ヱクリヲ vol.5 特集A:神代辰巳と文学 特集B:ゲームのリアル


総合批評誌『ヱクリヲ』  vol.5   SOLD OUT(近日電子書籍化)

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表裏のダブル表紙になります

Contents

  1. 特集SIDE-A 神代辰巳と文学(エクリチュール)――ロマンポルノから日本映画史へ
    • interview:荒井晴彦  「神代辰巳と荒井晴彦の文学(エクリ)を読むーーロマンポルノの秘蹟」
      • 荒井晴彦はいま名画座や復刻版で目にする日活ロマンポルノは、当時の「ロマンポルノ」とは大きく異なると語ります。今では田中登や小沼勝らが想起されるロマンポルノですが、当時の製作システムはまず女優、次に脚本家を決め、監督は一番最後でした。しかし、神代辰巳は既に決定された女優と路線(団地妻、女教師、風俗モノ…)という条件や10分に一度のSEXシーンなど制約の中で、独創的作品を撮っていくことになります。口唇と同期しない音響や、編集時に脚本の一部を変更することもままありました。神代は映画編集上の自由を追求した作家です。また神代辰巳には、今まで注目されてこなかった脚本家としての側面もあります。その背景にある文学観やロマンポルノ秘話など、神代と最も多く組んだ脚本家である荒井晴彦さんが日活ロマンポルノリブート元年の今、ロングインタビューで語ります。
    • 論考
      • 「現在進行形」の神代辰巳―『女地獄 森は濡れた』を例に―」(若林良)
        • 神代辰巳『四畳半襖の裏張り しのび肌』には「男とおんなにゃアレしかない」という有名な科白が存在します。神代は中上健次や丸山健二による「文学」を原作とした場合も、この思想を徹底して作品を撮っています。『女地獄 森は濡れた』はサドの翻案ですが、そこに美徳/悪徳の対立は認められません。かつて批評家の山根貞男は神代辰巳『赫い髪の女』について「主人公二人に過去がなく、駆け落ちするような未来もなく、いま、この現在だけ」があると評しました。換言すれば神代映画には現在進行形の「行為」だけがあるのかもしれません。
      • 女が髪を切るとき――神代辰巳『もどり川』における大正/昭和の潮目(安井海洋)
        • 神代辰巳『もどり川』の脚本を担当した荒井晴彦は原作小説と異なり、作品を1923年――関東大震災のあった年を中心に展開しています。震災は経済成長下にあった大正を実質的に終焉させ、昭和恐慌に始まる災厄の時代へと導く契機でもありました。『もどり川』において特に印象的なのが断髪のモチーフです。大正期における女性の断髪は過去の慣習からの飛翔を象徴する行為でした。しかし、本作では3人の女の断髪は死の要素を濃厚に漂わせた行為として描かれます。
      • ライディング・イン・ア・ヴィーグル――または神代辰巳はいかにして複数形の死を描くか(伊藤弘了)
        • 神代辰巳による代表作『赫い髪の女』(1975年)は登場人物たち――光造と孝男が次々と乗り物(Vehicle)を乗り換えていく物語です。本作は開巻からわずか3分ほどで、主人公たちはダンプカー、ショベルカー、女を“乗り継いで”いきます。乗り物のモティーフを通して描き出される人間関係は、中上健次による原作『赫髪』からの改変から明らかなように本作の創見にかかるものです。性交の暗喩たるショベルカーの運転を他人に譲ってしまう光造は、やがて相思相愛である、宮下順子演じる赫い髪の女との性交の権利を孝男にも要求されるのです。『赫い髪の女』を「乗り物」というモチーフと、神代作品に通底するストップ・モーションの効果から読みとく論考です。
      • 映画的背徳――あるいは神代辰巳における〈擬装〉という自由(山下研)
        • 初期映画はその媒体の特異性である運動を表象するために、逃走/追走劇が多く描かれていました。「映画の父」グリフィスもまた、その処女作『ドリーの冒険』においてこのモチーフを採用しています。神代辰巳もまた何かから逃れている作中人物を多く描いていますが、その逃走劇には緊迫感が不在です。『青春の蹉跌』『宵待草』等でも作中人物はふらつき、力なく倒れ込み、そこには遅延された逃走が描かれるのみです。映画の根源的モチーフたる「逃走」を脱臼させる神代は、ポルノという<社会的背徳>ではなく、<映画的背徳>を捉えた作家かもしれません。
      • 海辺からの定点観測――神代辰巳の海に導かれて(澤茂仁)
        • 神代辰巳作品において作中人物は「海辺」に引き寄せられていきます。『恋人たちは濡れた』『赫い髪の女』はじめ「海辺」から始める物語も多く存在します。神代はその特徴でもあるロングショットを用いて、この「海辺」に何を描いてみせたのでしょうか。その一つの答えは「死(の未達)」です。『恋人たちは濡れた』においてストップ・モーションで海辺における主人公の死が描かれ、『少女娼婦 けものみち』『一条さゆり 濡れた欲情』では海への入水行為は自殺の失敗として捉えれることになります。また死の主題と近接して、神代作品において「海辺」は血統を問われる舞台でもあります。神代作品において「海辺」はその他にも血統や遊戯、性交を巡る舞台として多義的に機能しています。なぜ人々は海辺の引力に導かれていくのか――フィルモグラフィーにおける海辺の効果をショット分析した論考です。
      • 私映画 神代辰巳(松尾奈帆子)
        • 神代辰巳は生前「私にとって映画作りはだんだん私的なものになっていきそうです」と語り、<私映画>という表現を好んで使用しました。私映画――そう聞くとゴダールやフェリーニを連想するかもしれません。しかし神代の特異性は大手による商業映画という制約の下に、私的映画を量産した点に尽きます。首吊り・唄・モノローグ・不明瞭音といった神代演出を「私映画」性から読み解きます。姫田真佐久(撮影)、鴨田好史(助監督)、白鳥あかね(スクリプター)らと築かれた、神代辰巳作品を仔細に分析した論考です。
      • 切断批判叙説――神代辰巳論(しげのかいり)
        • 神代辰巳『黒薔薇昇天』はブルーフィルムを撮影する岸田森扮するポルノ監督が主役に設定されており、メタ性を備えた映画でもあります。男はポルノを「芸術」と言い張りますが、その自意識を引いたフレームで捉える本作は、ロマンポルノへの批評としても機能しています。本作『黒薔薇昇天』に大島渚『愛のコリーダ』がカンヌで金獅子賞を獲得したことに衝撃を受け、国際的評価を嘱望していた神代辰巳の思いを逆説的に看取することも可能かもしれません。
      • 亡霊たちの唱歌――神代映画の〈声〉を聴く(佐久間義貴)
        • 神代辰巳は編集時でのセリフ改変のため、役者に明瞭に喋らせず、口を大きく開いて話す芝居をつけませんでした。多くの作品で音響を手掛けた録音技師・橋本文雄によると、神代は音にも「ぼかし」を入れるよう要求していたようです。ここに「音」の出自をぼやかす神代の音響演出の特異性があります。観客は映画における「音」がスクリーンから鳴っていると錯覚しがちです。特に人物の発話の場合、この<音像結合>は顕著になります。しかし、実際の音響はスピーカーから鳴っているのです。神代作品を振り返りみれば、そこには口唇と同期しない発話や、モノローグのような歌が映像に被せられています。この神代辰巳による音響――<声>の演出は晩年の『インモラル・淫らな関係』において、極端にリヴァーブがかけられ、映像と音声は完全に分離していきます。神代辰巳作品を音響の側面から仔細に分析した論考です。
      • 歌・境界線・少女ムシェットーー『赤線玉の井 ぬけられます』論(松尾奈帆子)
        • 神代辰巳の不遇は、ひとえに批評家と観客の怠慢である――厳しい箴言から始まり、ロベール・ブレッソンとの演出比較に至るまで、『赤線玉の井 ぬけられます』を題材に、神代辰巳を擁護、擁護、擁護についで擁護する異色の論考です。<歌>と<境界線>に託された演出構造、「みじめさ」と「両義性」という日本的感性を神代辰巳の映画から浮き彫りにしていきます。「神代辰巳こそ最も優れた日本映画監督」と謳う筆者による、『赤線玉の井』論。膣のゆるい娼婦に笑い泣く――それが神代映画だ!

    • ロマンポルノから東映やくざ映画へ
      • 安藤昇は安藤昇である 〜東映やくざ映画史試論〜(クスボリ・しゅーげ)
        • 東映やくざ映画は、時代と共に2分できます。60年代は戦前の任侠道を描く「任侠映画」。そして70年代、日活ロマンポルノと共に時代を牽引したのが「実録路線」映画でした。そしてこの移行の過渡期に作られたものが、戦後を舞台にした『懲役十八年』、『日本暗黒史 血の抗争』の2作品です。この2作の主演が安藤昇です。実録路線への端緒には、実際にやくざであった安藤という、文字通り<反-虚構>の存在がありました。特攻隊出身で戦後の混沌を生き「実録そのもの」と呼ばれた安藤昇。彼と「実録路線」の歴史性を析出する論考です。
    • フィルモグラフィー(一部劇中歌抜粋付)
  2. 特集SIDE-B ゲームのリアル
    • interview:さやわか  「ゲーム批評の現在地」
      • FPS(一人称ゲーム)が海外で人気を博す一方、日本ではTPS(三人称ゲーム)がいまだ主流です。さやわかはこの差異に国内外におけるロールプレイング≒物語のあり方の違いを指摘します。その遠因は自然主義がこの国に導入された時まで遡ります。ゾライズムとしての自然主義は静的な「私」――客観的であり、それゆえに代替可能な視点を要請したのに対し、日本の自然主義は個別性が強く、キャラ立ちした「私」を要請し、結果として私小説を生み出しました。この「私」の来歴はFPS/TPSゲーム人気の彼我の差を検討する際にも有効です。日本はゲームにおいても客観的であり代替可能な「私」という視線(FPS)ではなく、固有のキャラを媒介しながら世界を眺める視線(TPS)を選好します。ゲーム批評シーンの現在から、ソシャゲ&ポケモンGOまでを読み解くインタビューです。

    • 論考
      • ソーシャルゲームのパラドックス――「ヒーロー」を巡るゲーム経験(高井くらら)
        • ゲームにおいてプレイヤーは主人公と同一化し、世界を救う英雄になります。しかしソシャゲである『Fate/Grand Order』はこの原則を完全に相対化した作品です。作中の選択肢は物語世界にさして影響を与えず、フレンド機能によって自分と同じ立場にあるプレイヤーが顕在しているのです。MMORPGであればオンライン上の他者と協働してプレイすることが可能ですが、『Fate/Grand Order』は物語外に「使命を背負うべきマスターが自分しかいない」という同じアイデンティティを持つ他者を意識しなければならない、というパラドックスを内に抱え込んでいます。主人公のアイデンティティがキャラクターにもプレイヤーにも還元されないソーシャルゲームとは、感情移入ができず、リアリズムも感じられない「経験」をもたらしているのかもしれません。ソシャゲにおけるゲーム経験を問う論考です。
      • 中国ゲーム文化私論――中国のゲームプレイヤーはSFの夢をみる(楊駿驍)
        • 近年の中国SFには、この国独自の発展を遂げた「ゲーム的リアリズム(東浩紀)」を看取することが可能です。宝樹『時間之墟』には桜坂洋『All You Need Is Kill』に近似する円環する時間軸が導入されていますが、スキルや経験値は輪廻する度にリセットされてしまう点が特徴です。プレイする度に経験値がリセットされる――それはRTS、FPS、近年のMOBA系のゲーム構造でもあります。そして『時間之墟』における転生は輪廻する世界の複数性を提示することで、作中キャラという主体すら相対化してしまいます。ここに中国SFのゲーム的リアリズムの特異点が位置しています。世界そのものが超越に到達すべく輪廻を重ねてきた/いくという構造は、中国社会の不動の現実を変革する困難さを物語ると同時に、その不可能な超越を何度でも反復するという、強迫的な欲望の表れでもあります。<中国的セカイ系>のあり方を提示する論考です。
      • 小さい頃に身振り手振りを真似てみせた憧れについて(横山宏介)
        • RPGの元祖・T(テーブルトーク)RPGは、プレイヤー自身がキャラクターを演じるゲームでした。キャラクターが所与の固有名を持たず、造形もデフォルメされている「ドラクエ」もまた、プレイヤーとキャラの距離の近さが看取できます。しかし、「FFⅦ」においてこの関係は切断されるのです。FFのリアルグラフィック路線の端緒たる「FFⅦ」においてアバタールは立体化し、文字通りキャラ立った存在として表象されます。注目すべきは主人公クラウドが中途にして、「クラウド」ではないことが明らかになる点です。ここでプレイヤーは自己の代替たるクラウドへの感情移入を妨害されるのです。「FFⅦ」の主人公たるクラウドは、その人格転換によってプレイヤーの完全なる代替であることを拒否し、同時に仮初めの「クラウド」という役割を演じる存在でもあったのです。「RPG内アバタールの存在論」を提示する論考です。
      • マリオのジャンプ音について 〜完全なる虚構と現実に近い虚構の狭間で〜(佐伯良介)
        • ゲームの効果音は当然ながら現実音を模したものに過ぎず、ゴダールが映画をソニマージュと表現したように、その映像と音響の関係性は恣意的なものです。ここでマリオのおける象徴的効果音――ジャンプ音を参照してみましょう。マリオの初登場は81年アーケード版『ドンキーコング』にまで遡ります。81年『ドンキーコング』においてマリオはバネの振動音を模した音とともにジャンプします。やがて『スーパーマリオブラザーズ』にかの有名な効果音が付されます。マリオの虚構的ジャンプ音から現実を志向するジャンプ音への変遷を考察する論考です。
      • 『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』から見るゲーム内のコミュニケーション(沼本奈々)
        • 『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』はニンテンドー64屈指の傑作『時のオカリナ』に隠れた、もう一つの名作です。サブイベントの充実、クリア難易度の高さによって、圧倒的「やり込み度」を誇る同作の魅力に迫る論考です。
      • 不可能の経験 ゲーム批評のゼロポイント(横山祐)
        • もしゲームを定義するとするなら「アバターをコントローラーで操作し、それの持つ運動と世界があたえかえす反応を楽しむもの」でしょうか。確かに、現代においてゲーム世界はよりリアルなものを志向し、アバターの向上した操作性はプレイヤーとの<積極的同化>を図るよう進化してきたように思えます。しかし『Call of Duty Modern Warfare』はアバターとの同化を促しやすいFPSでありながら、その第一章を全くゲーム的でない操作不可能な死を提示して閉じます。ゲーム内の<消極的同化>を扱う論考です。
    • 日本のゲーム批評目録 from 1984 to 2016
  3. etc
    • 君の名は、封印。(谷美里)
      • 『君の名は。』では題からも明らかなように「名前」が重要なモチーフとして描かれます。瀧と三葉は入れ替わりによって彗星による被害から村を救うことになりますが、その後、お互いの名前を忘れてしまいます。かつて東浩紀は名前とは、それを説明する記述の訂正可能性による剰余を持つと考えました。名前を忘れること≒封印することとは、かつて神に対して為されてきた行いでもあります。名を忘れ、訂正可能性を排除し、封印する。『君の名は。』は震災を意識した作品ですが、それをフィクション上で解決し、封印した作品とも言えるかもしれません。
    • 塚方健『アフリカの音楽の正体』書評(大西常雨)
      • ラップ、ジャズ、ハウス、ロック、テクノ……私たちがいま耳にするほとんどは「アフリカ的音楽」と言っていいでしょう。塚田健一『アフリカ音楽の正体』はアフリカ音楽の膨大な採集と研究を集約した書籍です。しかし、アフリカ音楽は西洋的(五線紙的)音楽観では捉えられない部分を多く持っています。まずアフリカ音楽のリズム構造は西洋的音楽観では、その分節や開始点を同定できません。また「ハーモニー」から逸脱する飛越唱法など、従来の秩序とは異なる協和も発見されることになります。新たな音楽構造を析出する本書の魅力に迫る書評です。