詩人からわたしたちへと提供される世界のなかで生きることは、
なんと喜ばしいことだろう
ガストン・バシュラール『夢想の詩学』
ジャームッシュは、その長いキャリアにおいて「土地」自体を主人公としたような作品を多く撮っている。メンフィスを舞台とした『ミステリー・トレイン』はもとより前作に当たる『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』では、デトロイトやタンジールでロケーションをすることで「土地」に根ざす文化を作品へ直接昇華させてきた。
映像詩と呼べる静謐さを湛えた最新作『パターソン』もその例外ではない。しかし作中で描かれるパターソンという街は、その街の現状と大いに異なるようである。パターソンはニューヨークから北西へ1時間ほどの場所にあるベッドタウン、ニュージャージー州パサイク郡の郡庁所在地 。そこはアメリカ第2位の人口過密エリアであり、2013年のFBIの統計によると10万人当たり1072件の粗暴犯罪、強盗は全米トップ10入りする約600件が発生する治安の悪い街なのだ。かつ多くの移民問題を抱えるこの都市の実情は映画の持つ静謐さと正反対であるようだ。つまり本作で監督は現実のパターソンではなく、詩的方法によって再構築されたパターソンという街を描いたと言える。
ゆえにストーリーの中心となるのは詩情であり詩人だ。主人公はパターソン市市営バスの運転手をしている街と同名のパターソン氏。彼はローラという美しい妻と犬のマーヴィンと穏やかな日々を過ごしており、詩を書くことを日課としている。彼が書く詩はバス運転手という労働や愛する妻からインスピレーションを受けたもので、形態はパターソンに住んだ詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズに倣った自由詩だ。監督はパターソン氏に仮託して、本作をこの詩人への頌歌としている。
監督が詩人に言及するのはこの作品が初めてではない。彼の作品の中には多くの詩人の血が、引用やパロディによって流れてきた。『デッドマン』(1995)ではアウトローの詩人としてウィリアム・ブレイクをモティーフに選び、『ダウン・バイ・ロー』(1986)ではロベルト・ベニーニ扮するボブがホイットマンを愛唱していた。これらの詩人を引用する監督の詩への関心はーー例えばゲオルゲやヘルダーリンのような観念的なものではなくーーあくまでストリートの言葉で書かれたものに向いていることに注意しよう。そういった意味で彼は、ウータン・クランによるヒップホップのリリックにもダンテ(両者共に本作でも言及されている)と同等の価値を見出している。というのは、どちらもストリートの言葉で編まれており、観念より具体への志向を有しているからだ。
だから、本作でのW.C.ウィリアムズへの言及は実に自然な成り行きと言える。彼の書いた詩はホイットマン直系の自由詩であり「定型詩に対する反逆のモデル」であった(オクタビオ・パス『弓と竪琴』)。しかしこの歴史的事実より注目すべきは、彼の作品がストリートで見聞きしたものをそのまま詩行の中に取り入れたという点にほかならない。すなわち、それが極めて即物的・具体的な手法に基づくものであったということである。
W.C.ウィリアムズは、その手法に基づき詩集『パターソン』でパターソンの街で起こった出来事を「モンタージュ」した。詩人はパターソンを歩き、様々なもの・こと(=具体)を見聞して言語へフィードバックさせたのである。この姿勢は、まさに映画におけるパターソン氏の行動を想起させる。なぜならバスドライバーである彼は、毎日決まった市営バスのルートを運転し乗客の声、ストリートの声に耳を傾けることで街を見聞きして詩にしているのだから。
ここで本作のキーワードの一つとなる「双子」という言葉が重要になる。それを「パターソンという街に住んでいるパターソン氏」が街自体の双子であると解釈できることはもとより、パターソン氏がW.C.ウィリアムズの精神的双子であり、かつ街そのものを詩の中で再創造し「街の双子」を生み出しているとも解釈できるのではないか。そのようなパターソン氏のポエジーを通じて、監督は「詩的に再構築されたパターソン」像を描くことに成功したのである。そして街を「巡回する」パターソン氏の中で蓄積された日常の街のイメージが、ローラとのやり取りやバーでの個人的な体験と重なり合い美しい詩として結実する様は、まさに詩人のインスピレーションの働きを極めて正確に写していると言えるだろう。
そのような彼が詩を編む時のショットは示唆に富んでいる。パターソン氏によって書かれた詩は文字通り画面上に彼の筆跡で現れ、彼の声で丁寧にそれは読み上げられてゆく。画面における文字の現れ方は彼の緩やかな読み上げのスピードと対応しており、観客は彼の朗読とともに詩が生起してくる様を体験することができるように工夫されている。
そのプロセスは観客がパターソン氏の内面だけでなくその詩をいかに解釈するか、観客自身の内的な声で確かめることを可能にさえする。この作品はそういった意味で「詩的な体験を観客に可能とさせる映画」とも言えるだろう。そして忘れてはならないのは、詩は本来声に出して「詠まれる」ものであるという点である。それは音を伴うものなのだ。ここで詩へ本質的に付随する重要な要素である音楽・音の使われ方に着目してみよう。
本作はジャームッシュ自身のバンド「スクワール」による瞑想的なアンビエント音楽から始まる。物語が始まるより前、スクリーンに制作会社のロゴが映っている時点から流れるスクワールの音楽は耳を音に集中させ、これから始まる詩的体験への感受性を高めることを要請しているかのようである。
そして物語が進むにしたがってこのアンビエント音楽が流れる時の規則性に気づかされる。それは彼がバスを運転することで街から詩のインスピレーションを受ける時や、それをノート及び画面へ書き記す時に決まって流れるのだ。そして画面には妻のローラや街、さらにパターソンにある有名な「グレート・フォール」という滝に流れる水の映像がオーバーラップ・ディゾルブで映される。そこへ先述の通り、パターソン氏の詩が彼の文字と声で重ねられるのである。パターソン氏の朗読する詩のリズムに合わせて水や街の姿がフェードインとアウトを繰り返す。この映像効果からはあたかも言葉が水のように流れ、街と溶け合い夢想のうちに合一しているかのような印象を観るものに与えるのだ。そこに表現されたのはまさに映像による詩にほかならない。
またアンビエント音楽が流れ始めパターソン氏がポエジーを夢想する時の、彼の腕時計の動きも象徴的である。その針は夢想の音楽とともに早回りをするのだ。この描写はまさに音楽が実際=現実の時間を凝縮し、内的な時間へ溶解させるものであることを直接的に表しているだろう。そして観客もまた豊饒な詩的時間へ夢想のうちに誘われる。ここで再びポエジーに関する思索者、オクタビオ・パスの前掲書から言葉を引用しよう。曰く「日常的時間は……詩の中においてもある変質をこうむる。すなわち、それは同質的で空疎な連続であることをやめ、リズムへと変化するのである」。それはほとんど気づかないないような穏やかなリズムを刻み、街すらも音楽のうちに溶解してしまう。ゆえにスクワールの夢想の音楽は、まさにポエジーの音楽なのだ。
しかし、ここで注意しておきたいことは、ポエジーによるパターソンの溶解・再構築が行われてるこの映画で現実のパターソンという街が完全に廃され、理想化された街がファンタジックに描かれているということでは全くないという点だ。あくまで監督はW.C.ウィリアムズの詩作と同様、音に関してもあくまで街の具体音にこだわる。それは監督の音の聴取の仕方に表れている。彼はストリートに響くかすかな音や、遠くで鳴るパトカーのサイレンの音まで繊細に映画の中へ取り込んでいるのだ。監督はその手法によって、ファストに消費され見過ごされている様々な街の日常的事物に耳を向けさせる。そして事象に対し傾聴するというポエジーの姿勢によってパターソンの日常はその豊饒性を表すのだ。
様々な情報が洪水のように生活へ侵入する時代から離れ身近な事物や日常への愛や配慮とポエジーの復権を高らかに宣言した本作は、現代に対し非常にラディカルな態度を取っているようだ。だからその倫理的とも言える態度によってこそ、逆説的にパターソンだけでなく世界をも再構築することができるのだろう。そしてこの優れた映像詩は、観客の心すらも詩的に「再構築」させる力も持ち合わせているのである。
白石・しゅーげ
【作品情報】
作品名:『パターソン』
劇場公開日:8月26日(土)、ヒューマントラストシネマ有楽町/ヒューマントラストシネマ渋谷/新宿武蔵野館ほか全国順次公開
監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
出演:アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ、永瀬正敏、他
2016年/アメリカ/英語/118分/アメリカンビスタ/カラー/5.1ch/原題: PATERSON/日本語字幕:石田泰子
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提供:バップ、ロングライド 配給:ロングライド
Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.