新しく世界を認識しなおす方法としてのアニメーションーー『ペンギン・ハイウェイ』レヴュー


 映画『ペンギン・ハイウェイ』(石田祐康、2018年)の主要登場人物のひとりである「お姉さん」にはどうやら、ジュース缶や野球ボールをはじめ、あらゆる無機物をペンギンやコウモリ、架空の怪物に変身させる能力が備わっていることが映画中盤で判明する。無機物がペンギンにメタモルフォーゼする様子は、作中でくり返し描かれる。このように本作では、生物/非-生物の境界があいまいになっている。それは、第一に原作からの要請ではあるのだが他方で、アニメーションの特質にもかかわる。本稿ではまず、観客の認識に作用することがアニメーションの特質であることをあきらかにする。そのことから導きだされるのは映画『ペンギン・ハイウェイ』が、アニメーションの特質を逆手にとって観客の認識を裏切ることで逆説的に、オートマティックな認識のしかたにたいして変更を促す作品であるということだ。

©2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 さて、アニメーション(本稿ではグラフィックを素材にした作品を念頭においている)がつくりだす世界は、森羅万象がグラフィックによって表現されているため、すべてが均質化された世界となる。ゆえに、生物/非-生物というような相反する概念の鑑別すらも、みるものの認識のありかたに左右される。ディズニーの伝説的アニメーター「ナイン・オールドメン」に名を連ねるフランク・トーマスとオーリー・ジョンストンによる共著『生命を吹き込む魔法』のなかではくり返し、観客が「信じられる」ように描く重要性が語られている。人間は人間らしく。動物は動物らしく。水は水らしく。炎は炎らしく……。そうすることによってはじめて観客は、ただのグラフィックにたいしてリアリティーをかんじることができるのだという。しかし裏を返せば、おなじグラフィックであるにもかかわらず、われわれ観客には人間にも、動物にも、水にも、炎にも認識しうるということだ。すなわち、私たちがアニメーションを経験するとき、そこにはある種の「みなし」が働いていると言えよう。こうしたアニメーションの「みなし」性が文学に似ていると、アニメーション作家のユーリー・ノルシュテインは指摘する(ユーリー・ノルシュテイン『草上の雪』第1巻)。どういうことか。私たちは文学を経験するとき、ただぼうと文字列を眺めているわけではない。文字列を眺めると同時に、それが意味する内容のイメージを重ねてみているということだ。だからこそ原作小説は、生物/非-生物の境界があいまいな世界を、説得力をもって描きだすことができた。そうした原作のアダプテーションとしてアニメーションが選択されるのは、じつに理にかなっていると言えよう。

 すでに確認したようにアニメーションは、ある種の「みなし」を表現の足場としている。だからこそ、生物/非-生物のような相反する概念の境界をあいまいなものとして描くことができる。こうしたアニメーションの特質を逆手にとることで、映画『ペンギン・ハイウェイ』は観客の認識にたいして働きかける。どういうことか。それを知るためには、本作のなかで相反する概念の境界があいまいな事例として生物/非-生物以上に強調される、人間/非-人間のあいまいさに瞳を凝らす必要がある。

 物語後半では、「お姉さん」がじつは人間ではないことが判明する。その事実に主人公のアオヤマ君はショックをうけるのだが、アオヤマ君と同様に、私たち観客も大きな衝撃をうける。その打撃力は、本作がアニメーションであるがゆえのものだろう。もしも本作が実写であったならばおそらく、これほどまでの打撃力は期待できなかったように思われる。なぜならば、仮に実写でおなじような展開を撮ったとしてもそれは、人間が非-人間を演じているにすぎない。ところがアニメーションであれば、グラフィックは人間でも非-人間でもない(あるいは、そのどちらでもある)宙吊り状態にとどまる。ゆえに、なんの疑問もなく人間であると認識していたキャラクターが、じつは非-人間であることが事後的に判明するとき、オートマティックな認識が裏切られることになる。哲学者のスタンリー・カヴェルは、アニメーションの世界の法則は恣意的に働いている、と指摘する(スタンリー・カヴェル『眼に映る世界ーー映画の存在論についての考察』)。どういうことか。たとえば、ロードランナーを追いかけるのに必死なワイリー・コヨーテは、地面がないことに気づかずに宙空を走りつづける。ところが、地面がないことを認識した瞬間に落下してしまうのだ。カヴェルが示唆するのは、アニメーションの世界には法則性がないということではなくむしろ、法則性はつくり手や観客の認識と緊密に結びついているということだ。だからこそアニメーションは、観客のオートマティックな認識を裏切ることよって、認識の在りかたに変更を促す。

 クライマックスの街が異界化していくシークエンスでは、カメラが地面の裏側にまわってしまったような、まるでヴィデオゲームのグリッチのような表現を導入して、異界化した街を視覚化している。ここでもやはり、オートマティックな認識は裏切られるのだ(グリッチとはそもそも、そういうものだ)。身近な生活空間の「脆弱性」を身もふたもなくしめすことによって、私たちがあたりまえのように生きているこの世界があるいは、あたりまえではないかもしれないという実存的な不安が媒介される。すると観客は、あたりまえのものとしてオートマティックに認識していた世界にたいして、違ったみかたを迫られることになる。

 ここまでの議論をまとめよう。アニメーションの特性とは、観客の「みなし」を表現の足場としている点にもとめられる。したがって、アニメーションの世界は、観客の認識をよすがに立ち現れてくると言えよう。だからこそアニメーションは、観客の認識を裏切るとき逆説的に、オートマティックな認識のしかたにたいする変更を促す。

 それは換言すれば、先入観をとり払って世界を新鮮に認識しなおすということだ。そして、それは子どもの視点から世界をみつめることに似ている。なぜならば、子どもにはまだ先入観がないからだ。つまり、アニメーションは観客にたいして、子どものような視点から世界をみつめなおすことを許すのだ。

©2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 さて、アニメーションを子どもむけの(大人の鑑賞に耐えられない)メディアとみなす偏見はいまだ、完全に払拭されたとは言いがたい。そうした偏見は、アニメーションがしばし、子どもを主人公にすることに起因しているように思われる。アニメーションにおいて子どもが主人公に据えられる理由は複数あるだろう。しかし、ここまでの議論をふまえるならばその理由のひとつ(もしかすると、もっとも大きな理由かもしれない)として、アニメーションがそもそも、子どもの視点から世界を描くことに長けたメディアであることが考えられる。映画『ペンギン・ハイウェイ』もまた、徹底して子どもの視点から世界を描く。1

 主人公のアオヤマ君は素朴な幼さゆえの好奇心から、あらゆるものごとにたいして疑問をいだき解明しようとする。子どもには「あたりまえ」という先入観はなくだからこそ、街に突如ペンギンが現れるという超自然的な事態と、「お姉さん」にいだく感情の正体が、等価な問題として認識されうる。

 映画『ペンギン・ハイウェイ』は、(自覚的/無自覚的を問わず)アニメーションの「みなし」性を逆手にとって観客のオートマティックな認識を裏切ることで、私たちを先入観という軛から解放する。すなわち、観客はまるで子どものような視点から世界をみつめることを許されるということだ。したがって誤解を恐れずに言えば、映画『ペンギン・ハイウェイ』は「大人の鑑賞」に耐えられない作品と言えるだろう。なぜならば、本作をみるうちに観客は、子どもの視点と同化することになる以上、そもそも大人のままではみられない映画だと言えるからだ。あるいは、観客の脳内に別の瞳を与えると言ってもよいかもしれない。子どものような無垢なまなざしで世界をみつめるための瞳を。

〈註〉
1「ハマモトさんのお父さん」が歯科医院を訪れるシークエンスでは例外的に、わざわざ原作につけくわえてまで大人の視点が強調されている。その理由は、理想をいだいて生きているアオヤマ君と、大人になって理想と現実に折り合いをつけた「ハマモトさんのお父さん」という対比のほか、娘を信頼する親の視点を導入したかったからだという。

「――最後にお聞きしたいのは、今作における「子供」と「大人」の対比についてです。ハマモトさんのお父さんが歯科医院に来てお姉さんと話をするというくだりは、原作にはなかったですよね。「娘(ハマモトさん)のノートを見てしまった」という発言も、原作ではなかったものですし。そのあとアオヤマ君に対して歯科医院に来た理由をはぐらかすのも含めて、「大人は嘘をつく、ずるい存在だ」っていうメッセージが込められているようにも思ったんですが。
石田 なるほど。うーん……そういう風に受け取られたんだとしたら、面白いなとは思いつつ、若干敗北かもしれないですね。
――えっ、それはどういったことなんでしょう。
石田 いや、あれは逆に、あのくだりを省いたら、彼の立ち位置がもうちょっとわかりやすい、アオヤマ君に敵対する大人役になってしまいそうな気がしたということなんです。ハマモトさんのお父さんは、ちゃんと自身の非も認めつつ、それでも抗えない研究者としての欲求がある。アオヤマ君を同じいち研究者として、ライバルとして扱っているからこそ、真摯でありたかったということで。
――ああ、理想に生きるアオヤマ君と、ある種大人になって現実を知った彼との対比のような……
石田 その対比でもありますね、彼は現実の中で戦っている人ですから。人間臭さがほしかったというのもあります。ああやって見てはいけないものを見てしまう……という。あと一番大事なのは、ちゃんと親としてしっかりした人として描きたかったということですね。娘のノートを見ちゃったってのは確かによくないことなんですけど、それでも娘のことを信頼している、かつ娘のことを守りたいっていう気持ちは描きたかったんです。「娘のことは信頼している、だからどうしても気がかりだ」「(娘は)いっぱしの研究者だから、ノートに書いてあることは完全な嘘とは思えない」という台詞にも表れている」。

http://ecrito.fever.jp/20180817215959) より引用

石田祐康 & 新井陽次郎インタビュー(『ペンギン・ハイウェイ』):連載「新時代の映像作家たち」
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