間イディオム的即興という戦略
即興演奏の分野で二元論といえば、即興/作曲の対立がすぐさま思い起こされる。だが果たして原理的に作曲でない即興演奏というものは可能なのだろうか。特定の音楽ジャンルの語法(=イディオム)をすべて取り払うことで可能になるという議論がかつてはあったのだが、現在ではどうも純粋な即興演奏は不可能だというのが結論になっているらしい。思うに、即興演奏というのは時空、もっといえば時間と空間から連続性を引き抜く試みのことだ。連続性から抜け出すことができるのならば、どの意思も音も単立している。そこにはイディオムも歴史も楽譜もなにもない。でもそんなことは言うまでもなく起こりえない。起こりえないからありえない。ありえないから存在していない。果たしてそうか? 根拠に根拠をつなげて固く理論付けるだけではなく、今のわからない現実に夢くらいは見たっていいだろう。その試みに錬金術以上の期待をしたっていいだろう。そういう存在はありうるのだ。
たしかにこの界隈の理論を打ち立てているものたちのなかにあまりにも無謀な夢を見ているなと思わされる人間がいないでもない。再定義と幻滅を繰り返しているひとびとなどは、どの分野でもそうだが、夢想とレトリックに知性のたいがいをとくに贅沢に濫費している。だったらこのイベントを企画した細田の思考とはどういうものだろう。
細田がものした野心的な論考「来たるべき『非在の音』に向けて」で自由と即興をこじあけるべく掲げたテーゼである「間イディオム的即興」。彼によればイディオムをすべて取り払うのではなく、演奏者それぞれに逃れ難く備わっていることを自覚し、その上で複数のイディオムのはざまを探索することによって、「自由な即興演奏」が可能になるのだという——そしてその形態が「間イディオム的即興」であるそうだ。同じ文章はこのイベントで配布された冊子にも載せられていて、キュレーション(に含まれるダイレクション)でもその思想を徹底させている。とはいえ「間イディオム的即興」の思想的内容はそこまで複雑なものではない。そこにあるのは切に希望される演奏者(とわれわれ)の自由だ。そしてその自由を見つめ直すことも厳しく要求する。90年代から00年代にかけて即興演奏は人間をもポスト・モダーンらしく疎外することによって音そのものの自由を希求してきた。でもそれではだめだった。われわれがひっきりなしに考え続けなければならないというのは自由ではない。だから細田は自分の自由を社会に、イディオムに捉えられたまま見よと要求する。そして他者が依っている環境も見つつ、そこに寄り添おうとしながら自分のイディオムを自覚的に脱ぎ捨てさせる。それが捨てられるところはイディオムが属する擬似言語と擬似言語の間にあるだろう。その体積が疑わしい場所にみなの(プセド-)自由がきっとある。
このように説かれる「間イディオム的即興」は思想が先行し素直に称揚しづらいものに思える。しかし相当頭でっかちで実現性を棄却しているものかもしれないが、この要求を聞いてわれわれが「しなければならないこと」は至極単純。自意識過剰になりつつも人の話を聞け、そして自分の仕事をせよ。こんなものである。この命令の背景にあるものは野放図な啓蒙でも野放図な空想でも野放図な絶望でもない。ただ、われわれをそこまで不満に至らしめることのない社会、そこまで動きづらくない権力を行使する社会、イディオムの言い換えのひとつである社会、今ある社会である。要するに普通の権力だ。われわれがすぐに思い浮かべるような。そこで再武装をさせるというのはかなり社会のなかで奇矯なふるまいかもしれないが、だから彼はキュレーションとしてわれわれのうちの芸術的なものを隔離しようとするのかもしれない。
実のところ、書かれていることは実存主義の話にも近い。少なくとも論考を読んだわたしがまっさきに連想したくらいには。彼がそこで立っている場所が解体されたものでも流動されたものでもないことは前述の挑戦的な冊子より明らかである。彼は演奏者や聴衆をその場所の構成物として扱っていないし、イディオマティックなコンテクストのマトリックス的構成物としても扱っていない。これはちょうど佐々木敦が『即興の解体/懐胎』で見せた切望、ある種懐かしい反復と差異の発見と好対照をなすかもしれない。非同一性そのものから出発している細田の議論は、それらの原理的即興の不可能性を当たり前に享受する。そこにはなんの感慨もない。だからその後、当たり前のように聴取しているある種の演奏形態が「即興演奏」であると前提しているのである。そうとしかカテゴライズ——というより受け取りようがないからそうする。荒野からは見ていないかもしれないが、暖房の効いていない部屋から覗いているのかもしれない。コンクリートな冷たい現実がそこにはある。
たった今の現実に関して考え続けている人間は夢想家であり、レトリックだけに生きるものである。やわらかい批評家だけではなく、それはこなれた人間が詩を書くときのあり方だ。だが細田はナラティヴな経験的現実を辿ろうとするとき、単純な座標では測れないところに自由な空間を見出そうとする。普通の尺度で生きていれば、そんなものは見つけようがない。だから彼は物事を否定された方法、不条理な方法で見ようとするのである。事象をありのまま、とかではなく汚いバイアスを自覚して見る。受け入れがたい。読者としてはそうとう身動きが取りづらい。欠点はこの稿の結論でも取り上げるが、それでもはるかに足りない。
だが彼はそういうあられもない視座から自由な時空を見つけるか、作り出そうとする。無謀な夢を見るものは、原因と結果の二元論にしか生きられない。そのふたつにしか居場所がなくて、それ以外の空白を空虚や無能とみなして、突飛な結論から帰ってきたあとにはまた、無鉄砲に原因を発火させる。彼らの手段も目的もそれ以外も実験でしかなくて、そこには華々しい成功と平凡な失敗しかないからだ。平凡な成功も華々しい失敗も無視される。
ところで細田の視座からそのふたつのどちらかを得られればそれはわれわれにとっても満足な結果である。「間イディオム的即興」ではわれわれの主体性自体が問題とされるのであって、細田の試みはすべてその主体のなかで回転するように思う。原因も結果も検討はされるものの、そこが出発点とはならない。むしろどちらかを欠くかもしれない。なぜならその理論的根拠の一つである「中動態」のはたらきは単純な因果論の否定でもあるからである。独善的な夢も絶望も再定義も無責任に因果を外部に求めているから生まれることだろう。
(次ページへ続く)