狂気の球体――レフン的空間と「分身」の臨界点:『ヱクリヲ vol.8』「ニコラス・ウィンディング・レフン 拡張するノワール」


My name is Charles Bronson,
And All My Life I’ve wanted To Be Famous…


観客を見つめ返すようにカメラと正対する、〝ブロンソン〟(トム・ハーディ)の独白によって幕が上がる。キーライトの光度の高さゆえ、半生を語る男の姿だけが浮かび上がり、その周囲は対照をなすように深い闇に濡れる。およそ顧みられることのないこのオープニング・ショットは、しかし、一つの問いを観る者に産み落とす。ここで、わたしたちは次のように問うべきではないのか――。「ブロンソンは、一体どこにいるのか?」と。

  『ブロンソン』(二〇〇八年)は、二二歳で郵便局強盗、刑務所でも一五〇回を超える暴動によって終身刑を言い渡された実在の囚人――マイケル・G・ピーターソン(地下格闘技でのリングネームは〝チャールズ・ブロンソン〟)――をモデルとした犯罪映画だ。学校では同級生や教師への傷害、刑務所/精神病院では殺人・殴打、男の暴力行為が画面に延々と繰り返されていく。ここで作品を産み落としたニコラス・ウィンディング・レフンに目を向けてみれば、この作家は『ブロンソン』に限らず、処女作から一貫して犯罪映画を撮り続けてきたことがわかる。暴力、殺人、薬物、買春、拳闘……レフンはおよそあらゆる不道徳をそのスクリーンに描くことに固執しているようだ。

  「犯罪映画」から直ちに連想される映画史的記憶がある。「フィルム・ノワール(暗黒映画)」と称呼される一連の映画群は、一般的に一九四〇年代前半から一九五〇年代にかけてアメリカで撮られた、退廃的な趣向を湛えた犯罪映画を指している1。だが、わたしたちが真に注目するべきは「フィルム・ノワール」と緊密に結びついた種々のイメージとはほとんど断絶した手法で、レフンがそれを表現するという事実にこそあるのかもしれない。レフンが撮る犯罪映画は、およそ半世紀という時の懸隔を凌駕するほど「フィルム・ノワール」とはまったく似ていないのだ。

冒頭に引いた『ブロンソン』のオープニング・ショットに立ち返ろう。映画の慣例を不敵に破りながらカメラを凝視するスキンヘッドのバスト・ショットだ【図1】。フィルム・ノワールは、明朗快活な世界観をそなえ、あたかも「アメリカの夢を担う」ような一九三〇年代のハリウッド映画へのアンチとして出来した歴史的側面があり、その作品はしばしばローキー照明を特徴としていた2。雨に濡れた陰鬱な街路に張り付くような長い「人影」がフィルム・ノワールの通奏的イメージとして存在する一方、『ブロンソン』の当該ショットにあるのは過剰なライティングが生み出す「人影」の消失である。いわばフィルム・ノワールの特徴である陰影のコントラストを極限までつけたときに出しゅったい来するのが、この全景的な闇を背景としたバスト・ショットではないだろうか。ここにはいわば「暗黒」よりも深い漆黒の闇が広がっている。わたしたちはそのショットで、ブロンソンがどのような場に身を置いているのか名指すことはできないだろう。「有名になることをずっと夢に見続けてきた」――そう告白するスキンヘッドは、一体どこに立ち尽くしているというのか。

明瞭に顔貌を映し出す強烈なライティングと、漆黒に覆い尽くされて匿名化する空間。レフン作品に執着する観客ならば、そのまごうことなき反復をただちに言い当てることができるだろう。そう、『ネオン・デーモン』(二〇一六年)においても、確かにわたしたちは「その場所」を目撃している【図2】。

© Red Mist Distribution Limited 2008

© 2016 Space Rocket, Gaumont, Wild Bunch
図 1(上)−2(下)『 ブロンソン』(2008 年、ニ コラス・ウィンディング・レフン監督)と『ネ オン・デーモン』(2016 年、ニコラス・ウィンディ ング・レフン監督)におけるバスト・ショット (わたしたちはここでレフンの処女作たる『プッ シャー』(1996 年)のオープニングでも、類似 ショットが予告的に上映されていたことを思い 出してもいいだろう)

十六歳の少女ジェシー(エル・ファニング)は、「有名になること」を夢見てLAへと単身で引っ越してきた。少女はその美貌を見込まれて順当にトップ・モデルへの階段を昇り、高名なカメラマンであるジャックのスタジオへと招かれる。そして、「その場所」は次のようなシークエンスにおいて立ち現れる。ほぼすべての照明を落とされたスタジオで、全裸になるよう要求されたジェシーはその肌に金粉を艶めかしく塗りたくられる。スクリーンにはジェシーの顔だけが浮かび上がり、深い闇に覆われた周囲はスタジオという場所性をほとんど消失しかけている。瞬くフラッシュの閃光によって、観客は断続的に盲目状態へと陥ることになる。このシークエンスは極限の明暗をもたらす照明、あるいはスローモーションによる異化効果も相まって、さながらその場所を一つの抽象空間へと変容せしめているといっていい。

ここで『ブロンソン』、そして『ネオン・デーモン』で反復された「その場所」を、一先ず「レフン的空間」と呼ぶことにしよう。予告的に述べておけば、それはレフンのフィルモグラフィを振り返りみたとき、度々変奏される特権的な場の表象でもある。『オンリー・ゴッド』(二〇一三年)で、ジュリアン(ライアン・ゴズリング)が「神」と邂逅する、あの「赤」の空間は一体どこにあるのか? あるいは『フィアー・エックス』(二〇〇三年)で暗い水面の向こうに佇む、インスタレーションのようなエレベータールームとは、一体どのような場所なのか? レフンが強迫的に反復する「その場所」は、どのようなモティーフとともにスクリーンに立ち現れているだろうか。その位置を記述するために、わたしたちもまた「レフン的空間」へと深く潜行する必要がある。

「鏡」の向こう側

  『ネオン・デーモン』を極点として、レフン作品には鏡像イメージが頻出する。『オンリー・ゴッド』における、「神」と出会う前の精神統一としてトイレの洗面鏡で自身を見つめ続けるジュリアン。妻の亡霊に苛まれながら、殺人犯を探すために電話をするケインを鏡越しに捉えた『フィアー・エックス』のショット。あるいは『プッシャー2』での自らの姿を惚けたように眺めるトニー。彼ら――レフン的人物は鏡に映る自己イメージを強迫的に必要とする。「有名になること」に執着する者が自己イメージに耽溺した人物像であることは言うに及ばず、『フィアー・エックス』のように過去にトラウマを持つ者もまた、自己との対話(治療)を必要とする。あるいは、『ドライヴ』(二〇一一年)、『オンリー・ゴッド』でライアン・ゴズリングが演じたような内面性に欠ける人物が、「空洞」と形容するほかない眼差しでわたしたちと正対するショットを思い出してもいい。観客の「写し鏡」のように、カメラを正面から見つめる人物というレフン的構図自体、鏡像イメージの一つのヴァリアントをなしているのではないか。

モデルを題材とし、自己の美醜に拘泥する人物たちが群れをなす『ネオン・デーモン』において「鏡」はもっとも象徴的に作用し、説話的にも一つの装置として機能することになる。端正な容姿を見込まれてとんとん拍子で出世していくジェシーに嫉妬した同業者のサラは、怒りに身を任せて化粧室の大鏡を粉砕する。サラを宥めようとしたジェシーだが、ふとした弾みで飛散した鏡片が掌に刺さってしまう。ジェシーの腕に滴り落ちる血に、サラは自らの身体に取り込むかのように夢中で吸い付く。それ以来、ジェシーは高熱に浮かされるようになり、物語上でも妖艶な「美」を纏う悪ファム・ファタル女へと転生する。傷を負ったジェシーがその後にショーに出演するシークエンスは、さながら悪ファム・ファタル女へと転生する儀式のように超現実的な演出が施されており、いわば「鏡」の炸裂によって物語は完全に別次元へと駆動されていくのだ。

この「鏡」が暗喩するものは何だろうか。再び映画史的記憶を辿ってみれば、フィルム・ノワールもまた「鏡」の映画というべき作品を多く産み落としてきたといっていい(『上海から来た女』(一九四七年、オーソン・ウェルズ監督)、『飾窓の女』(一九四四年、フリッツ・ラング監督)、『暗い鏡』(一九四六年、ロバート・シオドマク監督)……)。だが、レフンがおよそフィルム・ノワールの類型から逸脱した表現手法を用いているのだとしたら、わたしたちもまたその鋳型の外へと向かわなくてはならない。ここでフィルム・ノワールではなく、あるいはその派生にあたる諸作品でもなく、ノワール「以前」へと目を向けてみよう。フィルム・ノワールの霊感源ともなった仏・詩的リアリズムの中心人物たるジャン・コクトーが残した『詩人の血』(一九三〇年)は、『ネオン・デーモン』にとって「分身」ともいうべきイメージを提出している。

二〇世紀前半、シュルレアリスムとも併走したコクトーは同作において詩的言語のようにイメージを構成しており、そこでは説話構造はほとんど閑却されている。そして「詩人」が見る悪夢の映像化ともいうべき様相を呈す同作の中心的イメージに、「鏡」がある。第二幕「壁に耳あり」で詩人は大鏡のある部屋へと迷い込み、声を発する彫像にその中へと入るよう囃される。鏡に映る自らの姿を繰り返し見やるだけでも過剰な自己愛を感じさせる行為だが、『詩人の血』は詩的リアリズムの儀形ともいうべき演出で狭隘なナルシシズムを超越するのである。

具体的にショットを見てみよう。詩人は大鏡の前に立ち、自らの反射像に触れるや否や、鏡面は突如として水へと変容してしまい、スクリーンには内破する鏡像イメージが現れる【図3】。鏡像と一体化するかのようにガラスの中へと入っていった詩人を待ち受けるのは、超シュルレアリスム現実的な夢想の世界だ。「鏡」の向こう側では壁が地となり地が壁となる、現実感を転覆するイメージが展開されていく。詩人はそこで、自らの心の裡を具現化したかのような独我論的位相へと到達したのである。「鏡」の炸裂と、自らの内面世界への逃避行。それは退廃した現実を直接的に陰鬱に描くフィルム・ノワールのリアリズムからは、大きく逸脱している3。

図3 「鏡」の内破によって、詩人は超現実空間へと導かれる(『詩人の血』、1930 年、ジャン・コクトー監督)

『詩人の血』を反射鏡として「レフン的空間」を再び照らし出してみるならば、そこには何が映り込むだろうか。暗闇の中でブロンソンがやジェシーが立ち尽くしていた「その場所」は、はたして詩人が「鏡」の向こう側で到達した内的夢想の世界――独我論的な空間と等しいのだろうか。

わたしたちは「レフン的空間」をより仔細に検討するために、この作家に通底するもう一つのモティーフを俎上に載せる必要があるだろう。それは、レフンにとっての代名詞ともいえる色彩――「赤」のモティーフだ。近年の作品で加速、増幅されたこの色彩は、いかなる意味をもってスクリーンに立ち現れているのだろうか。そして、「赤」の変奏はいかに「レフン的空間」の内実と呼応しているのか。

この「赤」を思考する契機は重要視されることの少ない、ある初期作に潜んでいることを見逃してはならない。それはレフンを破綻へと追い込んだ問題作『フィアー・エックス』において、すでに胚胎していたのではないか?

「赤」が意味するもの

妻の突然の死を受け入れられないケイン(ジョン・タトゥーロ)は、その殺害現場であるショッピング・モールで働きながら、犯人の手掛かりを探すべく監視カメラの映像を漁るように見続けている。妻を殺したのは一体、誰なのか、なぜ妻は殺されなくてはいけなかったのか――『フィアー・エックス』は事件以来、自らの殻に閉じこもり、孤独の裡に犯人を追い続ける寡黙な男の復讐劇だ。監督第三作である本作は『プッシャー』『ブリーダー』と打って変わり、暴力描写は鳴りを潜め、内省性に満ちたトーンを全体に湛えている。やがて物語が進行するにつれ、ケインが妻の亡霊を幻視するなど、同作のイメージはリアリズムから逸脱し始めていく。

レフンのフィルモグラフィを振り返るとき、『フィアー・エックス』が特に重要な意味を持つのは、同作において初めて後年の作品を予告するモティーフ――「赤」が前景化するという点だろう。もちろん同作以前の作品においても、赤い色彩が画面に現れることはあった(中間色が見えづらいというレフンの色覚障害がその一因だろう)。だが、それが主人公の心象と結びつく形で描かれるのは『フィアー・エックス』が最初なのである。誤射により、結果的にケインの妻を殺めてしまった犯人のフィルと、ケインが邂逅するホテルのシークエンスを見てみよう。フィルを疑いつつも、しかし確証を持てないケイン、上手くはぐらかしながらケインを自室へと戻そうとするフィル。二人がホテルのエレベーターに乗り込もうとするときに、その象徴的なショット――赤い膜に押し付けられながら蠢く顔貌のクローズアップ――はインサートされる。同様のショットは、ケインがフィルの手掛かりを得る序盤のシークエンスでも挿入されており、妻を亡くしたトラウマからの解放を願うケインの心象、あるいは誤って人を殺めてしまったフィルの自責の念を直截に具現化したものとしてスクリーンに立ち現れてくる【図4】。事件が心に残した傷(トラウマ)を表象するように、「赤」の膜は過去に捕らわれた二人の顔貌を覆う。

この内的世界と「赤」の連関は『フィアー・エックス』以降、種々の変奏を通じてレフン作品に登場することになる。『オンリー・ゴッド』では、「鏡」の前で自らの反射像と対峙していたジュリアンは、後ろを振り返ると導かれるように「赤」の空間へと足を踏み入れる。そこは物語上では彼が生活の拠点とする場所であるはずなのだが、空間は極端な照明によってほとんど匿名化しており、ジュリアンは「赤」の空間で「神」たるチャン元刑事と精神的邂逅を果たす。あるいは先述した『ネオン・デーモン』は、より強固な形で『フィアー・エックス』の「赤」と密接しているように思われる。「鏡」の炸裂によって掌に裂傷を負ったジェシーは、高熱に浮かされると同時に圧倒的な「美」をその身に纏うようになっていく。なかでも、「鏡」の場面の直後に配されたコレクションのシークエンスは、ジェシーを「転生」させる超シュルレアリスム現実的装置を有しており、そのイメージが「赤」に染まることを看過してはいけない。

コレクションの舞台装置と思しきプリズムの中にいるジェシーのクローズアップは、先述したように『フィアー・エックス』での膜に覆われた顔貌を反復するように「赤」を基調とする【図5】。このとき、ジェシーはまさに三角錐状の「鏡の内側」にいるのであり、前後するショットでは三面鏡に「分身」のように反射像が映り込んでいる。このシークエンスがジェシーの出演するコレクションの様子を描いた客観的イメージとしてのみ提示されていないことは、レフンが得意とする時系列を錯綜させるモンタージュの使用のみならず、とあるショットによって決定的となる。ジェシーが舞台上のプリズムを見つめる――それがコレクションの出演前か後なのか、もはやイメージでは判然としないのだが――場面があるのだが、その直後のショットを見てみよう【図6】。会場に置かれていたはずのプリズムの周囲には水が湛えられており、赤く染まったそれは一つのインスタレーションのように水面に浮上する。

©NWR ApS, FEARX LTD.

© 2016 Space Rocket, Gaumont, Wild Bunch.  図4(上)−5(下) 心理空間としての「赤」の膜に浮かび上がる顔貌(上から『フィアー・エックス』(2003 年)、『ネオン・デーモン』(2016年)、ともにニコラス・ウィンディング・レフン監督)

物語上、悪ファム・ファタル女へと生まれ変わる同場面において描かれたこのプリズムが、ジェシーの内的世界を表すイメージ――「レフン的空間」――として機能している。そして、それはやはり『フィアー・エックス』において予告的に証明されていたことにも併せて触れておく必要があるだろう。それは先述したように、ケインが妻を殺めた犯人であるフィルと顔を合わせることになるホテルのエレベーターにおいて立ち現れる。『ドライヴ』でもまた特権的場所として確立されたエレベーターだが、『フィアー・エックス』のそれはより激しく『ネオン・デーモン』と呼応するかのように、完全なる主観的イメージへと変容する【図7】。そのショットでは、やはり水が湛えられており、無機的構造物がその奥に佇んでいる。犯人との邂逅によって揺らぐケインの精神世界を表すかのように、あるいは過去のトラウマが解消されていくことを具現化するかのように、水面の先にある「赤」いエレベーターの扉が閉じていく。『ネオン・デーモン』のプリズムと相似をなすイメージは、もはやレフンにとっての内的イメージの具現化と呼ぶべきなのかもしれない。

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© 2016 Space Rocket, Gaumont, Wild Bunch  図6(上)−7(下) 類型をなす、内的世界としての「赤」の空間(上から『フィアー・エックス』(2003年)、『ネオン・デーモン』(2016 年)、ともにニコラス・ウィンディング・レフン監督)

リアリズムから逸脱し、個人の内面を表す抽象イメージ。ここまで「鏡」と「赤」のモティーフから、「レフン的空間」と名指された場所の内実を探ってきた。それは『フィアー・エックス』への遡行から、『ブロンソン』以降の諸作品の傾向を辿る理路でもあった。しかし、同時にレフン自らが一続きの試みであったと認める『ブロンソン』から『ネオン・デーモン』への到達のなかで4、「レフン的空間」はどのようにその賭け金を変化させていったのだろうか。本稿を閉じるこの最後の問いに答えるために、わたしたちは再びあの「鏡」を覗き込む必要がある。

「分身」から「双子」へ

自己の内的世界に耽溺する者は、「鏡」を欲する。他者のいない、鏡像と〝二人きり〟の自己執着的な場所をレフン的な人物は絶えず探し求めてきた。しかし、自らの内面の鏡に映る理想の自己評価と、第三者から客観的に見られた他己評価が大きく乖離するとき、その人物は狂人と呼ばれるのが常だ。それでもなお己の世界だけを信じる道を選んだとき、人は後戻りのできない狂気の世界へと足を踏み入れる――。少なくともレフンが描いてきたキャラクターの多くは、そのような狂気を等しく内に宿していた。

再び『ブロンソン』に立ち戻ろう。「レフン的空間」から開巻する同作は、モノローグの多用も相まって全編を通じてブロンソンの回想イメージのような趣向を持っている。なかでもステージ上で狂言回しを演じるシークエンスは、ほとんどブロンソンの妄想として描かれているといっていい。ここでもスキンヘッドは過剰なライティングを浴び、その白塗りピエロのような顔貌は非現実感を一層引き立たせている。一人芝居を続けるなか、やがてブロンソンは壇上でその内的世界を顕現するように二つに分裂してしまう【図8−9】。

© Red Mist Distribution Limited 2008

© Red Mist Distribution Limited 2008 図8−9 一人二役という「分身」のイメージ(『ブロンソン』(2008 年、ニコラス・ウィンディング・レフン監督)

自らの妄念と戯れるように一人二役を溌剌と演じるブロンソン。もし鏡像イメージを「分身」と捉えるならば、レフンが描く人物は他者を必要とせず鏡の前で、飽きもせずその「片割れ」との対話に執着しているといえるだろう。『ブロンソン』では、その自らの妄念が生んだ「分身」との対話が実際にイメージ上で具現化しているのである。

ここで、わたしたちは再びノワールから漏出する作品を補助線に用いるべきかもしれない。その作品とは、「分身」との戯れのみで一つの作品を撮り上げた、その名の通り『ベルトルッチの分身』(一九六八年、ベルナルド・ベルトルッチ監督。以下、『分身』)である。

煩悶の日々を送る青年ジャコブ(ピエール・クレマンティ)は、自分で自分に返事をするという奇怪な独り言の癖を有していた。ある日、ジャコブは些細な諍いから友人を銃殺してしまう。その夜、乱入したパーティでいつものようにぶつぶつと独り言を繰り返すジャコブは、とうとう会場から追い出される。深夜の街を徘徊する奇人ジャコブは、そこで自らの影に付き纏われる。やがて過剰なライティング(!)によって異常なまでに長く伸びた「人影」は自らの意志を持って動き出すようになる。家に帰ったジャコブはそこでとうとう狂気の世界に足を踏み入れる。自身の鏡像ともいうべき「分身」と出会ってしまうのである【図10−11】。

図10−11 過剰な「影」から生成された、自らの「分身」と正対するジャコブ(『ベルトルッチの分身』(1968 年、ベルナルド・ベルトルッチ監督)

ノワールから逸脱する過剰な照明と影、他者のいない内的世界の葛藤のみならず、狂気が生み出す「分身」の帰結が、ここには鮮やかに提示されているといっていい。物語序盤で早々に「片割れ」を得た『分身』は以後、基本的にジャコブとジャコブの分身の二人の会話によってのみ駆動されていくことになり、そこには内面世界への飛躍がもたらす極点ともいうべき世界が広がっているのだ。

『分身』の結末は示唆的だ。ここでプロットを深追いすることはしないが、ジャコブの分身は終幕、窓の外へとその姿を消失してしまう。すると、ジャコブは分身を追って自らもこの世から姿を消してしまうのである。たとえ「分身」が具現化しようとも、それは自らの内的世界における出来事であり、客観的に見るならばジャコブは一人の狂人に過ぎない。それはブロンソンもまた同じである。スキンヘッドの大男もその妄念の舞台上で「分身」さえ生み出すことになるが、結末に用意されるのは以前と何も変わらない、独房で過ごすクソみたいな現実である。ブロンソンは最後には再び看守たちに痛めつけられ、牢獄に全裸で叩き込まれることになるのだ。それは結局のところ内的世界の臨界――狂気の果てに行き着く袋小路――をわたしたちにまざまざと見せつけている。

「鏡」に執着し、自己の心象風景を赤く染め上げるレフン的人物もまた、絶えずそのようなリミットの中に生き続けているのかもしれない。だが、ここで一つの迂回としてレフン自身の妄念に耳を傾けてみたい。この作家は過去のインタビューで5、自らの「分身」ともいうべき存在についてこう語っている――「『ネオン・デーモン』は自分の中にいる十六歳の少女についての映画だ」と。あるいはレフンは生来の妄念にも取り憑かれているようであり、「母が妊娠している時〔……〕俺は子宮の中で、双子の女の子と繋がっていたんだ」と嘯きさえする6。レフンの放言を一先ず信じてみるならば、『ネオン・デーモン』はレフンにとっての分身――ともすれば「双ツイ子ン」についての作品と見做すことが可能になる。そしてレフンが一つの達成とみる同作にはまた、これまでに見た「分身」のイメージを超越するような可能性が内に秘められているようにも思える。

どういうことか。先に触れたように、『ネオン・デーモン』には鏡像イメージが横溢している。「鏡」に映る自己はもう一人の自分であり、さらに言えばカメラマンに撮影されてフィルムに現像されるイメージもまた「分身」である(こう考えてみれば、ジェシーが宿泊するモーテルの部屋番号が212号室――境界をまたいで対照性を持つ数字――であることにも何やら意味があるように思えてくる)。「鏡」の炸裂によってジェシーは悪ファム・ファタル女へと転生するが、作品は徐々にその内面世界へと潜行するイメージが増加していく。いわば『ネオン・デーモン』はまず第一義的に、鏡が炸裂する以前の十六歳の少女と、ファム・ファタルとしてのそれという二人のジェシーが描かれているのだ。

しかし、レフンにとっての妄念上の「双子(ツイン)」を描いた同作で、その「血縁」はさらなる増殖を見せることをわたしたちは看過してはいけない。終幕、ジェシーの生き血を吸ったサラは、同じ「美」というイデアを追い求めるモデル同士であるジジたちとともに、ジェシーをなぶり殺してしまう。彼女たちはジェシーの血の溜まったバスタブに浸かり、その血や亡骸を浴びるように味わい尽くすことでその「美」を手に入れる。血の繋がりを持った彼女たちはいわばジェシーの「双子(ツイン)」として、意気揚々と撮影現場へと車を疾走させていく。ここで、『ネオン・デーモン』は自らの鏡像や似姿による「分身」という制約を免れる地平に立っていることになる。レフンの妄念に呼応するかのように、それはまさしく血縁によって繋がった「双子(ツイン)」――外在化した「分身」――であり、個人の内的夢想という臨界を突破する。

だが、これまで一人の内面に根深く巣食ってきた狂気はそう簡単に他者へと乗り継ぐことができるものではなかったのかもしれない。ジェシーの(レフンの?)「双子(ツイン)」としてスクリーンに顕現したジジは、やがて「自分の中に十六歳の少女がいる」という作家の発話を思わせるように、体内に招き入れたジェシーの眼球を嘔吐すると自らの腹を裂いた末に絶命してしまう。しかし、『ネオン・デーモン』の賭け金はその様子を一瞥したサラの行為にこそあるようだ。吐き出されたジェシーの眼球をじっくりと頬張ると、ジジはその場から歩き去り、再び撮影現場へと向かっていく。ここにあるのは外在化した「双子(ツイン)」がその個という依代の限界を超えて、狂信をさらに伝播させていく可能性にほかならない。この結末は「鏡」の炸裂によって二人の少女の血が交わった段階で、あらかじめ決定づけられてもいた。

『フィアー・エックス』に始まり、『ブロンソン』や『オンリー・ゴッド』まで個人の内的世界での挫折/解放に留まっていたレフン作品は、『ネオン・デーモン』で確かに一つの極点に達している。レフンはもはや孤独の裡に醸成される狂気を描くのではなく、自我と全世界が直結する超独我論的作品をこの世に産み落としたのだ。そのラスト・ショットで、少女がスクリーンという「鏡」のこちら側に向かって歩いてこなかったことに、わたしたちは息を殺して安堵するほかない。

〈註〉
1フィルム・ノワールの歴史については諸説ある。一九三〇年代から称呼自体は存在していたとする向きもあり、詳しくは本誌掲載の數藤友亮による論考「絶望とサスペンス――ニコラス・ウィンディング・レフンと鈴木清順」あるいは中村秀之『映像/言説の文化社会学――フィルム・ノワールとモダニティ』岩波書店、二〇〇三年を参照のこと。
2吉田広明『B級ノワール論――ハリウッド転換期の巨匠たち』作品社、二〇〇八年。
3陰惨な現実描写の一方で、フィルム・ノワールの特徴にはヴォイス・オーバーの多用も挙げられる。これは作中人物の内面の声が顕現する演出といえるが、北野圭介はそこに「自己の融解」「幾重にも主観が折り返されていく表現形式」による「主観の不安定化」を見出している(『新版ハリウッド100年史講義』平凡社、二〇一七年)。いわば、フィルム・ノワールが「揺らぐ主観」ならば、レフン作品における内面への退行、自己夢想の全的イメージは「超主観化」といえるだろう。
4「ネオン・デーモンインタビュー:執着、倒錯、ナルシズム…ニコラス・ウィンディング・レフンが考える美とは」『映画.com』(eiga.com/movie/84620/interview/、二〇一八年四月二日アクセス)。
5 Little White Lies. vol.065. TCOLondon. 2016.
6「レフンへの14の問い」『ヱクリヲ8』ヱクリヲ編集部、二〇一八年。

 

※この記事は『ヱクリヲ vol.8』に掲載された論考を再掲載したものです。

ヱクリヲ vol.8 
特集Ⅱ「ニコラス・ウィンディング・レフン――拡張するノワール」
〇Interview:ニコラス・ウィンディング・レフン「レフンへの14の問い」 〇Interview:滝本誠「ノワール・オン・ノワール――レフンの残虐行為展覧会」 《論考》 〇山下研「狂気の球体――レフン的空間と「分身」の臨界点」 〇後藤護「暗黒機械と天使の歌――独身者映画『ドライヴ』の奏でるメタル・マシン・ミュージック」 〇數藤友亮「絶望とサスペンス――ニコラス・ウィンディング・レフンと鈴木清順」 〇伊藤弘了「失われた父を求めて――『オンリー・ゴッド』を精神分析する」 《付録》 ノワールから読み解く、NWRフィルモグラフィ