『トリスタンとイゾルデ』のおよそ60年後に作曲され、ワーグナーには見られない軽妙さを備えたリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』(以下『アリアドネ』)は、ややいびつな構成をしている。2部からなるこの作品、前半は「プロローグ」、後半は「オペラ」と呼ばれ、後半は前半の劇中劇なのだ。舞台はある金持ちの邸宅、その晩の催しに出演する2つのグループの音楽家が楽屋で、どちらが先に演奏するか言い争っている。ひとつは「作曲家」がこの日のために用意したシリアスなオペラ「ナクソス島のアリアドネ」を担当する、崇高な芸術の信奉者のグループ。もうひとつはツェルビネッタ率いる、まじめな芸術などくそ喰らえの、喜劇役者のグループ。この2つの派閥の言い争いは、時間の短縮のため喜劇とオペラを同時に上演するようにという執事長の命令によってさらに紛糾することになる。
悲劇と喜劇、高貴なものと卑俗なもの、芸術と演芸、理想と現実、こうした両極端をどのように結び合せるかが『アリアドネ』の主題であり得ることを、東京二期会が上演したカロリーネ・グルーバーによる演出(2016年11月26日、日生劇場)は、黙役の天使(プログラムの表記による)によって示した。グルーバーの舞台では、白い腰布をまとい背中に羽をつけ弓矢を持った少年(小島幸士)が、プロローグ中舞台上をうろついている。天使は古来、「天上と地上、眼に見えないものと見えるもの、精神的なものと物質的なもの」を「つなぐ役割」を果たす存在である(岡田温司『天使とは何か』中公新書、2016年、p.22)。グルーバー演出においてこの天使は、作曲家が代表するオペラ・セリアの世界と、ツェルビネッタが代表するオペラ・ブッファの世界を繋ぐというテーマを示しているようだ。
実際プロローグの終盤で、いがみ合っていた作曲家とツェルビネッタは急接近する。舞台での自分は本当の姿ではないと語るツェルビネッタに対し、作曲家は心惹かれついには彼女にキスして、喜劇団との共作を許可すると同時に、音楽の神聖さを恍惚としながら高らかに歌い上げるのだ。ここには2人の間に生まれつつある恋心のみならず、2つの対立する芸術観の統合が含意されているだろう。音楽学者の岡田暁生は『バラの騎士』以降のリヒャルト・シュトラウスの作曲技法を、「半音階法を伴う官能的な響き」による「トリスタン」的ワーグナー楽劇由来の様式と、「素朴な全音階」による18世紀的、モーツァルト的な様式との交差と捉えて分析している(『オペラの終焉』ちくま学芸文庫、2013年、p.183)。『バラの騎士』の次に作曲された『アリアドネ』においてもこの様式交差は引き継がれており(冒頭、18世紀的メロディに続いてトリスタン的な作曲家の動機が導入されるところははっとするほどきれいだ)、この2つの様式が基本的に作曲家派(ワーグナー的)とツェルビネッタ派(モーツァルト的)に割り当てられている。つまり、シュトラウス的様式交差が文字どおり芸術創作上の問題として、メタ的に扱われるというわけだ。岡田はこの2つの様式が、曲全体にノスタルジックに響く19世紀的ウィンナ・ワルツによって和解させられるのだと論じるが(同上、p.262)、この「和解」、つなぎ合せを、グルーバーの天使は明確に可視化している。
しかし、結局プロローグではこの「和解」は果たされない。再び楽屋に音楽家たちが入ってくると作曲家は我に返り、共作を許してしまったことを後悔し絶望するところで幕が下りるからだ。グルーバー演出では、楽屋から冷たく出て行こうとするツェルビネッタと彼女を追いかける作曲家との間に天使が割り込み、作曲家を毅然と押しとどめる。ツェルビネッタの話に触発された一時の恍惚では、2人を、2つの芸術を和解させるには不十分だということだろうか。
ところで、プロローグ後半での作曲家とツェルビネッタの接近から決別に至る流れはいささか唐突であり、自作が侮辱されることに憤っていたはずの作曲家の急な心変わりは、観ている側からすると置いてけぼりを食うような印象もある。何人もの男から言い寄られているモテるツェルビネッタに、若い作曲家もまんまとはめられただけだと見ることもできるのだろう。しかし同時にこの急展開の中で、無視できない印象的な音楽とともに、一瞬何かが生まれたような感触があるのはなぜだろう。興味深いことに、男性に設定されている作曲家には女性の歌手が当てられている。このいわゆる「ズボン役」はオペラでは珍しいことではないが、それでも女が演じる男と女が接近していく過程は、クイアと呼ばれるようなジェンダー・セクシュアリティの揺らぎを感じさせるように思われる。同性愛が様々な形で表象されるようになった19世紀末の空気を考えればなおさらだ。作曲家は「世界には言葉にできないことがたくさんある」(私訳)と喜びを語るが、プロローグ後半の急展開自体も、既成の概念からはみ出すものの存在を示唆する運動に見える。グルーバーはおそらくこの点に自覚的に、楽屋の脇に「♂」、「♀」という記号が扉につけられた更衣室を設置した。「♂」の更衣室に女性が演じる作曲家が入っていくときの微かな違和感が、プロローグにおける作曲家とツェルビネッタの関係を通じて問題になっている感覚ではないだろうか。これはもちろん、すでに触れた芸術論争の行き先とも繋がる。「女」と「男」、「悲劇」と「喜劇」、「ワーグナー」と「モーツァルト」という既成の枠組みから逃れたところにあるものが、『アリアドネ』の関心だ。
『アリアドネ』後半の「オペラ」では、プロローグで作曲家が許可してしまった両劇団合作の「ナクソス島のアリアドネ」が実際に上演される。テセウスに捨てられたアリアドネは、孤島ナクソスで悲しみに暮れ、死者の国の使者ヘルメスを待ち望んでいる。そんな彼女にツェルビネッタたちは死よりも生を愛するよう説得するが、アリアドネは聞く耳を持たない。そこにアリアドネを愛するバッカスがやってくる。最初彼女はバッカスを死の使いと勘違いしているが、バッカスの言葉に次第に心を開いて行き、最終的にはバッカスの愛に応えて幕となる。
冒頭でこの作品がやや「いびつ」な形をしていると指摘した通り、後半の「オペラ」には劇中劇に出演しない「作曲家」らは一切登場せず、枠物語は閉じられないままに終わっている。富豪の屋敷の催しとして上演されていることへの意識は薄まり、観客はアリアドネの物語を直接見る形になる。ツェルビネッタが主要な登場人物として「オペラ」に登場するのに対し、プロローグであれほど精神の変容を見せた作曲家が一切登場しないのは、ややバランスが悪い印象を与えるだろう。この問題のひとつのオーソドックスな解決の仕方は、ウィーン国立歌劇場の来日公演(2016年10月25日、東京文化会館)が見せたスヴェン=エリック・ベヒトルフによる方法であるように思われる(美術はロルフ・グリッテンベルク)。ベヒトルフの舞台では奥に客席が設けられており、作曲家(ステファニー・ハウツィール)や邸宅の人々が、手前で演じられる芝居を黙って見ている。ツェルビネッタ(ダニエラ・ファリー)らが登場するシーンでは作曲家が不安そうな様子を見せるなど、この「オペラ」が劇中劇であることが明確に示されるのだ。幕切れも工夫されている。アリアドネ(グン=ブリット・バークミン)とバッカス(ステファン・グールド)を演じる歌手は、互いの愛を歌い上げ神話的人物としての役を演じきった後、演技をやめ手をつないで舞台の奥に走っていき、軽くキスをしてから退場する。2人はおそらく現実の世界でも恋人なのだろう。作曲家もまた舞台に降りていき、ツェルビネッタとキスを交わす。ツェルビネッタの演技を見るなかで作曲家の心も完全に溶け、プロローグで生まれた2人の恋は成就したのだ。演出上のこうした操作によって、アリアドネの物語が演技である—オペラ内オペラである—という留保が常につけられ、最終的に作品内の現実のレベル、つまりプロローグのレベルに戻ってくることが可能になる。枠物語を閉じ物語に一貫性を与えることで、安定した観劇体験を保証する演出だった。
対する二期会のグルーバー演出(装置はロイ・スパーン、衣装はミヒャエラ・バルト、照明は喜多村貴)も、大半は同様のコンセプトに沿って設計されているかに見えた。円卓がいくつか並べられたパーティ会場のような舞台で、作曲家(白理香)を含めたプロローグの登場人物らが席についており、手前の方で「ナクソス島のアリアドネ」が演じられる。ベヒトルフ演出のように客席と舞台とが区別されていないものの、基本的には観客も舞台に配置することで劇中劇であることを明示し、プロローグとの連続性を担保している。しかし後から思えば、客席と舞台とが区別されていないというこの違いの方が重要だった。というのも、グルーバーは「オペラ」終盤でベヒトルフ的な構成から大きく外れ、現実に戻ることを予想していた私たちを驚かせることになるからだ。アリアドネがバッカスの正体を認識し彼に心を開き始めるあたりで、舞台の右の方にスパンコールが降り始める。次第に照明が明るい色から青く暗い色に変わっていき、天井から大きな白い花が降りてくる。クライマックスに向けてのちょっとした装飾かと思っているうちに、舞台には大きな風船が飛び交っており、人々の服装もおよそパーティ用とは思えないものに変わっている。いつの間にか舞台全体が、全くの幻想の空間に変わってしまっているのだ。客席と舞台を区別せず同一平面にただテーブルを並べた理由はここにあるだろう。この迫力ある幻想に圧倒されていると、今度は舞台上の人々が、1人、また1人と倒れ始める。恋人たちは2人ずつになって寄り添い、作曲家とツェルビネッタ(高橋維)も抱き合っているが、彼らもまたひとりずつ事切れてしまう。アリアドネ(林正子)とバッカス(片寄純也)も最後の歌唱を終えたところで死に絶える。1人残らず倒れ伏すと、後奏を背景に、プロローグに登場した天使が脇から出てくる。舞台の前方に歩いてきた天使が、私たち観客に弓を向けたところで幕となる。
ここでは何が起きているのだろう。ベヒトルフの演出が最終的に虚構から現実に戻ってきたのに対し、グルーバー演出は虚構の上の虚構へ、「アリアドネ」の物語からもう一段奥の幻想の世界へ私たちを連れていく。そこには最終的に、愛する者たちが死にゆく世界が現出する。これは前編で論じたような、『トリスタンとイゾルデ』を観た者には馴染み深い、愛=死の世界、ウィリー・デッカー的に言えば愛=死としての「もう1つの現実」の世界だ。しかしグルーバーの『アリアドネ』は、このワーグナー的等式にもう1つの要素を付け加える。この舞台では幻想の世界が、小舟や目隠しによって暗示されるのではなく、美術や照明の力によって、想像力が爆発したかのような圧倒的な迫力のもとに再現される。これは芸術の世界なのだ。だからこそ最後に、異なる芸術の結び合わせのテーマを背負った天使が戻ってくる。現実の世界では結局作曲家とツェルビネッタを結んでくれなかったこの天使は、芸術の世界で初めて、両者を結び合わせてくれる。ここでいう「芸術」はもはや、党派争いのための狭い意味のものではないだろう。対立を超えられる真の芸術への希望が、ここに表明されているのだ。そして少なくとも私にはこの希望は、舞台上での幻想世界の驚きに満ちた実現と、特にツェルビネッタ役の高橋維、アリアドネ役の林正子らの魅力的な歌唱によって、十分な説得力を備えているように見えた。
岡田暁生は『アリアドネ』の様式交差について、最終的に軽やかなモーツァルト的世界を打ち捨て、重厚なワーグナー的楽劇の世界に偏ってしまうという欠点を指摘しているが、グルーバー演出は『アリアドネ』のこの弱点を指摘しつつ補うものだったとも言える。一方でグルーバーは、シュトラウスのワーグナー性に光を当てる。終盤の重厚な音楽のみならず、常に愛と死を混同しているようであるアリアドネの物語は、言われてみれば思いの外ワーグナー的であり、「モーツァルト的」なシュトラウス像を持っていた観客にとってはこのこと自体が発見だったはずだ。他方、最終的に演出家が原作から自律して見せた幻想は、すでに述べたように単なるワーグナー的世界の可視化ではなく、それを乗り越えた先にあるものを指し示すビジョンだった。グルーバーはその意味で、シュトラウスが汲み尽くせなかった可能性をも、演出のなかで開花させることに成功したのではないか。
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「愛=死」の先に「芸術」の光を見ようとするグルーバーの試みがとりわけ印象的に感じられたのは、個人的に『トリスタンとイゾルデ』の、特にデッカー演出の記憶がまだ新しかったことが大きな要因だったように思われる。完全に意図されたものではないだろうが、東京二期会によるデッカー演出『トリスタン』、グルーバー演出『アリアドネ』の公演は、愛と死と芸術をめぐるテーマの深化と同時に、ワーグナーから彼を引き受けつつその先に行こうとしたリヒャルト・シュトラウスへと至る西洋音楽史の展開をも垣間見せるものだった。この2公演では、前編冒頭に述べた、鑑賞機会の隣接による発見という舞台芸術の面白さを再認識すると同時に、東京二期会の好調が感じられた。私の知る限り東京二期会は、このところ音楽・演劇両方の観点から幅広い層の関心を刺激しうる公演を続けており、注目に値する団体であるように思われる。2017年の活動にも期待したい。