『ラ・ラ・ランド』と青の神話学 ――あるいは夢みる道化のような芸術家の肖像 (フール・ロマン派篇)


道化服と靑空のアイロニー、そして「新しい誠実さ」

 

「永遠なるもの《靑空》、その澄みわたる皮肉(イロニー)」

ステファヌ・マラルメ

 

 鏡を見つめる道化(【図11のミアを参照のこと)という使い古された図式からも明白なように、道化は必然的に「リフレクト(自己反省)」の問題と骨絡みである。そして道化の着ている継ぎ接ぎだらけのだんだら服(モトリー)が象徴するように、それは「フラグメント」およびその寄せ集めである「ブリコラージュ」とも結びつく。「リフレクト」、「フラグメント」、「ブリコラージュ」という三者の結節点を、バーバラ・A・バブコックの「私を混沌に織りあげて」というテクストが明らかにしている。

ブリコラージュの理論は、その構造的パターンがバラバラの断片によって、偶然〈と〉制約性の野合によって生み出される万華鏡の論理といえる。こうした神話や万華鏡と同様、道化の所作や衣装、そして哲学者のパスティーシュは、ひとしく文化的な破片の寄せ集めから構成され、そして鏡の原理(mirror principle)を秘めるのである。[31]

 断片同士が互いに相照らしあう関係。上記引用を『ラ・ラ・ランド』に引きつけて考えれば、溢れる過去ミュージカル映画の引用、溢れるテクニカラーの豊穣、溢れるノスタルジアからして、『ラ・ラ・ランド』は「偶然〈と〉制約性の野合によって生み出される万華鏡の論理」であり、道化のだんだら服(モトリー)そのもののようなごった煮の映画で、ある断片が別の断片を反射=反映する「鏡の原理」であることは疑いない。寄せ集め形式は必然的に反省形式となる。もっとわかりやすく言えば、引用(という名の「他者との対話」)は自己反省/自己批評を促すのであり、それは『ラ・ラ・ランド』が「ミュージカル映画に関するミュージカル映画」というメタ・ミュージカル映画である時点で避けられない展開だ。

 ちなみにエピローグで今まで使われた音楽からなる圧巻のメドレーが流れるが、この「メドレー」なる語が道化のだんだら服も意味すると知ったらどうか。高山宏は『白鯨』及びポストモダン小説の「百科全書的書法」の抱え込むアイロニー性を論じた「エンキュクリオス・パイデイア」という文章の中で、以下のような指摘をしている。

ある限られた空間の中に多様なものを結び合わせようとすると、そこには〈メドレー〉(雑文集・ごった煮)が生れてくる。「メドレー」という言葉には、いろいろな色で織り成された着物という意味があり、かくて道化のだんだら服のもつ宇宙象徴論的な意味合いとこの種の混淆文学の間には同じ諷刺機能があることが知られる。諷刺とは何かということにはここでは立ち入らない。ただsatireのラテン語源saturaが「混ざりもの、ごった煮、寄せ集め」を意味したことだけ記しておこうか。それは「豊穣の角(コルヌコピア)」を意味したともいう。[32]

 

 ウィリアム・ウィルフォードは道化服に関して、「混沌として不調和な諸要素を含みながら、時にはそれらを均衡と調和のとれた一パターンの中に統合する」とした。混沌を「チャゼル得意の力業」(宇多丸)で一つにまとめあげたという意味で、『ラ・ラ・ランド』とは一着の道化服のようなものだ。そして混淆形式であるsatura(ごった煮)の豊穣は、ほぼ不可避的にsatire(諷刺)を要請する。では何を諷刺しているのか?

 それは口元に薄ら笑いを浮かべたような、ポストモダン的シニシズムの貧しさではなかろうか。『ラ・ラ・ランド』はアイロニカル(=二律背反)であるが、決してシニカル(=挫けた情熱が生みだす閉鎖回路)にはならない。楕円という形象のもとに、切り捨てたいとも思える負性もまた救済し、賦活する。この映画の豊穣(コルヌコピア)は、ロマンティック・フールの愚直なまでのまっすぐな身振りをもって、シニシズムの貧しさを糾弾する第一級の諷刺として機能している。より正確に言えば、『ラ・ラ・ランド』はこの諷刺の攻撃性を隠蔽し、そこから滲出するアイロニーによってある種の優しさを保持したまま表現した。ラインホールド・ニーバーの『アメリカ史のアイロニー』の言葉を借りれば、「幼児や愚かな者たちのナイーヴさが賢者にはかくされた知恵の源となるとすれば、それもアイロニックなことである」[33]。そもそもこの物語は、太陽が照りつけるLAのハイウェイでの「冬」に始まり、5年後の「冬」で閉じられるが、ノースロップ・フライ『批評の解剖』によれば、冬のミュトスは「諷刺とアイロニー」の神話を形成する[34]。「攻撃的なアイロニー」が風刺なのだとしたら、『ラ・ラ・ランド』はその逆に「柔らかい諷刺」としてのアイロニーを巧みに用いる。このあたりでマラルメの「靑空」の第一連を思い起こしてもよいだろう。

永遠なるもの《靑空》は、その澄みわたる皮肉(イロニー)で、

花々のように、美しく、呑気に、うちのめしてくる、

実りなき懊悩の荒野を、おのが天分を呪いながら、

いま横切ろうとしている一人の無力な詩人を。

(結崎剛=訳)

 まさに冒頭の、真夏のごときLAの太陽照りつける青空の下での生き生きとしたダンス・シークエンスは、その直後の予想だにしなかった「冬(Winter)」というアイロニカルな一語によって意味が反転され、マラルメ的《靑空》に変じる。晴れ渡る「靑」い空は、ミアとセブというロマン派芸術家の「実りなき懊悩の荒野」を虚仮にする、「冬のミュトス」としての皮肉(イロニー)=「靑」となる。

 いや、しかし、もはや諷刺でもアイロニーでもないのかもしれない。ポストモダニズムのさらに先の時代相である「メタモダニズム」の鍵概念とされる「新しい誠実さ(New Sincerity)」が『ラ・ラ・ランド』を開くさらなる鍵となる。これはポストモダン的シニシズムに対する反動現象のようなもので、スパイク・ジョーンズやミシェル・ゴンドリーのような、真摯な情熱や優しさに溢れた90年代以降の一定の傾向を持った映画群を指す。批評家のジム・コリンズが映画批評の文脈において「新しい誠実さ」を以下のように定義づけている。

 『フィールド・オブ・ドリームス』(89)や『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(90)、そして『フック』(91)のような映画のもつ「新しい誠実さ」は、どれもごった煮の混ぜ合わせ(hybridization)ではなく、インスピレーション源として役立つそのジャンルの古典的映画の「民族誌的」書き換えに重きを置く。全ての試みは、あれやこれやの手段を使い、どうやらその映画ジャンルの黄金時代にはかつて存在していたらしい、失われた「純粋さ」を回復しようとする。[35]

 『ラ・ラ・ランド』こそ「ニュー・シンセリティー」の究極的な到達点だ。ニーチェの早すぎるポストモダン宣言「感情の饒舌に抗して」に抗することこそ、メタモダニズム的方法となる。とはいえ『ラ・ラ・ランド』は、この失われたハリウッド黄金時代の「純粋さ」に到達するために、矛盾するようだがマニエリスティックな「混ぜ合わせ」を行っているということは前章で確認した[36]。となれば、結局『ラ・ラ・ランド』という「ブリコラージュとしてのだんだら服(モトリー)」が惹起せしめた諸問題は、当然「アルス・コンビナトリア(記号結合術)」の問題へと収斂していかざるを得ないだろう。それはライプニッツが構想し、ドイツ・ロマン派が受け継いだ順列組み合わせによる「普遍言語」のような地点へと、『ラ・ラ・ランド』を導くのではないか?