おうえん×くんれん=プリズムのきらめき


 4月に突入し、いわゆる「新生活」が始まった人もいるのではないだろうか。かく言う私もその1人で、職場自体は居心地がよく、まだ忙しくないのだが、いかんせん通勤が憂鬱である。ほんとうに電車に乗りたくない。そんな新社会人(ならびに似たようなことを感じる全ての人達)にありがちな状況を改善するのが、今回紹介するキンプリである。

 

 

 「キンプリ」こと『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(エイベックス・ピクチャーズ、2016年)は、『プリティーリズム・レインボーライブ』(テレビ東京、2013年4月6日~2014年3月29日)に登場する男子アイドルをメインとしたスピンオフ映画(であると同時に電子ドラッグ)である。今年1月に公開されたのにもかかわらず、4月現在も絶賛上映中である。当初は上映映画館も14館と少なく客入りも悪く、マイナー作品となる予定であった。しかし、制作スタッフやファンの熱意により、「キンプリはいいぞ」というワードと「尻からハチミツ」「全裸でハグ」「鋼の腹筋」など謎のあらすじがたちまちTwitterなどで広まって、上映館も大幅に増加し、プリズムの世界へと多数の男女問わずが連れて行かれたのである。「プリズムエリート」と呼ばれる熱烈なファンは、10回以上見に行くのが当たり前で、更に毎回キンプリを知らない友人を連れ込み、マルチ商法のごとく拡散されていった。「熱烈」といってもごく一部の過激なファンではなく、友人の少ない一般的女子大生であった私ですら周囲に3人もいるような頻度でエリートはいるのだ。

 あらすじから推測できるようにツッコミどころ満載の、爆笑必須のおバカアニメではあるのだが(『MAD MAX』や『ボボボーボ・ボーボボ』などが好きな人にオススメ)、一方でその編集力や構造の素晴らしさにも定評がある。それについては、私よりも「プリズムエリート」達の方が熱意もあって作品事情についても詳しいレポート・批評を書いているのでぜひ検索してみてほしい。私は今回、キンプリがなぜここまで爆発的に人気になったのか、その現象を考察してみたい。

 

 キンプリは単なるアイドルアニメではない。キャラクター達は「プリズムショー」(この演出は『ラブライブ!』監督の京極尚彦である)というショーを行い、その「プリズムのきらめき」でショー中のみならず観客達の日常すらも輝かせる「プリズムスター」である。彼らは、「女の子をもっともときめかせるプリズムキング」になることを目標に歌い踊り、それぞれ「プリズムジャンプ」という必殺技を持ち、スケートのようにステージ上を滑りながらショーを行う。

 まさしくこれはライブではなく、ショーである。曲のはじめは普通に歌っているのだが、サビに近付いてプリズムジャンプをやりだすと、プリズムのきらめきが辺りを包み、様子がおかしくなってくる。たとえば、天涯ベッドに寝そべったキャラクターが「寝過ごしちゃった!」「でも大丈夫!僕達が送り届けてあげるよ!」と天涯ベッドごと飛んでいくシーン、また急に学校のシーンが挿入されたと思ったらキャラクターがカメラ(相手視点)に向かって告白を始め、そのカメラをまるで相手の頬に手を添えるように掴んで(カメラは揺れる)キスをするシーンなどが、曲を後景化して展開される。『ラブライブ』の大きいスケール感や、『うたの☆プリンスさまっ♪』のファンタジー(?)要素のある演出を、より極端に表現したことでもはやライブを超えてしまったのである。場面によっては画面下に観客用のセリフテロップが表示され、それを観客が言うことで作品として完成するようになっている。更に、「おうえん上映」という、声援・サイリウムを許可されて実際にショーを見るように映画を楽しむことができる回も何度も設けられた。映画の入場者特典には、「プリズムスタァ総選挙」の投票券が用意され、その投票結果によっておそらく作られるであろう後編で描かれるとされる「プリズムスターカップ」の展開も変わってくるらしい。これらはすべて、もちろん「観客をいかに没入させるか」、細かく言うと「いかに観客に熱心に応援させるか」のための工夫である。

 

 最初にも言ったが、この作品は『プリティーリズム・レインボーライブ』(以下、プリリズ)という、いわゆる「女児アニメ」のスピンオフ作品である。女児アニメは、基本的には小学校低学年くらいの女の子が「こんな女の子になりたい」と憧れながら見る女子目線のものである(もちろんその例に漏れた「大人のお友達」も存在するが)。それゆえに、「プリズムジャンプは心の飛躍」と表現され、感情移入の先にあるキャラクターの心情に同期した演出がされる。「頑なな心のままだと(中略)プリズムジャンプを成功させることはできない」し、悩みを乗り越えて覚悟を持っていると、ジャンプの連続数が増えたり、過去の自分より良いジャンプが飛べるということだ。

 そして、キンプリも「女の子をもっともときめかせる」とあるように女子目線(年齢に違いはあるものの)であり、「女の子が『応援』したくなる男の子」が登場する。プリズムジャンプも女の子(ファン)へのアプローチやバトルモノのような攻撃(防御)をするという、二人称、もしくは三人称視点で楽しむものになっている。その証拠にこれだけヒットを飛ばしたにもかかわらず、「歌ってみた」「踊ってみた」系の「なりきり」コンテンツが少なく、そのようなコンテンツが得意なニコニコ動画に投稿がほぼないのだ。

 その「応援したくなる」要素はストーリーにもある。プリリズ内で登場する男の子として主人公格である速水ヒロは、他人の曲を自分の作った曲だと偽ってデビューして人気を得る、いわば悪役ポジションである。しかし、終盤には卑怯な手を使ったことをファンの前で謝って更正してみせ、キンプリではいい先輩となっている。このように間違える存在として、そして自分の非を認めて向き合ってみせる態度こそ、女の子が「応援」してしまう大きな要因だ。それは度々作品内で語られる、「勝者じゃなく勇者になるんだ」という旨に表れている。

 「勝者」はそもそも自分の応援がなくても大丈夫であるし、応援しがいはない。「勇者」は勝てる時も負ける時もあって、しかし勇敢で信念を持っているため敬意をもってしまう。「勝たなくていいから信念を持て」、それが女の子が望む男の子像なのかもしれない。個性豊かな登場キャラクターそれぞれのキャラクターがプライドを持ち、それぞれの勇者像を目指す。具体的には「シンデレラ城の前で写メを撮」るのではなく、「一人じゃ行かないような街のはずれの単館映画館でロマンたっぷりのクラシック映画を観て過ご」すような……? と誰かの声が聞こえてくる(『ヱクリヲvol.4』参照)。

 

 そして、映画のシーン展開やカットに合わせて声援を入れ、サイリウムを振ることを考えてみてほしいのだが、これがなかなか難しい。つまり、完璧な応援は何度も劇場に通い、映画を邪魔せず、その展開が自然とわかるように訓練された者にしかできない。それゆえ、彼女達は「エリート」なのである。キンプリの面白さが理解できなかったり、完璧な応援ができる境地に達していないのは、「自分の訓練不足」なのだ。映画館でキンプリエリートを見ていると、「自分もあれくらい楽しみながら作品を見たい」を感じてしまい、家で感想などを見て流れを確認し、また映画館に足を運んでしまうというサイクルができているのである。そして実際に訓練してからの方が楽しく、また再度見ても発見があるようにできているので、飽きもしない。ここで編集力や構造の素晴らしさが光る。

 

 

 しかし、訓練が必要なのはキンプリだけじゃなく、他のアニメにおいてもそうだと言える。たとえば、『ヱクリヲvol.4』で日本アニメ(ーター)見本市特集をやってみてわかったことだが、一般的に放送されているものでも、アニメを見るという行為そのものに訓練が必要なのである。アニメはもはや、映画などではなく古いアニメを参考に新しいアニメを作れるフェーズに入っている。そのようなアニメ文化の中で練られているアニメは、絵の造形が「アニメ的」すぎていたり、「アニメ声」すぎていたりで、アニメを普段見ない人にとっては拒否反応を起こすことも多いだろう。それは排他主義的に見えるかもしれないが、一方でそれだけアニメ文化が醸成しているからだとも言える。

 また、イベントやライブに行くと、オタク達の愛情表現にも訓練度の差があるのも見てとれる。普通にグッズやTシャツを身につけるカジュアルな層から(グッズを買っている時点でこの時代、十分好きさが伝わるが)、好きなキャラのカンバッジやラバーストラップを鞄の表全面に並べた「痛バッグ」、その上位互換の「痛ハッピ」などなど、それらはアニメのジャンルに関係なくある程度様式化されているのだ。訓練度が高いほど、「買わなきゃ」ではなく「気づいたら買ってた」と、息をするようにグッズを買う。自分の推しのグッズを重複関係なく集める、いわゆる「無限回収」が行われている。その収益がコンテンツの継続に繋がることも多く、まさに現実的な「おうえん」となっているのだ。そのグッズやイベント参加などに散らばっている「おうえん」を、「おうえん上映」、つまりコンテンツそのものに注ぐようにしているのがキンプリなのだ。監督などの出演するイベントはあくまで舞台挨拶のように映画に付随したものであり、グッズもまだまだ少ない。マイナー作品になりかけたからこそ、映画本編以外に手が回っていなかったからこそ、爆発的にヒットに繋がったのである。

 

 話を戻そう。そんなプリズムショーを見ると、その「プリズムのきらめき」に触れると、日常すら輝くのである。

 プリズムショーの要所で出てくるモチーフは、乗り物である。それも自転車、電車、ベッド(???)など、家から学校や職場などに向かう時に一般的に使うものばかりである。それらの行き先は(別れのシーンを除き、プリリズ時代も含めて)「パラダイス」だ。学校へ行かなければいけない憂鬱な気分の中で、キンプリを見ていれば「この電車で向かう行き先はそんなに憂鬱なものではないんじゃないか」と気分も和らいでくる。ベッドで起きた瞬間、駅まで自転車を漕いでいる時、電車に揺られる時にあのプリズムショーを思い出せば、「大丈夫!」と言うキャラクターが浮かび、キャラクターがパラダイスまで送り届けてくれ、たちまちプリズムのきらめきによって世界が輝いて見える――と、訓練されていくと本気で思えてくる。これが、キンプリが「電子ドラッグ」と呼ばれる所以である。

 この「プリズムのきらめき」は、参照した動画を見ればわかるが、プリクラのようにスクリーンを縁取るキラキラしたエフェクトのことである。割と直接的な演出だ。最初に見ると驚くだろう。ここでも、その縁取りによってカメラのフレームが意識させられる。フレームがあることで、「触れられない存在」であることを意識し、だがその一方で、別世界ではなくカメラで撮ることのできる世界、つまり私たちが生きるこの世界と地続きであるのではないかと思わせるのだ。地続き――それは、何も虚構と事実の分別がついていない訳ではなく、アニメの世界と論理法則や構造が共通しているという意識の問題である。このように、キンプリの演出は大袈裟なファンタジーであるにもかかわらず、全くのファンタジーではないと思わせる仕掛けによって、日常を輝かせることができるのではないか。

 

 「この満員電車はもしかしてパラダイス行き……?」と考えるには、まだ私の訓練が足りない(2回視聴)。しかし疲れていても、キンプリを見てプリズムのきらめきに触れれば元気になれる。訓練されて、より作品を楽しめるようになる。そしてキンプリという「勝者」ではなかった作品そのものを、「勇者」である理由を周囲に布教して、何度も見ることで「おうえん」する。「おうえん」と「くんれん」――それがキンプリと視聴者を繋ぐものの正体なのではないか。