ノワールの彼岸 ―ポスト・マニエリスムとしての 『ドッグ・イート・ドッグ』―


 

食事をして映画でも見ようと思った。さっきダウンタウンで、

庇に『パルプ・フィクション』のタイトルを掲げている館を見かけた。

食指が動くのは、あれだけだった。

 

エドワード・バンカー『ドッグ・イート・ドッグ』(1996年)[1]

 

超現実と超暴力――「誤爆」するブラック・ユーモア

 『ドッグ・イート・ドッグ』を語り起こすに際し、まずアヴァン・タイトルのシークエンスに触れないわけにはいかないだろう。コカインを吸入しながら家でTVを見ていたマッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)が、帰宅した妻シーラにいきなり「家を出て行け!」と指図される(既に家を追い出された後だったのだ)。「今夜だけ居させてくれ。ショートリブを焼いてやるから」とシーラに甘い言葉を投げかけてその場は丸く収まるが、結局彼女のPCでアダルトサイトを見ていたことがバレてしまい(おまけにそのPCで彼女は教会の統計表を作るといった聖なる職務を果たしていたのだから、尚更)激怒させてしまう。「クレジットカードも返して」と迫られたマッド・ドッグは、ドラッグの影響もあってかとうとうアメリカン・サイコと化し、妻に飛びかかって包丁でメッタ刺しにすると、階段を駆け上って二階にいる娘メリッサを銃で撃ち殺してしまう……。【図1

 

図1

 

 この描写だけ見ればまるで惨劇のようだが、肥え太った母娘、場違いに流れるロカビリー、ドギついピンク色の壁紙と、実際ここは「黒いユーモア」(A・ブルトン)として処理されている。「衝撃」は「笑劇」へと転化している。原作者のエドワード・バンカーがタランティーノの『レザボア・ドッグス』(92年)にMr.ブルー役で出演していて、尚且つ脚本のマット・ワイルダーはじめ若いスタッフが多く投入されたこともあり、オールド・スクーラーのポール・シュレイダーらしからぬタランティーノ風ネオ・ノワールに仕上がっている。

 本論はまず、この場面におけるユーモアの正体を解明することから始めたい。1928年に発表された「ユーモア」という論考で、フロイトは以下のように語っている。

ユーモア的精神態度の本質は何であろうか。人はこの態度を持することによって我が身から苦しみを遠ざけ、自我が現実世界によっては克服されえないことを誇示し、確固として快感原則を貫きとおす[2]。

 いわば自我に対する超自我の優位であり、厳しい現実に直面した子供(自我)に対して、「そんなこと大したことないんだよ」と語りかけ安堵させる大人(超自我)の機能がユーモアだと言える。しかしその現実がブラックであればブラックであるほど、ノワールであればノワールであるほど、それをユーモアで乗り越えようとすることは、主体と黒い現実とのギャップが深まる分、ブラック・ユーモアの度合いをより強くするはずだ。

 またベルクソンの「笑いにとって感動以上の大敵は存在しない」という言葉に、黒いユーモアのエッセンスが詰まっている。マッド・ドッグによる冒頭の母子殺害シーンでは、エモーショナルなものは一切排され、純粋にマテリアルでスラップスティックな機械的殺人が進行するが、ここで感情移入は不可能だ。観客を超然と突き離し、アイロニカルな笑いを発生させるという意味で、このシーンは黒いユーモアに接近し、殆どシュルレアリスム的な効果を発揮する。映画批評家グレッグ・タックによる以下の言葉が、問題をさらに発展させる。

超暴力(ultra-violence)には、センチメンタルを否定するような超現実的な特性があり、この観点からすると、多くのネオ・ノワールの暴力の矛盾は、潜在的に、単純にユーモラスというよりか意図的で批評的なものとなる[3]。

 「超暴力」というタームが出た[4]。感情移入を撥ねつけるノワール的暴力表現は、シュルレアリスティックな効果を発揮することになるのだ。そもそもマッド・ドッグの顔が鏡の前で歪曲し、悪魔の顔になったりするドラッギーな映像は、超暴力が炸裂する前段階としての、超現実世界への移行を暗示するようでさえあった。マッド・ドッグの超暴力は、『ブルー・ベルベット』のフランク・ブース(デニス・ホッパー)がそうであるように、超現実世界への扉を開く鍵となる。この犬は現実と超現実の狭間を生きている「アンダルシアの」なのだ。

 超暴力が吹き荒れるもう一つのシーンは、マッド・ドッグが身代金を要求するために赤ん坊を誘拐しに行った家で、アクシデント的に居合わせたその赤ん坊の父親の顔を、確認もせずにいきなりショットガンで吹き飛ばす場面だ【図2。ブルトンは『黒いユーモア撰集』の序文にあたる「避雷針」の中で、ランボーとボードレールが共通して使用した「爆発(explosion)」という言葉に、シュルレアリストのブラック・ユーモアの要諦があるとして非常に重きを置いている。しかしマッド・ドッグが頭を「爆発」させたことだけでは黒い笑いにはならない。その直後に泣きだした赤ん坊をあやすために「咥えるもの」が必要だとトロイが言うと、「チンコか?」とマッド・ドッグが阿呆のように問うことで、この黒過ぎるぐらいに黒い現実から、観客はユーモアを通じて距離を取ることが可能になり、安堵する。しかし黒い現実を下ネタで中和することで成り立っている歪んだ安堵であるから、それは黒いユーモアにしかなりえない。

 

図2

 

 ノワール映画史における顔の「爆発」は系譜づけが可能だ。まず筆頭に挙げられるべきは、オットー・プレミンジャー監督の『ローラ殺人事件』(44年)であろう。ローラという女の顔がショットガンで吹き飛んだという猟奇的事件をめぐって物語は展開されるが、当の吹き飛んだ頭部は一切画面上に現れることはない。これが古典ノワールのマナーであり、ここに笑いの要素はない。しかし『ドッグ・イート・ドッグ』や、ウィレム・デフォー演じるペルーという男が自らの顔面をショットガンで誤って吹き飛ばす『ワイルド・アット・ハート』(90年)などのネオ・ノワールの段階になると、グチャグチャになった頭は露骨に映され、その過剰なまでの悪趣味から恐怖は軽減され、安堵と共に黒いユーモアが見る者に訪れることになる【図3-4。あるいはタランティーノの『パルプ・フィクション』の車内シーンで、ヴィンセント(ジョン・トラヴォルタ)がマーヴィン(フィル・ラマール)という黒人青年に語り掛けていると、車が揺れて銃が暴発し、マーヴィンの頭を吹き飛ばしてしまう。車中は血塗れになり、二人はFワードを連発する(「ここで客席は笑いに包まれた」とタックは証言している[5])。『ワイルド・アット・ハート』、『パルプ・フィクション』、『ドッグ・イート・ドッグ』の三作の顔の「爆発」を並べると気づくことがある。それはどれも「誤爆」であるということだ。ネオ・ノワールにおけるブラック・ユーモアは、ブルトンが拘った「爆発」というモティーフに、「誤った」という接頭辞がつくことで完成する。これは決して撃ち間違えることなどなかった古典ノワールでは、起こり得なかった笑いだ。エドワード・バンカーが『ドッグ・イート・ドッグ』原作で以下のように語っているのが興味深い。

ボガートやキャグニーがタフガイのお手本だった。ボガートもキャグニーも、殺すのは“汚いどぶネズミ野郎”だけであり、スナブ・ノーズの拳銃で、その相手にだけあたるようかならず至近距離から撃った。

  時代は変わり、今では部屋に闖入してきた男の頭をショットガンで見境なく吹き飛ばすのだ。またこの「誤爆」によって、ブラックユーモアと超現実が結びつけられることが、ラディカル神学者のハーヴィー・コックスの指摘から明らかとなる。「シュールレアリズムは、悲劇の主題である関係性よりも、喜劇の主題である無関係性の極端さを強調している」[6]。シュルレアリスムが立脚する「無関係性の極端さ」を、マッド・ドッグはショットガンによる「誤爆」で表現したと言えるだろう。

 

 

図3-4

 

 人の頭を吹き飛ばすという重い事態を、軽く笑い飛ばす。黒い現実と主体との乖離、それがネオ・ノワールのブラック・ユーモアの源泉だ。タランティーノ映画を語るグレッグ・タックの以下の言葉は、おそらく『ドッグ・イート・ドッグ』にも全く同様に当てはまるものだろう。曰く、「真剣さ自体が真剣には取り扱われず、モダニストのアイロニー自体がアイロニー化され、その結果変形され、シニシズムに解消されることになる」[7]。

 ノワールの登場人物の基本的態度である「シニシズム」という言葉が出た。このシニカル(冷笑的)な態度は、ハードボイルドの伝統である「タフ」に結びつく。シュレイダーは「ノワールに関する覚書」(72年)という文章で、「タフ――日々の感情の世界から自らを切り離すシニカルな行動や考え方――すなわち殻に守られたロマンティシズム」[8]と定義している。ここでシニカルの語源が、ディオゲネスに代表されるキュニコス(犬儒)学派にあったことを思いだそう。哄笑的で抑鬱的なシニカル人間(近代人)のルーツを辿ると、反権威的で唯物論的なキニカル人間(古代人ディオゲネス)に行き着く。ペーター・スローターダイクが『シニカル理性批判』で指摘しているように、シニカルとキニカルの間には大きな隔たりがあるが、俗世間を斜に見て嘲笑する「犬」という基本的姿勢は変わらないように思う[9]。それゆえノワールとは、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『いぬ』(62年)やタランティーノ『レザボア・ドッグス』といったノワール映画のタイトルにまとわりつく「犬」という言葉が示す通り、「メタファーとしての犬」の物語なのだと言える。

 また、ここで眼玉を剃刀で引き裂く超暴力[10]と、獣の死体がピアノに横たわる超現実の交錯する、ブラック・ユーモア溢れるシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』が、実物の犬が一切画面に登場しないにも関わらず「犬」をそのタイトルに含んだことを思い出すならば、我々はそろそろフィルム・ノワールにおけるブラック・ユーモアから、「メタファーとしての犬」の問題へと論を進めなければならないと分かるだろう。

 

〈犬=道化=キリスト〉という三位一体

 「仁義なき戦い」とでも訳されるべき『ドッグ・イート・ドッグ』なるタイトルを、単なる慣用句として片づけるのではなく、純粋に「犬」という概念にまで還元しなければならない。というのも「ムショ」と「シャバ」の間を往復するという意味では、三人ともリミナル(境界的)なトポスに生きる、穢れた「犬」のような存在なのだから。彼らは犬の絶対的低さから世界を見上げ、狂犬のように生き、野良犬のように死ぬ。

 トロイ、マッド・ドッグ、ディーゼルという「3」悪人が中心の物語であることは象徴的だ[11]。この聖数「3」はラストで反復される。警官殺しの罪に問われ脱走中のトロイは、敬虔なキリスト教徒である黒人夫婦の乗る車をカージャックする。その後怪しんだ警官に追跡され、引きとめられ、最後にはトロイが手に持ったピストルが仇となってボニー&クライドのように警官の銃撃によってハチの巣にされる。どこか神々しい雰囲気の中、「3」人は殉教する(そのBGMはカーステレオから流れる宗教霊歌である)。その直前、トロイの迷える精神を反映したかのようにカラフルな霧が立ち込める中、尋問してくる警官にトロイが言い放つ「道に迷った(I’m Lost)」という言葉にも、宗教的な意味合いが多分に込められている。

 これらに鑑みれば、この映画は聖数「3」に支配されているといってよいが、忘れてはならないのが、それは黒く染め上げられ、地獄の「3」に明暗反転しているということだ。というのも、三位一体をなすような聖なる「3」者が殉教した直後に、トロイのナレーション「正義が俺の望みだった。だがどうやら本当に望んだのは、ただ欲望を叶えることだったようだ。それ以外は全部戯言だ」が入るからであり、これはアレイスター・クロウリーの悪魔的箴言「汝の欲するところをなせ」を連想させる。加えてエンドクレジットで流れるのはカントリー歌手ポーター・ワゴナーの「サタンの川(Satan’s River)」の二つのカバー曲である。つまり聖なる三位一体は、地獄の三位一体の象徴であるケルベロスに倒立させられていると言えよう。ここでアト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』の「ケルベロス」の項目を以下に引用する。

3つの頭をもっているのがふつうの形で、地獄の三位一体を表す。「3人のゴルゴン」、「悪魔の三叉の鉾」Devil’s Trident参照。再生、保持、精神化という3つの生命にかかわる衝動の退行を表す[12]。

ケルベロスは、「再生、保持、精神化」を反転させた「死、放棄、肉体化」の権化となっているということだが、それぞれの特性を本作の三悪人にいちいちあてはめるまでもないだろう。『ドッグ・イート・ドッグ』は三位一体の邪悪なパロディーとなっているのである。犬とキリスト教の結びつきは深い。例えば四方田犬彦は『犬たちの肖像』の中で、以下のような興味深い歴史的事実を示している。

犬の忠実さと謙虚さへの信頼は、カトリックの「ドミニコ修道会」が、ラテン語のdommi canes、つまり「神の犬」という語に基づいて命名されたと、中世から信じられてきたことからも分かる[13]。

しかしこのような忠犬のイメージは、本作では獰猛な地獄の番犬にまで頽落しているのだ。さて、シュレイダーがこの「3」悪人に悪の三位一体を幻視しているとすれば、とりわけマッド・ドッグはキリストの役割を担うことになるのではないか。というのもアヴァン・タイトルで惨劇が繰り広げられる中、眼を凝らせば部屋の悪趣味なピンク色の花柄の壁には律儀にもキリストの肖像画が掛けられているし【図5、マッド・ドッグの左胸には十字架のタトゥーが掘られている【図6

 

図5-6

 

 ここで思い出すべきは、監督マーティン・スコセッシ、脚本ポール・シュレイダーによる映画『最後の誘惑』(88年)において、ウィレム・デフォーがキリスト役を演じているという映画的記憶だ【図7。この作品はニコス・カザンザキス原作の極めて人間臭いイエスを描いたもので、十字架上での死に怖れをなしたイエスは、神に遣わされた守護天使の力を借りて逃げ出し、マグダラのマリアと結婚して子供を沢山作るという衝撃的な展開をみせる。しかし最後、イエスの死の床にかつての弟子たちが集まり、ハーヴェイ・カイテル演じるユダが「臆病者! 普通の人間として死ぬつもりか?」と彼を叱責し、天使が実はサタンだったことまで暴露する。これに衝撃を受け大いに後悔したイエスは、父なる神に懺悔し、果たせなかった十字架上の死を再び与えてくれるよう懇願する。すると突如時間が遡り、十字架に磔にされたイエスのショットに切り替わる。イエスは笑みを浮かべながら死に絶える……。この肉欲を容易には克服できなかったキリストを演じたデフォーは、後にラース・フォン・トリアーによる問題作『アンチ・クライスト』(09年)で暴力的なセックスに囚われたシャルロット・ゲンズブールの夫役を演じることになるが、『ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター』(02年)や『囚われのサーカス』(08年)でもデフォーを主演クラスで抜擢したシュレイダーが彼の過去出演作を網羅していないはずがなく、それゆえ本作『ドッグ・イート・ドッグ』でもそのあたりの映画的記憶はしっかり考慮され、〈キリストにして反キリスト〉といった性格がマッド・ドッグには賦与されていると見てよいだろう。

 

図7

 

 またシュレイダーは『囚われのサーカス』において、家族ともども強制収容所に連行され、ウィレム・デフォー演じるナチの高官に一年間「犬」として飼われ続けるユダヤ人芸人、アダム・スタイン(ジェフ・ゴールドブラム)の人生を描いてもいる【図8。四つ足の生活がアダムの人間性を磨滅させていき、戦後彼は砂漠にあるサイズリン研究所という精神病院に収容される。道化(クラウン)に犬を演じさせるという強烈な設定からも、シュレイダーが犬の中に道化を幻視していたことは容易に推察される。『最後の誘惑』においても、ユダが「片方の頬を叩かれたら、もう片方も差し出せですって? そんなのは犬がすることだ」という台詞があったが、道化性が機械的な反復性に求められるのだとしたら、ここでも〈犬=キリスト=道化〉の三位一体が成立していることが分かるだろう。

 

図8

 

 シュレイダーが携わった過去作との比較検討を終えたいま、『ドッグ・イート・ドッグ』冒頭の家族惨殺シーンに戻ろう。自分の1.5倍はありそうな肥え太った妻のPCでアジア人専門のアダルトサイトを見ていたことが原因で怒りの矛先を向けられたマッド・ドッグは、ロッカティーンズのパンキッシュなロカビリー「ウー・フー」(59年)が流れるなか、狂気に囚われて家族を皆殺しにする。終盤になって、マッド・ドッグは家族を惨殺したことを悔い、改悛するが、その直後に仲間であるディーゼルの裏切りによって殺される。DOGの三文字が反転するとGODになるように、スケープゴートのようにして屠られたマッド・ドッグは、部屋に掛けてあったイコンが予告していたように、最後はイエス(神)になる。

 前の章ではシュルレアリスト的な「誤爆」のブラック・ユーモアを、この章では隠された犬(=道化=神)のメタファーを見てきた。腐れ、捻じれた暗黒のユーモアも、勿体ぶったメタファーの多用も、マニエリスム芸術の示す典型的な兆候である。これらの諸要素と、シュレイダーの「ノワールに関する覚書」という文章を接合することで、『ドッグ・イート・ドッグ』は勿論のこと、ノワールというジャンル自体がマニエリスムであることが明らかにできそうだ。

 

ポスト・マニエリスムとしての『ドッグ・イート・ドッグ』

 「直接的なものを忌み嫌い、暗黒を好み、感覚に訴える映像作用を変幻する錯綜した隠喩の中でしかはたらかせず、驚異的(meraviglia)な超現実をひとつの極度に様式化した言語の知的形象体系の中にとらえようとする」[14]というクルト・グリュッツマヒャーの言葉は、一見するとノワール・ジャンルの完璧な定義のようだが、これは実はマニエリスムを定義したものである。登場人物たちの錯綜した心理状態が投影されたフィルム・ノワールにおける入り組んだ都市造型は、まさに「迷宮としての世界」(G・R・ホッケ)そのものだ。その迷宮内で、シャーロック・ホームズ(現代のテセウス)のごとく主人公は謎めいた世界を真理を求めて嗅ぎ回る「隠喩としての犬」となる。またハイパボリックに引き延ばされた異形ともいえる人影なども、紛れもなくマニエリスム的と言えるだろう。そもそもノワールを「アメリカン・マニエリスムの悪夢的世界」[15]とまで言い切ったシュレイダーである。シュレイダーは『ドッグ・イート・ドッグ』で自ら地元ギャングの首領「エル・グレコ」を演じたが、マックス・ドヴォルシャックが『精神史としての美術史』(24年)で「グレコとマニエリスム」という先駆的な一章を構えて以来、その「ギリシャ人」なる名がマニエリスムの代名詞のようになっていることを知る者ならば、ここに深い意義を感じずにはいられない。以下、作品論をしばし離れ、ジャンル論としてのノワール=マニエリスム論を、覚書程度に書きつけていこう。

 まずはノワールの都市造型に顕著な「迷宮としての世界」について語っていきたい。フィルム・ノワールといえばドイツ表現主義の影響を受けた、歪んだ空間や誇張された影などに特色がある。そもそもノワールにドイツ表現主義の手法や主題が持ち込まれたのは、ナチの手を逃れてハリウッドに亡命したフリッツ・ラング、オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダーといったユダヤ系監督たちによると言われているが、マニエリスムは「不安の時代」における引き裂かれた精神の発現であるから、第二次大戦によって引き裂かれた亡命者の精神は、「世界壊滅の代名詞」(高山宏)[16]たるローマ劫掠を閲してマニエリスムを生み出すことになった16世紀人の精神と重なり合う。しかし20世紀も中葉を過ぎれば核戦争の恐怖に人は日々脅かされることになるのであり、「世界壊滅」は単なる修辞では済まなくなる。ロバート・アルドリッチの異色ノワール『キッスで殺せ』(55年)が既にして東西冷戦下の核エネルギーの恐怖をテーマにしていたのだから、ホッケのマニエリスム三部作の掉尾を飾った『絶望と確信』(74年)の口吻を借りれば、80年代以降に量産されたネオ・ノワールにおいて「不安」は「絶望」にまでそのオクターヴを高めていると言えるのではないか[17]。とまれ、ノワールにおける空間の脱臼・陰影の強調は、紛れもなく登場人物たちの屈折した心理の反映である。美術史家アーノルド・ハウザーは『マニエリスム』の中で以下のように述べている。

マニエリスムは、精神的なものは、物質的形式に決して還元されないものであるから、形を歪めたり、輪郭をばらばらにしたりすることによって、やっと暗示することができるのだ、しかし、それは断じて暗示以上のものではない、と考えていたのである[18]。

 またハウザーは、マニエリスムのこうした「空間統一の解体現象」は、論理的に把握できる相互関係を破壊し、夢の世界に近づくといい、「現代のシュールリアリズムを想起させる」とも語っている[19]。レイモン・ボルド[20]とエティエンヌ・ショームトンは『アメリカン・フィルム・ノワールのパノラマ』(55年)という、後に古典となったノワール研究書で、フィルム・ノワールとシュルレアリスムに共通する五つの形容詞の一つとして「夢幻的(oneric)」を挙げている[21]。ここでシュレイダーがフィルム・ノワールを「アメリカン・マニエリスムの悪“夢”的世界」と定義したことを想起すれば、シュルレアリスムとフィルム・ノワールは「夢」によって空間統一が解体された、「歴史的常数」(G・R・ホッケ)として再来するマニエリスムの20世紀版と言うことができる[22]。

 ボルドとショームトンは、ノワールとシュルレアリスムに共通する要素として「曖昧な(ambivalent)」も挙げていたが、曖昧性はシェイクスピアやジョン・ダンのような形而上派詩人のダブル・ミーニングの多用、パルミジャニーノの寓意画にみられるような解けない謎(エニグマ)を俟つまでもなく、マニエリスム芸術の常套手段であった――判断の宙づり、およびそこから派生する「浮遊」の感覚。ノワールにもそのような感覚があることを、文芸批評家の小野俊太郎が指摘している。

ノワール小説は、暴力を行う側に共感を持ちそれを正当化する論理と、それゆえに社会的に破滅したり排除されるのを当然視する論理の二つを抱えているせいで、どちらにも加担しない奇妙な感覚を与える。どちらかに重心を置けないこの引き裂かれた感覚こそが、じつは持ち味なのだろう[23]。

付け加えるならば、存在そのものが隠喩的である宿命の女(ファム・ファタル)もまた、男を殺したいのか愛したいのか往々にしてはっきりせず、見る者は愛の引力と憎悪の斥力に激しく引き裂かれる。こうして、ジョン・ダンの「エクスタシー」が、宗教的恍惚を謳っているのか、はたまた性的恍惚を謳っているのか判然としないマニエリスム詩であったように、フィルム・ノワールも曖昧性の霧に包まれ、判断宙づりのまま浮遊することになるのだ。

 さて、こうして曲がりなりにも「ノワール=マニエリスム」ジャンル論を通過した我々は[24]、いま再び『ドッグ・イート・ドッグ』へと立ち帰らなければならない。本作はタランティーノという現代の陽気なマニエリストの手法(マニエラ)を踏襲した、「ネオ」マニエリスム作品なのだから。しかしタランティーノもシュレイダーも、「ベル・マニエラ(良き手法)」の寄せ集め=サンプリング芸術であるマニエリスムを敢えて失敗させることに倒錯的な快楽を見出しているようだ――マンネリズム=キッチュの美学。ここで再びグレッグ・タックのタランティーノ評、「真剣さ自体が真剣には取り扱われず、モダニストのアイロニー自体がアイロニー化され、その結果変形され、シニシズムに解消されることになる」を思い出そう。タックはタランティーノのノワール映画においては、「継承・リヴァイヴァル・オマージュ」といったニュアンスを含む「ネオ」という接頭辞は誤りで、「ポスト」とするべきだと指摘している。

ノワールは、タランティーノのパスティーシュの方法によって再生産されるのではなく、消費され、否定される。したがって彼の映画が提供するものは、もはや闇を嗤うことなく、それを怖れることもない、ポスト・ノワール的世界だ。私たちは単に、闇に対して無感覚になっているのだ[25]。

 「ポスト・ノワール的世界」では、ノワール的(マニエリスム的)な哄笑や恐怖美の感覚は既に喪失している――ノワールの彼岸。タランティーノ映画の強烈な刻印を残す『ドッグ・イート・ドッグ』は、実のところ「ネオ」ではなく「ポスト」なる接頭辞がふさわしいのではなかろうか。二つの超暴力シーンを改めて精査するならば、「誤爆」のシーンにはネオ・ノワール的な闇への恐怖および哄笑がまだ感じられるが、冒頭の惨殺シーンではもはや哄笑を通り越して、ポスト・ノワール的な闇への無感覚が進行している。モダン社会の闇(ノワール)に立脚して成り立っていたブラックユーモアは、ノワールの彼岸にあるポストモダン社会においては、闇から切り離された「ポスト・ブラックユーモア」へと変貌している。それゆえ本質的に闇を欠いた『ドッグ・イート・ドッグ』冒頭の惨殺シーンは、ノワールにしてノワールに非ず、すなわちマニエリスムにしてマニエリスムに非ずという、不可解なパラドックスに陥ることになる。場違いなロカビリーからサイケデリック映像までごった煮にさせる組合術(アルス・コンビナトリア)の節操の無さ含め、これは紛れもなく失敗したマニエリスム(キッチュ)だ。「闇」はそこでは知覚し得ない。しかしそれによって、陰気なマニエリスムを葬り去る、陽気な「ポスト・マニエリスム」とでも呼ぶべきヴァリアントもまた新生しているのではないだろうか。

 

 

後藤 護

 

画像出典

図1-2、5-6『ドッグ・イート・ドッグ』全国順次公開中。

図3-4デヴィッド・リンチ(監督)『ワイルド・アット・ハート スペシャル・エディション【DVD】』(ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン、2006年)よりキャプチャー。

図7マーティン・スコセッシ(監督)『最後の誘惑【DVD】』(ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン、2006年)よりキャプチャー。

図8ポール・シュレイダー(監督)『囚われのサーカス【DVD】』(トランスワールドアソシエイツ、2013年)よりキャプチャー。

 


[1] エドワード・バンカー、黒原敏行訳『ドッグ・イート・ドッグ』(早川書房、1997年)、316頁。

[2] フロイド、高橋義孝/池田紘一訳『フロイド選集7 藝術論』(日本教文社、1986年)、331頁。

[3] Greg Tuck, “Laughter in the Dark: Irony, Black Comedy and Noir in the Films of David Lynch, the Coen Brothers and Quentin Tarantino”  in Mark Bould, Kathrina Glitre & Greg Tuck, NEO-NOIR (Wallflower Press: London & New York, 2009), p.161.

[4] 「超暴力(ultraviolence)」という単語はアンソニー・バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』で使われたもので、キューブリックの映画を通して有名になった。

[5] Tuck (2009), p.154.

[6] ハーヴィー・コックス、志茂望信訳『愚者の饗宴――「遊び」と「祭り」の神学』(新教出版社、1971年)、209頁。

[7] Tuck (2009), P.165.

[8] Paul Schrader, “Notes on Film Noir” in Alain Silver and James Ursini (ed), Film Noir Reader (Limelight Edition: New York, 2003), p.56.

[9] スローターダイクは素朴で啓蒙的(ゆえに諷刺的)な「キニカル」から、キニカルな啓蒙それ自身に牙をむける「シニカル」への屈折をルキアノスに求めているが、近代的なシニカルへの転回点となったのは第一次世界大戦であったと指摘している。戦争に引き裂かれた人間の「心の闇(ノワール)」がフィルム・ノワールという鬼子を生み出した過程を知る上でも大変重要な文章と思われるので、長くなるが以下に引用する。

第一次大戦は、近代シニシズムの転回点を意味する。大戦によって旧来の素朴に対する腐食・分解が本格化する。たとえば戦争の本質や社会秩序、進歩、市民的な価値、要するに市民文明全般の本質についての素朴な見地が崩れてゆく。この戦争以来、ヨーロッパ諸大国を覆うこの散乱した分裂症質の風土が晴れたためしはもはやない。爾来、文化の危機といったことを論じる者の念頭からは、以前の素朴がもはや二度とありえないのを思い知らされた戦後の衝撃的な精神状態が離れなくなる。社会心理の「遺伝形質」の中にひとたび侵入した不信の念や幻滅、疑い、冷淡などを取り除くことはもはやできない。すべての「肯定」はこれ以後「されどなお」でしかなく、それとて底の方では潜在的な絶望によって浸食されている。以来、様々な屈折した意識様態が著しく蔓延する。イロニー、シニシズム、禁欲主義、メランコリー、辛辣、懐古趣味、主意主義、悪も小さければ良しとする諦観の境地、抑鬱、さらには意識しないのを意識的に選び取る感覚麻痺……。(ペーター・スローターダイク、高田珠樹訳『シニカル理性批判』ミネルヴァ書房、1998年、135頁)

[10] マッド・ドッグは顎の下にある「目」のタトゥーをディーゼルに撃ち抜かれて最後に死んでしまうし、シュレイダーの前作『ラスト・リベンジ』では、ニコラス・ケイジがテロリストの「目」に人差し指を突き指し殺害するなど、『アンダルシアの犬』的な「目」への超暴力がシュレイダーには顕著である。

[11] 『大いなる幻影』、『ダウン・バイ・ロー』などにおける男「3」人組の系譜を、『ドッグ・イート・ドッグ』は継承していると考えることもできる。

[12] アト・ド・フリース、山下圭一郎他訳『イメージ・シンボル事典』(大修館書店、1984年)、117頁。

[13] 四方田犬彦『犬たちの肖像』(新潮社、2015年)、179頁。

[14] クルト・グリュッツマヒャー、種村季弘訳「G・R・ホッケ『迷宮としての世界』あとがき」(『ユリイカ:マニエリスムの現在』1995年2月号)、86頁

[15] Schrader (2003), p.63.

[16] 高山宏『アレハンドリア アリス狩りⅤ』(青土社、2016年)、99頁。

[17] G・R・ホッケ、種村季弘訳『絶望と確信 20世紀末の芸術と文化のために』(朝日出版社、1977年)の第1章「不安と絶望」参照のこと。「不安」が「絶望」になるとき、「希望」は「確信」に変わる。

[18] アーノルド・ハウザー、若桑みどり訳『マニエリスム(上)―ルネサンスの危機と近代芸術の始原―』(岩崎美術社、1990年)、26頁。

[19] アーノルド・ハウザー、高橋義孝役『芸術と文学の社会史2 マニエリスムからロマン主義まで』(平凡社、1968年)、430頁。

[20] トゥルーズのシネマテーク館長であったボルドは、変態的な作風で知られるシュルレアリスム画家ピエール・モリニエの伝記映画を1962年に撮影している(公開は1966年)。

[21] 全て挙げると、「夢幻的(oneric)、 怪奇的(bizarre)、官能的(erotic)、曖昧な(ambivalent)、残酷な(cruel)」となる。なお仏語原文では bizarreはinsoliteであり、英訳したジェイムズ・ネアモアは以下のように注釈で述べている。「それ(insolite)はゴシック的なものを暗示し、どこかフロイトのいう無気味なもの(unheimlich)のようでもあるが、よりショッキングで恐ろしい効果がある。その使用頻度から判断するに、insoliteは『パノラマ』で最も重要な形容詞である」(James Naremore, More Than Night: Film Noir in its Contexts, University of California Press, 1998, p.283.)。

[22] ホッケは『迷宮としての世界 マニエリスム美術(下)』(岩波書店、2011年)の22章「夢の世界」において、シュルレアリストの祖先として夢幻的カタストロフの絵ばかりを残した謎のマニエリスム画家モンス・デジデリオを挙げ、かなりのページを割いている。

[23] 小野俊太郎「ノワール小説のジャンル変容」(『ユリイカ 12月臨時増刊号 総特集ジェイムズ・エルロイ』青土社、2000年)、146頁。

[24] 「マニエリスムとしてのノワール」を論じるにあたって、今回は煩瑣な議論は避けた。例えば「ジャンル映画」たるフィルム・ノワールが模倣・反復した「良き手法(ベル・マニエラ)」について、あるいは『ブレードランナー』や『ジェイド』などのネオ・ノワールにおいて強調される「アジアニスムス」(G・R・ホッケ『文学におけるマニエリスム』)についてなどは割愛した。その他、より詳しく知りたい向きは、Robert F. Gross, “Mannerist Noir: Malice” in Thomas Fahy (ed), Considering Aaron Sorkin: Essay on the Politics and Sleight of Hand in the Films and Television Series (Mcfarland: Jefferson, NC, 2005) を参照のこと。

[25] Tuck (2009), p.166