深田晃司、平田オリザ、小津安二郎ーー演技と「日本語」の交差点


0、導入

 今回取り上げる「深田晃司」で、連載「新時代の映像作家たち」が取り扱う作家は4人目になる。必ずしも明確な規定があるわけではないが、ここまで主に1980年以降生まれの日本の映像作家を取り扱ってきた。今回は少し趣旨を変えて連載という形式自体にも目を向け、批評対象の作家同士を横断するテーマを立ち上げてみたい。そのテーマとは「演技」だ。なぜ「演技」が同時代の国内作家を横断するのに適したテーマになるのか、順を追って説明しよう。

 本誌のインタビュー1で深田は自分が若い頃は「頑迷な映画主義者」「シネフィル」で、どうせつまらないと思って演劇をばかにしていたと語る。しかし、20代の頃に見た平田オリザ主催の劇団青年団の芝居に感銘を受け、入団する。彼はそこで「演技」に出会ったのだ。その動機には、彼が愛する成瀬巳喜男やエリック・ロメールの世界観を平田オリザのメソッドによって試みれば、新しい映画が作れるのではないかという目論見があったという。もともと脚本、特に会話を作ることが苦手意識を持っていた深田は日本の小劇場にあった平田のメソッドから「演技」についての多く――なかでもフィクションにおける「日本語」の扱い方――を吸収した。
 そのような作家的出自を持つ深田晃司は、ある意味ではとても演劇的な映画作家だ。彼の映画は常に「内」と「外」という構造に自覚的であり、その仕組みは舞台の「表」と「裏」を意識させる「演劇」というメディアとの親和性をいつも想起させる。その証拠に彼の映画には共同体外部からの闖入者が頻繁に登場する。『歓待』(2012)の加川、『淵に立つ』(2016)の八坂、『海を駆ける』(2018)のラウらがそれにあたる。しかし、彼らは共同体の破壊者ではない。作劇の中で、闖入者は共同体内の人間関係を観客に徐々に開示するきっかけを作り出す役割を果たす。

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 深田の映画ではそうして開示されたばらばらのドラマの断片が、断片のまま観客に提示される。プロットは非直線的で、ささくれ立つように分岐し、分岐したまま幕を閉じる。例えば、『ほとりの朔子』では、海希江と兎吉の恋愛関係は明らかにならず、『海を駆ける』では貴子の生死は宙づりにされ、『淵に立つ』では八坂が幼い少女、蛍に何をしたのか(あるいは何もしなかったのか)が最後までわからない。大学教授が生徒をホテルに誘ったところで返答を聞かずに画面は切り替わり(『ほとりの朔子』)、若者たちは理由もなく待ち合わせ場所ですれ違って、また理由もなく同じフェリーの中で再会する(『海を駆ける』)。
 作劇は解決を待たず、ショットはシーンの途中で切り替わる。これらのシークエンスの途切れは、映画の観客に理解できる空間や時間がいつも限られていることを強調する。こうした意図的な「中断」は、見えている(聞こえている)作品のこちら側と、隠された作品のあちら側という構造を作り出す。その構造はちょうど演劇の舞台に似ている。

 「エリック・ロメールの世界観を平田オリザのメソッドによって作る」という目論見から始まった深田作品における演劇と映画の交差は、確かにある程度成功している。エリック・ロメールは俳優の即興演技や、細密な心理描写によって印象付けられる恋愛劇を得意としたヌーヴェル・バーグの巨匠の一人だ。深田作品における力の抜けた俳優の演技と開放的なカメラの構図は、シナリオなしで俳優の即興を好んだロメールの影響が色濃く感じさせる。
 ロメール的な手法――野外ロケーション、引きの構図に俳優の全身を枠に収めながらその足取りを追いかける撮影方法――はもう一方で、ロケーション撮影に即席の舞台装置をつくりあげる。彼の映画の中で舞台の「表」と「裏」という概念は、カメラフレームの「内」と「外」という構造と融合していく。それは演劇の中でもとりわけ青年団の特徴に濃いものでもある。青年団は、暗転や場面転換をはさまないリアリズムの一幕劇を得意としてきた。深田の映画は青年団由来の演劇が撮影によって劇場の外に持ち出され、編集によってマッシュアップされ、穴だらけの地図のような全体像に仕上がる。こうして「平田のメソッドによるロメール映画」が出来上がる。

 このような演劇からの影響を隠さない深田の作品は「発話」に一つの特徴を有している。本稿ではここから深田晃司を一つの交差点として、フィクションにおける「日本語」の扱いーーひいては「日本語」の発話そのものへの問いを追いかける。そこで、平田オリザの演劇論は避けて通れない重要項目の一つだが、それだけでもまだ不十分だ。ここでもう一人、平田が大きな影響を受けたと公言する映画監督、小津安二郎に登場願おう。小津が活躍した50年代、彼はまさに「日本」を代表する芸術家だった。では、そこに代表される「日本」とはどんなものだろうか。本稿が日本語を扱う目的は、「日本」や「日本人」という言葉がまとめる曖昧な「なにか」と密接に関わる。特に文化の中で、こうした言葉はあまりに漠然と使われてきたにもかかわらず、力強い共同体幻想を発揮してきた。以下では小津、平田、そして深田による「日本語」のドラマを材料として、「日本語」の使われ方の分析に踏み込む。彼らのいかに「日本語をうまく発話するか」の実践は必ずしもフィクションの中に自己完結する問題ではない。彼らの作品の中で「演技」がどのように変化してきたかを確認することで得られたなにかしらの成果は、私たちが普段使っている生身の「日本語」にフィードバックされるだろう。

1、小津安二郎の終わらないゲーム

 小津安二郎(1903~63)の映画は、他の言語にはない日本語のリズムの「平坦さ」を内面化した。そして、その「平坦さ」は観た者なら誰もが感づくだろう、ある種の作為によっている。
 1940年代後半以降の作風によって特徴付けられる小津映画の演出が極めて「不自然」なことには多くの人が同意するはずだ。厳格な構図、その構図を重視するあまりイマジナリーラインを超える歪な切り返し、小津自身によってデザインされた舞台美術――。小津映画はそうした細かなルールによって限られたルールの中で、美しい数式のように展開された。しかし、彼の映画は一つの犯罪や事件の真相を追及するサスペンスのような構造はしていない。小津作品は、たしかに効率良く観客に情報を開示していくが、何かの結果や結論を目指す、直線的な「クエスト」型のゲームではなかった。小津映画はリニアな説話の代わりに、連綿と続く一般市民の日常風景をそのほとんどの作品の主題としており、映画批評家・蓮實重彦はその特性を「いつでもやめられるゲーム」と称した2。裏返せばそれは私たちにとってとても身近な日常という「いつまでも終わらないゲーム」でもあった。

 蓮實によれば小津は、同時代の「就職」「結婚」「転任」「出産」「子育て」といった社会的な風俗や儀式の細部を体系化し、表現してきた。小津の作家性は昭和という戦後日本における市民階級の家族像の類型化にあったが、小津が類型化した家族像のリアリティは時代の変遷とともに失われたものでもある3。結果として、小津映画は昭和の一時代を象徴する日本のエキゾチシズムとして固定化されることとなった。
 蓮實の活躍もあり、小津は90年代ごろまでには国際的に顧みられる映画史の巨匠となった。蓮實の批評が印象付けた小津映画の特徴は、後続の世代や海外の映画ファンの間でエキゾチックな戦後の昭和日本のアイコンとして「小津」を認識させた。彼の作風はヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュ、ウェス・アンダーソンといった海外の追従作家を生み出し、国内外に後世から懐古される「日本人像」を刻みつけたのである。

 小津映画はこうして「日本人の類型化」によって時間や国境を越えた評価を獲得した。しかしながら、その「終わらないゲーム」の一端でもある、小津映画の極端に平坦な台詞回しは鑑賞者にとりわけ「不自然な」印象を残す。劇作家の平田オリザは、自身も強く影響を受けた小津映画の「日本語」の不自然さについて、以下のように分析している。

「実際にふだん喋っている私たちは気が付かないが、日本語は外国人が聞くと、本当にたいへん平坦に聞こえるらしい。日本語の喋れない外国人に、日本人の真似をさせるとそのことがよくわかる。(…)余談だが、小津安二郎の映画の台詞は、どれもみなたいへん平坦に聞こえる。これはおそらく、外国人が聞いた日本語はこんなもんなんじゃないかと私は想像している。」4

 平田が小津の映画を「外国人が聞いた日本語」と形容するのは言い得て妙だ。この指摘は、小津が形成した昭和日本のエキゾチシズムと呼応する。小津はある意味で外国人の耳向けにデフォルメされた日本語の様式を作ってしまい、その「昭和の日本」が失われた後、小津の生きた「昭和日本」を知らない後の世代の日本人もまたそのデフォルメされた「平坦な日本語」を内面化したのではないか。
 小津の不自然に平坦なセリフの発話は、俳優にとって「窮屈な」ものでもあったことを見逃してはならない。たとえば、小津が彼の映画の常連俳優、笠智衆に「君の演技よりも構図が大事です」5と指示を出したという逸話がある。類型化と効率化による「厳しい」ゲームであった小津の映画は、もう一方で俳優の身体を抑圧していたのである。同時代の風俗をシンプルに切り取り、海外でも消費しやすい形で輸出された「小津的」なるものは、生身の身体を窮屈な容れ物に押し込めるモデル化された演技でもあった。私たちは彼の映画をみるとき、構図やリズムに抑圧されて、無理な体勢での演技を強いられる笠智衆の身体を再発見する。

 そこで、ある意味では、様式に抑圧された話し方を、実情にすり合わせるものとして平田の演劇は登場した。それは90年代までのある種のエキゾチックな「日本語」の解体でもあった。具体的に平田オリザが何を行ったのかを見ていこう。

2、平田オリザと現代口語観察

 平田オリザの「現代口語演劇」は二つのものを解体した。一つは「類型化された日本語へのノスタルジー」、もう一つは新劇によって制度化された「翻訳戯曲の発話法」だ。
 平田は1983年に旗揚げした劇団「青年団」の活動の中で「現代口語演劇」という演技メソッドを開発する。平田の現代口語演劇理論は役者の「内面」や「感情」、作品の「内容」を演劇が表現することを否定し6、認識に基づいて劇作家が書き上げた世界の在りようを演出家が再現することを重視した。観察に基づいた日常的な話し言葉と身振りによる「静かな演劇」を構築した。
 もう一方で、この理論の根っこには演劇による言文一致運動という側面があった7。平田は新劇に見られる、翻訳に由来して外国語のように話される日本語台詞との対比の中で、独自の日本語論を展開した8。それは翻訳言語に毒され、不自然に大振りになった日本の演劇の発話や身体の方法論を修正し、正確な日本語の口語としての発話方法を見極めようとする試みだった。そこには「現代口語演劇」の発展過程には、前述したように小津映画のような類型化されすぎた日本語への警戒という意味合いもあったのである。

 では、平田は「新劇」や「小津」へのオルタナティブとなるような発話のモデルを提示できたのだろうか。答えはノーだ。平田がなんらかの発話の類型を提示することはなかった。どういうことか。平田オリザのメソッドには「観察に基づいて創作を試みる」という方法論的な部分と、そうして「独自の日本語の口語文化を目指す」という二つの側面がある。しかしそこで、後者は「日本語の話し言葉とはこうである」という明確なゴールに至ることはなく、現在進行形の議論として先送りにされ続けてきた。つまり、平田が明確に提示できたのは方法論だけだったのである。平田にとっての目の前の生活の中で変化し続ける生身の日本語は捉えがたく、モデル化して固定できるものではなかった。「生の日本語」と向き合うことの困難について平田は、「役」というものの成立の難しさを通して以下のように語る。

「舞台においては、『彼は郵便配達人だ』という命題は不可能で、『彼は郵便配達人のように見える』という命題だけが可能なのだ。(…)従来の演劇が「郵便配達人らしく」と考える際の郵便配達人像というのは、一見客観的なように見えて、実は個人の主観を起点にした私的なイメージの集積以外の何ものでもない。私たちは、この主観の共有を断念したところから、演劇を作り上げていかなければならない(…)悲しいときに人は何をするか? 国語の試験の正解は一つかもしれないが、演劇の正解は無数にある。鼻くそをほじってもいい。靴下の匂いを嗅いでもいい。もちろん泣いてもかまわない。戯曲が十全に「悲しさ」を表現しているのなら、あとは自由だ。役者は何をしてもいい。」9

 平田の演劇で「役」はモデル化されない。「役」を演じる役者は「何をしてもいい」のであり、それがどう見られるかは状況によって決まる。戯曲とは、つまるところその状況設定なのだ。平田の演劇の役者は「表現」しようとさえしなければどんな身振りをしても良いのである。
 それゆえに、平田の実践が演劇やフィクションに限ったものではないことを少しだけ補足しておこう。現在、青年団は国内の公演だけでなく海外公演や小劇場の若手劇団養成でも活躍している。映像では、アイドルユニット「ももいろクローバー」を主役にした平田原作の小説『幕が上がる』が、テレビバラエティの演出家本広克行の監督で映画化。同作と『ちはやふる』(小泉徳宏監督、2016~18年)シリーズでは平田が出演者に「演技ワークショップ」を実施した。
 平田は「将来的に演劇は、ジムのように、朝芝居をしてから会社に行くようなものにもなる」10と語る。彼は演劇を鑑賞芸術に限ったものとは思っていない。平田は2009年から2011年まで内閣官房参与の役職を勤めた経歴があり、青年団の俳優は学校機関や社会人セミナー、テレビ局のアナウンサー室などのワークショップを開いてきた。彼らはいかに「日本語をうまく話すか」という実践を劇場の外で日夜行ってきた。

 深田晃司という作家もその一端として現れた。深田は、小津から平田へと修正された日本語に関する「演技」としての運用方法を、カメラを使って「内」から「外」へと持ち出した。その「外」とは劇場の外であり、国の外であり、日本語という文脈の外でもあった。

3、深田晃司は「日本語」を拉致する

 深田晃司は平田オリザの「現代口語演劇」を「外」へと拡張した。その「外」とは文字通り地理上の外――つまり、海外だ。深田晃司は現在の日本を代表する国際的な映画作家となりつつある。2013年に『ほとりの朔子』でナント三大陸映画祭グランプリ、2016年の『淵に立つ』でのカンヌ映画祭ある視点部門審査員賞をそれぞれ受賞。フランス芸術文化勲章の一つ「シュバリエ」の称号を受け、新作『海を駆ける』(2018)は初の海外ロケによってインドネシアのアチェで撮影された。

 冒頭で、深田の映画が演劇と親和性が高いことは先に述べた。そしてそれは、エリック・ロメールと平田オリザの演劇の折衷として成立しており、「内」と「外」という構造を明確に意識させるものだった。
 深田の真価はその日本語話法を、日本語という文脈を持たない海外に輸出してしまったときに発揮される。『ほとりの朔子』と『海を駆ける』の比較を通じて、海を超える私たちの現代日本語口語の行先を眺めてみよう。『ほとりの朔子』(2013年)には海外に対する深田の態度を端的に示す印象的なやりとりがある。大学受験に失敗した浪人生、朔子はインドネシア文化の研究者叔母・海希江とともに夏の終わりの2週間を海辺の町で過ごす。海希江とともに砂浜を散歩する朔子は叔母の仕事について「その国のことはその国の人が研究したほうがうまくいく」んじゃないかと問いかける。海希江は「自分のことは自分が一番知ってるって思う? 他人のほうが実は自分の魅力や欠点が見えてるってことがあるとは思わない?」と返す。11

 深田のインドネシア滞在という同一のきっかけから制作された『ほとりの朔子』と『海を駆ける』はちょうど姉妹のような作品だ。大学受験に失敗した浪人生の朔子の物語は、インドネシア文化の研究家である叔母の影響を受け、再び大学受験に歩み出すという形で幕を閉じる。朔子の分身のようにして登場する『海を駆ける』のサチコは、せっかく通っていた大学をやめて、父親の遺骨を捨てるためにアチェを放浪する。
 深田の映画が舞台のようにその舞台上と舞台裏、あちらとこちらを行き来するものであるとすれば、『ほとりの朔子』と『海を駆ける』の二作品はちょうどお互いが相手の「あちら側」になるような構造をしている。朔子にとってのあっち側に「大学生」と「インドネシア」があり、サチコがそれをこちら側として生きている。『海を駆ける』とは海の先にある、日本という文脈を離れた地に日本語が運ばれた後の物語だ。

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 『海を駆ける』の中で、ある日本語が「日本社会」という文脈を離れたがゆえに迷子になる。インドネシア育ちの日本人タカシは、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという逸話を知り、サチコに告白をしたいというインドネシア人のクリスに「月が綺麗ですね」と言うとよいというふうに吹き込む。
 夏目漱石の翻訳は、日本人は「愛している」という言葉をそれほど率直には口にせず、英語の「I love you」12という言葉が男女や恋愛関係を問わず使われるあいさつのような言葉であるというずれに基づいたものであった。だから漱石の訳はむしろ「月が綺麗ですね」をあいさつのように日本語に溶け込ませるものであり、「I love you」から「愛している」という文字通りの意味を脱色することが期待された。
 しかし、日本社会というコンテクストを持たない日本語話者のタカシは「月が綺麗ですね」が「愛している」という意味を持っていると、誤認してしまう。クリスが月の見えない曇り空の下でサチコに「月が綺麗ですね」と告白するシーンは滑稽だ。そこには社会というコンテクストのない場所に輸出された迷子の日本語の孤独がある。深田の映画が穴だらけの地図のようであるのは、時として言葉の誤用によってこのようなコミュニケーションの失調という落とし穴に話者たちが落ちてしまうからだ。

 芸術家としての深田の姿に、『海を駆ける』の終盤で若者たちを連れ立って海へ駆け出し、水上へと走りでるラウが重なると書くのは筆の走りだろうか。ラウの超自然的な力によって若者たちは文字通り水面の上を駆けていくことが可能になるが、ラウは突然海に消え、魔法が解けたように若者たちへと落ちる。彼らはまるで文脈を離れた「日本語」のように海に溺れるのだ。言葉には、他人とのコミュニケーションによって意思を疎通する力があると同時に、言葉の力を前提としすぎたコミュニケーションは外国語やその誤用という意味の途切れにさしかかって、不意にコミュニケーションを意識させる。この失調に適切な対処ができるかどうかで、私たちに「外部」というものを想定し、それと付き合う能力があるかどうかが問われる。
 『海を駆ける』のラストでは大人(親)の死と海に溺れた若者たちという形で、外部という危険にさらされた主体が提示される。しかし、ラウの魔法が解けても彼らの顔は朗らかで、絶望の色はない。彼らは今、自分の力で岸辺を目指さなければならない。

 小津安二郎の映画は外国人に受け入れられやすい「日本人像の類型」を築いた。しかし、それは身体に無理を強いる窮屈なポーズだった。平田オリザの演劇は日常生活の綿密な観察によって、その窮屈な身体を開放し、その開放感を維持するための方法論を組み立てた。しかし、その方法は日本語によって出来上がる社会の文脈に依存した。平田の方法論はその背景社会への観察の賜物だった。深田は、この方法論を『海を駆ける』で日本語の外へと連れ出し、外国人とのコミュニケーションの失敗にさらした。
 彼らの実践は私たちをとりまく社会の変化と並行し、私たちの生活の鏡となって反省を与える。その反省の中で身体はまず、エキゾチックなステレオタイプの窮屈さを逃れ、自意識や衒いのない自然さを獲得し、時として分かり合えない他人に向かって果敢に粘り強いコミュニケーションを試みる。私たちのリアルな日本語とはそのいくつものコミュニケーションのバリエーションの往復にあるのではないだろうか。平田が試みたように、そのような発話方法のモデル化は常に先送りにされ、方法論だけが残される。しかし、そのように往復することで少しでも無理のない体を持った日本人であろうとするときにだけ、私たちは外部への反応=レスポンシビリティを発揮し、成熟へと近づくだろう。今後も多くの日本人芸術家が海外での評価を切望し、それに失敗し、ときには成功し、今度はそこで得たレッテルから逃れようとするだろう。私たちは、少しでも自分自身であろうとその都度自分の身振りを修正し、周囲に応答し続ける。他の何物でもなく、自分自身であろうとあろうとする時にだけ、私たちはよりよく「日本語」を発話する。演技は常にをそれを測る尺度であり続けるだろうから――。

※追記と予告
 ここまでにいくつか素通りした問題がある。平田の「現代口語演劇」は表現の欲求を警戒し、それを拒むことで成立した。以上では小津安二郎との対比の中で、演出(監督)の表現欲求からの俳優身体の解放という図を描き出したが、俳優自身による表現欲求から俳優はどのように解放されるかという問題をまだ扱っていない。
 平田の演劇は現実の生活を引き写そうとするが、それが俳優の即興によってなされることを警戒する。即興は俳優の表現欲求を警戒するからだ。平田の場合は、場面転換や暗転のほとんどない戯曲の途切れなさによってこの俳優の表現欲求が管理されるが、編集によって作品がばらばらにされる映像表現ではまったく事情が異なる。上演(上映)時間と俳優の身体は決して同じ時間を共有しない。
 こうして我々は、平田による日本語の統御のメソッドに、映画が培った俳優の即興演技という歴史を対置して浮かび上がらせる。1960年代のアメリカに俳優から映画監督になり、演技のワークショップをそのまま映画にしたジョン・カサヴェテスという監督がいた。この続きはカサヴェテスの意志を受け継ぐ現代日本の作家「濱口竜介」に関する議論へと引き継がれる。

〈註〉
1 エクリヲ 深田晃司インタビュー http://ecrito.fever.jp/20180531222809
2『監督 小津安二郎』蓮實重彦著、ちくま学芸文庫、1992年
3 同7
4 『平田オリザの仕事1:現代口語演劇のために』、平田オリザ著、晩聲社、1995年
5  『小津安二郎先生の思い出』,笠智衆著, 朝日文庫, 2007年
6 「小津」や「新劇」の作法とともに、平田は「即興」を俳優が表現をしようとしてしまうものとして拒んでいる(同5参照)。平田がどのように「即興」を拒んだかについてはまた別の稿で扱う。
7 主に明治期の文学において行われた日常的な話し言葉と、文面の書き言葉を一致させようとする運動。日本語における文語は、古代の朝廷文化の中で公文書が漢文でやりとりされたことにたんを発し、平安時代までに「文語」としての日本語が発達。明治期、坪内逍遥の影響下で二葉亭四迷が仕上げた言文一致の文学作品『浮雲』には、こうした古来の文語と、輸入されたロシア文学などによって形成されつつあった外国語の翻訳文体の両方から離脱する意図があった。
8 例えば、ヨーロッパ言語ほど日本語が主語を多用しないことを挙げ、日本語を「主体」ではなく「関係」の言語として設定。ヨーロッパ言語が「強弱」のアクセントによって展開するするのに対し、日本語は「高低」のアクセントでできているとし、それに適した発話方法を提案する。
9 同5
10 「<現代演劇>のレッスン;拡がる場、超える表現」、鈴木理映子編、フィルムアート社、2016年
11 『ほとりの朔子』(深田晃司監督、2013年)
12 深田は影響を受けた映画の一つに小津安二郎の『お早う』(1959年)をあげている。http://www.christiantoday.co.jp/articles/22967/20170105/fuchi-movie-fukada-koji-3.htm

劇中では近所の英翻訳者に英語を習う子ども達が意味もなく「I love you」と口ずさむシーンがあるがあるが、本作では大人から叱られてヘソを曲げた子供が一切の会話を放棄するという展開がある。大人からうるさいと注意されて臍を曲げる子どもが「大人だって余計なこといってるじゃないか。オハヨウ、コンニチハ、コンバンハ…」と答えるセリフは興味深い。『海を駆ける』の「月が綺麗ですね」のエピソードは「I love you」のあいさつとしての機能を見落としたが故に発生する冗談であることを考えると、深田が小津作品の中でも『お早う』に注目する事実は興味深い。

深田晃司ロングインタビュー
連載「新時代の映像作家たち」バックナンバー