カメラに映ってはいけない男――濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』論


I wanna be famous, A star of the screen, But you can do something in between
(私は有名になって、映画スターになりたい。それで、あなたには他にできることがある
)*1

John Lennon &Paul MacCartney ”DRIVE MY CAR”

「泡と消えた人生! ぼくだって才能もあれば、頭もある、度胸だってあるんだ……、まともに人生を送っていれば、ショーペンハウエルにだってドストエフスキーにだってなれたんだ」*2

アントン・チェーホフ「ワーニャ叔父さん」

 濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』(2021)の中盤に「じゃがいも」という印象的なモチーフが登場する。
 広島の芸術祭に招かれた舞台演出家・家福悠介が、地元に暮らす韓国人で彼のドラマトゥルク、コン・ユンスの自宅を訪れると、素性を隠して家福演出の舞台に出演が決まった女優で彼の妻でもあるイ・ユナが手料理を準備して待っている。食卓を囲みながら、自宅の庭で育てたという調理されたじゃがいものひと塊をユナは、自分と夫の顔の間に掲げて韓国手話で何かを伝え添えるのだが、そこで唯一その意を解する夫だけが苦笑し「似ていると言っています。ひどい」と照れ臭そうに家福と渡利に通訳する。一瞬混乱して、つまりじゃがいもとの滑稽な相似を指摘されているのがユナ自身の顔なのか、ユンスの顔なのか、それともひょっとして家福の顔なのか、わからなくなる。ただその穀物が実のところ誰に似ているのかはいざしらず、なぜこんなシーンが必要なのかは即座に了解できる。はっきりと語られずとも家福がじゃがいもを媒介に、目の前の子どもを失ったばかりの韓国人夫婦に亡くなった妻や娘との暮らしを重ねていることはほとんど疑いようがない。
 家福悠介――この芸術家としてキャリアを築きつつある中年の舞台演出家は、幼い娘を肺炎で、元女優で脚本家の聡明な妻をくも膜下出血で失い、その名前とは裏腹に家庭の不幸に見舞われ続ける。招かれた芸術祭で、じゃがいもを手に持つ韓国人夫婦に生前の妻との生活を連想し、若いドライバーに亡き娘が成人した姿の影を見つけ、妻と交流のあった若い俳優に妻の記憶の共有を期待し、仕事場であるはずの場所で失った家庭の幻想ばかりを見まいとしつつも見てしまう。どうやら彼は満たされない、彼は他人になりたい、誰かの人生を生きたいとばかり望んでいるようなのだ。しかし、彼が最もなりたい他人はきっとこの世のどこにも実在しない。

「自分の内面が引きずり出される」と言って、家福はチェーホフのテクストを恐れる。つまり、彼の内面にはチェーホフが描くような人物たちが巣食うということだろうか。しかし、そうであるとするならば、戯曲『ワーニャ叔父さん』のワーニャが実生活の家福と似ても似つかぬ人物であることは見逃せない。都会で学者として活動した亡き妹の夫セレブリャコフに憧れ、姪ソーニャと二人田舎で働き、彼への仕送りに明け暮れて生涯を終えようとする寂しい男。結局大成もせず、若く美しい妻を連れて田舎に隠遁したセレブリャコフに八つ当たりするワーニャの嫉妬や後悔や呪詛ばかりが戯曲には綴られている。彼は「本当の人生」を生きることができなかった。どうして家福の中にワーニャのような男がいるだろう。

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 この問題は高槻――本人は別の役を希望していたにもかかわらず、家福がワーニャの役を与えた俳優――の存在によって一層込み入ってくる。岡田将生演じる端正な顔をしたこの若い俳優は、未成年との不適切な関係がスキャンダルとなりキャリアの危機にある。家福はいったい何を高槻に期待しているのだろう。
「相手のことを知る方法はセックスだけじゃない」。自ら犯したミスでキャリアを棒に振った若い俳優に、演出家は年長者らしく諭すようなセリフを吐くのだが、このセリフはのちにそれを発した家福自身にブーメランとして返ってくる。
娘を失ってからというもの、茫然自失の数年間を送った家福の妻、音はある日のセックスの直後にトランス状態で物語を紡ぎ始めた。正気に戻ると本人は忘れてしまうその物語を家福は記憶して妻に語りきかせ、それを書き起こして彼女は脚本家になった。本作の序盤で展開されるこの夫婦の関係がそのまま、「セックスをしなければ知ることができない精神のある部分」について家福がよく知っていることを示唆していることは明白だ。それなのに高槻とのやりとりで彼は、まるでそんなことはすっかりと忘れているかのように振る舞う。さらに、稽古の終盤で、高槻と亡き妻の記憶を共有するようになった家福は、配偶者であった自分さえ知らなかった音の物語の続きを、高槻から聞かされる。こうしてはっきりと、自制のきかない高槻の剣呑さは家福には踏み越えることのできないなにかの向こう側を示唆するのだ。
 「君は自分のことをうまくコントロールできない。社会人としては失格だが、役者としては必ずしもそうではない」。もう一つ、別のセリフを見てみよう。これもまた演出家が俳優にかける助言のように家福が高槻に言い渡す言葉であるものの、それはなぜ家福が自分が演じることのできなかった「ワーニャ」という役を高槻に預けたのか、彼の諦観を告白するセリフのようにも聞こえる。家福のように「自分のことをうまくコントロール」する役者にはその役が務まらない、のかもしれない。
 オーディションで高槻がアーストロフを演じた印象的なシーンを想起しよう。自らの感情を研ぎ澄まして本来通じないはずの言葉で濃密な感情のやり取りを試みる獣のような二人の役者。その場に居合わせたものたちに見てはいけないものを見てしまったかのような緊張が立ち込める。レッスンルームの鏡越しに映るこの演じる男女に気圧されて家福の顔は興奮と戸惑いでみるみるひきつる。がたん、とディレクターズチェアが倒れる間抜けな音ともに彼は立ち上がり、演技を止めようと声をかける。かつて自分には演じきれなかった危ないワーニャが、この男には演じられると、羨望まじりの確信がきっと家福に降りてきたにちがいない。

 舞踏の稽古に励む高校生は殺人衝動を養ってしまい(『不気味なものの肌に触れる』)、記録映画を見た女はテロリズムに目覚める(『スパイの妻』(黒沢清監督、2020。濱口は脚本に参加)。濱口竜介の映画にとって映画、演劇、ワークショップといった劇中劇をなすフィクションの装置は常に、劇中の現実を脅かす危険物であった。さらにひねりが加わり、チェーホフのセリフを口にした男女の結婚と、震災の混乱の最中に、別れを決意した男女の再会を同時に描いた前作『寝ても覚めても』(2018)は、その「人生を変える虚構」が、この生活を変える災厄のアナロジーとして提示された。たとえば『寝ても覚めても』が震災を契機としたフィクションであったとすれば、『ドライブ・マイ・カー』は感染症からの「隔離」を契機としたフィクションだとみなすことはできないだろうか。
 本来、韓国でのロケを予定されていた『ドライブ・マイ・カー』はCOVID-19の感染拡大で海外での撮影が困難になり、急遽舞台を広島に変更した経緯がある。こうした事情は単なる制作上の裏事情というだけでなく、本編の最後に渡利がユンスの飼い犬を連れて家福の愛車に乗り、韓国らしき場所で一人買い物に出かける意味深なシークエンスとして残っている。あの場面はいったいなんだったのか。鑑賞者の多くに疑問を提示するであろう、この本編の一端は、ありえたかもしれないもう一つの『ドライブ・マイ・カー』を示唆しさえする。

 本作を「隔離」映画と呼びうる所以は、安全上の策と呼ぶべきものために本作にありえたかもしれない別の可能性を示唆する三つの「場所の変更」が刻印されているからだ。濱口同様、家福もまた天災によって予定の変更を強いられる。ウラジオストークの演劇祭に呼ばれた家福は寒波で航空便がキャンセルになった日のエピソードを二つ目の例として挙げよう。急な予定変更で自宅に直帰した彼は妻の浮気現場を目撃し、目撃が彼女にばれないようにロシアへ渡ったふりをして成田空港に宿泊する。寒波がなければ家福が妻の浮気を目撃しなかったのではないか、家福が飛行機に乗って妻よりも先に彼が命を落とした可能性はないか、彼が成田空港に宿泊せず妻に浮気を問い詰めた可能性さえあったかもしれない。このシークエンスもまたありえたかもしれないいくつかのストーリーライン分岐を示唆する。
 最後は原作にまつわるものだ。村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』には当初、「小さく短く息をつき、火のついた煙草をそのまま窓の外に弾いて捨てた。たぶん中頓別ではみんなが普通にやっていることなのだろう。」*3という表現が存在したのだが、文芸誌の掲載時にこれが地元町議の抗議を受け、単行本出版時に「中頓別」を「十二滝町」という村上の『羊をめぐる冒険』に登場する架空の地名に変更した*4。原作では名前しか登場しないこの場所が、映画『ドライブ・マイ・カー』で家福が舞台への出演を決意するため、渡利との旅の目的地として実際に描かれることは注目すべきだろう。
 一見して例えばこれらすべてを、創作を行う上での安全上の措置だと呼ぶことは容易い。災禍を逃れるために濱口は撮影地の変更を強いられ、寒波を避けるために家福はウラジオストク行きを延期した。そして濱口=家福は、最も安全な場所、そこで何が起き、何が行われても誰も傷つけることのない場所、小説の中にしか存在しない架空の土地を訪れる。しかし、本当にそうだろうか。映画には現実に起きるような劇的な事件や、災厄というものは描くことができず、濱口はその「事件」の描けなさ、目に見えないものをただ「見えない」というふうにしか描けない作家なのだろうか。ここでは決してそうではないとだけあらかじめ述べておこう。
 濱口=家福と書いてしまったが、「=」は家福が監督のアルターエゴであるなどという安易な断定では決してないことはことわっておこう。二人の符号は、彼らが同じ方法論を用いる者であることを前提にしている。つまり、二人ともが「ニュアンスを抜いた本読み」を徹底して俳優に行わせる演出家であることに。そうであるとすれば、私たちの仕事や生活を中断してしまう災厄の傍で、濱口=家福はほかでもないこの手法によって一体なにを試みていたのだろうか。
「君は自分のことをうまくコントロールできない。社会人としては失格だが、役者としては必ずしもそうではない」。それを探るためには、再びこのセリフがヒントになる。家福はなにを高槻に見出し、なにを俳優の仕事に期待していたのだろう。どうして本来危険であるはずの「自分のことをコントロールできない」が役者にとって良いことなのだろう。

3

 韓国でのロケーション、ウラジオストークの寒波、中頓別という実際の地名。これらは確かに『ドライブ・マイ・カー』によって描き損ねられた三つの劇的であったはずの危機だった。しかし本作がとった態度は、「真に劇的なことは描くことも撮ることもできない」というのとはいささか異なる。むしろこの作品は「撮ることが不可能なもの」に大変自覚的であり、独自の仕方でその撮り損ねた決定的な出来事に肉薄する別のなにかをとらえようとしてきた。では、濱口は『ドライブ・マイ・カー』に置いてなにを撮り損ね、代わりになにに狙いを定めてきたのか。
 「撮り損ねる」ことにこだわるならば、高槻がカメラを異常に憎む男であったことは想起せねばならない。スキャンダルによってキャリアの危機にある高槻は、カメラのシャッター音に異様なほど敏感だ。家福と食事に出かけるたびに何者かが自分を撮影しているのではないかという疑いに過敏に反応し、居合わせた他の客の携帯電話を取り上げようとするところを一度は家福に止められる。二度目にこれとよく似た撮影者と居合わせた時、彼は撮影者を追いかけて画面の外に消え去り、再びまた映画のカメラの前に戻ってくる。その間に彼は一体何をしていたのか、次のシークエンスで傷害致死の疑いで逮捕される時、それは明らかになる。こうして、「自分をコントロールできない」高槻は最終的には殺人者となってしまう。そして巧妙に映画はそのシーンを撮り損ねる。
 村上の原作から拝借された「シェエラザード」のエピソードにも「撮り損ね」は存在する。意中の同級生の部屋に忍び込む少女は、その部屋でもう一人の空き巣と出くわし、強姦されそうになって相手を刺殺し、遺体をその場に置き去りにする。しかし翌日には何事もなかったかのようにそれまでと同じ日常が繰り返され、ただその家に監視カメラが新しく設置されたことを少女だけが知っていると言い添えて話は終わる。監視カメラは少女や空き巣たちの侵入を撮り損ね、家福は妻からこの話を聴き損ねた。そしてこの話を聞くことができた高槻にとって、突発する殺人事件は予言めいた役割を果たし、彼はカメラに映らない殺人者となった。
 音は亡くなり、高槻は逮捕された。いつも決定的な出来事に遅れる男、家福に今なにができるだろう。話の中の少女のように何事もなかったかのように日常を過ごすことだろうか。それとも、激しくそれになにかのかたちで抵抗することだろうか。あるいは濱口=家福の目論見を、そのような抵抗の試みとして見ることはできないだろうか。二人に共通する演出方法を詳しく見てみよう。

 ワーニャ役の高槻とエレーナ役のジャニスが立ち稽古をするシークエンスで、家福が二人の演技を「terrible(ひどい)」と酷評するシーンがある。ジャニスはお互いが相手のセリフを自分の演技のキューにしていて、「私たちオーディションのときはもっとうまくできた」と家福の評価への同意を示すのだが、ここに本作の奇妙な構造がある。本読みを延々と繰り返す稽古のシーンが、この映画の中で最も劇的ではない退屈な演技の時間として描かれるのだ。

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 それに対して、濱口の演出メソッドである「本読み」を終えた役者たちの「本番」である本作の日常パートは、この稽古シーンとは打って変わって劇的な役者たちのやりとりが描かれる。つまりそこには、劇中劇こそが最も劇的ではなく、劇中の日常パートこそ真に見応えのある演技が展開される入れ子構造が成立する。高槻が音の物語を家福に伝えるのも、彼がカメラへの異常な嫌悪を示すのも、殺人を犯すのもこの日常の時間なのだ。
 そのひどい(terrible)演技を「日常のように」劇的な瞬間にしていくために彼らは稽古を重ねてきた。果たして最後に、その試みは成功したのだろうか。また成功したとして、どうやってそんなことが確かめられるだろう。例えばその証明のためにこのように問いかけることはできないか。家福は結局、ワーニャになることができたのだろうか、と。

 ワーニャとは誰だったのか。それは先にも述べた通り、「本当の人生」を生きることができなかった男なのだ。『ドライブ・マイ・カー』における家福の辿った筋書きをワーニャに重ねて見てみよう。『ワーニャ伯父さん』で、ワーニャはセレブリャコフの殺人に失敗し、アーストロフにモルヒネを取り上げられて、自殺に失敗する。土地を売り払おうとするセレブリャコフの提案を拒絶することに成功するも、その代償であるかのように寂しくこの場所にソーニャと取り残されるようにして、劇は幕を閉じる。

「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も年を取ってからも働きましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。」*5

 ソーニャの長いセリフによって、ワーニャはこの暮らしから、決して退場できないまま劇の終わりを迎える。それはまさしく、音に先立たれ、高槻に去られ、いつも取り残されてきた人物としての家福の姿に重なる。劇的な危機にいつも遅れる男は、いつまで経っても「退場」できない男だった。そして、その運命を受け入れるとき彼はやっとワーニャという役を演じることができるようになる。こうして彼は成功した芸術家という殻を捨てて、「本当の人生」を奪われたと嘆き続ける孤独な男の役を受け入れる。

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 例えば、このことは劇中に二度、別の形で登場するワーニャを演じる家福の姿の差異としても見ることができる。音を失った直後の舞台で彼はセリフもおぼつかなく、逃げるように舞台上からはけていく。一方、映画の終盤で再びワーニャを演じる家福は板付のまま先のセリフを聴きながら終幕を迎えることができる。
 最後の韓国でのシークエンスの役割とはなんだろう。まるでもう役目を果たし終えたかのように、「ワーニャ」を演じた後の家福は映画に登場しない。この不在はなにを意味するだろう。そこで、このように考えることはできないだろうか。ここまで、果たして家福はワーニャになることができるのか、という力学がドラマを駆動してきたとすれば、ワーニャになった家福にはなにが待ち受けているだろうか、と。もはや演出家(濱口=家福)という役割を逃れて、俳優(ワーニャ=家福)となった彼にもたらされるのは、ワーニャとしての救いなのではないだろうか。つまり、それはワーニャが『ワーニャ伯父さん』において何度も失敗してきたこの人生からの退場ではないのか。
 現実の災禍さえなければ、本当の『ドライブ・マイ・カー』が撮られたかもしれない韓国での風景。そこに家福がいないことは、音が語り、高槻がカメラの侵入を拒んだ「劇的な危機」の側に彼がもう去ってしまったことを示唆しさえする。観客にとってそれは主人公の身を案じるべき事態かもしれないが、それは映画がワーニャ=家福に与えた救いでもあるだろう。家福の車を運転し、その不在を強調する彼の運転手渡利こそ家福にとってのソーニャに違いないのだ。

〈註〉
1 執筆者訳
2 アントン・チェーホフ, ワーニャ伯父さん, ワーニャ伯父さん/三人姉妹(光文社古典新訳文庫),浦雅春訳,光文社,2009
3 村上春樹,ドライブ・マイ・カー,文藝春秋2013年12月号
4 村上春樹,女のいない男たち 序文,文藝春秋,2014
5 チェーホフ, op..ct.