「インゲームフォトグラフィー(In-game Photography)」は、ヴィデオゲームの中で写真を撮影することだ。この用語で指し示される領域には、少しずつ異なるいくつかの事象が含まれている。ゼバスティアン・メーリングとマルコ・デ・ムティスは広範なインゲームフォトグラフィーの領域を、ゲームプレイと写真撮影の関係から以下の四つのカテゴリに分類することを提案している。
(a)ゲームプレイ条件の中心となるシミュレートされた写真、(b)追加の写真モード、(c)芸術的なスクリーンショット、および(d)写真の修正によって可能になった創造的な写真の介入。*1
(a)は、「ポケモンスナップ」などに代表される、ゲームの中で写真撮影することがゲームプレイの中心的な目的となっているゲームにおける写真撮影のことだ。ポケモンスナップは一九九九年に発売されたNINTENDO 64のタイトルで、ポケモンアイランドに生息する野生のポケモンをカメラで撮影し、写真の出来で高得点を目指すゲームだ。(b)は近年家庭用ゲーム機や、ゲームソフトに搭載されている「フォトモード」と呼ばれる写真撮影機能のことだ。二〇一〇年代に入ると、「The Last of Us Remastered」などのリアルなグラフィックのゲームに搭載されたフォトモードが話題になり、現在多くのゲームでフォトモードを見つけることができる。フォトモードで撮影される写真の多くは、主にゲームのファンによって撮影されていて、例えば、Instagramで「#ingamephotography」というハッシュタグで検索すると、二〇万件超(二〇一九年十月現在)のゲーム内で撮影された写真が見つかる。このようなインゲームフォトグラフィーは、ヴィデオゲームの楽しみ方の一つとして定着しつつある。(c)はダンカン・ハリスのようなプロのインゲームフォトグラファーや、COLL.EOのようにゲームアートや現代美術の文脈から制作されるインゲームフォトグラフィー作品のことだ。ダンカン・ハリスは発売前のゲームの中でプロのカメラマンとして写真を撮影し、それをゲームの広報のための素材として提供している*2。また、COLL.EOは、イギリスの写真家マーティン・パーの『Boring Postcards』などを参照し、「Forza Horizon 2」というレーシングゲームの中で描かれる、ヴァーチャルなイタリアの退屈な場面を撮影した『Boring PostcardsfromItaly』という作品を制作している(図1)*3。(d)では、Kent Sheelyの「DoD」*4という作品に言及し、写真を撮影するために改造されたFPSゲームの中で、銃の代わりにカメラを持つことで非武装となったキャラクターが戦闘の中で生存するようプレイしなければならなくなった状況を指摘している。つまり、アーティストが写真を撮影するためにゲームを改造する中で、ゲームプレイ自体の目的が変化し、現実世界での戦場カメラマンのように振る舞わざるを得なくなったのだ。ここでは、ゲーム自体の目的が変化し、現実の社会とヴィデオゲームの関係を見つめ直す契機となる作品をカテゴライズしている。
このような、ゲームの中で写真を撮影するという、多様で、比較的新しい写真撮影の概念は、いったいどのような特徴を持ち、これまでの写真とどの程度同じで、どの程度異なっているのだろうか? こうした問題について、既にゲーム研究やメディア論の方向からいくつかの考察がなされている。それらの多くはジェイ・デイヴィッド・ボルターとリチャード・グルーシンによる「再メディア化(Remediation)」というキーワードを用いてインゲームフォトグラフィーを説明している。シンディ・ポレンバは、Worldof Warcraftのプレイヤーにとって、ゲーム内のスクリーンショットと、現実空間での家族や友人とのスナップショットが同列に社会的交流の記憶としてアルバムに保存されることを挙げ、文化的実践としてのこれまでの写真撮影との連続性を指摘する*5。セス・ギディングスは、初期写真の技術を展開したフォックス・トルボットの「フォトジェニック・ドローイング(光のドローイング)」という言葉を借り、インゲームフォトグラフィーを、現実の光が失われた「光なきドローイング」として捉える。そして、それまでの写真実践から何が残存し、何が進化、変異しているのかを丁寧に指摘している*6。
このように、複数の異なるインゲームフォトグラフィーのあり方に対して、このテキストでは根源的な問いから始めたい。つまり、インゲームフォトグラフィーは、どのようにして始まったのかという問いだ。具体的にそれは、ゲームの中での写真撮影を可能にする、「ヴァーチャルなカメラ」がどのようにして生まれてきたのかを検証することだ。さらに、先行する論考を参照しながら、インゲームフォトグラフィーは何を写しているのかについて考察していく。
ゲームの中のヴァーチャルなカメラ
ヴィデオゲームのグラフィックが3Dで表現され、それを画面を通じて見ることが出来るということは、遠近法に基づいて世界を描画する、抽象的な一つのカメラの存在を前提としているが、ここで捉えたいのはそうしたヴィデオゲームの3Dグラフィックにおける基本的な機能としてのカメラの存在についてではない。ゲームの世界を撮影するためにシミュレーションされ、再メディア化されたヴァーチャルなカメラのことだ。またそれは、ケイティ・サレンが「変形をもたらす遊び(Transforming Play)」*7の例としてとりあげる「マシニマ(Machinima)」のように、しばしば「〔その遊びを成り立たせている〕構造自体を変化させる」役割を果たす。つまり、ヴィデオ・ゲームのプレイのための画面を描画するカメラではなく、再度その中で意識的に定義され、通常のゲームプレイとは異なる遊びや、写真的、映画的表現を生み出すヴァーチャルなカメラのことだ。まずは一九九六年に始まったゲームを用いた映像表現「マシニマ」と、同年に発売された二つのヴィデオゲームを取り上げ、こうしたヴァーチャルなカメラの存在がどのようにして浮かび上がってきたかを考察する。
マシンの眼差し
一九九六年十月、id SoftwareによるFPSゲーム「Quake」のリプレイ機能を活用し、United Ranger Filmsというクラン(チームプレイを行うグループ)が一つのリプレイファイルをオンライン上に公開した。それは、「Diaryofa Camper」と言う名の独自のストーリーが表現されたリプレイファイルだった。また、アーティストのミルトス・マネタスは「Hornet F/A18」というフライトシミュレータをプレイしている最中、偶然起きたバグをビデオに撮影し、「Miracle」という映像作品を制作する。この作品は一九九六年、ニコラ・ブリオーがキュレーターを務めた「Joint Ventures」という展覧会で初めて展示される。このような、ヴィデオゲームを映像作品を制作するための環境として活用する方法が、ゲームファンのコミュニティと、アーティストの手によって一九九六年に生み出される。のちにそれは「マシン」と「シネマ」を足し合わせた「マシニマ(Machinima)」という名で呼ばれるようになる。現在でも「グランド・セフト・オート(GTA)」や「セカンドライフ(Second Life)」を用いてマシニマ作品を制作するクリエーターは数多く存在している。この、最初期のマシニマで起きている現象を正確に捉えようとすると、ヴァーチャルなカメラが、ヴィデオゲームのプレイヤー、あるいはプレイそのものから切り離され、再配置されるプロセスを見つけることができる。
マシニマの起源とされる「Diaryofa Camper」(図2)をインターネットで検索すると、当時では不可能だった一〇八〇ピクセルなどの解像度で録画された映像が見つかる。これは、「Diaryofa Camper」などの「Quake」を用いた初期のマシニマは、しばしばリプレイファイルとして公開されていたからだ。このリプレイファイルは、それぞれのユーザーが所持している「Quake」でロードして実行することでそのマシニマ作品を鑑賞できるのだが、これを現在の環境で実行すると公開当時とは異なる高い解像度で再生できる。この最初のマシニマが保存されたわずか一八五キロバイトの. DEMファイルには、キャラクターやカメラの座標、セリフのテキストなどが時系列順にデータとして記録されていて、「Quake」というソフトウェアをリアルタイムに動作させる台本や楽譜のような働きをする。つまり、ここにはかつて起きた出来事を視覚的に記録するという意味での「ヴァーチャルなカメラ」は厳密には存在していないのだ。
しかし、ここで着目しておきたいのは、この作品の中で移動しながら、全体を俯瞰している眼差しは「Quake」の通常の一人称視点ではなく、改造ツールによって生み出されたヴァーチャルなカメラによるものだということだ。当時、ウーヴェ・ギルリッヒはQuakeのデモファイルの仕様を解析し、そのドキュメントをオンラインで公開していた。その中でプレイヤーとカメラは異なる座標に配置できるということを発見しており、Quakeを3Dアニメーションの制作ツールに改造できる可能性を示唆していた*8。つまり、プレイヤーが操作するキャラクターからカメラを分離し、純粋に映像を撮影するためのカメラとして使用できるということだ。このドキュメントを元に、United Ranger Filmsのメンバーが、自由にカメラを動かすためのツールを独自に制作し、世界初のマシニマである「Diaryofa Camper」を制作することになる。通常のゲームプレイのための視点、つまりプレイヤーと一体化した一人称の眼差しは、マシニマを制作するツールへと改造される過程でプレイヤーから切り離され、純粋に映像を記録するためのカメラとしてプレイヤーとは異なる座標へと再配置された。つまり、「プレイヤーが見ている」のではなく、明示的に「カメラが見ている」状態が作り出されていたのだ。これを原初的な「ヴァーチャルなカメラ」の誕生と捉えることができるだろう。こうしたヴァーチャルなカメラについて、ミルトス・マネタスの「Miracle」では「Diaryofa Camper」のように改造ツールを用いた作業は行われていない。しかし、より単純な手法が取られている。ミルトス・マネタスは、水面を滑走する戦闘機の様子が映るCRTモニターの正面に三脚を立て、ヴァーチャルではないヴィデオカメラで画面を撮影したのだ。これもまた、ゲームの外側ではあるものの「カメラが見ている」状態を生み出している。
そもそもヴィデオゲームをプレイしている時、その画面に映る風景は、誰の眼差しによるものなのか、多くの場合明らかにされないうえ、しばしば混乱さえしている。一人称視点のゲームで、しばしば水滴や血しぶきが視界の中に付着する演出がなされることがあるが、これは人間の眼球ではなく、カメラのレンズやフィルターでなければ起き得ない現象だ。一人称視点のゲームにおいてすら、その眼差しの在り処は不明瞭だ。マシニマのアプローチは、ヴィデオゲームをプレイしている最中の画面に映る、誰のものとも知れない透明な眼差しを、機械の目=「カメラが見ている」ものとして取り出してみせる試みだったと言える。
NINTENDO 64の二つのゲーム
同じ一九九六年に、ヴァーチャルなカメラについて示唆的な表現を行った二つのゲームが登場する。同年に発売された家庭用ゲーム機「NINTENDO 64」のローンチタイトルであった「スーパーマリオ64」と「パイロットウイングス64」だ。スーパーマリオ64は、マリオシリーズ初の3Dアクションゲームだが、そのゲームプレイ中の視点をもたらすカメラに関して、当時としては新しい試みを行っていた。それはインタラクティブ・カメラ・システムと呼ばれるカメラの操作方法だ。3Dゲームのカメラは、一人称視点である場合そのままキャラクターの主観視点としてカメラが位置する。三人称視点では空間内で監視カメラのように固定された視点か、あるいは操作するキャラクターの後方を追尾する形で動作する例が多かった。しかし、インタラクティブ・カメラ・システムでは、カメラはキャラクターを追尾しつつ、それ単独でもコントローラーから操作可能になっている。つまりプレイヤーはゲームのプレイ中、キャラクターだけでなくカメラも状況に応じて同時に操作することが求められるのだ。注目すべきは、スーパーマリオ64ではこのカメラを持って移動するカメラマンの役割を「ジュゲム」という雲に乗ってカメラを吊り下げたキャラクターに与えていることだ(図3)。
そして、その特異な状況が強烈に現れるのがゲーム開始直後のチュートリアルの場面だ。そこでは、カメラを吊り下げ、雲に乗ったジュゲムが上空から登場し、ゲーム内の視点をこのジュゲムのカメラが担当することと、その操作方法を丁寧にプレイヤーに伝えてくる。しかし、このジュゲム自体ははいったい誰によって撮影され、いま画面に表示されているのかという矛盾は説明されない(ここでジュゲムは自らを「ジュゲムブラザーズ」と名乗っていて、兄弟のもう一人のジュゲムがこの場面を撮影しているようだと推測することはできる)。そして、ジュゲムが画面の外へ飛び立つと、それ以降このジュゲムの姿は鏡のある部屋以外でゲーム中の画面に映ることはない。このヴァーチャルなカメラの「キャラクター化」はこれまであまり馴染みのない、インタラクティブ・カメラ・システムの複雑な操作をゲーム冒頭で分かりやすく伝えるためのゲームデザイン的な手法として採用されたものだと思われるが、それは同時にゲーム内でシミュレートされたカメラの存在を明確に描きつつ、一人のプレイヤーの手で二人のキャラクターを同時に操作するという奇妙さや困難さを浮かび上がらせてもいる。
ゲーム中にカメラをうまく使い分けるのが、このゲームを楽しむコツ。そう、あなたはプレイヤーであると同時にカメラマンでもあるのです!
マリオをカメラで撮影しているのは、実はジュゲムです。ゲーム中のカメラの視点を切り換えるということは、マリオを追いかけるジュゲムを操作していることになります。Cボタンユニットを使ってジュゲムを操作してください*9。
もう一つのローンチタイトルであった「パイロットウイングス64」もまた、そうしたヴァーチャルなカメラの存在を感じさせる要素が存在していた。三種類の空飛ぶ乗り物を選び、様々なミッションをクリアしていく三人称視点のフライトシミュレーターのゲームだ。その中には「フォトクルーズ」と呼ばれるミッションがあり、「煙突から出ている炎」などの特定のオブジェクトを写真に収めることがクリア条件のひとつになっている。撮影された写真は、対象がどのくらい大きく中央に写っているかなどをアルゴリズムが判定し、得点として加算する仕組みになっていた。この写真撮影の機能では、「スーパーマリオ64」のようにカメラの外観が描かれることはなく、単にファインダーの役割を果たす赤い枠線が中央に表示されるだけだ。しかしその赤い枠によって、ディスプレイに映る、プレイヤーの視点とは異なるレイヤーに撮影領域があることが示される。そして、ボタンを押すとシャッター音が再生され、何らかの機械的動作を含むカメラであることが表現されている。ここでは、構図を決め、シャッターボタンを押すことで撮影し、アルバムに写真を保存するという、一般的な写真撮影の一連の行為が実現されていた。また、ゲームを進めていくとミッションと関係なく、遊覧飛行できるモードがあり、自由にマップの中を移動しながら写真を撮影することもできた。つまり、ゲームのミッションと無関係に純粋に写真撮影を楽しむという目的でのプレイも可能だったのだ。ただ当時、NINTENDO 64をはじめとする家庭用ゲーム機はインターネットに接続されておらず、パイロットウイングス64で撮影した写真は現在のインゲームフォトグラフィーのように広くネット上で共有されることは無かった。
この二つのゲームにおいて共通するのは、撮影装置としてのカメラの意識的な表現だ。スーパーマリオ64では、ゲームのプレイヤーの眼差しはジュゲムが吊り下げるカメラとして表現され、ゲームの中を撮影し、視点を提供するヴァーチャルなカメラの存在が明示される。また、パイロットウイングス64では、写真を撮影する機能が用意されており、そこではゲーム画面を切り取るファインダー、シャッター音によってカメラの存在が表現され、撮影した写真をアルバムに保存するなどの写真撮影の一連の行為が実現していた。それらはマシニマのように、ユーザーの手によって生み出されたものではないが、ゲームのグラフィックが本格的に3D化していく過渡期の中、新しい三次元の世界の操作をわかりやすく伝えるための開発者による工夫や、あらたなゲームプレイの可能性の探求の中から生まれてきたものと言えるだろう。
この、初期のマシニマとNINTENDO 64の二つのゲームの例は、どちらもヴィデオゲームの3D化によってもたらされた現象だ。それまでのやや記号的な役割も果たしていた2Dのゲームのグラフィックを、ヴァーチャルなカメラによって撮影されたものとして意識することは不可能ではないが、やや迂遠だ。それに比べて三次元の空間の中で自由に移動し、対象を様々な角度から眺められることは、複数のカメラによる視線の複数性へと直接繋がるだろう。近年普及している3Dゲームエンジン、Unityのマニュアルには以下のような一文がある。
Cameraは、世界をキャプチャしてプレイヤーに表示するデバイスです。カメラをカスタマイズして調整することで、独自性の高い表現力を発揮することができます。シーン内では、カメラを好きな数だけ追加できます。レンダリングの順序や、スクリーン上の位置、または、スクリーンの一部だけを表示する、など設定することも可能です*10。
ただ、こうしたヴァーチャルなカメラの誕生が、そのまま直接インゲームフォトグラフィーへと繋がったわけではない。「Diaryofa Camper」や「Miracle」が発表された一九九六年から二〇〇〇年代中頃まで映像作品であるマシニマの制作が盛んに行われていたが、ゲーム内で写真を撮影することはそれほど注目されていはいなかった。
インゲームフォトグラフィーの始まり
では、インゲームフォトグラフィーが具体的にいつどのように始まったのか。これについてマシニマのように明確な時期を示すことは難しい。一九九九年には、NINTENDO 64のタイトルとして「ポケモンスナップ」がリリースされている。発売当初、ゲームのカートリッジをコンビニエンスストアに持ち込むと、ゲーム内で撮影した写真をシールとしてプリントしてもらえるサービスが行われていた。これによってゲーム内で撮影した写真をプレイヤーの間で共有、交換することができた。しかし、その後ポケモンスナップ以外のゲームで同様のサービスが提供されることはなく、写真を共有する楽しみ方が当時ゲームの遊び方として定着していたとは言い難い。ベッツィ・ブックは、仮想空間における観光と写真の関係性を論じる中で、一九九〇年代に登場したThe Palaceなどの2Dのアヴァターを介したオンラインチャットと、二〇〇〇年代に登場するセカンドライフなどの3Dの仮想空間を挙げ、両者における風景との関わりの違いを指摘している*11。The Palaceなどの2Dのオンラインチャットにおいては、会話や社交が重視されていて、その仮想空間内の風景や小物は、その社交の場を和ませる要素として機能する。しかし、3Dの空間を持つセカンドライフなどでは、風景の中に没入し、自由に移動しながら探索する「観光」が社交と同じように重視されると述べ、2Dよりも3Dの仮想空間でより多くゲーム内の観光写真が撮影されていると指摘している。ここで3Dの仮想空間の例として言及されている、Thereやセカンドライフは、いずれも二〇〇三年に正式にサービスを開始していて、「There’s PhotoClub」といった仮想空間内で撮影された写真を共有するサイトも存在していた。つまり、二〇〇三年には、これら3D仮想空間のユーザーが写真を撮影し、共有することを自然に行っていたと思われる。また、そうしたゲームプレイヤーやユーザーコミュニティの中で共有されるものではなく、プロフェッショナルな写真作品や、現代美術やメディアアートの文脈で作品化されたものとして以下二つの事例を最初期のものとして挙げることができる。プロのインゲームフォトグラファーであり、パイオニアとしても認知されているダンカン・ハリスはインタビューで、二〇〇七年ごろからゲーム内で撮影した写真を個人ブログにアップしていたと述べている*12。また、ネットアートや現代美術の領域で作品を制作するEvaand Franco Mattesは、セカンドライフのアヴァターを巨大な一三枚のポートレート写真にした作品「13 Most Beautiful Avatars」*13を二〇〇六年に発表している。これらの事例から、少なくとも、二〇〇三年から二〇〇七年ごろにかけて、仮想空間のコミュニティや、プロフェッショナル写真、メディアアートや現代美術などの様々な文脈や領域でインゲームフォトグラフィーの写真が登場してきたと捉えることができる。そして、二〇一〇年代以降、YouTubeやTwitchでのゲーム実況の配信が盛んに行われ、それに反応するようにゲームメーカーもゲームプレイの録画機能や、ゲーム内での写真撮影機能を設け、オンラインで共有できる機能をゲームソフトやゲーム機に搭載するようになった。これらの変化によって、二〇一〇年代に入ってから多くのインゲームフォトグラフィーを目にするようになり、現在のようなヴィデオゲームの楽しみ方の一つとして定着しつつある状況へと繋がっている。
インゲームフォトグラフィーが写すもの
では、こうしたインゲームフォトグラフィーは何を写しているのだろうか? 具体的なモチーフをあげながら考察することは写る対象のほぼ無限の可能性ゆえに困難だろう。しかし、フィルム写真や、デジタル写真といった他の写真撮影と比較して、インゲームフォトグラフィーにおいて被写体がどこに存在し、何によってその像が記録されているのかを以下のように簡単に整理することができるだろう。
1 フィルム写真:物理空間の被写体が、物理空間のフィルムへ記録される
2 デジタル写真:物理空間の被写体が、デジタル空間のデータとして記録される
3 インゲームフォトグラフィー:デジタル空間の被写体が、デジタル空間のデータとして記録される
マルコ・デ・ムティスが指摘するように、インゲームフォトグラフィーでは被写体は撮影されるよりも前に既にピクセルによって表現されており、撮影される写真と被写体が同一のものによって支えられて存在している*14。それは実はフィルム写真が被写体、写真の両者がともに現実の物質によって作られていることの裏返しでもある。これを言い換えるならば、インゲームフォトグラフィーは被写体すらもデジタルな「完全なデジタル写真」であると言えるかもしれない。また、インゲームフォトグラフィーは何を写しているのかという問題について、被写体とフィルムの関係からではなく、時間の問題から考察することもできるだろう。つまり、どのような時間、時制がそこに記録されているのかという問題だ。
カメラのシャッターボタンを押すと、その瞬間の一/六〇秒、一/二五〇秒といった一瞬の時間の出来事が像として定着される。ゆえに写真はある瞬間を切り取るものとしてしばしば捉えられてきた。しかし、それは写真という手法が最初からそうだったわけではなく、写真技術の歴史の中で撮影装置の小型化や、露光時間の短縮化によってもたらされたものだ。ダゲレオタイプによって一八三八年から一八三九年ごろに撮影されたとされる、パリのタンプル通りの写真は、初めて人物が映った写真としてしばしば紹介される。しかし、そこに存在していたはずの多くの人たちがまったく映らなかったという、奇妙な写真でもある。ダゲレオタイプの一〇分とも二〇分とも言われる長い露光時間によって、道を行き交う通行人は像として定着せず、全て消え去ってしまったのだ。そして、おそらく靴磨きの台に足を載せながら、磨き終わるのをじっと待つ一人の人物だけが取り残されたように像として定着したのだ。写真技術は長い歴史の中で様々に改良され、現在のように瞬間を撮影することが可能になったわけだが、こうした写真に写る時間の問題が、インゲームフォトグラフィーの中でどのように変質しているかを追ってみたい。
インゲームフォトグラフィーに写る時間
インゲームフォトグラフィーに写る時間の問題についても、これまでにいくつかの研究者や著述家によって考察がなされている。しかしそれらはどれも、少しずつ異なる角度から「瞬間」の喪失を指摘している。直接インゲームフォトグラフィーに言及しているわけではないが、港千尋はデジタルカメラが普及しつつあった二〇〇〇年ごろに「デジタル・イメージとは何か」というテキストでデジタル写真における瞬間の喪失を示唆している。
瞬間と言い換えてもいい。常に、演算の「状態」の表出であるデジタル・イメージには、始まりも終わりもない。かつて写真が、その成立基盤を置いていた、シャッターが切られた瞬間という概念は、どうなるのだろう。二度と訪れない、かけがえのない「瞬間」に価値を見出していたからこそ、シャッター「チャンス」と呼んだのではないだろうか。ところが、演算に「チャンス」はない。デジタル・イメージにおいて、イメージは永遠に宙ぶらりんの状態に置かれている。わたし個人は、「瞬間」という概念が、そのイメージの表出において、わたしに別れを告げに来ているような気がしてならない*15。
デジタルデータは、量子化された数値であって、そこにフィルム写真のように物理的に刻まれた視覚的イメージは存在しない。イメージは常に演算の「状態」の表出として存在し、そこには時間的な前後関係がないため、デジタル・イメージからは「瞬間」が喪失している。インゲームフォトグラフィーもまた、最終的に撮影された画像がデジタルデータである以上、ここで示されているような瞬間の喪失は同様に存在しているだろう。
セス・ギディングスは「光なきドローイング」の中で、「ゼルダの伝説 風のタクト」の写真撮影イベントにおける出来事の反復から、瞬間の喪失を指摘している*16。このゲームの中では、「写し絵の箱」と呼ばれる写真撮影装置を用いて、ゲンゾーというキャラクターから指示された対象を撮影するミッションがある。例えばガリクソンというキャラクターがラブレターを投函する瞬間を撮影することが指示されるが、その対象をプレイヤーが撮影するまで、毎日同じ時間にガリクソンはラブレターをポストに投函し続けてしまう。ヴィデオゲームでのこうしたイベントは、クリア条件が満たされるまで何度も同じ出来事が反復されるわけだが、これはゲームプレイの目的にミッションの達成が含まれる場合、避けることが困難な反復でもある。また、ここには撮影された画像だけでなく、撮影される被写体、あるいはゲームそれ自体がデジタルデータやプログラムされたコードによって作られていることによる瞬間の喪失があるように思える。つまりゲーム内で起きる出来事はあらかじめプログラムされていて、それは何度も同じ処理として正確に実行されるということだ。
近年の大作ゲームで頻繁に見られる、広大なマップと複雑な要素を持つオープンワールド形式のゲームでは、単純な出来事の反復は必ずしもそこまで前景化しないだろう。こうしたオープンワールドのゲームではプレイヤー以外のNPC(non player character:通行人などのプレイヤー以外のキャラクター)はAIによって自律的に動作していて、まるで本当にそこに暮らしているかのように、一日の生活の振る舞いが再現される。さらに天候の変化などもシミュレートされ、同じ場面に二度と出会うことがないほどに複雑な世界が構築されている。あるいは「Minecraft」のように、プレイヤーがアイテムや建築物を製作できるサンドボックスやクラフト要素のあるゲームでは、プレイヤー自身の手によってゲーム内の風景が変化していくため、ゲーム内のミッションを除けば、単純な出来事の反復に遭遇することは少ないだろう。しかし、このような近年のオープンワールド形式のゲームにしばしば搭載されるフォトモードという写真撮影機能が、また別の形で瞬間の喪失をもたらしている。
ゼバスティアン・メーリングとマルコ・デ・ムティスは、フォトモードを用いた撮影における瞬間の変化を指摘している*17。二〇一四年に発売された「The Last of Us Remastered」をはじめ、二〇一〇年代にはフォトモードによる写真撮影が可能なゲームが数多く登場した。これによってゲームファンによるインゲームフォトグラフィーの撮影が盛んに行われるようになった。しかし、このフォトモードでの撮影は、ヴィデオゲームの外で行われる写真撮影と比べると、極めて異質な手順で行われている。ゲームプレイの最中、割り当てられたボタンを押すと、フォトモードが起動し、その瞬間、ゲーム内の時間が停止する。そして、それまでキャラクターを追従していたカメラは、単独で自由に空間の中を移動できるようになり、静止した世界の中でこれから撮影する写真の構図を決めることができる。さらに、焦点距離や被写界深度といったレンズに関する設定や、ヴィネットと呼ばれるレンズの周辺減光、カラーフィルター、フィルム写真的な粒状感を生むフィルターなど、現実の世界のカメラをシミュレートするようなパラメーターを個別に、満足のゆくまで変更することができる。通常、シャッターボタンを押すと一瞬で確定する、構図やレンズの特性などの諸要素がフォトモードでは分解され、個別に操作可能なパラメーターになってしまっているのだ。ゼバスティアン・メーリングとマルコ・デ・ムティスは、カルティエ・ブレッソンの言葉を借りながら、このフォトモードにおける時間を「拡張された決定的瞬間(augmented decisive moment)」と表現している。
これらの例は、いずれもインゲームフォトグラフィーにおいて、「瞬間」という概念が損なわれていることを指摘している。これはダゲレオタイプのような長時間露光によって生じる「瞬間」の不在とはやや異なる現象だ。インゲームフォトグラフィーで撮影される写真そのものは、ゲームのフレームレートに応じた一/六〇秒や一/一二〇秒といった瞬間や、フォトモードによって静止した、まぎれもないヴィデオゲームの中のある瞬間を写そうとするものだ。しかしその瞬間は、しばしば反復する出来事が写ってしまう瞬間であり、また、その瞬間自体が演算のある状態として任意に停止させ、引き伸ばすことが可能な「操作可能な瞬間」へと変わってしまっている。
離散的な過去
最後に、近年ゲーム開発で用いられるようになった技術を取り上げ、インゲームフォトグラフィーに写るものについての新たな可能性について言及したい。近年、リアルなグラフィックのゲームでは、ゲーム内に配置されるオブジェクトは従来のように一からデザイナーの手でモデリングするのではなく、現実に存在するオブジェクトをフォトグラメトリという手法で3Dスキャンする手法が取られるようになってきている(図4)。
二〇一四年にリリースされたインディーゲーム「The Vanishing of Ethan Carter」で本格的にフォトグラメトリが使用されたことが話題となり、以後様々なゲームの開発で使用されるようになった。こうした、ゲームの空間の中にフォトグラメトリで撮影されたオブジェクトが配置されることは、これまで挙げてきたインゲームフォトグラフィーに関する問題に異なる視座を与えるだろう。つまり、現実の風景を取り込み、ヴィデオゲームの世界が構築されるということは、インゲームフォトグラフィーは、すでに一度撮影された写真を再撮影する行為でもあるということだ。3Dモデルのテクスチャとして実際に撮影された写真を用いることは以前から行われていたが、フォトグラメトリはオブジェクトの形態も含め、より直接的に現実をゲームの中に取り込む手法だ。
ジャスティン・ベリーは、こうした問題に関して示唆的な表現を行っている作家だ。彼は二〇枚以上のゲームのスクリーンショットを丁寧に合成し、実写と見まごうほど緻密な風景写真のシリーズを制作している(図5)。
この一連の作品では直接にフォトグラメトリについて取り上げているわけではないが、自身の手によって数十枚の写真の合成を行うその制作プロセスは、バラバラな過去を一つに統合してみせるという点でフォトグラメトリと類似している。また、ジャスティン・ベリーはインタビューの中で自作について以下のように述べている。
「これらの設定を行う時、多くの場合テクスチャは写真からのものです。なので、私が写真を撮影するところに奇妙なことがあるのです。私が撮影しているのは、実際にはポリゴンに巻きつけられた他の一連の写真なのです」「仮想世界では、私たちはあたかも価値のない空っぽの遊び場にいるかのように振る舞います。人を殺し、強奪しますが、ヴァーチャルだから気にとめることはありません。同時に、仮想世界はますます現実の世界と密接に関連するようになっています」*18
ゲーム内に配置されるオブジェクトが、フォトグラメトリのように現実を写す写真から作られるとき、ゲーム内で写真を撮影することは、ポリゴンに巻きついた別の写真を撮影することでもある。つまり、ジャスティン・ベリーはインゲームフォトグラフィーが部分的に現実の風景の再撮影であることを示唆している。また、ゲームの世界が本質的にヴァーチャルで、現実とは無関係でありながら、彼自身の作品がそうであるように、その見た目は現実の世界により接近しているという奇妙さを指摘している。
セス・ギディングスは、ゲームの世界そのものを、現実の光が届かない(不可視光線に満たされた)ブラックボックス=カメラ・オブスクラとして捉えていた19。しかし、フォトグラメトリによって現実の風景の一部がゲームの世界に取り込まれるとき、このブラックボックスは完全に閉じた箱ではなく、現実の風景に対していくつもの穴をもつ箱へと変化するのかもしれない。フォトグラメトリは、対象物を様々な角度から撮影した複数枚の写真を専用のソフトウェアで合成し、3Dデータを生成する手法だ。そこでは、写真の撮影は常に異なる瞬間と視点から何度も行われることになる。つまり、フォトグラメトリは、それらの離散的な過去の眼差しの集合を一つの3Dデータとして結像して見せる。そのため、必ずしも単一の撮影者の眼差しを必要としないし、しばしば時間的、空間的に隔たった複数の眼差しを集合させる装置としても機能しうる。このように生成された3Dデータは、ゲームの空間内でコラージュのように配置されてゲームの風景が作り出されるわけだが、この風景がインゲームフォトグラフィーとして撮影されるとき、そこにはバラバラに散らばった、過去の複数の眼差しが写り込むことになる。
ゲームを通じて現実の世界へと向けられた眼差しは、離散化された現実へのインデックスとして、ゲームというブラックボックスに無数の穴を穿つ。この時、インゲームフォトグラフィーは、たんにデジタルなゲームの世界をデジタルイメージとして撮影するだけの行為ではなくなるだろう。むしろそれは、フォトグラメトリによってもたらされる、離散化した現実への穴を通じて、デジタルなゲームの世界から現実の世界を複眼的に撮影する行為へと変化するだろう。
〈註〉
1 Sebastian Möring and Marco de Mutiis (2019). ‘Camera Ludica: Reflections on photography i n video games’ . In: Intermedia Games – Games Inter Media: Video Games and Intermediality, ed. by Michael Fuchs and Jeff Thoss, 69–94. New York: Bloomsbury Academic.
2 DET :: The Art Of Gaming, http://dead endthrills.com/
3 COLL.EO (2016). ‘Postcards from Italy’, http://colleo.org/ postcards-from-italy/
4 Kent Sheely (2009- 2012). ‘DoD’, http:// kentsheely.com/dod
5 Cindy Poremba (2007). ‘Point and Shoot: Remediating Photography in Gamespace’. In: Games and Culture, Volume 2 Number 1, January 2007 49-58
6 Seth Giddings (2013), ’Drawing without light: Simulated photography in video games’, In: The Photographic Image in Digital Culture, (2nd ed.) ed. by Martin Lister, 41-55. London: Routledge. (セス・ギディングス、増田展大(訳)( 2018)光なきドローイング ビデオゲ ームにおける写真のシミュレーション ヱクリヲ vol. 9、ヱクリヲ編集部、 77 -102)
7 Katie Salen (2002), ‘Quake! Doom! Sims! Transforming Play: Family Albums and Monster Movies’ Presented at the Walker Art Center, October 19, 2002 https://web.archive. org/web/200510272 00101/ http://www.walkerart. org/archive/ 7 /A 5736 D3 C789330 FC6164 . htm
8 Uwe Girlich, The unofficial DEM format description : 3.3 Opportunities of the DEM format http://www.gamers. org/dEngine/quake/ Qdem/dem-1.0.2-3.
9 スーパーマリオ64 取 扱説明書 https://m1.nintendo. net/docvc/NUS/JPN/ NSMJ/NSMJ_J.pdf
10 Camera – Unity マ ニュアル https://docs.unity3D. com/ja/2019.1/ Manual/class-Camera. Html
11 Betsy Book (2003), ‘Traveling Through Cyberspace: Tourism and Photography in Virtual Worlds’
12 The Sunday discussion – Duncan Harris, screenshot artist and owner of DeadEndThrills.com https://www. nexusmods.com/ skyrim/news/12975/
13 Most Beautiful Avatars By Rhizome https://rhizome. org/editorial/2006/ dec/01/13-mostbeautiful- avatars/
14 Marco de Mutiis (2016), Augmented Photography – Photo Modes http://augmentedphotography. ch/ documents/photomodes
15 港千尋(2001)、 デジタル・イメージとは何か 第三の目 72 – 73 廣済堂出版
16 前掲、95
17 前掲、79
18 Making Art From Video Game Landscapes https://www.buzzfeed news.com/article/ tommywilhelm/makingart- from-video-gamelandscapes
19 前掲、48(邦訳90-91)
※この記事は『エクリヲ vol.11』に掲載された記事を再掲載したものです。 エクリヲ vol.11 【特集 I 聴覚と視覚の実験制作——ミュージック×ヴィデオ】 《Interview》 山田健人 音楽と映像の蜜月——MVが表現しうるもの 《Critique》 ミュージックヴィデオには何が表現されているのか——レンズ・オブジェクト・霊 荒川 徹 《Appendix》 ミュージックヴィデオ史 1920-2010s——聴覚と視覚をめぐる試み歴史 MVエフェクティヴ 《Critique》 アニメーテッドMV、第三の黄金時代——マイケル・パターソン『a-ha "Take On Me"』からAC部『Powder “New Tribe”』:松 房子 映画音響理論はどこまでミュージック・ヴィデオを語れるか――宇多田ヒカル『Goodbye Happiness』を例に:長門 洋平 誰のためのパフォーマンスなのか?——ミュージックヴィデオの現在:小林 雅明 なる身体になる―メシュガーMV論―:吉田 雅史 【特集 II インディーゲームと動詞】 《Interview》 『ALTER EGO』大野真樹 『Baba Is You』Arvi Teikari 『KIDS』Mario von Rickenbach & Michael Frei 『The Stanley Parable』/『The Beginner's Guide』Davey Wreden 『The Tearoom』Robert Yang 《Appendix》 インディーゲーム 動詞リスト 《Critique》 ルーカス・ホープと「楽しむ」ことの終わりに:横山 祐 動詞とパターン――ゲームとシミュレーションの関係をめぐって:松永 伸司 《Special Text》 ヴァーチャルなカメラとそれが写すもの:谷口 暁彦 《Critique book Review》 『vanitas』No.006 石橋英敬×東浩紀『新記号論』 バックナンバー 編集長後記