今ここで、何かが立ち現れる――サンプル『ひとりずもう』を観て


劇団サンプルの最新公演『ひとりずもう』を観た。この作品の面白さと尽きせぬ魅力はおそらく、それが既成のジャンルに区分できないところにあるのだと思う。パンフレットには「テスト・サンプル05『ひとりずもう』」としか記述がないことからも分かるとおり、作者である松井周もこの点に意識的であると思われる。この作品は、従来の意味での「演劇」や「コント」、「パントマイム」等々のどれにも似ているところはあっても、果たしてそのどれでもないのだ。

『ひとりずもう』は、15分ほどの一人芝居が5ブロック合わさったものから成る。奥田洋平演じるサラリーマンが、顧客にマンションの一室を案内する『内見』。野津あおいの、同棲していると思われる恋人とのちょっとした諍いや、テルと呼ばれる犬のぬいぐるみとのやりとりを描く『テル』。中学校の三者面談で、親子を前に徐々に変態性をあらわにしていく教師を松井が演じる『面談』。辻美奈子が、あるアートの展示会で、やってくる様々な客と応対することで展開されていく『作品』。そして最後は、謝罪会見場に現れた有名芸能人と思しき古屋隆太が、記者たちと珍妙な応答を繰り広げていく『謝罪』。先だって「一人芝居」と書いたことからも既に明らかなように、それぞれの役者の対話相手は実際には存在していない(舞台装置や音響、照明などの演出も最小限に抑えられている)。にもかかわらず、役者の一挙手一投足から、観客は徐々に設定を共有してゆき、作品の世界へと引き込まれてゆく。面白いのは、観客に対して設定や出来事が徐々に開示されていく、その手探り感だ。

『ひとりずもう』の役者たちは、一人芝居の常套テクニックであると思われる「復唱」をほとんどしない。つまり、見えない相手の発言を「え? ○○だって?」と繰り返し、それによって観客と設定を共有するという行為を断固として排除しているのだ。その代わり、役者たちはしばしば発言を途中で「切断する」。すなわち、見えない相手によって言葉をかぶせられてしまった、という体で言葉を言い止めるのだ。ここには、存在しない相手(あるいはそれを観客と言い換えてもよいだろう)に対する、より生産的かつ倫理的な態度がある。「復唱」が見えない相手と切り結ぶ共犯関係は、しばしば観るものをシラけさせるのに対して、「切断」によって見えない相手との間に到来するせめぎ合いは、観るものを緊張の渦に引き込む。もし芝居が二人の人間によって演じられていた場合を考えてみよう。相手がトチるなどして、こちらの予想外の展開となることは往々にしてある。だが一人芝居においては、言うなれば一人で二人分を演じているわけだから、架空の相手の返答を待つ時間などは、役者の匙加減となるだろう。しかしそのことによって役者の言動がルーチン化してしまえば、予定調和となり、面白みは一気に減じてしまうだろう。役者は瞬間ごとに、見えない相手とせめぎ合いながら、一緒に場を、出来事を作っていかなければならないのだ(『ひとりずもう』が傑出していると思われるのは、それが芸術作品を突き詰めて考えた場合に不可避的にぶつからざるを得ない「即興」という命題に肉迫しているからだ。この問題に対して今ここで論を全面展開することはできないが、問題の在り処をよりはっきりと探り当てたい向きには佐々木敦『即興の解体/懐胎』をお勧めしておく)。そしてその地点からが各々の役者の腕の見せ所であるが、彼らは自らの言動に(無)意識的にノイズ(言いよどみや手足を「持て余す」動き)を呼び込む。この作品において観るものの心を揺さぶるのが、そうしたいくつもの豊かな細部であることは間違いない。

ところで、冒頭で述べたこの作品のジャンルレス性を、この作品と「似ているところがある」と書いた「パントマイム」を比較項としながら今一度論じてみたい。パントマイムは、磨き上げられた身体の動きによって、そこに存在しないはずのものをあたかも存在しているかのように見せしめるというパフォーマンスだ。満ち足りた空間から色々なものを減算し、しかしその減算したものを再び存在しているように見せるという点においては、その目指すところは『ひとりずもう』と同じであるようにも思われる。だが二つはすんでのところで袂を分かつ。悪いパントマイムがしばしば「(見えないけど)ここには何があるでしょうか?」的な答え合わせゲームに陥ってしまうのに対し、『ひとりずもう』の魅力は、決してそのような既知のものとの合致に面白さを見出さないところにある(もちろん、素晴らしいパントマイムには、『ひとりずもう』と同じく「過程」の味わいがあることは付記しておく)。この作品はまぎれもなく「リアル」であるが、その「リアルさ」とは、決して「現実との親近性」や「分かりやすさ」に対して解答一致的に求められるものではなく、絶えず「来るべきもの」=「未知なるもの」に対して、問題提起的に求められるものでなくてはならない。『ひとりずもう』が見せる問題提起的な「マイナスワン」は、観客を絶えず前のめりにさせるのだ。

全4回のみの公演であった『ひとりずもう』を観ることができたわれわれは、「今ここで、何かが立ち現れる」という蠢動に遭遇できた幸福な観客だ。サンプルの今後の活動に目が離せない。

 

谷口惇