「個室」の変容を求めて――ウォン・カーウァイ全作品論


空間から時間へ:『2046』

 『2046』は、「広がり」の実現をより時間性に賭けた映画であるように思われる。この作品は、タイトル自体、香港返還の50年後、すなわち一国二制度解消の一年前の年号を指していることからも明らかな通り、元々時間に敏感なカーウァイ作品のなかでも特に時間的要素への言及の多い作品だ。その主調となっているのは、藤城の論じるとおり、「変化のなさ」、「時間のなさ」であり、髭を生やして現れたトニー・レオンはマギーの記憶から抜け出せず停滞を強いられている。
 この主題を代表すると見られうる場面が、二度にわたって「1時間後、10時間後、100時間後」(あるいは「10時間後、100時間後、1000時間後」)というインタータイトルが表示される作品終盤の箇所である[15]。トニーの作り出す小説のなかの虚構の国2046から戻る電車のなかで、フェイ・ウォンはほとんど姿勢を変えることなく窓際に立ち(図10)、小説のエンディングを書き換えようとするトニーもまた、筆を紙の上に構えたまま書き出すことができない(図11)。たしかにこれを、ノスタルジーから逃れられない木村拓哉の、スー・リーツェンの記憶から自由になることができないトニー・レオンの、「変わらなさ」、「無時間性」を表すシークエンスと解することはできるだろう。しかし、「1時間後、10時間後、100時間後」と過ぎさる時間のいかにも誇張された長さには、この映像が屋外からかすかに聞こえる子供の声などの微妙な音やスローモーションを生かした独特の映像を含めて考慮したとき、単なる「無時間」というよりも時間が現実を超えて奇妙に引き延ばされるような感覚が認められるように思われる。
 こう考えてみたくなるのは、この場面の直前に挿入された「10時間後」という字幕を伴うもう一つの場面の存在があるからだ。ここで小説家トニーが生み出した登場人物タク(木村拓哉)は、アンドロイドと化したフェイ・ウォンにいくら話しかけても反応がないことをいぶかしがっているのだが、車掌役のワン・シェンによって、そのアンドロイドは経年劣化のせいで反応が大幅に遅れて出ることがある、ある出来事の10時間後に笑ったり泣いたりすることがある、と告げられる。そうして画面には、「10時間後」という表示の後、一人でほほえみ、涙ぐむアンドロイド、フェイ・ウォンの姿が映し出されるのだ。

 ここにある「時間差」というテーマ、あるいは刺激と反応の間を隔てるほんの一瞬にすぎないはずの時間が異常に引き延ばされるというモチーフは、部屋の異変に長らく立ってから気づく『恋する惑星』のトニー・レオンや、愛するマギー・チャンの死をあえて秘密にされ後から知らされる『楽園の瑕』のレスリー・チャンなど、カーウァイ作品のなかに実は潜在していたのかもしれないものだ。この時間性は、トニーの部屋をフェイとの関係に開き、レスリーを小屋の外に導くというように、これまでも個室からの脱出にどこかで貢献していた。『2046』ではそれを超えて、体感される時間の引き延ばしの感覚そのものにフォーカスが当てられ、それが他作品での空間的な広がりのように、ある種の解放への経路となっている。太古の寺院においてたちまちのうちに草が芽生え、十数秒の内に「100時間」が過ぎ去っていくのを目にするとき、観客のなかでは、現実の一瞬が悠久の時間に広げられ、その硬直が緩やかに解きほぐされるような感覚が生じるはずだ。だからそれは、「変化のない」現実の、その時間感覚のなかに微妙な「変化」を招き入れ、「変わらない」過去にとらわれた現在をその内側から押し開く可能性を秘めているはずだ。

図10(『2046』、ウォン・カーウァイ監督、2004年)

図11(『2046』、ウォン・カーウァイ監督、2004年)

「個室」の中心に潜む「隙間」:『グランド・マスター』

 ウォン・カーウァイの映画最新作である『グランド・マスター』もまた、カンフー映画の一般的イメージからはかけ離れた室内的親密さに満ちた作品だが(その主要な戦いの場は狭い部屋のなかに設定されている)、それは従来の「狭さ」のテーマを、隣接する「近さ」ないし「距離」のモチーフを軸にして再編成したもののように感じられる。
 この作品のなかでもっとも緊張感の高まる二つの場面――トニー・レオン演じるイップ・マンとゴン族の頭領バオセン(ワン・チンシアン)、および彼の娘ルオメイ(チャン・ツィイー)が戦う場面――は、ともに、彼らが互いに接近しながら触れることができるかどうかをめぐって展開される。その手に持った餅を割れれば勝ち、という課題を出したバオセンに対し、イップ・マンは餅に向けて手を差し出すが、その手は不思議と餅をかすめてすれ違ってしまう(図12)。二人はまるで舞を踊るようにもつれ合い、ついにイップ・マンの肘がバオセンの肩にしっかりと接触したとき、餅が割れ、決着がつく。イップ・マンとルオメイの戦いもまた、格闘というよりは踊るような優雅なものだが、その間、二人は手を取り合って互いを引き合い、いくどか両者の顔は口づけすれすれまで接近する(図13)。
 この触れそうで触れないという距離感は、二人の恋愛的な関係性を最後まで特徴づける。ルオメイは故郷の東北に戻ってしまい、佛山に妻子と住むイップ・マンと彼女の間には「距離」ができるのだが、彼はその距離を鉄道で超えようと企てる。二人が手紙のやりとりをするなかで、紙とペン先がアップで映し出される像は、『2046』のトニーが筆を構えつつ書き出せない場面を明確に思い起こさせるものだが、『グランド・マスター』の流れの中で見ると、この筆先と紙との関係が、接触の成否をめぐる緊張感のもとに見事に捉え直されていることがわかる。日本の侵攻によって妨げられた彼らの再会の場は戦後の香港に持ち越させるが、ルオメイが彼への愛を告白したうえで、香港が自分にとって違和感を拭い得ない異郷であると述べ立ち去ることを宣言した直後、彼女は香港で死んだのだとインタータイトルが告げる。
 いささか意外に感じられる二人の最終的な近さは、彼らの微妙な関係をいっそう印象的なものにする。戦いのシーンのなかで以前にもまして繰り返し用いられるスローモーションもまた、多くが「接触」の瞬間を捉えることに捧げられている。地面に下りる足、水たまりに落ちる水滴、ぶつかり合う体、さらには、壁から衝撃で浮き上がる釘――。ウォン・カーウァイ作品にあって動く身体の全体像が捉えられないことはもはや当然だが、そこには消えては現れ、現れては消える「隙間」の空間が一貫して浮かび上がる。これは作品の政治的主題にもそのままつながっている。すでに触れた日本軍によってもたらされた東北と佛山との距離はトニーとチャン・ツィイーの距離を取り返しのつかないものにしたが、戦後の政治情勢は香港と中国との距離を作り出す。香港から中国への移動ができなくなったトニーは、ついに妻との再会を果たせなかった。

図12(『グランド・マスター』、ウォン・カーウァイ監督、2013年)

図13(『グランド・マスター』、ウォン・カーウァイ監督、2013年)

 『グランド・マスター』では、「狭さ」が「近さ」の軸に沿って再編成されていると述べた。「近さ」のその現場にある「隙間」は、個室のなかで相見える二人の人間の関係性を、さらにその近視眼的で「狭い」画面のなかに端的に表現する空間であり、それはまた、二人の隔離・孤独と結びつきの可能性とを同時にはらんだ場であるといえる。もっとも、ここまで整理した上で、『グランド・マスター』における「隙間」が、『ブエノスアイレス』や『花様年華』でのように、圧倒的な「狭さ」と拮抗し、その内側に光明を見せるような強度を持っているかは、正直なところよくわからない。私にとって、カーウァイ初の英語作品となった『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(2007年)がそう感じられたように、それは緊張感を伴った挑戦というより、ウォン・カーウァイ的空間構成の惰性的反復に見えなくもない。公開時の『グランド・マスター』の評価は概して「そこそこ」というものだったようだが、その要因はこの辺りにありそうだ。
 この論考では、ウォン・カーウァイ的「個室」を個人の孤独や閉塞、硬直の表現とそれ自体はひねりなく受け取りながら、その空間がどのように構成され、かつどのような変容によって開かれようとしているかを考察してきた。こうした読み方は、いささか個人的な方向に傾きすぎたていたかもしれない。ウォン・カーウァイの映画には、その明示的なストーリーがどれほど登場人物たちの私的な孤独や記憶にこだわるものだったとしても、よく見れば「香港」という社会的・政治的な場への言及に満ちているからだ。しかし、「香港」という視点からのウォン・カーウァイ読解が、しばしば「香港」の持ついくつかの定型的イメージ—アイデンティティの希薄さ・流動性、あるいはそれへの反動としての香港アイデンティティの希求、移行期的・経由地的な時空間性など—に寄りかかりがちであることも否定しがたい事実だろう。ここではその枠組みから距離を取って、カーウァイの時空間に何が起きているか、部屋に佇む個人と、孤独な彼らにどこか自分を重ねるはずの観客に、どのような可能性が差し出されているかを考えてみたかった。カーウァイの映画世界にあって「個室」は変更されることのない半永久的な条件だが、彼はその内側に向かって空間を開き、自己の結び目を緩めるような感覚を教えてくれる。それはロマンティックな孤独の礼讃とも違う、朗らかで優しい新たな「個室」への案内だ。

<註>

[1] 野崎歓『香港映画の街角』青土社、2005年、pp.137-90。
[2] この旅はシンガポール、フィリピン、カリフォルニアなど、概して「南」へのものである。野谷文昭はこれを「抽象的な「南」への志向」とまとめた上で、「カーウァイは地理的南に幻惑され、ブエノスアイレスを気候的にも南であると錯覚を起こしたのではないか」と魅力的な読みを提示している(実際にはトニー・レオン演じるファイはブエノスアイレスのあまりの寒さに風邪をひいて寝込む)。(小倉エージ編『フィルムメーカーズ[14]ウォン・カーウァイ』キネマ旬報社、2001年、pp.46-51。)
[3] Kosuke Fujiki. “Trapped in Between: Interim Space/Time in Wong Kar-wai’s In the Mood for Love and 2046.”『映画研究』6 (2011): pp.62-83.
[4] 『欲望の翼』の続編と見なしうる『花様年華』でも、同じくレベッカ・パンが演じる大家が最後にアメリカ移住を決める。
[5] 直接「部屋」のモチーフには関係ないが、賞味期限の近いパイナップル缶を買いまくり、通りがかりの人に強引にアイスを売りつけて笑いを誘う金城武の役柄も、この「奇妙な欲望」のバリエーションである。あるインタビューでのカーウァイによる、金城武は「常に子供だ」との評は、こうした人物造形と金城の親和性を示しているようだ(https://web.archive.org/web/20080514140143/http://www.asiastudios.com/interviews/members/wongkarwai.html)。
[6] ジミー・ンガイ『ウォン・カーウァイ』小川昌代訳、キネマ旬報社、1996年、p.85。
[7] 前掲書、pp.200-01。
[8] 前掲書、p.171。
[9] 大場正明「旅行者としての現実を見つめなおすそれぞれの帰還」(『フィルムメーカーズ[14]ウォン・カーウァイ』pp.145-47)
[10] 前掲書、p.84。
[11] 北大路隆志は香港およびウォン・カーウァイの世界におけるロマンティックな「外部」の不在を確認した上で、『欲望の翼』に「外部」の「冷た」さ(機能不全)を、『恋する惑星』から『ブエノスアイレス』への展開に「素朴な距離感」の「撹乱」を見て取り、「外部」と「出口」のない世界の「肯定」をカーウァイの結論としている(「王家衛的地理学」『フィルムメーカーズ[14]ウォン・カーウァイ』pp.66-75)。本論はこの見立てに基本的に同意しつつ、その「肯定」がどのようになされようとしているかを空間性の観点から考察するものであると言える。
[12] 前掲論文、p.69。
[13] もちろん実際に起こった出来事としては、トニーが草を穴に突っ込んだと考えることもできる。しかし事前に秘密を囁いた「穴は土で埋め」ると言われており、実際これ以外の箇所で草は画面に映らないため、意外な印象は拭えない。また、トニーがその場にいるシーンだけでも昼夜が入り混じっており、時間はこのシーンの中で明らかに不安定になっている。
[14] “Decade: Wong Kar-wai on ‘In the Mood for Love’” (http://www.indiewire.com/2009/12/decade-wong-kar-wai-on-in-the-mood-for-love-55668/)
[15] 前掲論文、p.76。
[16] 「接触」のモチーフは、オムニバス映画『愛の神、エロス』(2004年)に収録された、「手」というそのものずばりのタイトルを冠された短編作品(邦題は「若き仕立て屋の恋」)において、カーウァイが拘っていたものでもある。そこではチャン・チェン演じる仕立て屋が、一人で愛する女性(コン・リー)を思いながら彼女に渡すはずだった服に手を入れ、どうしても手の届かない彼女に「触れる」極めて両義的な瞬間が描かれている。

※2018年2月8日に『恋する惑星』についての記述を修正しました