のホウ・シャオシェンにも看取できるこの特質は、ヤンの公言する手塚治虫(漫画)からの影響としての考察が可能です。つまり、それはフレーム内フレームではないでしょうか。「フレーム内フレーム」や、ショットをまたぐモノローグは「コマの可変性」という漫画の特質とよく似たものです。それは『恐怖分子』に顕著な、人物の関係性自体を描くヤンの脱中心的ナラティブから導出されたものでしょう。
      • エドワード・ヤン フィルモグラフィー
    2. 他の台湾映画作家
      • ミンリャン的運動の消失(深澤匠)
        • 蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)は総じて抽出されうる運動量が少ない映画ばかりを撮っています。しかし、注視すれば前期作品は多層的空間を上下に貫く運動が特徴であることが分かります。アパート(『Hole』)や、エスカレーター(『河』)などのように上下の空間を主にモンタージュで捉えています。やがて、蔡明亮は後期への移行のなか、垂直の運動を捉えることが減っていきます。いわば上下のモンタージュから左右の運動を捉えるワンショットへ――ミンリャンの近作「WALKER」シリーズへと結実するに致ります。
  4. critique & et cetera
    • 連載企画 ジャン=リュック・ゴダール論 第二回(最終回)(谷口惇)
      • ゴダールは中期以降、「どうして」その物語が始まったのかという理由を欠く映画を多く撮っています(「なぜ」そこで終わるのかという理由は全作で不在かもしれません)。特に『映画というささやかな商売の栄華と衰退』から『フォーエヴァー・モーツァルト』に至る、オーディションの情景は特徴的です。そこでは無数の俳優が早回しで舞台演出家(カメラ)の前に立ち、一言発したかと思うとsuivant!(次!)あるいはnon! と言われて次の人へと場を明け渡していきます。この「だしぬけに始まり、そして終わる」という性質は、『カルメンという名の女』では作品全体の構造に及んでもいます。『こんにちは、マリア』では時制も示されずに頻出する、「en ce temps là(その頃)」という字幕にも、ゴダールの特異な時間感覚を確認できます。『JLG/自画像』等も例示し、その特質に迫ります。ゴダール連載企画・後編です。

    • 批評家男子と恋(沼本奈々)