「個室」の変容を求めて――ウォン・カーウァイ全作品論


天地逆転としての「幸せ」:『ブエノスアイレス』

 「個室」的孤独と「個室」的空間からの解放とが同時に訪れる、この「ねじれ」をある意味で凝縮して表現したのが、『ブエノスアイレス』の英題、”Happy Together” ではないか。なぜなら、「一緒で幸せ」だといいながら、この映画はトニー演じるファイがレスリー演じる恋人ウィンとの不毛な関係を断ち切る物語だからだ。関係が破綻する度に「やり直そう」といってずるずると続いてきた二人の間柄は、これ以上ないほどの閉塞感を漂わせている。
 冒頭から展開する二人の男性スター俳優の直接的な性描写は親密な空間性を際だたせ、それがすでに述べてきた部屋の象徴性とダイレクトに結びつく。彼らは束縛しされる関係にあり、ひどい怪我をしてレスリーがトニーを看病に縛り付けるだけでなく、トニーもまたレスリーのパスポートを奪い取る。先に言及したインタビューでカーウァイは、レスリーとトニーを飛行機と空港に例えているが、トニーは無理矢理レスリーの離陸に赤信号を出してしまうわけだ。

 けれど本作で、「一人に戻ること」がより一層興味深い、独特の空間的広がりを付与される。ここで念頭に置いているのは、しかし、トニーがレスリーとの関係から抜け出すことを後押しする厨房での若い同僚(チャン・チェン)の「世界の果て」への旅、海の真ん中に屹立する灯台のシーンのことではない。それは部屋の「外部」を見たままの「広がり」として表現しており、『天使の涙』の先へは進んでいない。
 詳しく見たいのは、トニー自身が香港とブエノスアイレスが地球のちょうど反対側に位置することを想起し、続いてレスリーと行くはずだったイグアスの滝を訪れる場面の方だ(図4、図5)。香港とブエノスアイレスという二つの都市の位置関係は、香港の町並みを上下反対にしたきわめて印象的なショットによって、唐突に現実化される。まずはここでの足が浮くような感覚、通常の空間把握がふっと宙吊りにされほぐされるような効果を確認しよう。続くショットでは、レスリーの姿が水たまりに上下逆となって映る。これは最終的に、イグアスの滝を上空から撮った数十秒にわたるショットに行きつくのだが、興味深いことに、この滝の映像にも上下反対のイメージが含まれている。流れてきた水が奈落に向かって勢いよく落ちていくのに対し、水しぶきがまるで穴から逆噴射するように吹き上げてくるからだ。

 この滝の図像にアナルのイメージを読み取る野崎の着眼は鋭い[8]が、ここではこの暗く狭い「穴」を、一連の「個室」、そして『花様年華』と『2046』の「秘密を隠す穴」に連なるイメージとして捉えてみよう(「穴」と「個室」の同一視については『花様年華』のところで改めて論じる)。この「上下逆転」のシークエンスは明らかに、トニーにレスリーとの「部屋」からの離脱を促す決定的な契機となっているのだが、イメージ上、それは「部屋」=「穴」の外部に出ることを指し示してはいない。むしろ内部空間の奥において、空間感覚の幻惑が与えられる。「生活者」から「旅行者」に生まれ変わったトニーによって「あらためて」「発見」される上下反転の「香港」は[9]、水平方向の地平線上ではなく(「砂漠の向こう」には「別の砂漠」があるだけ、「山の向こう」には「何もない」!)、穴の内部をさらに掘り進んだ先に見出されるのだ。これはトニーの精神的遍歴に即して言えば、誰かと「一緒」になることではなく、「個室」の硬直がその暗がりの中でほぐれ、「孤独」であることの感覚がその内側で変容することが、「幸福」への道であったことを示している。これは映像を体験することによってのみ得られる感覚であると主張するかのように、カーウァイはトニー・レオンを滝の内部に立たせ、激しい水しぶきを全身に浴びせる。

図4(『ブエノスアイレス』、ウォン・カーウァイ監督、1997年)

図5(『ブエノスアイレス』、ウォン・カーウァイ監督、1997年)

 こうして経由地の台湾に戻ったトニー・レオンの表情は、それまでになく朗らかだ。もっとも、この「ハッピー」なシーンでもまた、微妙な差異が示唆される。彼はチャン・チェンの家族の屋台に偶然出くわし、彼の写真を一枚こっそり持ち去るのだが、「彼にはいつも戻るべき場所があるのだ。自分は父と会ったらどうなるだろうか」と考える。香港に戻ってもなお、彼には不安が待ちかまえているわけだ。だから、「『ハッピー・トゥギャザー』とは、ウォン・カーウァイと香港の関係を示す合言葉に違いない」という野崎の評にはいささかの留保がつくように思われる[10]。むしろここには、帰るべき家すら確かなものとは言えない徹底的な孤独があり、かつそれがそれ自体として突き詰められた先で「ハッピー」につながるという経路が模索されているのであって、「ハッピー・トゥギャザー」は天地の逆転こそが真実であるというような全面的なパラドックスとして理解されるべきなのだ[11]。

 

個室の内奥に向けて:『花様年華』

図6 画面左の鏡に映っているのは、トニーの右手にある鏡に映った彼の横顔である(『花様年華』、ウォン・カーウァイ監督、2000年)

 香港の返還後第一作となった『花様年華』は、彼の閉所恐怖症的スタイルをもっとも突き詰めた作品となった。『ブエノスアイレス』のチャン・チェンにあたるような、トニー・レオンとマギー・チャンの関係に介入する第三者はこの映画にはいない(レベッカ・パン演じる家主は、二人をじわじわ追い詰める「世間」を代表するだけだ)。藤城が指摘するように、本作の室内のシーンでは以前にまして執拗に鏡が多用されており、それによる不十分な視覚がこの部屋を「ノスタルジア」で満たしているが[12]、トニーとマギーの配偶者がわずかな後ろ姿以外ほとんど画面に登場しないこと自体、向き合った二人を自己充足的に描き出すだけであるというこの映画の「鏡」的な性質を物語っている。「狭さ」の感覚は、物理的なアパートの狭さから1960年代の社会風習に基づく世間の圧力など一貫して存在しており、屋外にいてさえ二人はしばしば格子越しに撮られ、彼らがあたかも牢獄のなかにいるような印象をもたらしている。

 だが、この閉鎖性は、その過剰さによってその先にある可能性を指し示してもいるようだ。マギーがトニーの部屋で足止めを食ってしまうシーンでは、鏡が順を追って大小三枚画面に映り込み、特に左右に配置された二枚が入れ子構造のように像の連鎖を作って、ある種の奥行きを生み出すまでに至っている(図6)。この奥行きは――鏡は平面なのだから――どこまでも虚像だろう。
 しかし、鏡が映し出すものが虚像だとしても、それが本作においてはどこまでも真実に近づくこともまた事実なのだ。全体に淡泊なトーンで進行するこの映画の中で、感情的にもっとも盛り上がるのは、二人が別れの予行演習をする場面である。彼らはまず、互いの配偶者が親しくなっていった過程をまねてみることでその事態を把握しようとするのだが、後半では未来の別れを先取りして演じる。雨のなか、これ以降会わないと伝えると、彼女が嗚咽を押さえきれなくなり、トニーが「嘘なんだから泣くなよ」となだめるシーンがある。この鮮やかな仕掛けに初見では多くの人がだまされるのではないかと推察するが、この場面は、虚像が過剰な奥行きを伴うことで真実に反転する瞬間を示している。
 
 むろんここでいう「感情的な真実」が閉塞感の打破への突破口となってくれるとは限らない。しかし、過剰な狭さの内奥にあるものの可能性への関心は、『ブエノスアイレス』の滝のシーンからの継続とみなすことができる。この観点から、最後のアンコールワットのシーンを見てみよう。その直前のシンガポールの場面、マギーとトニーが再びアパートに帰ってくるシーンを含め、狭さの空間が最後に広がりを志向することは、ここまできた我々にはもはや定型的パタンに見えるが、アンコールワットのシーンではきわめて繊細に「個室」のモチーフが再導入される。トニーは「山で大木を見つけ、幹に掘った穴に秘密を囁く。穴は土で埋めて、秘密が産めないように永遠に封じ込める」という言葉通り、壁にあいた暗い穴に秘密をささやくのだが、その前後で寺院の建物が映し出され、その入口は同じように暗がりになっている。最後のショットでも外から小ぶりな建物が映されるのだが中は暗くなっていて見えず、それと同時に手前の石に黒い穴があいているのが見える(図7)。これらはトニーの「秘密」が、アンコールワットを満たす圧倒的な過去になったことを示すはずだ。こうして確認してみると、この「穴」と「部屋」がパラレルに捉えられていることがわかるだろう。先立って述べておいたように、この秘密を隠す、影になった穴は、意味論的にも図像的にも、「個室」に極めて近接したイメージだ。

図7(『花様年華』、ウォン・カーウァイ監督、2000年)

図8(『花様年華』、ウォン・カーウァイ監督、2000年)

 
 ここで大切なのは、入口が複数個連なり部屋がさらに奥の部屋につながっていく、極めて遠近法的かつ入れ子構造的なショットが二度挿入されることである(図8)。そこには、奥に進むにつれ空間がすぼみ袋小路に行き着くような閉塞感と、その奥の極点がどこかに通じているような感覚とが同居している。だから、この部屋=穴もまた、香港に通じるイグアスの「穴」のように、奇妙に両義的なのだ。それは『2046』のトニーをさらなる停滞に追い込む秘密を抱え込み、マギーと別れざるをえなかった彼の結末を形象化してはいる。けれどもそこにあらわれた空間は同時に、いわば、内部の奥行に向けて開かれているのだ。
 ここでもやはり可能性は「個室」の外ではなくその内奥に求められている。入り口を中心に据えた構図のまま、その先に見えるものが光の当たる面から唐突に影の面に反転する瞬間は、『ブエノスアイレス』の「上下逆転」と似た感覚を再び喚起させさえする。こうした空間に対するカーウァイの評価は、秘密を吹き込んだ穴から草が芽吹いている箇所に読みとることができるように思われる[13]。彼は『2046』について、そのプロットを「カルメン、蝶々夫人、タンホイザー」という3つのオペラ作品からとったと述べており[14]、おそらくトニーと隣人バイ・リンとの物語をタンホイザーのそれに重ねているのだが、『花様年華』のラストもまた、このワーグナー作品へのレファレンスではないだろうか。『タンホイザー』では、ヴィーナスとの愛欲の記憶を忘れられない主人公が最後に彼を愛する女性エリザベートの犠牲によって救済され、その証として彼が巡礼の際に携えていた杖に芽が生える。トニーの孤独のなかにも、救済の芽は潜んでいるかもしれないのだ。

 こうして、部屋を内側に向けて突き抜けた先に救いがあるというテーマを取り出してみると、ウォン・カーウァイの部屋がすこし違ったように見えてこないだろうか。興味を惹かれるのは、『恋する惑星』のトニーの部屋や、『ブエノスアイレス』の恋人たちの部屋にあった飛行機や滝の模型である。それらは現実の矮小化であり、彼らが飛べないことの、いつまで経っても滝にたどり着けないことの反映ではあるのだが、たとえばフェイ・ウォンが忍び込んだ部屋のなかで飛行機の模型をさらに水槽の中に突っ込んで墜落させるとき、ここにもまた垂直移動と入れ子構造とが持ち込まれている(図9)。カーウァイ的世界観のなかにあって、この飛行機は水槽の中に沈み込んでいくことによって、その底から逆向きに沸き上がってくる可能性を含み持っているのではないか。だからこれらの模型は、単なる冷ややかなパロディとしてだけではなく、同時に、部屋の「内側」に「出る」回路にもなりうるものとして見られるべきだ。これらの「部屋」に、仮にコミュニケーション不全と閉塞の雰囲気が濃厚だとしても、我々がフェイの一人相撲に底抜けの明るさを感じ、トニーとレスリーの掛けあいをどこかコミカルなものと見てしまうのは、カーウァイ的個室がこうした特性を内包しているからなのだ。

図9(『恋する惑星』、ウォン・カーウァイ監督、1994年)

 『花様年華』における空間的な広がりは、時間の次元での揺れも伴っている。穴に生える緑の草をどこか超越的なものとみなしたくなる理由はそれが通常の時間性から明らかにはずれているからだが、考えてみれば、マギー・チャンがトニー・レオンをシンガポールに追ってからの十数分は、時間的な実験性に満ちている。もともと断片的になりがちなカーウァイの映画のなかにあっても、この一連のシークエンスで何が起きているのかはとりわけ把握しがたい。特にマギー・チャンが子供を連れてアパートに現れるシーンは、この子供の父親は誰なのかという問いとともに(すこし調べてみればファンによる様々な憶測が見つかる)、つい先ほどまでトニーとの関係に思い悩んでいたマギーの子供が目の前に出現したことによる時間感覚の混乱をもたらす。この時間性の露骨な逸脱は、以前同様狭苦しい部屋で展開されるのだが、穏やかな光の明るさや窓の外からのショットが挿入されることと相まって、どこか解放的な感覚が漂う。進行の過程の過剰な省略によるこのとびとびの時間感覚は、じりじりと進む緊張に満ちた時間、凝縮・固着とは真逆の方向である、豊かな隙間の感覚を体感させてくれるように感じられる。そのあとに続く、静かに佇む仏僧を含んだアンコールワットのシーンも同様だ。