グリフィスからアベンジャーズへ――映画における“特権的な瞬間”についての記述


 映画の誕生は、写真すら満足に普及していない19世紀末の世界において革新的な出来事だった。観客は迫りくる列車に恐れ慄き、後景に配された木々が風に揺れる様に釘付けとなった。克明に外界を記録する写真にもない「運動」そのものの表象に、このメディアの本質的な特徴がある。
 事実、初期映画は人間の跳躍からボクシングまで、動態を捉えるフィルムで溢れかえった。やがて、映画は1リール(約15分)という上映時間に対する技術的制約を乗り越え、長編化していく。グリフィスという固有名を中心としてクロースアップ、カットバックといった修辞法を洗練させていくなか、映画は「物語」となった。観客の視線誘導や、各プロットが有機的に連なっていく展開が映画を下位文化から芸術へと押し上げたといっていい。
  「運動」から「物語」へ――。しかし、映画の進化はそのような単線的発展史観に留まることはなかった。70年代中盤から主にハリウッドを震源地として、特撮・CG技術の顕著な進化が映画界を席巻する。スクリーンを埋め尽くす「スペクタクル」の表象は、作品の筋すら忘却させる迫力に満ちていた。2時間の「物語」ではなく、10秒の「運動」に作品の印象が避けがたく依存する。映像表現の技術的進展は続き、その一方で二時間を優に上回る「物語」自体に魅力を持つ映画もいまだ量産されている。70年代以来(いや、本当はその誕生から)、映画は「運動」と「物語」の相克を内に秘めながら、現在もなおその歩みを止めない。

 ここまで、私はごく常識的な映画史への見解を述べた。大まかに振り返ってみれば、映画とは二つの「持続」のメディアだということがみえてくる。そして、双方はときに相反する。
 映画の持続性――それは第一に「物語」である。昨今は当たり前のように二時間を超える作品が公開されるが、そこで展開される「物語」は観客の興味の持続を前提としている。ごく単純なことだが、上映途中から観賞を始めたり、あるいはその逆に退出しては作品の筋を理解することができない。
 映画における二つ目の持続性――それは「運動」である。映画が「Moving Picture」であることを考えれば当然ではあるが、一つのショットは1秒24コマのフィルムが連続することで表象される。10秒間のスペクタクルであれば、それは240コマの持続的映写のもとに成立していることになる。ことほど左様に、この映画というメディアは二つの(相反する)持続性を備えている。
 しかし、本稿が主題とするのはそのような運動/物語といった二項対立の〈外〉にある問題意識である。つまり、映画の持続性ではなく静止性こそを俎上にあげる。そして、持続性の〈外〉にある視点――静止性を立脚点に思索を進めると、映画史はたちまちその表情を一変させることになる。そのとき、私たちをもう一つの映画史へと導く作品は『散り行く花』(1919年)と、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(2015年)だ。

            *

 映画における静止性とは何か。原理的に考えれば、先述したように映画がたとえ動いて見えたとしても、それは1秒間に24コマもの静止した写真が連続して映写されることによる錯覚に他ならない。だが、ここで原理原則の話をしたいわけでは全くない。映画の静止性とは、読んで字のごとくまさに「止まっている瞬間」を捉えたショットのことを指している。
 映画は「運動」の表象そのものに大きな価値を持って誕生しただけに、静止性を特質として結実させた作品は映画史を振り返ってみても決して多くはない。だが、そんな稀有な作品の一つにD・W・グリフィスによる監督作品『散り行く花』(1919年)がある。

 リリアン・ギッシュ演じる本作のヒロインは同居する父親の虐待に悩まされている。日々の暴力のなかで、その少女は笑うことすら忘れてしまっているあり様だ。
 『散り行く花』の序盤において、父は怯える娘リリアンに向かって「笑え!」と罵る。そして、次のショットとして人差し指と中指で口角を押し上げ、無理やり笑顔をつくってみせるリリアン・ギッシュのクロースアップが続く。

リリアン

 後年の批評は、この忘れがたいショットの美しさを絶賛することとなる。笑顔をつくるリリアンのショットは時間にして数秒ほどだが、その構図にはほとんど変化がない。クロースアップによるリリアンのバストショットがただ映し出されているばかりである。
 いうならばこのショットはあたかも肖像画のように「静止」している。映画研究者のトム・ガニングは持続性とは異なる位相にあるこのショットを「活人画」(絵画の構図を実際に人間で再現して静止するパフォーマンス)になぞらえてもいる。
 ここで注意しておきたいのは、画面いっぱいに映し出されたリリアンのクロースアップはただ静止しているだけのショットではないということだ(構図にそれほどの動きのないショットは多くの映画に散見される)。重要なことは、この口角を押し上げるリリアンのショットは終盤でも再び表象されることで作品を統一するモチーフとなり、少女の悲劇を象徴する機能を果たすことである。
 たとえば彫刻や絵画であるなら、対象の特権的な瞬間を切り取る(ドゥルーズはこれを「古代の方法」と分類する)。古代から中世にかけてヨーロッパにおいて神を描いた絵画はその基本的な構図が決まっており、まさしく特権的な瞬間を描いたものであることを思い出してもいいかもしれない。選ばれたその一瞬は単なる瞬間を超え出た意味を獲得するのだ(映画という動くメディアのなかでは、その切り取られた一瞬の特権性はより高められる)。
 リリアンの口角を押し上げた笑顔の表象は、あたかも静止画のようにスクリーンに映し出され、観た者の記憶に残り続ける。序盤と終盤で繰り返すように表象されるこの二つの「静止画」は、『散り行く花』を象徴的に表す「特別な一瞬」を切り取ったものであり、反復されることで作品のモチーフとして無時間的な永遠性を内包することになる。これは映画の静止性がもたらす最たる効果といっていい。「運動」という持続の表象ではなしえない表現を、映画は静止することによって獲得することがある。

            *

 「運動」そのものに媒体独自の価値を持つ映画において、『散り行く花』のようにその静止性を作品価値に結実させたフィルムは決して多くはない。私見の限りでは、オーソン・ウェルズによる『審判』(1962年)がその検討に値するぐらいだ。しかし、静止したショットが作品そのものを表現しうる水準に達した作品は、『散り行く花』から約100年後に公開されたハリウッド大作まで待たなければならない。

 世界を股にかけて撮影された『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(2015年)は、出演している数多くのスターがまさしく「超人」として活躍するサーガ(大河物語)の一作だ。ヒーローたちによる戦闘のシークエンスではCGをふんだんに使用しており、3D効果も設計された映像にはスペクタクルとしての「運動」が横溢している。一見すると本作もまた、「物語」や「運動」といった持続性において特徴を持つ典型的ハリウッド映画のように思えることだろう。しかし、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』は映画の静止性を作品固有の魅力にまで高めた点で『散り行く花』と一つの線で結ぶことのできる作品だ。
 まず、雪山に潜む悪の組織ヒドラの基地をアベンジャーズが急襲する作品冒頭でのシークエンスをみてみよう。登場人物の紹介も兼ねたこのシークエンスでは、まず各キャラクターの個々の戦闘描写が続いていく。そして、その直後に静止性を強く持つ「特権的な瞬間」を捉えた(最初の)ショットが挿入される。

アベンジャーズ

 アベンジャーズが全員集合した後、同時に敵に襲いかかるそのショットは人物が横一列となって整然と配置されており、かつスローモーションの使用によって他のショットとは決定的に異なる効果をもたらすことに成功している。このショットはそれまでの早回しのアクション描写とは対照的に、作中時間としては1秒にも満たないような「瞬間」をスローで捉えている。それは映像からアクションの躍動性を消し去ってすらおり、「スペクタクル」の創出が目的とされていないことは明らかだ。
  「静止画」のように捉えられた本ショットにおいてアベンジャーズの戦う姿は、それこそポージングをとるかのように美しく整えられている。あたかも、最も切り取るにふさわしい「特権的な瞬間」として――。
 それでは、作品の終盤に目を移してみよう。本作の敵役であるウルトロンはソコヴィア国の土地を宙に浮かべ、それを地球へと衝突させようと企みる。アベンジャーズはこの戦いのシークエンスのなかで、土地を浮かすエネルギー装置を囲うように集結する。四方八方から敵が襲いかかり、新たに加わった仲間と共闘するという、クライマックスに該当する場面だ。
  この戦闘のシークエンスにおいて、再びスローモーションを使用したショットが印象的に挿入されていく。スローで捉えられたショットは先述の場面とは異なり複数重ねられていくものの、いずれもやはり作中時間にして1秒に満たない「瞬間」を映すものだ。

アベンジャーズ2

 先述のスローモーションはアベンジャーズを横から捉えたショットであったが、終盤のシークエンスではカメラの視点が縦横のみならず、奥行きまでカバーすることで「空間」を自在に動き回ることになる。つまり、それぞれの必殺技を繰り出す超人たちを、カメラは立体的に捉えていく。ときに見上げるように、ときに超人の身体を回り込むように「特権的な瞬間」を引き延ばしたショットが連続する。言い換えれば、アベンジャーズの戦う姿という本作(あるいはサーガそのもの)を象徴的に表す一瞬を、あたかも彫刻のように映し出しているようですらある。

 ここまで確認してきたように、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』は『散り行く花』と同様に作品の序盤と終盤に反復するかのように、「特権的な瞬間」の表象を持っている。換言すれば、静止画的モチーフが、作品全体の象徴として機能しているのだ。持続のメディアであるはずの映画だが、冒頭と佳境において繰り返される静止したショットが作品を代表しうることがある。しかし、そのような“特権的瞬間”こそが、持続という現在進行形のメディアを観終ったあとに残る、私たちの「映画体験」であるとはいえないだろうか。
 映画における静止性が持つ「象徴」の機能を、ハリウッドの誕生に少なからぬ寄与をしているグリフィスの作品から100年、アベンジャーズは同地にて蘇らせたことになる。アベンジャーズという「神々」を捉えた瞬間的ショットは、映画における「持続」の神話に対抗する静止画である。

山下覚

※映画の静止性について考えるとき、文献があまり見たらず自身の観賞経験から書き出すことしかできなかった。読んで頂いた方から様々な指摘を頂ければ幸いです。