『ラ・ラ・ランド』と青の神話学 ――あるいは夢みる道化のような芸術家の肖像 (フール・ロマン派篇)


鏡の国の『ラ・ラ・ランド』――ナルシス、オルフェウス、メドゥーサのミュトロギア

 

「彼女こそはすべての国家 そして僕はすべての王

そのほかには何も存在などせぬ」

ジョン・ダン「朝日」

 百科全書の「反省形式」と書いた。反省(reflection)の字義通りの意味である「反射」もまた、ミアに特徴的にみられる身振りである。例えばパーティー・シークエンスで「私を天空に拉し去ってくれる大勢の人のなかの誰か」を見つけられずに、化粧室の鏡の前で自分をみつめるミアに本作の反射=反省形式がそのまま現れている【図10――「スぺクルム」と「瞑想スペキュレイション」は語源的にも古来切り離せないものなのだ。『ラ・ラ・ランド』において、かつてのハリウッド黄金期ミュージカルにあったイノセンス(=円)は歪められ、ミアとセブは苦悶と救済(=楕円)に心を引き裂かれている。それは、ミュージカルをメタに思考するポストモダン・ミュージカル=『ラ・ラ・ランド』を、ミアが自身をメタに思考することで反復しているゆえである。例えば丘の上でのダンス・シークエンスに突入する直前に、ミアはヒールからタップ・シューズにわざわざ履き替えるが、これはミュージカル映画という形式に恐ろしく自覚的なミュージカル映画の身振りとして、ゴダールのような自己言及である【図11。ここでノイバウアーの「ロマン主義芸術作品の際立つのは、作品の生まれ方とか独自の詩的処方について自分で意識しているところにある」[26]という言葉に鑑みれば、『ラ・ラ・ランド』はロマン派の衣鉢を継ぐ自己言及の芸術であることが知れよう。

 

10.パーティーで孤独に陥る「鏡の国のミア」。反射=反省作用を突き抜けた、鏡の向こうにある/あってほしい無何有郷を夢みるような道化のメランコリックな眼差し。悩める近代的自我=ハムレットの汝自身を知れノスケ・テイプスムのトポスをここに読み取ることもできる。

 

11.バッグの中にタップ・シューズを入れていることが、本作がメタ・ミュージカルであることを告知する。

 

 また鏡による無限級数的な自己分裂こそがドイツ・ロマン派を特徴づけるものだとすれば、ア・フロック・オブ・シーガルの「アイ・ラン」をミアがわざわざセブのバンドにリクエストすることは特筆すべき点だろう。なぜならこの曲のミュージック・ヴィデオは、オーソン・ウェルズ監督の『上海から来た女』の名高い「鏡地獄」のシークエンスをパロディーしたものであるからで、明らかにこれはロマン派の「べき級数」的なメタ自我のありようである。出口なしユイ・クロの「愛の球体」の中で、ミアとセブは互いに互いを映しあい、反射=反省を熾烈に繰り返していくことを思えば、この「アイ・ラン」のリクエストもまた二人の行く末を予告するものだったといえよう。

 宇多丸は『ラ・ラ・ランド』をミアとセブ以外は書き割程度の価値しか与えられていない「セカイ系」と評したが、それは謂い方として矮小でしかない。これはいわゆる二人だけのエゴイズムエゴイスム・ア・ドゥーであるのだから、畢竟、互いが互いを鏡とした相互ナルシスの神話に他ならないと思われる。自らを「灰の中から蘇るフェニックス(不死鳥)」と呼ぶセブに、ジョン・ダンの「フェニックスの詩(Each Man a Phoenix)」が谺する。この詩に関して、「自分の種は自分だけだと思っているこの不死鳥とは、即ちナルシスの謂に他なるまい」[27]と高山宏は喝破してみせたが、「楕円幻想としての『ラ・ラ・ランド』」で縷説した通り、本作はウロボロス的な「円」がテーマであり、それはまた閉鎖系も意味することに鑑みれば、恋人たちが一緒に過ごす部屋が全宇宙を凌駕すると考えたジョン・ダン的なマニエリスム小宇宙がミアとセブのあいだで懇ろに形成されていることが知れよう。高山はまた「〈リフレクト〉する病」の中で、「あのボッシュのナルシス球体とパルミジャニーノの円形肖像を原‐円環とするこうした円環(ないし球体)こそナルシスの紋章ではなかろうか」と語っている【図12】[28]。このナルシス的な出口なしユイ・クロの球体は、デミアン・チャゼルによる前作『セッション』の主人公と鬼教師の閉じられた関係にも見られたものだが、『ラ・ラ・ランド』ではそのナルシス球体からの脱却が志向されているように思える。

 

12.薄い皮膜で覆われたボッシュの「ナルシス球体」に囲繞されたこの男女の関係を、ミアとセブが反復する。

 

 その根拠はミアとセブの最後の眼差しの交換であるが、オルフェウス神話の変奏をここに読み取らないわけにはいかない。というのもミアは地下世界=「セブズ」に下降し、無言の再会を果たし、最後に振り返ることで、セブと永劫の別れを迎えるのであるから。谷川渥が「オルぺウスの鏡」で指摘するように、オルフェが振り返ってエウリュディケーを見たとき、お互いが見ていたのは実はお互いの瞳(=鏡)に映る己の姿だったとすれば、クロースアップされるミアとセブの「瞳」には「人見」があったはずだ(英語のpupilにも小さい人=「生徒」と小さい人が映るもの=「瞳」の意味がある)。『古事記』には「麻具波比(まぐはひ)」という言葉が出てくるが、これは「目合(まぐはひ)」のことであり、男女が目を合わせることを意味した。しかしミアとセブが懇ろに目合ったことによって永久の別れを迎えたのはなぜか? セブがミアの瞳を「鏡」(mirror)にして、あの「驚嘆」(admire)すべき7分間の「奇跡」(miracle)が起きたというのに[29]。サルトルの『存在と無』を引きながら谷川が出した以下の結論が、『ラ・ラ・ランド』のエンディングを開く鍵となる。

 サルトルによれば、眼差しとは峻別されねばならぬ別のものである。彼と彼女は、正確には、それぞれ相手に眼差しを向ける。彼が彼女の眼差しをとらえるとき、しかし彼は彼女の眼を知覚することをやめる。たしかに、眼はそこにある。眼は、依然として、彼の知覚野に、たんなる表象として存在する。しかし眼差しは、あたかも眼の前方を行くように思われる。他者の眼差しは、距離を世界に到来させるのだ。この強いられた距離を否定しようとすれば、彼は彼自身の眼差しによって彼女の眼差しを超越するほかはない。そのとき相手の眼差しは眼という対象・・に変貌する。要するに、サルトルによれば、眼差しの交差は、相手を対象と化す相互メドゥーサ的な営為にほかならない。目合まぐわいは、サルトルにあっては、永遠に実現不可能な愛の合体のメタファーとなる。[30]

 この「永遠に実現不可能な愛の合体のメタファー」という言葉よりふさわしい、『ラ・ラ・ランド』エンディングのあの見つめ合いを記述する言葉があるだろうか? 〈視〉にまつわるミュトスが無意識に輻輳し、絡み合う中で生まれたこの40秒ほどの「エピファニー」(ジョイス)が、閉じられた二人の愛を切断し、より大きな夢にリコネクションする現代の神話を呼び起こしたことは言うまでもない。ガストン・バシュラールが『水と夢』において、鏡は文明化された幾何学的すぎる物体であって、夢の道具としてあまりにも明証的であると記述したことに鑑みれば、「涙」すなわちマチエールたる「水」に濡れたであろう瞳を鏡としたラストは、「物質的想像力」さえ喚起するものだともいえる。とまれ、相互ナルシス的な愛の球体は、オルフェウス神話を変奏したような相互メドゥーサ的な眼差しによって破砕され、互いが互いを殺し、活かすのだ。夢みる二人の道化は、愛という鏡地獄から脱却し、各々の道を邁進し、夢を掴む。

 さて、我々はここまで、墜落する道化を目撃し、フラグメントに引き裂かれた形式と魂に思いをはせ、鏡の国を突き抜けることで、「道化」と「フラグメント」と「リフレクト」という3つの主題を獲得しえた。しかし、この3つが思わぬ共鳴を見せるとしたら?