幸福な時間の成分


5時間17分の長さを誇る『ハッピーアワー』は、そのタイトルを裏切ることなく、まさしく幸福にみなぎった時間を提供してくれた。鑑賞前の緊張と不安から、劇場を出た時の外気の寒さや体内の熱気までが、鑑賞中の興奮を外側から包み込んで、まるごとひとつの忘れがたい体験となっている。しかしこの作品の魅力を言語化し、作品を既に観た、あるいはまだ観ていない他人と共有することは、思いのほか困難だった。これだけ素晴らしかったのに、である。風が吹けば消えてしまいそうな仄かな印象を何とか言葉にしたいと乞い願うのは、職業病だろうか。ともあれ、その困難さを安易な解読格子にあてはめてしまうことなく、その手前で立ち止まることを、監督自身は肯定してくれているようだ。『ハッピーアワー』公開に合わせて発売された著書『カメラの前で演じること』の冒頭付近で、濱口竜介はこう述べている。

 

『ハッピーアワー』の最大の魅力は、演者である彼女たちの存在そのものだ。そのことは、実作者がある映画の方法を語るということの愚を救ってくれるだろう。決して尽きせぬ謎として、映画の中心に彼女たちがある。

 

ここで「彼女たち」と呼ばれているのは、映画の主役であるあかり、桜子、芙美、純(役名のみ記す)の4人だけでなく、この映画に出演しているすべての人のことである、と濱口は断っている。物語は主にこの四人と、家族などその身近にいる人物たちによって織り成される、群像劇だ。『ハッピーアワー』が、そのほとんどが演技経験を持たない演者によって作られた映画であることを鑑みるならば、何気なく読み飛ばすこともできなくもない濱口のこの言葉は、単なる世辞を大きく超え出して、がぜん重みを帯びてくる。いわゆる「作家主義」以降の批評の地平において、常に作品の名前と同列かそれ以上の重みで語られてきた監督が、俳優の演技を高みからコントロールするのではなく、その魅力と謎に心から驚いているのだ。私には実に痛快におもわれた。しかしそれと同時に、ここにはある背反した事態が読み取れる。すなわち、映画の製作過程などについて開陳すればするほど、かえって作品の謎がより深まってしまう、という。濱口自身によるこの告白は、ロカルノ映画祭以降多く寄せられた質問や疑問に対し、監督自身が誠実に答えようとしたその成果である本書の内容を、ある意味ではハナから裏切ってしまう宣言でもあるのだ。そもそも引用した文章において、魅力と謎は「彼女たち」を媒介にほぼ等号で結ばれうる位置にあるではないか。ではいったい、「語るということの愚」を知りながら、彼はなぜ書き、語り、語らせるのだろうか? と問いたい。誠実たらんとし、沈黙をひとたび破ってしまえば、あとは止め処ない饒舌があたりを支配せざるをえないことは、何よりも濱口の作中人物自身がよく知っていることではなかったか……? 彼自身の言葉を引用してみよう。

 

単純に言葉が好きなのかもしれない。それは、ぼくが映像というものの過剰なまでの確かさに逆らいたいからかもしれません。言葉というもののあやふやさが好きなんです。言葉は、映像として映っているものほどハードではないというか、何を言ったからってそれは本当かどうか確認する術はないですよね。そして、嘘だったら「それがいつバレるのか」っていうサスペンスが生まれる。嘘をつく気がなくても、言葉と行動が矛盾することもよくある。言葉によって「今、眼に見えている画面」に潜在的なレイヤーが出来ていく感覚があって、そういう映画を作ることなら自分でもできそうな気がした、というのが出発点だと思います。(『映画はどこにある インディペンデント映画の新しい波』より。強調原文)

 

この発言を読んで私は、「イメージには否定がない」という、どこかで聞いた言葉を思い出した。乱暴に言えば、現実世界やそれを表象した絵画や映像などは、それ自身として充足したものであり、そこに否定性を持ち込むものは言語である/でしかない、ということだ。つまり、「リンゴがない」という時の「なさ」をいかに表現しうるか、という問題である。濱口の言う「潜在的なレイヤー」とは、この否定性のことのように思われる。そしてここには、映っているものをのみ扱う表層優位型の批評においては劣位に置かれてしまいがちな「感情」に再びフォーカスを当てることへの野心までが含意されていると私には読めた。それも、通り一遍の感情の描き方ではなく。観客の心を捕らえるに足るだけの厚み(揺れと言ってもよいかもしれない)を兼ね備えた人物を描くのだ。こうした人物の描き方は、濱口が大学の卒業論文の題材とし、影響を公のものとしているジョン・カサヴェテスを想起させる。次に引用するのは、映画監督の塩田明彦がカサヴェテスについて述べた発言だ。もちろんカサヴェテスの方法と濱口の方法が完全に重なるなどということはありえないが、私にはこの言葉が、『ハッピーアワー』の魅力とどこかで遠いこだまを交わしているようにおもわれた。

 

作劇によるサスペンスではなくて、シーンが持続していくなかでの臨場感というか、登場人物たちの感情や行動が一瞬後にはどこへ向かっていくかわからないっていう、そういうハラハラドキドキによってサスペンスを生み出していく。そんなふうに映画を作ることが可能なんだということは、これはやっぱりものすごく革新的な、驚くべき発見だったわけです。(『映画術』より)

 

それにしても、言ってしまえば会ったこともない他人たちがひたすら繰り広げる会話が、なぜこれほどまでに私たちの興味をひくのだろうか。喫茶店に入って隣のカップルの口論に耳をそばだてるのと、3000いくらのお金を払いこの映画を観ることの間には、極めて当たり前であるが、まったくといっていいほどの違いがある。だが、それはほんとうは、まったく同じものなのではないだろうか? 『ハッピーアワー』を観た後の寒さや熱気やあれこれをまるごとひっくるめたそれは、決して分析や解説を許すものではなかったが、ひとつ確かなことがあるとすれば、周りを歩く人々の見え方が少しだけ変わったということだ。(谷口惇)