ランドスケープとしての写真展――「トーマス・ルフ」、「ロスト・ヒューマン」展から


 トーマス・ルフの展示に行くと、「写真を見る」のでなく、「見る写真」に立ち会うという現象に出くわす。彼の作品は、写真のメディア性について言及するものばかりなので、トーマス・ルフという作家が、写真をどのように捉えているか、そのアイデアに美術館で遭遇するといった感じだ。その視点は理に叶っていて、そう品も悪くなく、普遍的な写真の捉え方でもあるから、特に異論を唱えたくなる人はいないだろう。まあだからちょっと、物足りない印象を受ける人もいると思う。学生時代にゼミの課題で取り組んだ、アッジェ風の景色をアッジェ風に撮るとアッジェ風の印象が現れたという『Interieurs(室内)』に始まり、どれもこれも習作めいていて、コンセプトの視覚化といった面持ちがある。かといって、写真史をプログラミングした人工知能による作品とまではいかないバランス感覚があって、彼は写真というメディアのデザイナーのようである。だから、ルフと同じく写真のメディア性にこだわりながら、その行き過ぎた偏愛が写真家個人の斜視として作品に焼きこまれていった70年代の日本人写真家の「アク」を愛する人たちは、ルフの写真に拍手喝采といかず彼の作品をじっと見るに留まるだろう。言いたいことは分かるけど、ねと。

 私はというと、正直彼の展示に救われた。ルフ展に行く2日前、杉本博司の展示に行ったばかりだったし😔〔*1〕、そのほかもう、何度目と数えることもなくなった写真をめぐる絶望を繰り返したタイミングでもあったから。

 

 杉本博司とトーマス・ルフは、コンテンポラリーフォトの寵児である。杉本の展示はインスタレーション化し、ルフは写真家でなくメディアアーティストと呼ばれさえする。写真におけるコンテンポラリー(現代)をここ10年に仮定すると、彼らの寵児たる所以とも符合する〔*2〕。「ロスト・ヒューマン」展と「トーマス・ルフ」展には、「実際に作品の前に立たねば、写真を見ることができない」という共通点がある。この素朴で遡行的にも思える特徴は、しかし未だに「実物と複製の差が曖昧にされている」写真においては1つの契機である。かつてヴァルター・ベンヤミンによって科せられた、複製芸術においては美術鑑賞における「いま・ここ」が発動しないという枷をいかにして彼らの展示が解錠せしめたか、「ランドスケープ」としての写真展について書いていく。

 

○トーマス・ルフ「トーマス・ルフ」2016.8.30-11.13 東京国立近代美術館

 トーマス・ルフはスケールの作家だ。彼の作品コンセプトと、その具現化であるアクリル板のサイズは常に連動している。彼は私たちが日常的に接する画像や写真のありようを視覚化するので、たとえば証明写真を異常なまで拡大したような『ポートレイト』は、非日常的なスケールによって鑑賞者の注意を喚起する。写っている人物よりもサイズに注目させることで、写真から被写体を視認する用途を剥奪し、色や質感、写っているもののディティールをつぶさに見ることを要求する。

 「トーマス・ルフ」展では、回顧展らしく原則として制作順に作品が並ぶ中、この『ポートレイト』だけは入り口すぐに置かれていた。観客が鑑賞に適切な距離を自分の足で測れる空間を確保するとともに、展示の終わりを飾るルフの最新作、写真史の「ポートレイト」と対応する構成になっている。新作の『press++』は、かつて報道写真がプリントされる際、余白や裏面に付記していた文字情報、撮影者の名前や色指定などの文言を、画像の上に強引に重ねたものである。それは、ある特定の写真が持つ歴史、その写真が生まれるまでの経緯や時間の流れを、見える形に起こす試みである。デジタル化によって消えていく、かつて行われていた印刷プロセスという写真の歴史を可視化させる、印刷物における写真史そのもののポートレイトといえる。

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Thomas Ruff,《Porträt(P. Stadtbäumer) 》, 1988年 C-print 210 x 165cm

© Thomas Ruff / VG Bild-Kunst, Bonn 2016

 「ロスト・ヒューマン」展の来館者数は6万7千人で、これは成功とされる現代美術展の約3倍の集客数だという。シリーズ『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』は、古物、詩句、写真の3点を組み合わせたインスタレーション作品で、33セット(計99点)がリニューアルオープンしたばかりの写真美術館のスペースを埋め尽くしていた。

 杉本博司のプリントは大きい。そして紙である。これにより、彼の写真は物質としての存在感を獲得する。「ロスト・ヒューマン」というタイトルが反語的に示唆するよう、杉本はモノに対する嗜好を、杉本自身が収集する古物やフィルム、紙焼きプリントにこだわることで露わにする。

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ラストサパー サンディ 1999/2012 ゼラチン・シルバー・プリント ©Sugimoto Studio

 

 彼らの写真はサイズが大きいことも理由に、美術館などで現物を前にしなければ「見る」ことができない。ルフの『ポートレイト』は、普段私たちの手のひらに収まる写真が、鑑賞者の身体を越えるスケールで提示されることに意味があり、展示会場で喚起される感覚を図録サイズの写真から得ることはできない。杉本博司のインスタレーションもまた、写真を含む複数のオブジェクトが不可視的に形成する空間に、鑑賞者自身が身を置くことで初めて作品を知ることができる。

 

 実際に実物を見なければ、作品を見たとは言えないという、美術鑑賞においては当然の姿勢が、今まで(今でも)写真においてはほとんど蔑ろにされてきた。アイドルの写真を見て、アイドル本人を見たと発言する人はいないのに、今このサイトに貼られたトーマス・ルフと杉本博司の画像を見て、彼らの写真を「見た」と仮定した人は少なからずいるだろう。それはかつて写真が抱えた複製性の議論―1枚のネガから2つ以上の「ほんもの」が生まれる―が、現代においてはインターフェースの問いに移行していることを示す。写真を「インターネット(モニター)で見るか」「写真集で見るか」「展示室で見るか」、それぞれが異なる視覚体験であるにも関わらず、私たちは普段そうした差異に目を瞑っている。

 オリジナルの美術作品と鑑賞者が向き合う際に生じる「場」の一回性、その緊張感が複製品においては発動しないとしたベンヤミンの指摘は、特にデジタル写真において今なお有効である〔*3〕。私たちはPC上で画像データをコピーする操作手順にも慣れ、視覚的なインターフェースの違いについて議論することは不寛容な原理主義に基づく気さえしている。こうした状況に対し、「トーマス・ルフ」展と「ロスト・ヒューマン」展は、写真という視覚表現に空間を取り入れることで「いま・ここ」を獲得しながら、さらにその「いま・ここ」という不分明な印象論からも脱しようとしている。彼らの展示がスペースを要するのは、なんとなしに作品サイズが大きいからではない。トーマス・ルフにおいてはスケールの選択が作品コンセプトと連動するため、杉本においては古物や印画紙が持ちうる「ほんもの」の提示が作品の根幹と関係するためである(彼の恐ろしいクオリティを有する大判の紙焼きプリントとフィルムへのこだわりは、杉本博司という写真家の哲学の具現化そのものである。そしてその写真の質感は、やはりモニター越しに知覚することはできない)。それから、美術表現における空間インスタレーションとも彼らの展示が異なるのは、「見る」ことをどこまでも訴求する写真という表現メディアにおいて、この試みがなされるためである。彼らの展示スタイル自体が、<モニターに表示される複製画像を視認すること>と、<美術館で「ほんもの」を鑑賞すること>の違いをステートメントのように掲げている。

 

 最後に、2つの展示に「ランドスケープ」という語を掲げた理由をもう1つ挙げる。それは彼らの写真が、写真という視覚表現ながら、鑑賞者自身の「身体」を介さねば「見る」ことができないという特徴を持つためである。私たちが現在、日常的に接する写真は、小さく、そしてiPhoneやPCモニターの工業的な規格サイズに固定されている。この色信号の集合体として暫定的に示される画像に対し、見る者の身長やそれを超える実体として存在する彼らの作品は、モニターを介しては知覚しようがない。見上げたり、作品に囲まれて振り返る「身体」を通して、私たちは彼らの作品を鑑賞する。

 

 このようにして、「トーマス・ルフ」展と「ロスト・ヒューマン」展は、写真の複製性に対する過去と現在の両テーゼ、「いま・ここ」とインターフェースの議題に応えながら、さらに身体的な目という新たな提案を含んでいる。彼らは今なお、コンテンポラリーフォトグラファーの名に恥じない写真家である。写真表現はいま、あるいはもう10年ほど変革期を漂っている。PCとインターネットの普及、スマートフォンにSNS、これらが「画像と写真」「コンテンツと作品」の境界を今日も撹拌している。かつて写真が、見る衝動に突き動かされた「瞬間性」を携えていたのに対し、トーマス・ルフと杉本博司の写真は充分な制作時間とプロセスを伴って、計画的に制作されている(杉本の劇場シリーズは2時間前後の長時間露光によってようやく像を結ぶ)。鑑賞者はかつてのように写真家自身の直截な目を追従するのでなく、彼らの熟考された「まなざし(視点)」を共有し、写真家は、自分の写真がどのように「見られる」かに意識をはらうように移行している。

 写真表現の機運に反応し続ける写真家たちに対し、私たちの写真について思考する土壌は、どのように更新されているだろう。写真をめぐる環境はいまどのような事態にあるのか、私は同時代的写真について思考する者に出会うべく、この文章を書いている。

 

松房子

 

*1

http://www.contemporaryartdaily.com/2014/09/hiroshi-sugimoto-at-palais-de-tokyo/

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Hiroshi Sugimoto, view of the exhibition “Aujourd’hui le monde est mort”, Palais de Tokyo 2014. Photo : André Morin.

 

パレ・ド・トーキョーで展示された同作の記録写真を見る限り、この作品は成立してみえる(私は実際に観ていないので分からないのだが……)。しかし東京での展示は、極小スペースに展示品を詰め込み、私設博物館の様相を呈したものだった。作家本人がパリでの広範なスペースと対照的に日本らしいミニマム感に挑みたいと提案したのかもしれないが、現在進行形で高額で売買されている杉本の作品や古物を詰め置くことに対して、美術館はどのような議論を持ったのだろう。展示会場では、彼の写真と古物が並列に置かれることでいっそう商材感を増し、さらに所狭しと置かれる猥雑さにより、平売り感さえ与えられていた。杉本の写真が古物、詩句と一様に均質化されていて、これが「写真」というものの特性をどこまでも提示すべき写真美術館がなすべき取り組みなのだろうかと感じた。

2016年11月23日、写真美術館が主催したシンポジウム「写真美術館はなぜ、必要か?」において、企画課長の笠原氏は「ロスト・ヒューマン展に対して、写真でなく現代美術では?という声が寄せられるが、出自が写真だろうと美術だろうと良いものは良い」と述べた。問題はその哲学の是非でなく、写真のキュレーターが現代美術のキュレーションも行ってしまうガサツさにあるのでないか。写真美術館の必要性は、杉本博司の写真をお金持ちの家で見ることと美術館で見ることとの違いを、作品点数の量という予め与えられた恩恵以外の点で提示することにあるだろう。それが写真や美術の価値を来館者に提案する、美術館キュレーターの役割である。私設博物館と公的な博物館・美術館の違いの一つは、プロのキュレーターの在、不在である。フランスでの展示空間には、写真、古物、詩句が互いに刺激し合い、止揚していくような「場」があったのでないか、東京の展示においても『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』と別フロアで展示されていた『仏の海』のインスタレーションから伺うことができる。

 

*2

杉本博司が護王神社の設計を手がけたのは2002年で、以降も建築やモノへの嗜好性を強めた作品を発表している。トーマス・ルフは2003年を最後にカメラのシャッターを押していないという。

 

*3

一方で紙焼き写真は、レコード針の影響を受けて音質を変化させるLPのように、日々オリジナル性を獲得している。アッジェの写真は時の経過とともに歴史的価値をいや増し、同じく経年変化の影響を受ける印画紙を用いる杉本の写真も、彼が愛好する古物同様「ほんもの」としての価値を日々醸造させている。

 

○杉本博司「ロスト・ヒューマン」

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2565.html

 

○トーマス・ルフ「トーマス・ルフ」

http://thomasruff.jp/

巡回:金沢21世紀美術館

2016年12月10日(土)―2017年3月12日(日)

 

※画像掲載にご快諾、ご協力頂いた、東京国立近代美術館(読売新聞文化事業部)、東京都写真美術館、Palais de Tokyoさまに心より御礼申し上げます。