鏡の反射、性の反転――『ナチュラルウーマン』論


 チリ、サンティアゴで昼間はウェイトレス、夜はナイトクラブのシンガーとして働くトランスジェンダーのマリーナは、歳の離れた恋人オルランドとその年の誕生日を祝う。彼はテキスタイルの会社を経営し、離婚した妻との間に成人した子どももいる社会的地位のある男性だ。オルランドはプレゼントであったはずの南米イグアスの滝行きの航空チケットをなくしたことを詫びる。二人は穏やかに流れる時間の中に幸せを共有するどこにでもいるカップルだった。しかし、同棲している自宅に帰ったその日の晩、動脈瘤の発作を起こしたオルランドはあろうことか急死してしまう。『ナチュラルウーマン』(2017年、セバスティアン・レリオ監督)はこうして始まる。最愛の恋人を失ったマリーナは落ち込む暇もなく、トランスジェンダーとして警察と、医療機関と、彼のかつての家族たちと向き合うことになるのだ。それは、「彼女」を両性具有の奇異な存在と見なす世間の目との戦いだ。 本作が描くのは、自分が誰であるかを保証してくれるパートナーを失った人が晒される受難だ。ここには、携帯電話やパソコンの画面がほとんど登場しないことを付記しておきたい。私たちの生活はそうしたインタラクティブなメディアを使って、自分が誰であるかを一貫して確認し続けることで成り立っていると、実際には多くの人が認めるのではないだろうか。主役のトランスジェンダーの「女性」マリーナにとって、恋人オルランドの死は、自分が誰であるかを担保してくれる者の喪失として経験される。彼の死によって彼女のアイデンティティは分裂させられる。大雑把に言えば、親しい者以外の目に「彼女」は男であり女である分裂した対象として晒されることになる。以下で、時には他人、時にはガラスの窓として現れる鏡のモチーフと、歌唱のモチーフを軸に本作を分析してみよう。そうすることで、私たちは特異な性問題を越えて「彼女」を自分の似姿として捉え直すことができるかもしれない。

 映画はまず、オルランドの物語として始まる。冒頭のイグアスの滝を映すショットに続き、画面中にはじける水飛沫がサンティアゴのサウナ「フィンランディア」内に漲る湿気へとモンタージュされる。オルランドは施設内のベッドに半裸のまま横たわっている。まるで棺に収まる遺体のようなポーズは彼のその後の運命を示唆している。間も無く彼は亡くなることになる。テナントビルの地下にある「フィンランディア」出口の階段を登るオルランドの姿が、その螺旋階段の壁面を覆う幾つもの鏡の装飾に映り込む。彼の像はここでも分裂し観客に不吉な印象を与える。
 もう一つ不吉なシーンがある。サウナを後にしたオルランドはホテルのクラブでマリーナと待ち合わせる。彼女はサルサ・シンガー、エクトル・ラヴォーの「昨日の新聞」という曲を歌っている。別れた恋人を時代遅れの昨日の新聞にたとえた歌詞は「あなたの愛は昨日の新聞 誰もそれを読もうとしない あなたは午前中だけセンセーショナル あとは忘れられるだけ(拙訳)1」と始まる。二人は幸せの絶頂にあるはずのカップルだったが、この歌はすぐに悪い予言となってしまう。
 マリーナは真夜中に倒れた彼を車に乗せて、病院に運び込む。彼の死が知らされた後、途方にくれた彼女を、カメラはしばし恍惚と見つめる。凛々しい鼻筋、暗い碧に光る瞳、ウェーブのかかった乱れた髪と、アイブロウと口紅が作り出す眉と口許の優しい曲線。美女にも美少年にも見える彼女の顔を、観客が恋に落ちるまでカメラは見つめ続ける。ここから主役は交代し、私たちはオルランドからマリーナの生活を追いかけることになる。彼女を主人公にした物語が始まるのだ。 ところで、オルランドという名前はヴァージニア・ウルフの小説『オーランドー』(1928年)に由来するはずだ。エリザベス1世治世のイングランドに生まれた青年貴族オーランドーはこの女王の晩年にそのボーイを勤めたり、外交官としてコンスタンティノープルに派遣され、詩人として活動し、派遣先で眠っているうちに突如男性から女性へと性転換する。例えば、このオルランドからマリーナへの主役の交代劇をオーランドーの性転換と同一視してみると少しこの物語の見通しが立てやすくなるかもしれない。主役のオーランドーはマリーナと性転換以外のいくつかの点でも共通点を持っている。あちこちをさまよい、アイデンティティが揺らぎ続けること。そして、マリーナが歌手であるように、彼/彼女は詩人である。自分自身の芸術によって、その継ぎ接ぎだらけのアイデンティティに自ら物語を与えるのだ。

 オルランドの死後、マリーナは社会の冷たい視線に晒されることになる。それは性の問題でもある。一つは、彼女がオルランドを殺したのではないかという疑惑だ。病院に行く途中で階段で転び、体に幾つもの外傷を負った状態で運ばれたオルランド。刑事はこれを、マリーナが彼に暴力を加えたと邪推する。オルランドがマリーナを強姦しようとしたために彼女が抵抗したのではないかと見立てる。
 もう一つは、オルランドの家族たちの態度だ。彼女が一番のアイデンティティ・クライシスに陥っていると明らかになるのは、彼の家族たちとの対面の瞬間だ。オルランドの別れた妻は「彼があなたみたいな人と付き合っていたなんて信じられない」と告げ、通夜への出席を拒む。オルランドの息子たちはマリーナを軽蔑し、車で連れ去って顔に透明なテープを巻きつけ、路上に彼女を置き去りにする。
 テープを巻きつけられて、ビニールの袋詰めにされたハムのように歪んだ顔は彼女の置かれた状況をよく表している。それは、彼女が誰であるか、それを表すための顔が危機に陥っている。彼女が彼女であるための顔は歪められ、変形を強いられ、裂けそうになっている。

 ここでは、家族というものがもっとも私たちに身近な社会的な鏡として描かれている。マリーナにとってオルランドは恋人であったが、元妻にとって彼は元夫であり、息子たちにとって彼は親だった。それは確かに当たり前のことだが、オルランドの死によってマリーナは自分がそれまで知らなかった彼の姿、親やヘテロセクシュアルとしての彼の分裂した亡霊に強制的に向き合わされることになる。生前は、オルランド、つまり「社会的地位のある中年男性」という衝立があったおかげで向かい合う必要のなかった、それまでは彼に注がれていたはずの眼差しが彼女に一気に襲いかかる。それは、彼女が性転換者であることをよしとしない、親しくない人たちからの差別的で冷たい眼差しだ。彼らにとって身内の恋人がトランスジェンダーであるのは困ることなのだ。その目は割れた鏡のように彼女を傷つけようとする。
 舞台となったチリ、サンティアゴの同性愛に対する認識も少しだけ触れておこう。チリでは2015年にcivil unionとして同性愛者のカップル同士の結婚に準ずる関係を規定し、パートナーの死後、残された方が保険金や相続を受け取る権利などが認められるようになった2。しかしカトリックが盛んなチリで、離婚が法的に認められるようになったのは2004年とつい最近であり、1999年まで同性間の性行為も法律による処罰の対象だった。教会で開かれるオルランドの葬儀にマリーナの出席が拒まれるのは、こうした保守的な社会背景がある。

 鏡のモチーフは、マリーナを認めてくれる他人がいなくなったとき、彼女の同一性を確認するための媒体として街じゅうに現れる。マリーナは病院にオルランド運び込んだあと、扉の向こうで彼が亡くなるのを呆然と見ているしかない。手術室の扉に設えられた窓ごしに映るその顔が、彼女がオルランドと断絶させられる状況を強調する。茫然自失し、トイレに駆け込んだあと彼女が自分を取り戻すのはトイレの鏡面に向かうときだ。オルランドの死後、マリーナは彼の家族の元へ、病院へ、警察へ、自分の家族の元へと様々にさまようようになる。街中を歩く彼女の姿を、日光を反射するショーウィンドウのガラスが鏡のように映し出すショットが強調されるが、より印象的なのは路上で作業員が運搬する鏡の表面に映る、湾曲したマリーナの全身像だ。この柔らかい不思議な素材でできた表面に映る揺れ動くマリーナの姿もまた彼女の置かれた状況を表す例になる。そして、彼女はあの鏡張りの螺旋階段を備えた「フィンランディア」の入口へと導かれていく。
 マリーナは後に、彼の遺品に混じっていた鍵の一つがこの「フィンランディア」のロッカーの鍵であったことを知り、生前のオルランドと祝った誕生日の日のことを思い出す。彼がなくしたイグアス国立公園行きのチケットは、そこに残されているのではないかと思いつく。サウナに着いたマリーナは女性用ロッカーのほうに案内されるが、彼女はサウナを通って男性用ロッカーへと侵入し、オルランドが残した鍵と対になっているロッカールームへとたどり着く。
 映画では実際にそこで彼女がなにを見つけたのかということは明らかにされない。しかしこのサウナのシーンが重要なのは、ここで彼女が自分が「男」でも「女」でもあるというふうに振舞うことで独自のアイデンティティを獲得していくことだ。彼女がたどり着いた先にある、ロッカーを覗き込むショットに注目しよう。まるでロッカーの中にカメラが置かれているように、構図が彼女の顔を黒抜きにしてリフレーミングする。同様のショット、つまり物思いにふけるような表情を浮かべた彼女がカメラを見つめる観想的なショットは、それまで何度も繰り返されてきていた。街中をさまようなかで彼女がバスの座席に座るときやエレベーターに乗っている最中にも、それを確認することができる。その中で、彼女は自分がどんな人間であるか確認する。彼女が劇中にはないはずのカメラを見つめ、観客の前にだけ彼女の内面が開かれるとき、マリーナは観客の鏡になっていた。
 彼女が迷いに打ち勝ったことを示唆するショットにもまた鏡が使われる。一糸まとわぬ姿でベッドの上に寝転ぶマリーナは、性器を隠すような形で股間の上に置いた小さなコンパクトの中に映り込む自分の顔をじっと見つめる。そこに彼女は自分の顔の全体像を取り戻す。そして、まさにその鏡によって彼女が生物的に「男」であるか「女」であるかを決める性器が隠されている。その裏側こそがここまで描かれてきた彼女の同一性の分裂の原因だった。 マリーナにとって鏡が自分との対話であるなら、そこで整えた決心を彼女は歌に昇華させる。ナイトクラブのシンガーでもあるマリーナは歌うことによって物事を解決する。劇中で彼女が謳うシーンは3回ある。1度目の「昨日の新聞」は不吉な予言として機能してしまった。2度目。オルランドの死に打ちのめされ、二人で暮らした家を追い出されて途方にくれた彼女はコーラスの講師の元を訪れる。講師は彼女に「好きなときにここに来ていい、ただ忘れるな。私はセラピストでも恋人でもない歌の先生だ」と諌める。彼女が彼の部屋でするのは歌唱のレッスンだけだ。しかし、レッスンを終えて教室を出た後、路上を歩く彼女の前に強い風が吹き、透明な壁のようになって立ちはだかって前に進めなくなったときにも、歌は流れ続けている。それだけがショットの分裂を超えて時間の中を突き進む。だから、映画は彼女のリサイタルコンサートでフィナーレを迎えることになる。
 彼女が「オーランドー」の生まれ変わり/翻案であることを思い出そう。転職、失恋、性転換、彼は数多のアイデンティティ・クライシスを乗り越え、イギリスの名高い詩人になった。それが彼の歌だった。絶えず移動し、アイデンティティが移ろうとき、そこに一貫性を与えてくれるのは、時間の中を流れる物語だけだ。マリーナは歌う。自分のための物語を歌えるのは、自分自身だけなのだから。

◆註
1 https://genius.com/Hector-lavoe-periodico-de-ayer-lyrics
2 “Cile civil union law comes into force” BBC news, 22 oct. 2015, http://www.bbc.com/news/world-latin-america-34602629
 
<作品情報>

『ナチュラルウーマン』

©2017 ASESORIAS Y PRODUCCIONES FABULA LIMITADA; PARTICIPANT PANAMERICA, LCC; KOMPLIZEN FILM GMBH; SETEMBRO CINE, SLU; AND LELIO Y MAZA LIMITADA

配給:アルバトロス・フィルム

2018年2月、シネスイッチ銀座、新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開