救済の技術としての言語――ケン・リュウ試論:『ヱクリヲ vol.8』「言葉の技術としてのSF」


悪しき漢字

アメリカのSF作家であるテッド・チャンは「漢字」というものを嫌っている。彼は表意文字としての漢字をまったく非効率的なコミュニケーションとして非難しており、中国の近代化を妨げ、伝統への固執を生み出している「悪い文字(バッド・キャラクター)」として断罪している1。そして言外に、アルファベットのような、自由かつ柔軟に変化に対応できる表音文字こそ近代を可能たらしめたとほのめかしている。その例として、いびつな形をした中国語のタイプライターや電報を挙げている。漢字は情報テクノロジーの発展にとって常に障害であってきたというわけだ。

この主張自体は別に目新しいものではない。その非効率性を解消しようと、漢字を使用している国でさまざまな解決策が模索されてきた歴史がある。その意味で、「効率化すべきコミュニケーション手段」という認識がテッド・チャンの言語観の基盤をなしており、そしてそこでは「言語」、「テクノロジー」、「近代化」はそれぞれ緊密につながった大きな問題系を構成している。

また、中編小説「あなたの人生の物語」(一九九八年)では、異星人の言語を習得することによって、人間はいわば時間を円環として捉え、未来をも認識できるようになったことが、実に衝撃的かつ説得的に描かれている。しかしながら、中沢新一が適切にも「あなたの人生の物語」の言語観を「拡大サピア゠ウォーフ仮説」と呼んだように2、その前提は依然として「言語は認識を規定する」という「サピア゠ウォーフ仮説」3に依拠している。そして、GUI、マウス、ハイパーテキストなど現代の情報社会の基盤をなす技術を発明してきたダグラス・エンゲルバートがその仮説に強く影響されていたという事実を考慮に入れると、テッド・チャンのように言語を、取り替え可能な手段またはプログラミング言語のようなテクノロジーとして、直接的に情報処理=認識に影響を及ぼしていると考えるのは、情報テクノロジーのパラダイムにおいてきわめて一般的なことである。言い換えれば、彼の言語観は情報テクノロジーのパラダイムに強く影響されているということだ。

ある意味、SF的なドラマツルギーは、ハイデガーのいう、近代以降の世界においてテクノロジーによって世界から疎外された人間と、世界やテクノロジーとの緊張と乖離した関係性そのものを動力源として生み出されていると言える。その意味で、言語SFにおいて、言語を一種の技術として捉えることは必要なことであり、自然なことでもある。そして、インターネットやSNSなどの情報技術がかつてなく生活の隅々まで行き渡り、コミュニケーション能力に対する要求が至る所で押し付けられている今では、コミュニケーションの手段としての言語もまた情報として捉え直され、我々には技術的なものとして現れていることは疑いえない。

しかしながら、言語の技術性はあくまで反省されないまま前提とされているにすぎない。言語はいかなる意味において技術であるのか。いわゆる情報テクノロジーとは異なった形の技術性を持っているか。技術としてそれがどのような世界改変の可能性を持っているのか。情報とテクノロジーが一体となって我々の生に影響を発揮している時代だからこそ、言語の技術性について改めて問い直すことが必要だろう。

そのための重要な手がかりを提供してくれるのは、ケン・リュウの作品である。テッド・チャンとケン・リュウは共に中国系アメリカ人の作家であり4、プログラマーとしてテクノロジーというものに強くコミットしてきている。そしてもっとも重要なことに、表音文字と表意文字の間に立って、言語について深く思考しかつ作品にしてきたという共通点を持つ。しかしながら、テッド・チャンの言語観とは対照的に、ケン・リュウの小説における言語の扱い方はきわめて特殊である。しばしば言われることだが、ケン・リュウの作品はSF的ではない(実際ファンタジーに属する作品が多い)、そして中国や日本などの文化や言語で、エキゾチックで表層的な飾り付けを行なっていると批判される。しかし、ケン・リュウの作品はそのエキゾチックな表層とは裏腹に、あるいはまさにその表層性によって、技術としての言語の別の理解に到達しているのである。そこでは、言語はもはや物理的な次元で直接に世界と認識をプログラムし直すようなものではなく、象徴的な次元で作動する技術として現れる。そして、象徴性にコミットできることこそ、言語の忘れられてきた側面であり、ケン・リュウはそれをもう一度技術という視点から考えることで、「象徴性の生成と操作」という技術性を前景化させている。そして、より重要な問題として、ハイデガーの危惧した、技術がもたらした人間と世界の緊張、乖離した関係性に対して、言語はどのような役割を果たしうるのかという問題に対するヒントが提示されているのである。

想起

この世界は漢字の傘の字に似た形をしている。5ケン・リュウの短編小説「もののあはれ」(二〇一二年)はこの一文で始まる。その世界とは地球が滅び、一部の人々だけがかろうじて逃げ乗ったアメリカの宇宙船である。主人公である大翔を日本人の両親は自らを犠牲にして、その宇宙船に乗せた。

居住モジュールを下にぶら下げながら、先端に太陽風を捉える巨大な「太陽帆」で高速飛行するその宇宙船は、彼の手書きした、「ひどくへたで、どこもかしこもバランスを崩している」傘という漢字に似ていると彼はいう。父の日本に関する教えが大翔の考えに深い影響を及ぼしていると同時に、彼にとって、日本/語は彼の両親や地球と同じように、失われた過去のものとしてある。つまり、自分の世界である宇宙船を、過去に失われた記憶の中の漢字と重ねる形で表象しているのである。ちょうど光を通して過去を見つめることができるのと同じように、漢字は彼の現在の世界と過去の世界を象徴的につないでいる。

この作品の大部分は主人公の過去に対する追憶に沿って展開されている。宇宙船の製造を約束した政府。それを信じ、そして裏切られた人々。母のかつての恋人であるハミルトン博士に、大翔だけでも宇宙船に乗せてほしいと懇願する両親。父の教えてくれた〈もののあはれ〉を感じさせる俳句と漢詩。

そうした追憶とともに、最後の人類を乗せたその宇宙船は深刻な危機に直面していた。彼のいる宇宙船の太陽帆に穴が空き、予定の航路から外れていき、最終的には宇宙船とともに人類最後の生存者たちも宇宙の中で霧散してしまうかもしれない。大翔は自己を犠牲にして太陽帆の修繕に向かうが、飛行デバイスを背負って飛ぶ姿は、まさに自分の名の漢字「翔」の形と同じだと思う。宇宙において行為する自己と、自己の名の漢字との対応性が強調され、ある種の運命観すら表出されている。

そこでは、過去の記憶と現在の状況が漢字=言語を通して緊密につながっている。すなわち、過去を想起し、漢字をもってそれを現在の世界や状況に緊密に対応させることで、過去と現在が一体的なものとして現れてくるのである。言い換えれば、主人公の中でばらばらにあり、自らのいる現実とまったく関係のない過去の記憶とアイデンティティの残滓を、言語という技術をもって、呼び覚まし、過去と現在の関係性を再構築しようとしているのである。

さらに、宇宙船の危機は人類の未来の危機でもある。帰れないことを覚悟して太陽帆の修繕へと向かう大翔の行為は最後の人類を救うという意味で、未来を救うことでもある。大翔はいう。

 ミンディはぼくをヒーローと呼んだ。だけど、ぼくはたんにしかるべきときにしかるべき場所にいた男にすぎない。ハミルトン博士もヒーローだ。〈ホープフル号〉を設計したのだから。ミンディもヒーローだ。ぼくを眠らせなかったから。ぼくの母もヒーローだ。ぼくが生き延びられるようにぼくを手元に置くのをやむなく諦めてくれたのだから。ぼくの父もヒーローだ。やるべき正しいことを示してくれたのだから。
ぼくらの有り様は、他人の命が織りなす網のなかでどこにしがみついているかで定められている。6

 ここでは、物語において氾濫している個人的なヒロイズムに対するアンチテーゼとして、ある種の反/汎ヒロイズムが提起されている。そしてその奥に、時間に対する別の見方を提示している。すなわち、近代の均質化した、直線に進む時間、つまり定数としての時間ではなく、常に過去と現在と未来が相互に緊密につながった、解釈によってその関係性が常に変化しつづけるような関数としての時間観が提示されているのである。その意味で、漢字は単に表層的に宇宙船と重ねられているのではなく、象徴的な次元において、過去の太陽からの光を捉えることで未来の人類の住む惑星へと進む宇宙船と同じ意義を持つものとして現れる。すなわち、漢字をもって、過去の人々を想起し、彼らの行為を、現在の自分の行為の意味と未来におけるその意義と連続したものとして表現し、過去と未来と現在をつないでいるのである。

そうすることによって、宇宙船という世界を、生き残った人類を救い別の惑星に運ぶ単なるテクノロジーの塊ではなく、生き残れなかった過去の人々をも象徴的な次元において救済し未来へと運ぶものとして捉えることが可能になる。言い換えれば、過去の両親やさまざまな人々、現在や未来のさまざまな人を、言語(象徴)はテクノロジー(実践)と融合することで救済しているのである。その意味で、ここでは言語というものを、単なるコミュニケーション手段を超えて、テクノロジーをも単なる運搬の手段以上のものとして捉えることで、より象徴的な次元、すべてがつながりを持つようなコスモロジーの中に位置づけ直しているのである。

さらに、〈もののあはれ〉の思想と、その表現を可能にする俳句や漢詩も単なるオリエンタルな「意匠」や飾りではなく、力を持つ技術としての言語にほかならない。大翔の父がいうように、宇宙において「万物は流転する」。そして〈もののあはれ〉とは「宇宙と共感すること」だ。ここではそのコスモロジーとしての側面がもっともはっきりと現れ出ている。人類のほとんどが過去において死滅し、地球という「大地」もまた失われてしまった。しかし、我々がまさに「いまここ」においてそのような宇宙と共感することで、失われたものにまさに流転していく宇宙を支えるものの一部として価値と意義を与え、未来へと救済することが可能となるのだ。

そして、それにとどまらず、主人公が俳句や漢詩を聞いた時、「おとなしい仔猫がぼくの心の内側を舐めているみたいな感じがする」という。それが意味しているのは、言葉はただの道具ではなく、彼の「心の内側」という深いところで感じ取るような、身体も巻き込んだものだということだ。言い換えれば、言語によって宇宙と身体もまたつながるようになるのである。したがってここでは、言語とはまさに「いまここ」において、過去と未来の次元も含んだ宇宙との共感を象徴的に再構成し、可視化し、さらに身体化する技術にほかならない。

翻訳

しかしながら、ケン・リュウの小説はいたずらに漢字や俳句、そして〈もののあはれ〉の思想を特権化しているわけではない。漢字にしても、俳句にしても、それらの元の意味や文脈はすでに主人公にとって失われた過去のものであるか、現在の状況にそのまま対応できないものである。したがって、そこでは言語を再構築し、「いまここ」にも適応するように再び練り直すという主人公による操作が介在しているのである。そのような操作はまさに「翻訳」と呼ぶべきものである。

この点がもっともはっきりと現れているのは「文字占い師(リテロマンサー)」(二〇一〇年)という作品である。物語の舞台は一九六一年、冷戦真っ只中にある台湾である。共産主義中国に対抗するためにアメリカ軍が駐在し、多くのアメリカ兵士が家族を引き連れて台湾に移り住んでいた。主人公の女の子リリーもまたアメリカの諜報員の父とともに台湾にやってきたのである。リリーの父がほかのアメリカ兵士と違って、諜報活動を行なうために基地の外に居を構え、台湾人と混じって生活しているため、リリーは同級生からいじめを受けていた。彼女がアメリカのコミュニティで孤立を深めていった時に、偶然に「文字占い師」と自称する老人、「甘カンさん」とその孫の「テディ」に出会う。

文字占い師は漢字をもってその人の心情、過去や未来などを占う。注意すべきは、ここでの占いとは、単に何らかの予測を的中させることを意味するものではないということだ。具体的な占いのプロセスとして、心に浮かんだ文字をいったん個々の構成要素に分解して、それぞれの要素にしかるべき解釈を行なってから、再びそれらの意味がより大きな文脈の中で一体化するように再結合する。それは心情や出来事といったばらばらで独立した断片的なものに意味を与え、より普遍的なコスモロジーの中に位置づけ直すと同時に、コスモロジーそのものを生成するような、一種の翻訳の技術である。「もののあはれ」において大翔が行なったことも一種の翻訳であるが、この作品においてより中心的なテーマとして追求されている。

なぜそのような翻訳の技術が必要なのか。文字占い師自身がいうように、第二次世界大戦、冷戦、そして台湾における報復と虐殺が連鎖していく「二・二八事件」において、言葉は大きな力を発揮してそれに加担していた。つまり、「日本」や「中国」、そして「外省人」と「内省人」など、ただの言葉でしかないのに、まるでそれら自身が何かを欲しているかのように人々が考えることで、対立や紛争が生まれる。それは一種の魔術にほかならない。それならば、文字占いという翻訳を行なうことで、それらの言葉を別の意味体系へと生成変化させていき、対立する両者をより大きなコスモロジーの中で対立を解消し、位置づけ直すこともできるのである。言ってみれば、対立=不連続性の魔術に対して、融合=連続性の魔術をもって対抗しようとしているのである。そして、その魔術を可能たらしめるものこそ、漢字=言語なのだ。

リリーは、文字占い師の占いを通して、自分と彼の出会いは、決して偶然でも、取るに足らないものでもなく、運命であると理解する。それに対して彼女の同級生はあくまで台湾を嘲り、遠ざける。ここでは、文字の組み合わせを変えることで、象徴的な意味を変えている。すなわち、翻訳という技術をもって、アメリカと台湾という対立する二つの主体との遭遇、互いにとっての未知との遭遇の肯定が可能となったのである。

さらに、リリーは自らの言語である英語にも文字占いを応用し、母語の中で翻訳することで、母語自体も未知のものに開かれるように生成させていく。物語の最後で、リリーから文字占い師の話を聞いた彼女の父は、文字占い師に共産中国のスパイだという嫌疑をかけ、残酷な拷問の末にその孫のテディも一緒に殺してしまう。リリーは彼らのことを心に思い浮かべながら、二人のために自ら文字占いを行ない、彼らの救済を図る。

“freeze”という単語に気を惹かれたように思えた。リリーは目をつむり、その単語を頭のなかに思い描いた。甘さんならやったであろうと思うやり方で慎重に吟味する。ひとつひとつの文字が小刻みに揺れ、たがいに押し合った。“z”がひざまずいて懇願している男の形を取り、“e”は死んだ子どもが胎児のように身を丸めている形になった。すると、“z”と“e”が消え、そこには“free”が残った。
大丈夫だよ、リリー。テディとわしはもう自由だ。リリーは集中しようとし、心のなかで甘さんの薄れていく笑みと温かい声を逃すまいとした。きみはとても頭の良い子だ。きみも文字占い師になる運命なのだよ、アメリカで。7

 ここでは、文字占いによって、文字占い師とその孫が単に無残に殺され、失われたままではなく、象徴的な次元において救済されると同時に、さらに漢字とアルファベット、中国、台湾そしてアメリカの対立を超えて、過去と現在が彼女の文字占い=翻訳において一体となり、さらに未来のアメリカに開かれていくことになる。

ここではテッド・チャンのいう表音文字の表意文字に対する優位性が転倒されている。表音文字はその自由さにおいて常に新しいもの、すなわち近代化に伴うさまざまな制度的、価値的変化に柔軟に対応できるとするが、しかしながら、同時に世界から遊離してしまう可能性を持っている。それに対して文字を世界に対応する形として捉え、操作する文字占いは、むしろ世界を象り、そこから遊離しない形で、再帰的に自ら変化させていくことに優れたものとして用いられているのである8。漢字は世界を象徴し、人をそこにつなぎ止めながらも組み替え=翻訳という操作が可能な技術として提示されているが、アルファベットがいわば表意文字化することによって同等の力を獲得することができるのである。

ケン・リュウの小説において、分離や対立を解消し、失われた過去を今と未来につなぐものとして、翻訳の問題が常に重要な位置を占めている。例えば「紙の動物園」(二〇一一年)における「カタログ女房」である母とのコミュニケーションは彼女が紙で折ってくれた動物たちである。それ自身が一種の言語であり、主人公がその価値と意義を理解するためには自らの変容、すなわち翻訳が必要となる。また、「万味調和――軍神関羽のアメリカでの物語」(二〇一二年)では、主人公は「文字占い師」と同じく、アメリカ人と中国人の間に立つ女の子であり、翻訳者の役割を担っている。さらに、「シミュラクラ」(二〇一一年)では、人間の映像的・経験的なコピーとシミュレーションに取り憑かれた父と、自然な人間関係を訴える娘の間の対立に対して、母がその間に立ち、両者を仲介している。すなわち、娘も実は過去の父の犯した間違いをずっと記憶の中で凍結させ、それにこだわるあまり父の変化を見ないようにしているという点で、過去のある時点の人間のシミュラクラにこだわる父とまったく同じだと指摘し、脱構築=翻訳することでそれを溶解させようとしている。

このような翻訳者を中心に据える創作は、八歳まで中国に生まれ育ち、その後アメリカに移民したというケン・リュウ自身の経歴によるものでもあるだろう。そして、ケン・リュウも積極的に中国のSFを英語に翻訳している。すなわち、彼は常に互いに分離し、さらに対立する二つの文化的経験と価値観の中間で生きてきたのであり、そのため、彼にとって、両者を対立と分離から解放し、単に生活の次元ではなく、思想的ないしコスモロジー的な次元においても、一つに縫合するようなより普遍的な次元を開くことが重要な営為である。

ここでいう普遍とは、静的で固有なものではなく、むしろフランソワ・ジュリアンのいう垂直的な「普遍化可能なもの」に対する水平的な「普遍化すること」である。すなわち、「普遍的なものを創造し産出するプロセス」そのものであり、翻訳という技術によって行なわれる。中島隆博はフランソワ・ジュリアンの議論を以下のように展開している。

 要するに、普遍化することにはつねに、転移 transposition、変形 transformation、翻訳 translationという運動が関わることになる。普遍化することはtrans-という横断的なものなのだ。それに対して、普遍化可能であることは、垂直的なものである。もし後者が語る普遍が天上的な普遍性であるとすれば、前者が語る普遍は地上的な普遍性ということになるだろう。しかし、trans-は超越 transcendance のそれでもあったはずだ。そうすると、地上的な普遍性は、天上的な普遍性とも何らかの形で再び交わり、超越をも変形する必要があるだろう。9

 ケン・リュウの作品は単に文化間の対立と乖離を、翻訳と対話をもって相互理解を進めることで解消しようとするだけでなく、例えば前述の「シミュラクラ」で描かれているのは、自然とテクノロジーの対立に対して、その間に立って翻訳することで超越し、さらに超越そのものも変形していくことにほかならない。この意味において、ケン・リュウはまさに言語を一つの技術として提示し10、翻訳の物語を描くことで、「普遍化すること」を実践しているのである。

「実践」という言葉を使ったのはまた、「普遍化可能なもの」と「普遍化すること」の時制の違いを踏まえている。すなわち、それは実際に「何かをする」こと、そのプロセスを意味しているのだ。その意味で、ケン・リュウの作品における言語と翻訳が技術たりえるのは、それが「パフォーマティヴ」なものだからである。

救済

では、ケン・リュウの作品において、言語という技術は実際に何に使われるのか。それはこれまで幾度も出ていた「救済」である。

先に述べたように、「もののあはれ」において、いまここの世界、すなわちアメリカの圧倒的なプレゼンスによって自らのアイデンティティや生のアクチュアリティと乖離した「冷たい」世界と、現実においても象徴的な次元においても失われたままである過去とそこにおけるさまざまな人々を一体につなぐために、大翔は漢字や詩的な言語をもって、通時的かつ共時的なコスモロジーを創出しようとしていた。このような象徴性の回復や縫合に関わる試みは「文字占い師」や「紙の動物園」など、ケン・リュウの作品に一貫して現れているものである。

それは言語の本質に翻訳を据えることで、救済の次元を現出させるベンヤミンの「言語と救済」の思想と強く呼応しているのである。竹峰義和はベンヤミンの言語思想を以下のように要約している。

〔……〕ひとたび生命が朽ち果て、埋もれたものが、解釈者による読解を媒介として、「復活」をあらわす寓アレゴリー意的な記号としてふたたび息を吹き返す――ベンヤミンのいう「アクチュアリティ」が認識されるのは、このような、歴史の敗残者たちの屍骸が未来に向けた〈救済〉のヴィジョンへと弁証法的な反転を遂げる瞬間においてにほかならない。
したがって、「アクチュアリティ」とは、「はかなさ」ないしは「移ろいやすさ」という契機を「復活の寓アレゴリー意」として読解していくという営みをつうじて生起するものであると要約することができよう。この寓意解読(アレゴレーゼ)的な操作によって、凋落という位相によって徴づけられた過去の次元と、果たされるべき約束という未来の次元とが、解釈者の〈いま・ここ〉のうちに一挙に流入してくる。ベンヤミンにとって複数の時間性がたがいに折り重なり、交錯しあうことこそが真に〈アクチュアル〉なのであり、ベンヤミンが〈救済〔Erlösung〕〉というメシアニズム的な術語によって指し示しているのも、ちょうど「天使たち」の歌声によってポリフォニーが織りなされるように過去と現在と未来とが共振しあう、このはかない瞬間であるといえるだろう。11

 この引用における「はかなさ」と「復活」のヴィジョンは、ケン・リュウの提示した〈もののあはれ〉の思想と強く呼応していることがわかる。両者は、すべての物事が絶えず失われていく宇宙の中で、それらを再び意味づけ直すことで救済するという志向を共有しているのである。そして、ケン・リュウの作品における「歴史の敗残者たち」とは、まさに〈もののあはれ〉の思想を語ってくれた大翔の両親、文字占い師にとっての台湾と大陸が被った紛争の犠牲者たち、リリーにとっての文字占い師とその孫テディ、紙の動物を折ってくれた、「カタログ女房」として最愛の息子からも疎まれたままこの世を去った母、「シミュラクラ」における父にとってのかつての幼い娘、娘にとってのかつての父……そのような者たちだ。

したがって、ここにおける「アクチュアリティ」とは、彼らが失われ、いまここから乖離したままで、未来においても忘れられるだろう状態、すべてが廃墟に埋もれた状態から脱し、いまここにおいて「復活」すること、すなわち再び我々とともに在ること、ともに未来に向って歩んでいくことができるような新たな状態の創出を意味しているのである。

さらに、ケン・リュウにおける救済とは、単に時間的な乖離に関わるものではなく、あらゆる形の乖離に関わっている。「もののあはれ」においては、言語をもって宇宙船という鉄の塊としてのテクノロジーが、自らの生に結びつくようにアレゴリカルな操作を加えているし、「文字占い師」においては、アルファベットと漢字、アメリカと中国という互いに対立する文化を翻訳という操作をもってつなごうとしている。すなわち、あらゆる乖離と喪失を寓意的=象徴的に縫合し、一体性を構成しうるような普遍性を持つコスモロジーを生成していくことこそ、ケン・リュウが言語という操作の技術をもってなそうとしている救済だと言える。

言ってみれば、コミュニケーションや情報通信の手段という我々がすでに自明なものとして受け入れている言語観ではなく、ケン・リュウは言語のより重要な機能、すなわち象徴性の生成と「普遍化すること」による救済というパフォーマティブな機能を前景化させ、具体的な形で提示してみせたのである。そして、彼が提示している言語とは、国民言語のような規範的で、抑圧的なイデオロギーとして機能しているものではなく、情報技術によるコミュニケーション化という流動的でフラットなものでもない。前者は生成したり変化したりすることなく閉じており、排除と乖離を生み出してしまう。後者は過剰に流動的であり、操作可能であるがゆえに、記号として現実の時空間から遊離してしまう上、そこで謳われる「つながり」とは、象徴性なき事実的なつながりである。つまり、両者はいずれも不連続性を生み出してしまうのである。

コスモロジーなき時代に対して、ケン・リュウの提示するような、救済を行ない、コスモロジーを生成していく言語とは、規範的言語と流動的言語の中間にあるものだ。それはむしろピュエットが古代中国思想に見出した「礼」、つまり至るところにおいて乖離が生じている世界において、「かのようにasif」世界との連続性を構築していく「弱い規範」のようなものである12。宇宙船はあたかも「傘」という漢字のように我々を未来へと運び、飛行デバイスを背負う大翔の姿はあたかも「翔」というかつて両親がつけた名のように人類を救う、無残に死んでいった文字占い師とその孫はあたかも「free」のように自由になる……いずれも不連続性の中で「かのように」の連続性を、翻訳を通して構築し、「普遍化すること」を実践しているのである。それは、別の超越的な世界を立てることよって救済されようとする種のメシアニズムとはきわめて対照的に、むしろ、あくまでアドホックに、しかしながらどこまでも「来たるべき」普遍に向かって、救済を行なっていくような「小さなメシア」とも言うべきものだ。

中島隆博は以下のようにピュエットの議論を敷衍している。

ピュエットの言う〈かのように〉の礼は、一種の演劇空間を作り出すもので、いったん現実の世界から人々を引き離し、別の役割を演じることを通じて、自分たちの行動パターンを変化させるものだ。それは、現実の世界にも何らかの効果をもたらし、よりましな関係性を築くように促すのである。〔……〕ということは、礼という規範は実にささやかなものだということだ。わたしたちは強い規範に基づいて一挙に世界を変えたいと思いがちである。しかし、そうではないのではないか。礼は弱い規範として情に働きかけ、〈かのように〉という想像力を働かせることによって、演劇空間あるいは文学空間を導入することで、世界に善を実現しようとする。13

 ピュエットによれば、すべての関係性は固定的なものではなく、パターンであり、「配置disposition」である。その意味でそれは常に変化に開かれていて、しかも革命的にではなく、ささやかで日常的な行為を通して変えられていくものだ。言ってみれば、ケン・リュウは近代のもたらしたテクノロジーや科学による乖離の問題を、文学の問題として再提示しているのだ。

「選抜宇宙種族の本づくり習性」(二〇一二年)において、ケン・リュウは文学=言語を極大から極小のあらゆるレベルに拡張している。そこでは、いくつかの独特な方法で「本づくり」を行なう宇宙種族が描かれている。機械的存在としてそれ自体が本であるクァツオーリ族、精神を永遠に保存し、思考をシミュレートさせていくことができるヘスペロー族、宇宙にあるすべてを読むことができるものと見なし、ブラックホールを無限の書物として読むエネルギーの生物タル゠コークス族、文字で書かれた本を都市として生きる極小生物のカル’イー族……すなわち、宇宙にあるあらゆるものが、「かのように」の言語として読むことができ、無限の解釈に開かれているというビジョンがここでは描かれている。

世界にあるすべてを書物として見なすのは、それを解読すべきもの、翻訳すべきもの、潜在的に関係を持つことができるものとして見なすことである。このような汎言語論において言語は、宇宙のあらゆるものと象徴的な関係性を築き、媒介するための技術として現れ、それによって解釈と翻訳という操作が可能となるのである。言い換えれば、言語は、他者や物との象徴的な対応関係において閉じていながら(有限でありながら)、そのような関係を操作可能なものにすることで、未知に開かれている(無限に生成変化していく)のだ。

このような言語は、能動的な操作性と受動的な象徴性の間に位置する、別種の能動性の可能性を提示している。大きな物語に対する欲望に身を任せるのではなく、小さな物語の乱立し、すべてが操作可能な記号や情報だという万能感に耽溺するのでもない、能動と受動を超えたところに現れ出る能動性。それはある意味、國分功一郎が見出した「中動態の世界」に呼応している。國分によれば、外部の刺激に圧倒されずに、どのように反応=変状するかという中動態的な姿勢にこそ能動性が宿るという14。ケン・リュウの提示する言語とは、外部に対する自らの変状を可能にする〈かのように〉の演劇=文学空間を現出させ、そして変状することで不連続性を連続性の中に包摂=翻訳していく、救済のコスモロジーを生成するための技術にほかならない。

〈註〉
1 Ted Chiang,“Bad Character”, The New Yorker, 2016.05.16, www.newyo rker.com/magazine/2016/05/16/if-chinese-were-phonetic
2 中沢新一「レンマ的算術の基礎」、『現代思想』二〇一八年一月号、四六頁。
3 言語が認識を規定し、言語が変われば話者の世界観も変わるとする仮説である。「言語相対性仮説」とも呼ばれる。言語学者・人類学者であるエドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフの研究がその基礎をなしている。
4 もちろん差異はある。テッド・チャンはABC(アメリカ生まれの中国人)であるのに対して、ケン・リュウは八歳(十一歳との説もある)の時に中国からアメリカに移民した。そのせいか、テッド・チャンが近代主義者であるに対して、ケン・リュウはより中国的なものにこだわっている。
5 ケン・リュウ『紙の動物園』(古沢嘉通編訳、早川書房、二〇一五年)、三三頁。
6 『紙の動物園』、五六頁。
7 『紙の動物園』、三六四-三六五頁。強調原文。
8 Léon Vandermeersch『中国思想的两种理性 :占卜与表意』(金丝燕訳、北京大学出版社、二〇一七年)、Kindle版、位置No.一五七-一六一。
9 中島隆博『思想としての言語』(岩波書店、二〇一七年)、一二四-一二五頁。
10 「シミュラクラ」において、主人公の母は最後に死後の手紙という形をもって両者の対立を調停しているし、「紙の動物園」においても同様の構造が採用されている。
11 竹峰義和『〈救済〉のメーディウム――ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会、二〇一六年)、四-五頁。
12 Puett, Michael. (2010). Theodicies of discontinuity: Domesticating energies and dispositions in early china. Journal of Chinese Philosophy, 37, 51-66. マイケル・ピュエット『ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』早川書房、二〇一六年。
13 『思想としての言語』、五八頁。
14 國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院、二〇一七年)、二五六 −七頁。

※この記事は『ヱクリヲ vol.8』特集「言葉の技術としてのSF」に掲載された論考を再掲載したものです。

ヱクリヲ vol.8 
特集Ⅰ「言葉の技術(techno-logy)としてのSF特集」
〇Interview:円城塔「言葉と小説の果て、あるいは始まりはどこか」
〇《付録》 A to Z SFキーワード集 ほか多数の論考を掲載
特集Ⅱ「ニコラス・ウィンディング・レフン――拡張するノワール」