Battle between Bubble and Babel


 エジプトのピラミッドはその大きさで人々を圧倒し、ドバイのブルジュ・ハリファはその高さで人々を圧倒し、フロリダのディズニー・ワールドはその広さで人々を圧倒する。同様に、そのシンプルさで人々を圧倒するものがある。それが人々の想像を超えて、極端にシンプルである場合に。

 下の写真は、現在の福島県南相馬市原町区(旧原町市)に1920年〜1982年まで建っていた「原町無線塔」である。高さ201メートルの巨大なコンクリート塔で、当時の日本政府が国際無線局の施設の一部(対米盤城無線電信局原町送信所のアンテナ主塔)として建設した。建設当時はアジア一の高さを誇る塔だった。しかし、この写真を目にした者は誰しも、その高さも然ることながら、その形のシンプルさに慄くのではないか。凡そ塔と呼ばれる建造物で、これ以上のシンプルさはあり得ないという程にシンプルである。

原町無線塔(1920年10月撮影)
二上英朗『おはようドミンゴ』(http://domingo.haramachi.net)より

 

 国語辞典で「塔」を引いてみると、「高くそびえ立つ細長い建物」とある。原町無線塔は、この定義の字義どおりのもので、それ以上の付加物は一切ない。細かな装飾が壁面に施されているわけでもなく、斬新な構造や形状をもつわけでもない(ある意味、ここまで何もないことが却って斬新だとは言えるかもしれないが)。

 原町無線塔は無口である。私たち人間は大抵、自己の存在をアピールしようと思えば、言葉を発し、言葉を重ねて思いの丈を述べ、着飾り、化粧をする。言語的/視覚的装飾を施せば施すほど、自身の存在感は増すと考え、そうする。塔だって同じだ。ピサの斜塔やエッフェル塔、サグラダ・ファミリアなど、趣向を凝らした形状や装飾によって、数世紀に渡り存在感を示し続けてきた塔は数多ある。

 しかし、では無装飾の原町無線塔には存在感がないのかと言うと、明らかにそうではない。ならば、原町無線塔の存在感は何によるのか。私たちは、華美な装飾が存在感を強める一方で、黙って裸になることほど相手に鮮烈な印象を与える手段はないということも、また知っている。裸になり、口を噤んで立つ人を前に、私たちは言葉を失う。長時間その人をじっと見つめることは難しい。あまりの無防備さに、安心感とは真逆の感情を掻き立てられ、私たちはその場から立ち去るか、あるいは見ずに済むようぴたりと接近するほかなくなる。原町無線塔には、装飾が一切排除されたがゆえの、そのような生々しく怖ろしい存在感がある。

塔とは何か

「原町無線塔」がなぜあのようなシンプルな形の塔になったのか、その経緯を述べることは可能だ。一言で言えば、費用がかけられなかったからである。原町無線塔を含む原町送信所の建設予算が総額100万円、その内アンテナ主塔である原町無線塔の建設にかけられる費用が35万円(現在の物価水準で約7億円)であった。ただでさえ資金難である上に、第一次世界大戦の煽りで鉄材の価格が暴騰し、当初鉄塔を建設する予定だったのが出来なくなり、鉄筋コンクリート造になったという[1]。セメントや鉄材の使用量を極力減らして建設可能なように設計された塔が、あの形だったのだ(ちなみに、塔の中は空洞である)。

 だが、当時の建設事情を知り、原町無線塔がああいう形になった理由を納得することと、あの塔が当時の人々にとってどのような存在だったのか、あの塔が人々の精神にどのような影響を及ぼしていたのかを知ることとは、全くの別問題である。当時の原町の人々は、建設事情のことなど露知らず、ただただあの塔を、来る日も来る日も眺めていたのであるから。原町無線塔とは何であったかを知るためには、私たちは、なぜあのような塔が建てられたかという理由よりも、あの塔と人々がどう向き合っていたかについての想像力を働かせなければならない。

 原町無線塔とは、一体何だったのか。それを探るために、まずは、塔とは何かというところから考えてみよう。

 塔とは何かという問いに答えるためには、何が塔でないかが問われなければならない。マグダ・レヴェツ・アレクサンダーの歴史的名著『塔の思想』(河出書房新社、1972年)によれば、例えばピラミッドは、外見上はジッグラト[2]によく似ているにもかかわらず、どんなに堆く石を積み上げようとも、塔と呼ぶことはできない。なぜなら、ピラミッドは墳墓であり、その使命は「まったく現実的なもの」だからである。「内部に神格化された王の遺体と宝物をかくし、それらを外界から守り、永久に保存する」こと、つまり「その下にあるものをおおい、守護する」ことがピラミッドの使命であり、「それは、たとえどんなに高くつみ上げられていても、あきらかに下方をめざすものであり、上方を指向するものではない」からである(p.20)。[3]

 このようにアレクサンダーは、何が塔でないかという問いを立てることによって、塔の塔たる条件を明らかにしていく。ある建造物が塔であるか否かは、その形状によって決まるのではない。その建造物が、どのような精神の働きによって建てられたかによって決まるのである。アレクサンダーの挙げる塔の塔たる条件は、次の3つに要約することができる。

⑴ 上方指向
塔は「実用建築物以前のものであり、非現実的な、精神的目標をもつものである」(p.29)と著者は述べ、その精神的要求を「高所衝動」と呼んでいる。また、「塔は構造物それ自体なのであり、空間を確保するための建築物ではない。内部空間が広いばあいでも、それは二義的なものにすぎない。[……] この空間は、たいてい、塔の目的と機能、つまり上方への延長を可能にするためのものである」(p.31)という。

⑵ 無限指向
「塔に秘められた内面力学は、すべての論理一貫した運動がそうであるように、無限を目標にしている。その意味で、すべての塔は「永久機関」や音楽のグリサンドのように、原則的に永遠に完結することのない、完結することのできない種類のものである」(p.35)と著者が述べるように、塔は上方を無限に指向する性質をもつものである。「塔は永遠に未完成」であり、それゆえ「同じように未完成な、不安定な人間という存在をひきつける」のである(p.200)。

⑶ 無目的性
例えば、ニューヨークの摩天楼を塔と見なすことはできない。「それらは、現実的要求によって成り立ち、それに規定される巨大な複合家屋、業務センター」であり、「新しい建築術がそのような複合建築を、単に横へひろげるだけでなく、以前にはおよびもつかなかった高さへ、積み上げることを可能にしたのであって」、専ら「実用建築」だからである(p.162)。真の塔はその「無目的性、無効性」のおかげで、近代化の輪廻には影響されないものだと、著者は言う(p.93)。

 さて、原町無線塔は、上述の3条件に照らし合わせ、塔と呼ぶことができるだろうか。答えは明らかである。塔とは呼べない。原町無線塔は、完全に実用目的で建てられたものだからだ。当時、貧弱な対外通信施設のために外交で不利な立場にあった日本は、一刻も早くその施設を整える必要があった。通信手段としては、海底電線に比べ圧倒的に通信が速く正確だった無線が望まれた。その目的のために建設されたのが、原町無線塔である。無線電波塔であるなら、高さは必要だ。その高さは、鉄筋コンクリートという最新の技術によって実現された。原町無線塔は、無目的に上方を無限に指向する塔では決してなく、あくまで最新の建築技術が高さを可能にした実用建築である。

 原町無線塔とは一体何だったのか。この問いに対しては、原町無線塔は塔ではなかった————ひと先ずこう言ってしまってよいだろう。

アタナシウス・キルヒャー『バベルの塔』1679年
『芸術新潮』2017年5月号より

原町無線塔とバベルの塔  

 ここに、原町無線塔と形状がよく似た一枚の塔の絵がある。これは、ドイツのイエズス会士アタナシウス・キルヒャーの『バベルの塔』(1679年、ニューヨーク公共図書館蔵)という本の挿絵の一つである。ブリューゲルが《バベルの塔》を描いて以降、バベルの塔が大流行し、様々な形のバベルの塔が様々な画家によって描かれた。中でもこの塔は、特にユニークな形をしている。シルエットは、原町無線塔にそっくりである。だが、螺旋状の通り道が塔の壁面に付いており、1階から最上の23階まで上がれるようになっている(各階にドアも付いている)点は、原町無線塔とは異なる。

 このキルヒャーの《バベルの塔》は、アレクサンダーの塔の3条件をすべて満たしている。バベルの塔として描かれているのだから当然だ。この塔は、神々を天界から地上へ迎えるための神殿であり、一切の実用目的をもたず、ひたすら上方を、天を目指す塔として構想されている。

 さて、キルヒャーの《バベルの塔》と原町無線塔は、建築の精神はもとより異なるが、外見上は、登れるようになっているか否かの違いしかない。しかし、実は、この「登れる」構造をもつか否かの違いが、建築の精神の違いよりもさらに、人々の精神に実際的な影響を及ぼすのである。ロラン・バルトは『エッフェル塔』(ちくま学芸文庫、1997年)において、「登れる」構造をもつ塔の機能について、次のように述べている。

塔は見られているときは事物(=対象)だが、人間がのぼってしまえば今度は視線となって、ついさっきまで塔を眺めていたパリを、眼の下に拡がり集められた事物とする。塔は見る事物であり、見られる視線となる。[……] ふつう、世界が産み出しているものは、二つの種類に分けられる。一つは、事物を見るためにだけ作られていて決して見られる側にはまわらない純粋に機能的な組織体(カメラや眼)、[……] もう一つは、自分自身は盲目でひたすら視線にさらされるままになっているもの、つまり見世物のようなものである。ところが塔は(ここにこそ塔の運命的な力の一つがあるのだが)、この分離、この見ることと見られることというごく普通の区分を、超越する。いわば塔は、この二つの機能の間をいつでも自由に行ったり来たりすることのできる、視線の両性を具有する完全物なのである。(p.10, 12)

 つまり、「登れる塔」は、見上げられる対象であると同時に、見下ろす視線にもなるということである。これは、建設時にそのような意図があったかどうかとは関係がない。ジッグラトには、神を迎える場所を常に清潔に整え、また祭事を執り行う必要性から、人間が登れるよう道が作られているのだろうが、つまり、決して人間のエゴのために登れるようになっているのではないのだろうが、塔が「登れる」構造をもてば、結果的にそのような「見下ろす視線」を得てしまうのである。すなわち、塔は「登れる」構造をもつことによって、建築の精神としてもっていたはずの純粋な上方指向性を、実質的に失ってしまうことになるのだ。

 この意味で、旧約聖書の「バベルの塔」の物語において、本来神のための建築であるはずのジッグラトが、人間の傲慢さを象徴する建築として描写されているのは興味深い。たとえ建設時に「見下ろす視線」をもつ意思がなかったとしても、「登れる塔」を建設した結果として、そのような傲慢な視線を得てしまうことを批判する物語として読むことができるのである。

 このように「見下ろす視線」を結果的にもってしまう「登れる塔」である《バベルの塔》に対して、原町無線塔はどうであろう。ありとあらゆる装飾や機能を剥いだ原町無線塔には、登るための階段もスロープもついていない。つまり、原町無線塔は「見下ろす視線」をもつことはない。永遠に見上げられるだけの対象として、そこに存在するのだ。

『塔の思想』の著者アレクサンダーは、建築の精神に基づいて、真の塔たるものとは何かを明らかにしていった。そこでは、ジッグラトは真の塔であり、原町無線塔は塔ではないという見解が得られた。しかし、塔と向き合う人々の精神に基づいて見た場合には、ジッグラトのような「登れる」塔ではなく、「登れない」原町無線塔こそが、真の塔であると言えるのではないか。なぜなら、「登れる」塔は、「見下ろす視線」を得たその瞬間に、上方を指向するものではなくなるからだ。一方、「登れない」塔に対しては、我々はひたすらに見上げることしかできない。そのような塔の前では、上方を指向する精神の運動が、無限につづくことになる。これこそまさに、真の塔であると言えまいか。

 建設の精神から見れば真の塔とは言えない原町無線塔が、塔に向き合う人々の精神の働きから見れば、上方指向と無限指向を備えた、何よりも純粋な塔として機能している。さらに言えば、原町無線塔は、建設から8年でその役目を終えている。通信技術の主流が無線から短波に移行したために、原町無線塔はその後50年以上に渡り、何に使われるでもなく、ただそこに建っていたのである。何の目的ももたずに、字義どおりの無用の長物として。つまり、原町無線塔は、上方を無限に指向する無目的な塔として、すなわち真の塔として、1982年まで存在したのである。

「バベル」の本来の語源である「バブ・イル(神々の門)」の意味で、ただただ天を仰ぐ原町無線塔こそ、真の《バベルの塔》だと言えよう。

原町無線塔はなぜ解体されたのか————《バブル》vs《バベル》

 真の《バベル》として存在した原町無線塔は、1982年、日本が《バブル》に突入する直前期に解体される。このことの意味を最後に考えたい。

 当時、原町無線塔は老朽化が進み、上空からコンクリートの塊が降ってくるような危険な状態にあった。それを以って、修復保存派と解体派との間で相当な議論があったらしいが、結局維持費やら何やらの都合で、解体されることに決まった(その際、代わりに10分の1スケールのモニュメントが建てられ、それは現在でも残っている)。原町無線塔はなぜ解体されたのかという問いに対し、実情を述べればこのような回答になるのだろうが、私たちは、バブル直前期にこれが解体されたということに、いくつかの符合を読み取らずにはいられない。

 バブル直前期の1980年代前半は、どのような時代だったのか。戦後から三十数年という短期間に、日本社会は、戦後復興、民主化、主権回復、高度経済成長、そして先進国としての国際的地位の確立へ、世界のどん底から頂点へと至る道を、一気に駆け上ってきた。そして迎えた80年代は、「昭和の後半期の右肩上がりの坂を駆け上がった日本人たち」が、「初めて自分たちの歩みを振り返り、日本型近代モデルの晴れ姿を実感した」[4]、そういう時代だったという。

 1980年代前半は、日本が豊かさを実感した時代だった。それはたとえば、人々のファッションに顕著に現れる。ジーパンを穿いて路上に座るのが当たり前だった70年代までとは違い、80年代に入って人々は、ブランドものを着るようになった。ブリックス・モノ、Y’s、コム・デ・ギャルソン、ヴィヴィアン・ウェストウッドといった国内外のブランドものを身に纏い、「オシャレ」という言葉が特別な響きをもって出現したという。[5]

 この経済的豊かさはまた、これまでとは異なる文化や思想を数多く生み出した。これまで一部の知識人のものだった文化や言論が、一般大衆に開かれたことによって生まれたサブカルチャー、ポストモダン、ニューアカといった様々なキーワードで彩られる80年代だが、これらの文化や思想すべてに共通するのは、「軽さ」である。一般大衆に広がった文化や思想の「軽さ」は、1980年代が「戦後を真に脱却しつつあった」[6]時代、あるいは「戦後の転換点」[7]であったことをも物語っている。

 さて、このような1980年代初頭の空気の中で、原町無線塔は人々の眼にどのように映っていただろうか。原町無線塔は、これ以上のシンプルさはあり得ないという程にシンプルな外見であった。この飾り気の無さは、ブランドものを身に纏う「オシャレ」な80年代の風潮とは、真逆のものである。

 原町無線塔はまた、戦禍の跡を生々しく残してもいた。第二次世界大戦の原町空襲で塔の中腹に空いたロケット弾の穴はそのままにされ、原町の人々は、「戦争を暗示する」塔を日々見上げながら暮らしていた[8]。このことは、「戦後を真に脱却しつつあった」1980年代の「軽さ」とは相容れないものである。

 そして何より、原町無線塔は真の《バベル》であった。すなわち、「登れない」構造ゆえ「見下ろす視線」をもつことのない、人々からひたすら見上げられるだけの塔であった。これは、80年代に入って終戦以来の自らの歩みを振り返り、はじめて豊かさを実感するようになった日本人の精神性にはそぐわない。豊かさの実感とは、まさに、塔に登った人々のそれと同じものだからである。上へ上へと目指し、塔を登り、高みから下界を見下ろす。人は「見下ろす」という行為によってはじめて、自分が登ってきたその高さを実感することができるのだ。80年代の豊かさとは、そのようにして実感されたものだった。こうした80年代の風潮の中で、「登れない」ために「見下ろす」視線をもてない、ゆえに高みに登り詰めた実感を与えてくれない原町無線塔は、時代の意にそぐわないものだったのだろう。

 原町無線塔は、1980年代前半の精神と悉く対立する。つまり、原町無線塔は当時の人々にとって、時代の精神に反した邪魔者だったのではないか。それゆえ真の《バベル》原町無線塔は、《バブル》直前期の1980年代前半に消されたのではないか。そう思えるのである。

 その後日本は、空前の好景気を迎える。本来登れないはずの高い所へどこまでも登っていき、そこから下界を見下ろす快楽をたっぷりと味わった日本人は、以来ただただ黙って見上げるという行為を忘れてしまったようだ。東京タワーやスカイツリーに登っては見下ろすという1980年代の快楽を、未だ形式的に繰り返している。原町無線塔のように決して登ることのできない、世界一高い真の《バベルの塔》を建設しようなどという試みは、今の時代、万が一も起こりそうにない。

谷美里

〈註〉

[1] 二上英朗編著『無線塔ものがたり 盤城無線電信局の歴史と人々』(復刻版)動輪社、2015年を参照。

[2] ジッグラトとは、バベルの塔の物語のもとになった古代バビロニアの雛段式神殿で、神々を天界から地上へ迎えるために建てられた塔である。実用目的で建てられたものではなく、上方へ、天へと向かうことのみを目的として建築されており、後述するアレクサンダーの言う塔の条件を満たしている。

[3] ピラミッドが塔でないのと同じ理由で、釈迦の舎利を祀るために建てられたインドのストゥーパや中国の仏塔、日本の五重塔なども、塔とは呼べないと考えられるだろう。

[4] 吉川徹「あやふやな「総中流」とゆるぎない近代のベクトル」(斎藤美奈子・成田龍一/編著『1980年代』河出書房新社、2016年)

[5] 宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版』(河出書房新社、2015年)を参照。

[6] 原宏之『バブル文化論』慶應義塾大学出版会、2006年

[7] 斎藤美奈子・成田龍一「なぜいま「一九八〇年代」か」(斎藤美奈子・成田龍一/編著『1980年代』河出書房新社、2016年)

[8] 二上英朗編著『無線塔ものがたり 盤城無線電信局の歴史と人々』(復刻版、動輪社、2015年)を参照。