2016年アカデミー賞について 受賞式に参加しなかったアーティスト ANOHNIの考察から


先日のアカデミー賞について、記憶も鮮やかな人がまだまだ多いのではないだろうか。イニャリトゥが「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」に続き今年も「レヴェナント:蘇りし者」で十二賞の最多ノミネートを獲得したことは驚きだったが、日本では公開がまだ待たれるこの作品よりは、公開当初からTwitter上で大いに盛り上がった、あの「マッドマックス 怒りのデスロード」の十賞のノミネートがやはりひときわ印象的だっただろう。

さて、栄光を恣にする作品に花を添える前に、一つ口添えしておくべきことがある。そのために、本年度のアカデミー賞のBest original songにノミネートされていながら、遂にセレモニーには列席しなかったアーティスト、ANOHNI(formaly.known.as Antony hegarty)について紹介したい。

antony-hegarty

 彼女は今年44歳のイギリス・チチェスター生まれのアメリカ・カリフォルニア州育ちのアーティストで、生物学的には男性だが女性を自認している。いわゆるトランスジェンダーのアーティストだ。彼女のボーカリストとしてのキャリアは長く、不遇の時代を経て、今回の受賞に漕ぎ着けた。まずは彼女がリードボーカルをつとめるバンド”Antony and the johnsons”が2009年に出した、必聴アルバムの”The crying light”から一曲紹介しよう。

サムネイルの姿に驚かれた方もいるかもしれないが、これは舞踏家の大野一雄である。このアルバムは彼に捧げられており、アートワークにも彼の姿を採用されている。リバーブのかかったピアノが響く、極めて音数の少ない緊張した場所で響くANOHNIの声は、微かにビブラードがかかっていて中性的な声音だが、不思議なほど落ち着く。確かに曲調こそ重苦しいが、青天の霹靂のような光陰を思せ、とても美しい瞬間を何度も見せる。追って大野一雄の舞踏を眺めると、その極めてたおやかで柔軟だが、一つの動きが崩れ落ちる前に芯が別の動きへ誘うような不思議な緊張には、共通の世界観を感じるはずだ。

そしてこれが彼女をアカデミー賞の栄誉に授けた一曲、映像作家のJ・Ralphとともに映画”Racing extinction”に捧げられた曲、”Manta ray”である。ANOHNIは自身も認める環境運動家である。

J・Ralphが撮る「たったティースプーン一杯の海水に込められた、驚くべき生物の多様性」の美しさは我々をまず、驚かせる。だがここでANOHNIが歌詞に込めたシンプルなメッセージを見出さなければならない。「自然が崩れれば、当然その中にいる人も崩れる。だがその自明の理を人はついに忘れていき、そして可能性としての未来の自分の子供たちが死んでいく」そうANOHNIは歌いあげる。…誰がその事実を否定できるだろうか。感情は抑えられているが、畏ろしく荘厳で、子供でもわかるような素朴な歌詞でもって、自然の危機を告げている。ひたすらに美しいからこそ、この映像と歌はより身につまされ、我々にひしひしと自然破壊への恐怖を告げてくる。この曲を作ったアーティストと、それを見出したアカデミー賞を我々は称賛すべきだろう。

しかし、彼女は当日、アカデミー賞のレッドカーペットをまたぐことはなかった。その全容が、英Pitchfolkのインタビューにて証言されている。(http://pitchfork.com/news/63773-anohni-why-i-am-not-attending-the-academy-awards/

彼女は受賞を告知されたあと、公演に向けて準備をしたが、おぞましくもアカデミーの主催側は「時間の都合のため」曲を披露する場を与えず、彼女はただ列席するのみの運びとなった。そしてもしこのまま列席すれば当日は、表では受賞もしていないアーティストが演奏する間、ハリウッドスターの中にひたすら揉まれて、その後には彼女を支えてくれた人々が悲しい顔で彼女を迎えることになるだろう。
それは間違いなく、かつてトランスジェンダーであることを公言した彼女にアメリカが示した不寛容を思い立たせるはずだ、と彼女は感じた。そして前日のLAに向けた飛行機を前に、ついに出発を断念したという。

とはいえ、彼女は自らがトランスジェンダーのアーティストだから疎外されたのではないことは知っていた。彼女はその理由を、彼女が単に地味でマイナーな世界で、さして大きな企業にとっての商材になりえないから、パフォーマンスの時間を割いてもらえなかった、と話している。

彼女のこの発言は多くの賞の機能に関する問題を浮き彫りにする。これは賞とはいかなるものであるべきなのかを内外に問い直すいい機会かもしれない。

アカデミー賞だけでなく、あらゆる賞は必然的に2つの機能を持つと言える。その一つ目は、誰しもが待ち望んでいたセレブレーション(祝福)の機能である。二つ目は、歴史的・文化的な意義のある作品の貢献に対してのリスペクト(称賛ー再認識)の機能である。

前者のセレブレーションの機能のために、アカデミー賞の中では、誰もが「待ってました!!」と目する作品や人物が受賞して、人々を沸き立たせる。その前後で、サム・スミスやレディーガガ、デイブグロールなどポップスターたちが華々しいリサイタルの場を飾る。それを見るテレビの前のカウチに座った数億人のアメリカ国民が、スクリーンの向こうの有名人がレッドカーペットを横断するときの子供のような興奮ぶりに共感し、レオナルド・ディカプリオがようやく手にした賞に感動をあらわにする様にも共感している。これは不可欠の機能だ。というのも、賞自体の価値、ひいては文化ー映画の価値を広く大きな人々へ開くため、それはまず祝祭でなければならない。(又吉直樹が芥川賞を受賞したことにも少なからずこのような背景があるのだろう。

だが同時に賞はそこで終わってはならないのだ。賞は賞自体を祝祭で使い果たして終わりではなく、同時に最もシリアスで地味なものでもなければならない。なぜなら他の栄誉ある賞と同様、アカデミー賞もまた、いくつもの、怜悧で、知的で、クールな作品に最多ノミネートを与えてきた。アカデミー賞は、第一の祝祭の機能と同時に、第二の称賛の機能に悖り、後世の人々がもし映画を「学びたい」と考えたとき、彼らはその礎を示すようなものでなければならない。

しかし、アカデミー賞はいまこの2つの機能に引き裂かれて、深刻な問題を抱えている。2000年代後半、コーエン兄弟の、最も謎に満ちた魅力的な殺人鬼を描いた「ノーカントリー」が絶賛されたとき、それはいわゆる「批評家たちのダーリン」と呼ばれ、暗くてよくわからない作風は、大衆の華々しい気分をしらけさせた。

以後内輪の絶賛をよそにアカデミー賞の視聴率は低迷していき、対策を余儀なくされる。とはいえそれは必ずしも腐敗を意味しない。近年のアカデミー賞は本来、アカデミー史上でも最も売れなかった(僕は4回劇場に向かった)「ハートロッカー」を絶賛することもできる賞であり、また自らにその役を任じているはずだ。 だが大衆の機嫌を損ね、賞自体の規模が危うくなれば、同時に社会的な影響力を損なってしまい、賞の意味も薄れてしまう。このような非常に繊細な二律背反のバランスの中で、アカデミー賞がAOHONIのための時間を割けなかったことは、率直に責めるべきではないのかもしれない。

 

とはいえ、早まってこの問題を悲観的に捉える必要はない。やはりアカデミー賞が開かれていれば、マイナーだが見るべき価値のある作品にも、いずれは大きなプレゼンスに開かれる可能性が与えられる、ということだ。前述したANOHNIは全くたじろぐことなく、最新アルバムの先行シングル”Drone kills me”をapple music上に上げている。この曲は、今や大量無差別虐殺兵器と化した米国のドローン戦略をその重々しい作風で改めて批判している。以下にリンクを貼っておこう。

https://itunes.apple.com/jp/post/idsa.c9f49974-e62f-11e5-a769-f18b118b72da

そして、ANOHNI自身も今や、アカデミー賞に列席しなかったことを、自らのスノビズムへの反感から改めて誇っている。そのことがインタビューの最後の発言からわかるので、この発言を抄訳するとしよう。

「私はいくつかのいい感じのバラードソングとか、古き良きエンタメとかに懐柔されるつもりはない。彼らは虚構的なモラル・イシューや自意識の向上などに向けて旗を振ることで、自分たちこそ人々の心を最も動かしているのだと、私たちを納得させようとしてくる。

だが忘れてはいけない、多くのセレブも億万企業の景品に過ぎず、彼ら自身はその企業への承認と資本を与えるよう操作されているにすぎないのだ。彼らがタップ・ダンスで金をせしめている間に大事なものが失われていく。彼らはアメリカで最も偉大な人物を装うだけの、アマゾンやグーグルのような大企業の商品だ。アメリカはもはやその大陸に物理的にとどまらず、世界の権力と主導権を熱望している。

私は、自分の有用性を最大限に活用して、生物の多様性と人間の尊厳の達成のために、自分の影響し得る範囲で代弁していきたい。」

もちろん著者はこの問題の先、アメリカの資本主義とグローバリズムの功罪などについてはこの場での裁定の権利は持たない。だからここから何を感じるかは、読者に委ねることとしよう。

(了) 

by 横山 祐