「個室」の変容を求めて――ウォン・カーウァイ全作品論


 香港旅行の予習としてウォン・カーウァイの映画を見返し、それが自分を香港に誘った大きな要因だったにもかかわらず、ほとんど役に立たないことに気づいて唖然としたことがある。いくら画面を見つめても、どういうわけか香港の街並みに関する視覚的な情報が蓄積されていかないのだ。なぜだろうか。それは、私がその後遅まきながら理解していったように、ひとえにカーウァイの画面の「個室」的な空間性による。
 確かに、いくつかここを訪れようと思わせるスポットは出てくる(その代表例は『恋する惑星』(1994年)に出てくる長いエスカレーターだろうか)。しかし、ウォン・カーウァイの画面には、同じ香港映画である『インファナル・アフェア』(アンドリュー・ラウ、アラン・マック監督、2002年)の屋上シーンに見られるようなパノラマ的風景や、街並みの全体像はほとんど現れない。むしろ、そのカメラは執拗に室内にとどまり、部屋とその内部にいる人の像を積み重ねる。これは時たま場面が屋外に移ってさえ基本的に変わらない。街角は断片的・近視眼的に映し出されるのみで、それは屋内シーンと対照をなすというよりは、しばしば閉じられた個室に近い印象を与える。こうした空間はウォン・カーウァイの映画世界にいかにもカーウァイ的と言いたくなる閉塞感と内向性を醸し出し、その「部屋」に住まう人々のあり様を表現してきた。『花様年華』(2000年)や『ブエノスアイレス』(1997年)の恋人の部屋は二人の関係が袋小路に入り込んでしまっていることを雄弁に語っているし、『楽園の瑕』(1994年)の小屋、『欲望の翼』(1990年)や『2046』(2004年)の個室はその住人の孤独と等価である。
 ウォン・カーウァイ批評にしばしば登場する「閉所恐怖症的」(claustrophobic)という語は、この空間の象徴性を端的に示している。「魅惑の部屋」と題された評論で野崎歓が示すように、ウォン・カーウァイは圧倒的な「狭さ」に特徴づけられたこの「部屋」を、これまで発表したすべての作品の中心に据えてきた[1]。

 しかし、「狭さ」がつねに前景にあるカーウァイの世界のなかに、それには回収されない空間性が顔をのぞかせる。少なくない登場人物が旅にでることを望んでおり、そのうちの多くが実際に香港をでる[2]。音楽や登場人物の夢といった形で(『恋する惑星』に流れてくるママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーミング」を思い出そう)、「外」の空間は潜在的には常にそこにあるようにすら見える。それだけでなく、多くの場合に作品終盤で、個室的閉鎖性からの解放を模索するような独特の映像が挿入される。
 本稿が関心をもっているのは、「狭さ」と対をなすこの空間的な広がりである。それは、これから見ていくように、閉鎖性に対する単純な外部、解決策としてあるわけではない。むしろそれはウォン・カーウァイが「狭い部屋」のテーマと並行して深めていったものであり、この空間の広がりの推移にこそ、カーウァイの「個室」との苦闘の軌跡を見て取ることができる。この主題について考えることは、だから必然的に、「個室」的な「孤独」がカーウァイのフォルムグラフィーのなかで、どのように捉えなおされていったかを明らかにすることにも繋がるはずだ。

 

「個室」の原型:『欲望の翼』

 『いますぐ抱きしめたい』(1988年)に続く監督第2作となった『欲望の翼』に、すでにカーウァイ的空間性の雛形を十全に見て取ることができる。養母から金を得て遊ぶチンピラを演じるレスリー・チャンは、マギー・チャン、カリーナ・ラウを相次いで部屋に迎え入れる。この「迎え入れる部屋」というパタンは、『楽園の瑕』におけるレスリーの小屋、『2046』におけるトニー・レオンの2047号室へとそのまま受け継がれていくものだ。しかし、この部屋でレスリーは特定の相手との関係を定着させることはない。藤城孝輔が『2046』に関して説得的に論じるように、こうした部屋は「狭間の空間」(interim space)であり、香港が中国に返還される1997年までの期間と、いわゆる一国二制度の期限を迎える2047年までの50年という2つの移行期を余儀なくされた香港のアレゴリーと読みうる[3]。
 どこまでいってもレスリー一人の住処でしかないその部屋は、このドン・ファン的キャラクターの孤独を浮かび上がらせる。一方レスリーのもう一つの部屋、彼の養母(レベッカ・パン)のアパートは、母と息子が互いを束縛しあう場だ。新しい男とともにアメリカへ向かうことを決めたと言う母親に対し、彼女に嫌悪感を示していたはずのレスリーは唐突に「あんたは俺を束縛した。俺もあんたを束縛する」といって彼女を引き留める。彼が養子であることが明らかにされた時から生じた二人の愛憎のもつれはもはや解きほぐしがたいが、それは彼らがこの部屋から逃れられないことに象徴されている(この不毛な束縛の関係は、『ブエノスアイレス』で繰り返し「やり直す」恋人によって反復されることになる)。

 こうしてレスリーの孤独で閉ざされた部屋を中心に展開する『欲望の翼』には、しかし同時に、「外」への欲望が見え隠れする。夜の暗い路地を巡回する、アンディ・ラウ演じる警官は、船乗りになりたいと夢見ている。すでに述べたようにレスリーの母親もまた、アメリカに脱出することで行き詰まりを打破しようと考える[4]。レスリー自身が、実の両親との面会を果たすために、カリーナも愛車も打ち捨ててフィリピン行きを計画する。彼は「脚のない鳥がいるそうだ。飛び続けて疲れたら風の中で眠り、一生で一度だけ地上に降りる。それが脚のない鳥の最期の時だ」といい、決死の覚悟での飛翔を匂わせる。実際この三人は、それぞれの仕方で香港脱出を実現するのだ。
 しかし、旅で外に出ればすべてが解決すると考えるほどカーウァイは楽観的ではなかった。むしろレスリーが香港を出て以降、彼の孤独はさらに深まるようだ。彼は実の親の邸宅にたどり着くが面会を拒否されて、足早にその場を立ち去る。彼は背中から自分を追いかける実母の視線に勘づくのだが、向こうが会うことを拒否するならこちらも決して顔は見せないと言い、カメラも彼の後ろ姿を捉えるのみだ(図1)。顔を相手に向けることのこの拒絶は、興味深いことに、『恋する惑星』でトニー・レオンと出会ったときのフェイ・ウォンが反復することになる身振りである。レスリーは最終的に、陰鬱な列車の片隅で死を迎える(図2)。マギー・チャンは警官を求めて公衆電話をならすが、それはどの部屋よりも狭い電話箱でむなしく鳴り響くだけで受け取られることはない。レスリーを追ってフィリピンを訪れたカリーナ・ラウも含め、この映画の四人の若者たちは孤独から逃れることはないようだ。その結末を、死に際のレスリーの「俺は死ぬまで飛ぶ鳥の話を信じてた。でも鳥は飛ぶ前にもう死んでたんだ」という言葉が象徴する。それとともに南国の森が映し出されはするが、これは「飛べなかった」レスリーの物語に対してアイロニカルにしか響かない。

図1(『欲望の翼』ウォン・カーウァイ監督、1990年)

図1(『欲望の翼』ウォン・カーウァイ監督、1990年)

図2(『欲望の翼』ウォン・カーウァイ監督、1990年)

「脱出」への挑戦:『恋する惑星』

 『恋する惑星』と『天使の涙』(後者はもともと三部構成を予定されていた『恋する惑星』の一部として構想された)では、「部屋」はそこに入り込む人物の欲望の奇妙さを強調する場となっており、それが彼女たちの「孤独」にかつてなくポジティヴかつコミカルな雰囲気を与えている。トニー・レオン演じる警官663号に恋するフェイ・ウォンは、彼女自身が歌う『夢中人』をBGMにして、トニーの部屋に潜入しその内装を自分流に変えていく。『天使の涙』のエージェント(ミシェル・リー)は、殺し屋(レオン・ライ)の仕事部屋に入り込み自慰を繰り返す。片思いの相手の部屋で繰り広げられる彼女たちの行為は見るからに野放途で、明らかに『欲望の翼』の閉塞感とは一線を画するその溢れんばかりのエネルギーは、観客の心を否応なく浮き立たせる[5]。
 しかし、『恋する惑星』を大ヒット作品にした主要な要因に違いないこの特異な肯定感は、彼女たちを孤立と閉塞感から解放しているわけではない。『恋する惑星』のフェイ・ウォンは、他人を寄せ付けない孤高の存在である麻薬密売人(ブリジット・リン)のアトリビュートだったサングラスをかけ、トニーの部屋に忍び込む。そもそも彼女は登場時から、他人との会話にひじょうに消極的だ。トニー・レオンと店先で初めて出会うとき、彼女は「カリフォルニア・ドリーミング」を大音量でかけ、トニーの言葉を聞きとれなくても音量を落とそうとしない(これは『2046』で、声楽を学んでいたというマンションの支配人が、声楽曲を大音量でかけることで家庭の秘密を守ろうとするくだりを思い起こさせる)。そしてこのとき、彼女は一度も顔をトニーに向けることなく、ついには――『欲望の翼』のレスリーが実母にそうしたように――彼に背を向けてしまうのだ。結果として、彼女がトニーを好きになるその過程は描かれない。そのせいだろう、彼女の恋心はつねにどこか独りよがりであり、それはトニーの前の彼女の髪を彼の部屋で見つけて奇声をあげながらベッドに転がり込むあたりの偏執狂的な雰囲気につながっている。トニーの部屋への侵入を試みる直前、店主に「お前も夢遊病だな」とぼうっとした様子を指摘され、「私は夢遊病ですよ」と言って踊るような(「カリフォルニア・ドリーミング」を大音量で聴きつつトングを振るときと似た)動きをしながら、「――その日夢の中で、私は彼の部屋にいた。永遠に醒めない夢もある」という彼女の心の声を聞かせる場面があるが、この言葉は、夢をめぐる二つの曲(「カリフォルニア・ドリーミング」、「夢中人」)、彼女の孤独と不可分な夢想癖、そしてトニーの部屋への侵入を、明確につないでいる。ジミー・ンガイはこのフェイの姿に、言葉による「コミュニケーションの拒絶」をはっきりと読み取っている[6]。これは『天使の涙』のエージェントや、モウ(金城武)においても同様だ。彼ら各々の歪なこだわりは、コミュニケーションのきっかけとなるものではなく、むしろその可能性を断った地点を起点にして生じている。部屋に連れ立って入るのではなく、あくまで部屋に忍び込むしかない。だからこそこの部屋のコミカルさは、寂しさと表裏一体であり、手放しに「ハッピー」ということのできないものだ。

 しかしこれらの作品は、「飛ぶ」ことを否定した『欲望の翼』から新たな一歩を踏み出しもした。『恋する惑星』の麻薬密売人は――男に擦り寄り金髪のかつらをかぶる女と反対に――最後にかつらを脱ぎ捨て、一瞬その黒髪の姿を見せる。スチュワーデスとなって戻ってきたフェイは、新たに飛行機の搭乗券を書き直し、「どこへでもない旅」に出ることをトニーと約束する。「脚のない鳥」たちは、今度こそ飛び立つことを決意するわけだ。もっともこの「決意」に、映像的担保はない。カーウァイはその「旅」に何らかの形象を与えることには取り組んでいない。カメラは香港の蘭桂坊の店にとどまり、実際にカリフォルニアに行ったというフェイや、再会する元恋人を追うことはしない。この「過程」や「移動」の不在は、フェイの恋心の生成が描かれないこととパラレルだ。

 

飛翔の実現:『天使の涙』、『楽園の瑕』

 この点で真に「脱出」のテーマ系において進展を見せた作品として、『天使の涙』を評価したい。この作品は、金城武とミシェル・リーを中心とする2つのプロットからなっている。どちらも望んだ相手との関係を成就することができなかった暁に、別々の物語に属していた二人はつかの間出会い、バイクに乗る。そのラストシーンで、カメラはアップで映された二人の顔から空中に浮かぶタバコの煙を追い(図3)、トンネルの天井に向けられ、その直後にぱっと空に開かれる。この空のショットは、殺し屋の死に際のショットと同じ構成だが、前者が深夜の空を映したのに対し、ここでの空は夜明けで白んでいる。トンネルから夜明けの空へというこのショットで感じられる急速な空間の広がりは、二人の孤独な閉塞感からの脱出の可能性に、体感可能な映像的根拠を与えるものだ。
 その上でなお注目したいのは、このシーンで一緒にバイクに乗る二人の関係が、タバコの煙や空に浮かぶ雲のように、つかの間のものでしかないことである。ミシェル・リーは完全に気の抜けた表情をしながら言う。「帰るとき、彼に送ってと頼んだの。(…)すぐに着いて降りるのは分かってたけど、今のこの暖かさは永遠だった。」実際ここで出会っているのは、二つの異なったプロット・ラインに属する、作品の構成原理から見てもっとも関係の薄い二人なのだ。ンガイはこの場面を、リーの無気力な表情に注目しつつ、「ウォン・カーウァイの以前の四作の結末に比べて、はるかに暗い」と評しているが[7]、そうした悲しみと閉鎖空間からのつかの間の解放が同時に訪れるねじれに、孤独へのカーウァイ的アプローチの肝がある。
 『楽園の瑕』についてもおそらく同じことが言える。レスリー・チャンが演じる欧陽鋒は、最愛の兄嫁の死を知ったまさにその時に初めて「何年かここにいるがこれまで砂漠を見たことがないことに突然気づ」き、彼の空間把握の刷新を示すかのように広々とした空が映し出されるからだ。

図3(『天使の涙』ウォン・カーウァイ監督、1995年)