ブンミおじさんの「どこにもない」森——アピチャッポン作品へ深く分け入るために


…私はアクティビストでもないし、政治的な映像作家でもありません。東北タイでどういったことが起こったかについては多くの研究者が記述しているので、私は同じ方法を取らないだけです。私が試みているのは「感覚(feeling)」そのものをとらえることです。それは「個人的な」経験の感覚をどうにか記憶したいという気持ちがあるからなのです 。
——アピチャッポン・ウィーラセタクン*1

 タイの映像作家アピチャッポン・ウィーラセタクンの諸作品において、私たちは「森」のざわめきをどれほど感じ取ってきただろうか。彼とアーティストのチャイ・シリによるトークショーで司会を務めたアソシエイトキュレーターの徳山拓一は、ふと次のように語った。SCAI THE BATHHOUSEにて開催中のアピチャッポンの個展「メモリア」で舞台となるコロンビアの「森」が、タイの「森」に見えてしまうのだと。トークショーの内容にとっては些細な指摘だったが、私にとってはきわめて興味深いものだった。というのも、わたしたちはこれまでアピチャッポンが映しだす「森」が東北タイのものだとある種疑いなく認識してきたからである。アピチャッポンが個人的な世界観を構築してきたはずの「森」には、こうした特殊な状況が取り憑いている。彼はおそらく「東北タイ」を背負いすぎ、そして背負わされすぎたのである。

 そうした問題意識でアピチャッポン作品を眺めたとき、『ブンミおじさんの森』(Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives, 2010)【図1】の「森」は変容して見えるのではないか。

【図1】

『ブンミおじさんの森』(以下『ブンミ』)は、死期を感じとったブンミとその親戚の叔母ジェンたちのまわりに、猿の精霊(ブンミの息子ブンソン)と亡き妻フエイの亡霊が集まってくる。ブンミは「森」の奥深くにある洞窟で前世の凄惨な記憶を想起しながら、「ブンミ」としての人生を反省し、そのまま息をひきとる。本作品における生者は、精霊や死者とともに「森」をかきわけて進んでいく。「森」のなかでブンミたちは、東北タイ・イサーンの歴史的記憶に折りたたまれた精霊や死者の「重さ」にふれる。「森」がブンミたちにたしかにそうさせるのである。

 だが、その「森」はどこにあるのか。『ブンミ』は2010年度カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)を獲得し、アピチャッポンの集大成となった。この作品を私たちは亡霊、記憶、輪廻転生、夢、光、洞窟、精霊…といった言葉で輪郭づけようとした。その一方、とりわけ日本国内では「森」という言葉で言祝がれたことだろう。本作品の邦題が「森」を冠する傍ら、原題は「前世を思い出せるブンミおじさん」であり、アピチャッポンが着想を得た原作も「前世を思い出せる男」である。つまり、原題や着想を得た原作はブンミのさまざまな過去の生まれ変わりの生にフォーカスしているが、邦題だけが「森」を前面に押しだしているのである。とりわけ日本国内でのアピチャッポンの流通は、本作品の邦題とともにあった。それゆえ、しばしば日本における彼の仕事は、他国よりも過剰に「森」のイメージを含みもってきたといえる。本作品の「森」と猿の精霊を表紙に採用し、アピチャッポンを積極的に紹介した著作『アジア映画の森——新世紀の映画地図』、アピチャッポン作品の特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」は、その一傾向だろう。わたしたちはつねにすでに、彼の「森」のなかにいるようだ。

 こうしてアピチャッポンと「森」は、不可分であるようなイメージが多少なりとも強化されてきた。だが、その一方で彼の「森」はスクリーンでこれだけ明らかに現出しているにもかかわらず、「森」を対象とした分析はあまりにも少ない。わたしはこうしたアピチャッポン作品の今日的な消費や分析にも出来る限り懐疑的であろうとする立場である。であるがゆえに、アピチャッポン作品という「森」に深く分け入るための地勢図を描くこと、それを本稿の狙いとする。そのためにはまず、『ブンミ』に至るまでの彼の「森」の変遷を概観することが要請される。そして最後に、従来のアピチャッポンの「森」とはまったく異なるものとしての『ブンミ』の「森」にわたしたちは辿り着くことになるだろう。本稿は、アピチャッポンが構築する「森」についての覚書であり、『ブンミ』の従来の読解を「森」から転覆させる試みでもある。あなたがアピチャッポンの「森」に迷い込み、猿の精霊に成り変わってしまわないために。 

アピチャッポンの「森」を素描する

 映画における「森」は、しばしば視界を遮断し、方向感覚を喪失させる役割をもつ。それは登場人物のみならず鑑賞者の方向感覚(物語展開の線的な構造も含む)にも影響する。アピチャッポン作品において「森」が反復して登場し、重要なシーンが展開する舞台であることは、こうした方向喪失の感覚を戦略的に取り入れているからであろう。だがアピチャッポンの「森」の特性はその点に限らない。

 鬱蒼と茂った「森」は、アピチャッポンの長編映画全8作品に共通して登場する。彼の捉える「森」に迷い込んだ登場人物の多くは、そこで人間とは別種の存在と遭遇したり、人間とは異なる亡霊や精霊に変貌したりする。こうした「森」の特徴は長編映画作品だけのものではない。たとえば『ヴァンパイア』(Vampire, 2008)という短編作品では、ヴァンパイア鳥という謎の生物を追って探検隊が「森」を潜行するうちに、仲間のひとりがヴァンパイアになってしまう。また、『ワールドリー・デザイアーズ』(Worldly Desires, 2005)という中編作品では、「森」の奥深くでMV撮影隊や映画撮影隊が徐々に消え去っていく。そして撮影隊がいない「森」のなかで亡霊のように踊り続ける女性歌手とダンサーたちを、キャメラは木々の隙間から捉えてしまう。アピチャッポンにとっての「森」は、人間と非人間の境界がほどける空間であり、幾多の怪異の源泉なのである。

 人間と動物、人間と亡霊、あるいは人間と精霊の輪郭がぼやけるアピチャッポンの「森」。すべての分類の記述はここではできないが、たとえば『トロピカル・マラディ』は、人間と動物の境界が消え去る森が現れる。前半ではふたりの男(兵士、製氷業を営む村の若者)の恋愛模様を描く。後半は一方の男が「虎に姿を変えるクメール人の魔術師」という設定に変更され、もう一方の兵士の男がその虎を狩りに「森」を彷徨う展開となる。兵士の男は「森」を彷徨い続け、次第に人間であることから離れていく。彼は四つん這いで歩き、素手で生肉を喰らい、裸体に泥を塗りたくり、そして朦朧として言語を発さなくなる。そうした状態で兵士の男は、暗闇の「森」で牛の精霊や蛍の精霊と出会う。そして虎と兵士の男がショット・切り返しショットの連続で視線を交わし合うことによって本作品は幕を降ろす。こう記述すると、アピチャッポンは、人間と非人間の境界をそれほど明確に打ちだしてはいないことがわかる。つまり、両者の境界が柔軟かつ流動的であることを織り込み済みの「森」を描いているのだ。なぜなら、動物や亡霊、そして精霊までもが、彼の諸作品においては本来人間だったもののメタモルフォーゼの結果であり、それらの線引きは彼によって放棄されているからである。  とはいえ、奇妙な諸現象の根源となるはずの「森」について、当のアピチャッポンは多くを語ってはくれない。彼とメディア論者キム・ジフンとの対談では、『トロピカル・マラディ』の「森」に多少言及がなされてはいる。彼らによると本作品の「森」は現実的で暗く、統一感をもたない。木々は画面構成から逃れるように散開している【図2】*2。なるほど、本作品の「森」はあくまでも自然な装いに徹しているらしい。

【図2】

 もうひとつ紹介しておこう。映画監督の諏訪敦彦は、アピチャッポンの「森」=自然というわけではないが、彼の「森」はその「構成」が消尽するときに芽生え始めることを指摘する*3。雑多な木々が重なり合う混沌とした「森」は、キャメラのフレーミングによってはじめて「森」という空間として「構成」されるものである。しかし『トロピカル・マラディ』以降、彼の「森」は「構成」から解放されているという。その一因として諏訪があげるのは、アピチャッポンが長編映画の制作方法(緻密な現地調査、土地の人々との共同制作など)によって「森」という世界を絶対的に想像する作者とならない点である。さまざまな人々や事象をアピチャッポンが「媒介」する場所として「森」を考えること、これが諏訪の立場である。

 しかし、「森」の存在を不自然なほど強調させることにこそ、『トロピカル・マラディ』のアピチャッポンの実践にはあった。「森」が「たしかにある」と感じさせること、それが彼の「構成」である。というのも、アピチャッポンの「森」において人間と動物と精霊は各々の境界線の画定を免れているものの、本作品は「森」と森以外とを明確に隔てる境界線を執拗に捉えているからである。キャメラは兵士の男がなんども「森」へ入る様子を映しだし、あるいは「森」から出る男の様子を繰り返し収める。そして兵士の男は「森」へ入るたびに自身の人間性が喪失していき、「森」から出るたびに自身の人間性が徐々に消え去っていくことを自覚するような展開が執拗に反復する。これが「森」の境界線を強調した本作品の基本的なあり方である【図3-5】。こうした彼の実践によって、わたしたちは本作品の「森」をたしかにそこにあると認識できる。『トロピカル・マラディ』の「森」とは、「たしかにある森」なのである。

【図3】

【図4】

【図5】

 境界線から「域」へ

 では、なぜ「森」の境界線を強調する必要があるのか。そしてなぜ境界線を捉える必要があるのか。端的に言えば、この実践がアピチャッポンの政治性とかかわってくる。なぜなら、アピチャッポンがくり返し舞台としてきた東北タイ・イサーンの「森」は抵抗の歴史を持っているからだ。「”イサーンの森”という呼称には革命のふるさとの意味も込められている。70年代には民主化運動の学生たちが軍事政権の弾圧を逃れてイサーンの森に潜伏したが、共産党狩りという名の白色テロ〔権力者による反体制側への暴力的な直接行動〕が行われ悲劇の舞台ともなった*4」のである。アピチャッポンが「森」を映すことじたい――また、「森」の境界線を強調することじたいが、現勢タイにたいする彼なりの政治的な抵抗だったのだ。

  「森」は「たしかにある」ことに意義がある、そんな気概で撮られているのが彼の『トロピカル・マラディ』である。こうした「森」それじたいの強調は、映画研究者のナタリー・ボーラーによると、60年代〜80年代タイ映画の中央集権的で国家の団結や伝統によって特徴づけられるような、タイの自己表象への抵抗として位置づけることができるという。伝統的なタイ映画は、水田、田舎の村、美しい森を映画で描くことによって、理想化された国家の状態を国内外に示していた。だが、『トロピカル・マラディ』においては、国家が理想としてかかげる健康的で倫理的な人間のあり方を、登場人物による「森」の出入りという往復運動とそれにともなう人間的なものの衰退によって転覆しようとした、ということである*5。これこそが、アピチャッポンの「森」がきわめて政治的な磁場を形成する要因である。「森」が「たしかにある」ことは、彼にとってきわめて政治的なのである。

 ところで、「森」の境界線の強調は、たとえば空族の富田克也監督による『バンコクナイツ』(2016)でも顕著だった。登場人物たちは暗闇の森の真横をバイクで疾走するものの、積極的に「森」へと踏み入れない。また、本作品で登場するタイの戦闘的詩人チット・プーミサックの亡霊も、道路の真ん中に登場するが「森」のなかには現れなかったはずだ(史実によると、プーミサックは東北タイ・イサーンの「森」でタイ政府軍に射殺されている)。しばしばアピチャッポンの諸作品の舞台となるイサーンは、こうした「森」の凄惨な歴史的記憶をまさしく「森」のなかに隠匿せねばならなかった。「森」の境界線を捉えることはきわめて政治的な挙措ではあるが、アピチャッポンと空族では当然異なる意味合いをもっている。だが、「森」の境界線の強調は、中心部(バンコク)から周縁(東北タイ)を眼差す権力的な構造と結局は手を取り合う可能性さえ含みもつ。「森」が「たしかにある」こととは、周縁の記憶を掘り起こすことであり、中心部へのひとつの抵抗でもある。と同時に、その関係性が容易に転覆する(中心部から周縁を眼差す視点の強化)契機を含みうるということだ。しかし、アピチャッポンはこうした構造からするりと抜け出す戦略を拵えている。『トロピカル・マラディ』での「森」の境界線の執拗な提示から、『ブンミ』では大きく舵を取った。彼は、「森」を境界線ではなく「域」として捉えはじめたのである。

 ごく単純な統計だけ示しておくと、『ブンミ』は全186ショット中、「森」を画面内に収めたショットが68も存在する。だが、その数字がアピチャッポン作品のなかで多いかというと、必ずしもそうではない。『トロピカル・マラディ』(Tropical Malady, 2004)は、全391ショット中、190ショットが「森」を少なからず画面内に収めたショットであるからだ。つまり『ブンミ』は、アピチャッポンの長編映画作品のなかでも「森」の映る回数がとくに少ない作品なのである。それでもなお、『ブンミ』の「森」の印象は鮮烈である。

 もちろん『ブンミ』における「森」の提示の仕方が突然変異のように現れたとは言わない。彼の長編映画作品は、それに先行する短編映画作品やヴィデオ・インスタレーション作品の諸要素の集積として結実する。たとえば先述した『ヴァンパイア』は、ミャンマーとタイの国境付近にある暗闇の「森」を探検隊が探索する展開である。しかし、彼らの捜索対象となるヴァンパイア鳥とは一体何だったのか、その「森」に何があるのかは完全に闇へと葬り去られる。ラスト・ショットは白い煙が「森」の全容を覆い隠すように漂って終わるのも象徴的だ。もう「森」の境界線は強調されず、「森」という存在があいまいになっていく。

 『ブンミ』における「森」は、登場人物たちが「森」に出入りするショットを提示せず、つねにすでに彼らが「森」のなかに居続けていることを示唆するようになる。「森」は自由に姿形を変えるどころか、その全容を見せない。まるで「森」が「どこにもない」かのように。

 「どこにもない」森に光をあてる

 先述したように、『トロピカル・マラディ』は、「森」とその外部との境界線を繰り返し捉えること、そしてその境界線を登場人物に往復させ、そのたびに彼らの容姿や心情の変化を捉えることで、最終的に「森」それじたいの強調に成功している。『トロピカル・マラディ』における「森」は、わたしたちに「たしかにある森」として認識させる。

 アピチャッポンのインタビューによると、『ブンミ』は彼の作品中もっとも人工的かつ建築的な「森」を提示しているという【図6】*6

【図6】

それは夜の「森」を特殊なブルーフィルターを使って日中に撮影する手法(アメリカの夜)もまた関係するだろう。彼は「わたしは古い映画のような、現実には存在しない風景のなかで俳優たちを動かしたかった*7」と述べてもいる。実際には存在さえしないような「どこにもない森」、それこそアピチャッポンが『ブンミ』で描いた「森」である。では、いかにして『ブンミ』における「森」は提示され、「どこにもない森」となるのか。

 本作品のオープニング・シークエンスから見てみよう。まず冒頭「森や丘や谷を前にすると、動物や他のものだった私の前世が現れる」というクレジットが提示される。それがカットされると、朝方の靄と煙に包まれた牛、牛飼いの男が映し出される。平原を走る牛の運動からジャンプ・カットがおこなわれ、突如「森」のなかを進む牛のショットへと移行する。牛の運動とともに唐突に場面転換されると、平原から「森」へと入る牛の姿は映されない。『トロピカル・マラディ』とは違って、本作品は「森」の境界線を捉えない。そのため、平原と「森」との時空間的な連続性のあいまいさはいっそう強化される。つまり、「森」とその外部との時空間的な因果関係が不明瞭であることから、「森」が外部と遮断され独立した時空間を形成しているようである。

 「森」が境界線としてあらず、不確定な域としてあること、これが『ブンミ』の「森」である。キャメラが「森」を捉えるとき、キャメラはすでに「森」のなかにある。このことは登場人物たちも同様なのだ。たとえばブンミ、ジェン、トンの食卓シーンである。この食卓シーンは、暗闇に包まれたブンミの家で登場人物たちが食事を取る様子を捉える超ロング・ショットから始まる【図7】。トンの横には椅子が不可解に置かれ、椅子の後方で不自然に枝を垂らす木々がある。椅子と枝はライティングでその存在が強調されている【図8】。

【図7】

【図8】

この椅子にゆっくりと姿を現すのが、ブンミの亡き妻フエイである。奇妙な点は、その背後の木々がファースト・ショットでは不可視だったにもかかわらず、こうして登場人物たちの真後ろに迫り寄っていることである。直後にトンが食卓の電気を完全に落とすが、その段階で唯一明るさを保っているのが彼らの背後にある木々であるのもきわめて奇妙な点である。「森」の存在が強調されているというよりも、むしろ「森」が動いている。『ブンミ』における「森」は、地理的な情報がほとんどなく、どこに「たしかにある」のか説明できないからである。タマリンド農園に囲まれているはずのブンミの家を支配するもの、あるいは終盤にトンが宿泊する寺の窓から異様なかたちで覗き見ているものは、「どこにもない森」なのである【図9】。

【図9】

 だからこそ『ブンミ』の森は、ある種の自然さとはかけ離れてアピチャッポンの個人的な世界観を構築する舞台装置として機能することができる。つまり、彼の個人的な世界観を構築するためならば、「森」はどこにでも現れる。それは『トロピカル・マラディ』には見られなかった、境界不確定で流動的な「森」である。それゆえに、「森」は「たしかにある」ことから逃れる。登場人物は知らぬうちに「森」に囲まれ、彼らは気づかぬうちに「森」の内部へと属している。『ブンミ』におけるこうした仕掛けが、わたしたちに「森」の存在をつねに感じさせる。アピチャッポンがインタビューで『ブンミ』における「森」を「映画的」と形容したことは、まさにこの特性によってなのである*8

 ところでタイ文学・文化研究者の平松秀樹は、タイの田舎の食事風景は「床に茣蓙」なのに、ブンミたちは椅子に座って綺麗な食卓を囲んでいることを指摘する。「過度に西洋社会の観客や映画批評家を意識したシーンを持つこの映画*9」と『ブンミ』を批判的に見るのである。平松の批判をどう評価するかは読者諸賢に委ねるとして、彼の主張は本稿の主張を逆説的に強化してくれる。ブンミたちが亡き妻フエイや猿の精霊に成り果てた息子ブンソンと出会う食事シーンは、アピチャッポンが本作品を「6つの異なる映画スタイルを採用している*10」と述べるように、タイ・ホラーやタイ映画史のクリップのモンタージュで成立させたようだ。この「森」に囲まれたブンミの家で平松の言うような不可解な実践がなされることこそ、本稿の論旨からするときわめて「自然」なのである。なぜなら、繰り返し述べるように、「森」は独立した時空間的連続性を保持し、別次元の異空間として屹立するからだ。それゆえ、現実的な時間軸とは逸脱した場面展開や制作手法が「森」で採用されているとしても、なんら不思議ではない。「森」はアピチャッポンの個人的なものであり、わたしたちの共感を求めてはいないのである。

 ブンミの息子ブンソンが猿の精霊として現れる直前もまた、キャメラはブンミの家とは異なる場所にあるはずの暗闇の「森」を捉える。かつて、ブンソンは「森」を彷徨って猿の精霊を追ううちに、自らが猿の精霊と成り果て、それ以降ブンミの前から姿を消していた。ブンソンの想起する過去では、自身が知らぬうちに森の奥深くへと足を踏み入れていることが説明され、やはりすでに「森」へと迷い込んだ彼の動きが提示されることになる。つまり、本作品における「森」は、過去時制/現在時制の場面であっても同様に、登場人物の気づかぬうちに足を踏み入れる場所なのである。

 『ブンミ』における「森」はアピチャッポンのこれまでの諸作品のなかでも特異な位置づけを獲得する。それは「どこにもない森」を描きだすことによってである。『ブンミ』の登場人物たちは、気づかぬうちに「森」の内部にいる。「森」は「たしかにある」というよりもむしろ、流動的な域としてある。「森」が「どこかにある」と感覚的にしか言えないのは、もはや「森」が「どこにもない」からであろう。登場人物が「森」の話をしないのはそのためだ。「どこにもない森」とは、境界線を強調する従来の「たしかにある森」を越えて、アピチャッポンの個人的な時空間の形成に徹底している。そして彼における個人的な時空間は、「だれかのため」のものにはならない。東北タイの「森」がここ数十年で伐採が進んだことを批判するためや、彼の政治的表明のための「森」ではないのである。「森」は、閉じきっている。ブンミが森の奥深くにある洞窟で過去を想起するが、登場人物のだれもがその過去を理解することがなかったように、共感不可能なレヴェルで閉じきっている。だがその潔さは同時に、わたしたちが『ブンミ』の「森」を眺めたときに漏らしてしまうさまざまな言葉を許容してくれる。その「森」の捉えがたさこそ、アピチャッポンが積み重ねた闘争の結果なのである。  

 本稿が明らかにしたのは、諏訪の指摘とは真逆の展開だろう。というのも、「さまざまな人々の記憶や歴史的記憶が共有されている」と諏訪が考える「森」じたいが、アピチャッポンのきわめて個人的な構築物のうえに成り立つものだからである。アピチャッポンは「森」の「構成」に戦略的に立ち戻ることで、従来の自らの「森」の描出方法を転覆させる。その結果、「森」はアンビエンスに徹し、登場人物や鑑賞者を包み込むものとなる。「どこにもない森」とはきわめて皮肉である。それは東北タイの歴史的記憶、民間信仰、そして中央集権的なバンコクの周縁に存在してきた人々(精霊、亡霊)が無視され「どこにもない」という意味の限りではない。むしろ周縁のそれらは映画作品のなかで空気のように姿を消し、だが確実にわたしたちの目前を彷徨い、そして包囲している。

 「どこにもない」ものが「どこにでもある」ものとして揺らぐ。アピチャッポンは、すでに東北タイから離れてコロンビアで長編映画の新作を鋭意製作中である。だが、わたしたちは果たして東北タイから離れる用意が整ったといえるだろうか。もしかすると、「森」のなかで取り残されているのはわたしたちだけかもしれない。いま、その出口を探すときではなかろうか。

<註>
1. 中村紀彦、アピチャッポン・ウィーラセタクン「感覚そのものをとらえる。アピチャッポン・ウィーラセタクン インタビュー」、美術手帖web、2017年7月28日掲載(https://bijutsutecho.com/interview/5367/)。
2. Ji-hoon, Kim, “Learning about time: An interview with Apichatpong Weerasethakul,” Film Quarterly, vol. 64, No. 4, California: University of California Press, 2011, p. 50.
3. 諏訪敦彦「特別寄稿 アピチャッポンの森」、夏目深雪、佐野亨編『アジア映画の森——新世紀の映画地図』、作品社、2012年、181-183頁。
4. 空族『バンコクナイツ』パンフレット、2016年、13頁。
5. Natalie Boehler, “The Jungle as Border Zone: The Aesthetics of Nature in the Work of Apichatpong Weerasethakul,” ASEAS-Austrian Journal of South-East Asian Studies, Vol. 4, No. 2, 2011, pp. 290-304.
6. Kim, op. cit., p. 50.
7. Ibid., p. 50.
8. 本作品における「森」のこうした機能は、ブンミの前世が描かれる中盤のシークエンスでも強化される。この「王女とナマズ」の場面は、ブンミたちが生きている時間軸とは全く別種の「森」の時空間である。王女を乗せた籠の一行が「森」を突き進んでいき、とある滝壺の周りで休息を挟む。担ぎ手の男と顔の醜い王女の恋愛が描かれる。最後は滝壺のなかで王女とナマズがひとつになり、やがて王女もナマズに変貌する。ここで再度強調したいのは、本作品においてもまた、人間と動物、あるいは精霊とが渾然一体となる場所こそ、「森」の内部であることだ。
9. 平松秀樹「タイのヒット映画に見る地域性と時代性」、『不在の父 混成アジア映画研究2016』、山本博之・篠崎香織編、CIRAS Discussion Paper 67、京都大学東南アジア地域研究研究所、2017年、61頁
 10. Kim, op. cit., p. 52.