『ラ・ラ・ランド』と青の神話学 ――あるいは夢みる道化のような芸術家の肖像 (フール・ロマン派篇)


フラジリティー(弱さ)からフラグメント(断片)へ

 

「神話的世界が幾つもつくり出されては再びバラバラにされてきたように、

新しい世界は断片からつくりあげられたようにみえる」

フランツ・ボアズ

 

 夢を追いかける中で挫折を経験するミアとセブの魂は幾度となく引き裂かれバラバラになる。「夢みる道化」である彼らは、心理的機微をすべて物理学に還元してしまうようなあっけらかんとしたコメディア・デラルテ風の道化ではなく、ロマンティックなピエロ/アルルカンであり、「フラジャイル」(松岡正剛)だ。脆く、儚く、互いを傷つけあったりする。そしてfragility(脆さ)とfragment(断片)は、 「壊すこと(to break)」を意味する“bhreg-”を語源にもつ、“frag-”という語根を共有することから重なり合う。過去ミュージカルの断片の集積、バラバラに引き裂かれた魂、それらを糾合し、一つの解決へと向かう運動が『ラ・ラ・ランド』であるということができる。ジョン・ノイバウアーが「わたしとあなただけの世界」的なセカイ系に近い矮小概念におとしめられていたロマン派概念を数理系の知識でひっくり返した名著『アルス・コンビナトリア――象徴主義と記号論理学』の中で以下のような指摘をしている。

〔ロマン派的な考えでは〕モナドのこうした不完全意識こそが、より大きな完全性へと努力する原動力である。シュレーゲルの世界像においても、人間の意識の断片性が無限に向かう努力のバネであるが、断章となった人間存在は、より痛みをともなって感じられる。不完全の度合いは世界を超越した神を尺度に計られるのではなく、シュレーゲルがすでにライプニッツ哲学評釈のさいに提案していたことであるが、人間存在の理想、つまり「純粋な私」を尺度としようというのである。「われわれはわれわれ自身のひとかけらにすぎない。まさにこのばらばらで引き裂かれたありようによってこそ、そこから派生する意識には区別があるのだ。[22]

 逆説的だが、バラバラのモナドだからこそ、「より大きな完全性」を夢みて努力する。拙論「楕円幻想としての『ラ・ラ・ランド』」で既に語ったように、本作は「ハリウッドの夢」を劇物語の枠に散りばめて作られたミュージカル映画の百科全書であり、シュレーゲルの言うように「百科全書は断じてフラグメントの形でのみ姿を現わす」[23]のならば、百科全書は常に全体を志向する断片の謂いである。そして原研二が『アルス・コンビナトリア』解説で語るように、「集積されるデータが、それぞれに断片でありながら満身に全体であることを予感させるものである場合、未然形の大全(スンマ)が浮かび上がる」[24]のだ。

 また、「初期ロマン派の小説にとって百科全書の遺産は、『無限の充満』を求める姿勢であったが、百科全書という形式は自分の内部にすでに形式への反省を孕んでいた」[25]というノイバウアーの指摘から、『ラ・ラ・ランド』もまた反射=反省(リフレクション)形式としてのポストモダン・ミュージカルであったことが知れる。我々は鏡の国の『ラ・ラ・ランド』へと歩を進めることになる。