vol.6 特集Ⅰ : ジャームッシュ、映画の奏でる音楽 特集Ⅱ : デザインが思考する/デザインを思考する


総合批評誌『ヱクリヲ』 vol.6  1,300円 SOLD OUT
https://ecrito.booth.pm/items/742654

 
表裏のダブル表紙になります

Contents

  1. 特集SIDE Ⅰ ジャームッシュ、映画の奏でる音楽――Jarmusch’s sound system
    • interview:Atsuo(Boris)「共振(フィードバック)するジャームッシュの世界」
      • Borisは『リミッツ・オブ・コントロール』での5つの楽曲提供以外にも、ジャームッシュと相互の影響関係のもとにありました。『デッドマン』の影響のもとにBorisは『flood』を制作し、それを聴いたジャームッシュから楽曲提供のオファーを受けたーーAtsuo氏はそう語ります。ジャームッシュ『デッドマン』はドローンや「ストーナーロック」と形容される音楽とよく似た酩酊を誘う作品であり、そのサントラはニール・ヤングが映像をみながら即興で弾いた楽曲によって構成されています。半覚醒状態へと導く表現――Borisとジャームッシュをその地点において共振しています。フィードバック(共振)というBorisにおける音楽的本質を軸に、ジャームッシュからタルコフスキーにおける映画音楽の効果、そして「ドローン・ミュージックとは何か」までを語り尽くす『ヱクリヲ6』掲載のAtsuo(Boris)ロングインタビューです。

    • 論考ほか
      • 反響・パースペクティヴ・深さ――振動するジャームッシュの風景(佐久間義貴)
        • ジャームッシュは以前「音楽的な人の情緒反応を、映画を通してどう引き出すか」と語ったことがあります。その試みは『リミッツ・オブ・コントロール』で一つの到達点に達したようにも思われます。本作はBorisによる5つの楽曲提供がありました。ジャームッシュは『リミッツ』の劇伴にBoris、サンO)))といったパワー・アンビエントを使用しています。パワー・アンビエントは音を大音響で増幅することで、フィードバック効果による揺らぎ(音の現象)に肉薄します。その音楽と共振するように『リミッツ』はセビリアの街を映し出します。セビリアの幾何学的建築群や、タイムラプス的な移動ショットなど現実感を歪ませる『リミッツ』の映像は、どのようにパワー・アンビエントの楽曲と共振(フィードバック)しているのか。ジャームッシュ作品が奏でる音楽に迫る、佐久間義貴による批評文です。
      • 歌う/歌わない吸血鬼――デトロイト・ロック・シティからタンジェリン・ドリームへ(後藤護)
        • ジャームッシュによる『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』で舞台となるデトロイトは、かつて自動車産業で栄え、モータウン、ガレージ・ロック、デトロイト・テクノといった音楽を生み出しながら、現在は廃墟のように寂びれた街でもあります。かつて「吸血鬼」は搾取する資本家として、「ゾンビ」はその搾取対象たる労働者として描かれてきました。しかし 米国の脱工業化とともに荒廃を余儀なくされたデトロイトでは、その関係は逆転し、「吸血鬼」たるアダムが憂鬱に苦しみ、その彼が「ゾンビ」と呼ぶ者達が猖獗を極めることになります。そしてアダムが逃れた場所こそが、ジャームッシュの敬愛する作家ポール・ボウルズを中心にビートニクやヒッピーが集った、かつての頽廃都市タンジェでした。ロック吸血鬼アダムを通じてデトロイトとタンジェを巡る「二都物語」――後藤護(見世物学会)による批評文です。
      • Jarmusch got the Blues 「音楽映画」としての『ミステリートレイン』(白石・しゅーげ)
        • ジャームッシュは各作品に舞台となる「土地の音楽」を必ず使用しています。例えば処女作『パーマネント・バケーション』ではNYでのノーウェーブを想起させるサックスが、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』ではキーとなる「ハンガリー」の作曲家バルトークを意識した音楽が挿入されています。『ミステリートレイン』では、メンフィスを舞台とした3つの物語が変奏されますが、そこに響き渡るのは「ロカビリー」と「ブルース」です。両者はメンフィスという土地と深く関わりのある音楽形式です。『ミステリートレイン』はその両者の特性を忠実に模倣した構造を持っている点に注目です。
      • ジョン・ルーリーの〈ヒューモア〉と〈遅れ〉――ジャームッシュ映画を起動したもの(大西常雨)
        • 英国パンクとNYアンダーグラウンド、双方のシーンを経験したブライアン・イーノは前者が「反抗」という感情に駆動されていたのに対し、後者は「否定」から始まる実験的精神だったと語ります。この70年代後半のNYアートシーンにおいて交錯するのが、ジム・ジャームッシュとジョン・ルーリーです。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』等でルーリーは俳優として存在感を示す他、ジャームッシュ初期作品で音楽も担当しています。「ノー・ウェーブ」シーンの中、それをいかに彼はジャームッシュ作品で展開させたのか――音楽家・大西常雨による論考です。
      • Sara Piazza『Jim Jarmusch:Music,Words and Noise』(翻訳:白石・しゅーげ 監訳:大西常雨)
        • ジャームッシュはそのスタイリッシュさや、インディ性を強調されるばかりで殊その「音響」に十分な批評を与えられてきた作家とはいえません。しかし、サラ・ピエッツアによる大著『Jim Jarmusch: Music, Words and Noise』はその「音響」を仔細に分析しています。新刊『ヱクリヲ6』では、この『Jim Jarmusch: Music, Words and Noise』を白石しゅーげ翻訳/大西常雨監訳のもとに訳出、その書評を掲載しています(本邦初です!)。ジャームッシュ×音楽批評の最前線を是非その目で目撃してください!!
      • レビュー『ギミー・デンジャー』(白石・しゅーげ) 
        • 『ギミー・デンジャー』は、イギー・ポップ率いる伝説的バンド「ストゥージズ」のドキュメンタリーです。同バンドの音楽評価を一新する同作は、前ドキュメント作『イヤー・オブ・ザ・ホース』と比して、「ジャームッシュらしさ」が薄まっています。『ギミー・デンジャー』はその一方で、『ゴースト・ドッグ』を彷彿とさせるインタータイトル演出や、引用によるコラージュも散見されます。
      • Sound filmography
        • 『ヱクリヲ6』では、「音楽」の側面からジャームッシュを解体しています。通常のフィルモグラフィーではなく、各作品のサウンドトラックを識者による徹底解説で分析した「サウンド・フィルモグラフィー」を掲載!「音楽」としてのジャームッシュ作品の魅力を追求。
      • Jarmusch’s complete sessions
        • ジャームッシュは自身もまた音楽活動を行っており、近年『リミッツ・オブ・コントロール』等の作品ではその劇中曲で自らの演奏を披露してもいます。新刊『ヱクリヲ6』では、知られざる「ミュージシャンとしてのジャームッシュ」の活動全記録を目録化しました!この資料は他では絶対に手に入りません!
      • 諸芸術の戯れ――ジャームッシュと小津安二郎(伊藤弘了)
        • ジャームッシュはしばしば小津安二郎からの影響を喧伝される作家です。処女作には「トーキョー・スト-リー」という競走馬が登場し、『ミステリー・トレイン』にはジャームッシュ自身「オズ・ショット」と呼ぶローポジションのカットが存在します。しかし、よく見ると両者の画面は決して似ていません。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は「ワンシーン・ワンショット」である点でむしろミゾグチ的であり、小津特有の正面切り返しショットの執拗な反復はありません。他方、ジャームッシュは『デッドマン』などで古典的技法たるフェイド・イン/アウトを規範から逸脱する演出として活用してもいます。小津もまた切り返しショットという古典的技法を、過剰な反復によって独自の「様式」に昇華した作家でした。ジャームッシュと小津の双方に看取すべきは、映画というメディウムの刷新にむけた姿勢の一致かもしれません。京都大学大学院より、伊藤弘了(映画学)による論考です。
           
  2. 特集SIDE Ⅱ デザインが思考する/デザインを思考する
    • 論考
      • ランピール・デジーニュ――デザインのパラドックスについてのエッセイ(横山宏介)
        • 少し前に、 というハッシュタグがバズりました。画像を見る限り、デザインはテプラ=「文字」に「敗北」したと言えそうです。似た現象として、日本の映画ポスターには必ず、キャッチコピーなど「文字」が追加されます。一体、日本人はなぜ「文字」が好きなのでしょうか。さらに似た現象を考えれば、看板=「文字」が犇めく東京の街は「デザインの敗北」的です。あるいはニコ動の「弾幕」も「文字」好きの好例のように思えます。それぞれ「消費」と「コミュニケーション」を目的としたデザインですが、両者の奥には、より根本的な「文字」自体への偏愛がありそうです。「弾幕」が中国でもウケていることから、「文字」偏愛の理由は「漢字」にありそうです。事実、漢字は複数の「文字」で出来ており、「デザインの敗北」の文字の氾濫と相似形です。それは同時に、個別の「文字」=記号の解体を意味します。デザインをde-signと捉え直す、横山宏介による論稿です。
      • デザインとは神の不在なり(楊駿驍)
        • デザインが一つの領域として確立するのは、工業化社会の完成――近代以後です。神を世界のデザイナーと捉えるなれば、近代とは人間による世界の設計を模索する時代でもあります。映画『ウォーリー』では人間が世界を思うままに(透明に)設計することで、「非人間的」になるディストピアが描かれます。一方、SF小説『地獄とは神の不在なり』では人間による世界の設計(デザイン)が天使の気まぐれによって左右される「不透明な」世界が描かれます。それはちょうど『ウォーリー』と反転したデザイン思想であり、同時に両作の世界観は情報化社会を生きる私たちの認識と部分的に通底するかもしれません。情報社会における可視化された(透明な)「一般意志」を距離を置いて受け止めた上で、半透明な熟議を行う政治のあり様を東浩紀は『一般意志2.0』で提言しています。楊駿驍による、「世界の不透明さ」に対応する人間と人間社会の能力のデザインを問う批評文です。
      • 「VR元年」がもたらしたもの――VRの設計/意匠が捉えた映像ディスプレイ(高井くらら)
        • 「VR元年」と称された2016年は多くのタイトルが発表され、その傾向に『SKY RODEO』といった高所のスリル体験を売りとするゲームの多寡が挙げられます。現在のVRタイトルが高所のスリルを模倣する理由--それはヘッドマウントディスプレイの「重さ」にあるのではないでしょうか。従来のゲームーー据え置き型ディスプレイでは重力は前方向にしか表現されません(視覚的重力)。しかしVRは上下の視点を獲得することで「身体的重力」と同期した体験をプレイヤーに与えうるのです。初期VRの特質を「重力」にみる高井くららによる批評文です。
      • 「細さ」で見るデザインの世紀(福田正知)
        • 『2001年宇宙の旅』のタイトルコールには「細さ」を特徴とした機能主義的な幾何形体の書体が採用されています。この書体デザインの背景には構造力学と幾何学があり、その源流は1889年のエッフェル塔にまで遡ることが可能です。現代の視覚経験にはスケール伸縮性があり、拡大してもギザが目立たず縮小してもつぶれないフォントが求められます。「Futura」のような関数曲線で描出される幾何形体は、このスケールの問題を超克しました。20世紀以降を「細さ」のエポックと見做し、その後を見据える福田正知による論考です。
      • デザインを不確実な未来へとデザインする(横山祐)
        • 「スペキュラティヴ・デザイン」は有用性と合理性に特化しすぎたデザインを相対化する試みですが、しかし今日のデザイン的なるものの圧勝を相対化するには、著者は改めて今日のデザインと芸術の意義について問い直す必要があると考え、ハイデガーの『技術への問い』を参照します。日本語において固有の「芸術」という言葉に相当する概念が海外には存在しないことは周知ですが、その語源をたどるとテクノロジーとアート、そしてデザインは全てともに「騙す」という意味合いを持っていることが判明します。しかし、一体何を騙すというのでしょう。ハイデガーの芸術に関する伏蔵性の議論を参照しながら、しかし著者はデザインには今や備わっている固有の文脈を活かす独自の方法があると考え、荒川夫妻の『養老天命反転地』にデザイン的な概念の超訳の可能性を見出します。横山祐による論考です。
    • デザインを批評するためのブックリスト
  3. etc
    • ボーリング・アニメーション――エヴァート・デ・ベイヤー(松房子)
      • ユーリ・ノルシュテイン『話の話』に「物語」はない、あるのは「構成」である――。扇情的な切り口から始まり、ベラスケス『ラス・メニーナス』におけるフレーム内フレームの構成とアニメーションにおける複数シークエンスの編集を比較し、その共通点からアニメーションと物語の関係に迫ります。「物語」より「動き」こそアニメーション評価において優先されるべきと訴え、エヴァート・デ・ベイヤーによるキュビスム的動態の魅力を論じます。ベイヤーの多視点的なキャラクターと空間は、アウトラインによってフレーム化され、異なる指向性を持つ面が同時に動くことで特異な動きを生み出します。ベイヤーは機械と人工の共生という作品テーマを、3Dと2Dを融合させる手法において体現し、またドローイング・アニメーションの静脈である手描きのライン(線)を重視します。アニメーション表現の本質を問う松房子による論考です。

    • グリフィスからアベンジャーズへ――映画における特権的瞬間を巡る考察(山下研)