大塚英志は“作家神話”の夢を見るか?


2014.3.11

 いささか個人的な体験から話をはじめたい。 私が初めて大塚英志の姿を目にしたのは二○十四年三月、東京大学本郷キャンパスにて行われた角川文化振興財団による東大情報学環への寄付講座開設のキックオフイベントだった。「メディアミックスの歴史と未来」と銘打たれたそのシンポジウムには情報学環から吉見俊哉、角川歴彦に加えてなぜか講演を用意されていた川上量生(当時はまだKADOKAWAとドワンゴの経営統合は発表されていなかった)、そして大塚英志の姿があった。

 大塚英志の登壇は第一部「東アジア・アニメーションの『起源』」に予定をされていた。このパートでは中国・日本・韓国それぞれの研究者が二十世紀前半(この三カ国にとっては「戦中」である)において、まだ黎明期とよぶにふさわしいディズニーからの影響をいかに咀嚼して各国がそれぞれのアニメーションの歴史を築いてきたか、その道筋を丹念に追っていた。大塚英志は自身で発表をすることなく、第一部の総括として最後に演台に立った。

 もし仮にあなたが大塚英志の著述を読んだことがあるのなら、彼が皮肉屋であることはよく分かるはずだ。その日、大塚英志は実際に冷笑的ともいった方がよい態度をとった。あくまで伏し目がちに繊細な気質であるような話し方をしたのは意外だったけれど、しかしその発言の内容は彼の著述にふさわしく辛辣なものだった。 「このセッションを聴いて、手塚治虫がディズニーをパクっただのパクられただのという感想を抱くこと自体がナンセンスだ」  大塚英志は口を開いて早々に言い放った。続けて作品の「元ネタ」を探し出すような態度、影響関係を露呈させた上で先に存在したものを上位に置くような態度を大塚は厳しく批判した。それは決して日本のアニメの優越性を弁護するものではなく、むしろ自明的にディズニーによってその表現を規定されていたことを認めるものだった。

  この「起源」「オリジナリティ」への徹底的な無効化という戦略は、批評家としての大塚英志を特徴づける大きな要素の一つである。  あなたは「大塚英志」と聞いたとき、どんなイメージを想像するだろうか。評論をいくつか読んだ経験のある人ならば八十年代の流行から社会を論じた「物語消費」という語を印象的に思い起こすかもしれない。あるいは熱心な漫画読者ならば『多重人格探偵サイコ』等の原作者としてその名を記憶しているかもしれない。ある人にとっては岡崎京子を「発見」した編集者であるかもしれない。 本文では批評家としての大塚英志を、なかでも昨年から星海社によって新書化された“創作指南”ともいうべき一連の著述を対象に論を進めたい。

大塚英志の戦略

 大塚英志の著作は大別して「戦後民主主義擁護」としての社会評論と、「オリジナリティ神話批判」としての物語評論の二つに分類することができる(ときにこの二つは同時に重なり合うことがある)。

 後者の物語評論の根幹をなすのが今回取り扱うことになる“創作指南”シリーズと目される『物語の体操』『キャラクター小説の作り方』『ストーリーメーカー』『キャラクターメーカー』である。この四冊のなかに記述されているたった一節が、これら著述にみられる機能的な側面を無効化してしまう程の「動機」を感じさせる点を本文では指摘をしたい。

 まず、先述したように「オリジナリティ」への徹底的な無効化という戦略が大塚英志の物語評論の大きな特徴である。大塚は主に、自身の民俗学の素養に加えて二十世紀前半のロシア形態学、その影響下にある構造主義の理論を援用して物語を機能主義的に分解する手法を採用する。それはキャラクターの設定・造形に始まり、ストーリーの構成にまで至るがその手つき自体は決して大塚英志特有のものではない。前者では大塚は手塚治虫の記した漫画創作指南ともいうべき『手塚治虫のマンガ大学』をよく例にとるが、その手塚自身がロシア形態学やそれを映画で実践したエイゼンシュテインらによる理論を背景に持つことはよく知られている。また後者のストーリーの構成に関しては、主に「ナラトロジー」と呼ばれる構造主義のコンセプトを背景に持つ物語論(もしくはそれを先取していた柳田・折口)を日本のサブカルチャーに当てはめたものが多い。大塚はそのような機能主義的な分解を施すことで、作品を一つ一つの構成要素に切断していく。

“作者”という幻

  特筆すべきは、大塚英志はその構成要素の組み合わせだけで新たな作品ができてしまうことを自身の創作経験を露悪的に提示しながら語る点だ。ここに実作者でもある大塚の「批評」がその機能性と裏腹に抱え込んでしまう、他の「批評」や「研究」が持ち得ない物語性の起源がある。この点に関しては後述する。 ここではまず大塚英志が戦略的に採用をする、近代以後に理念化したとされる「オリジナリティ」の否定という態度を確認する。印象的な記述を二つほど引用したい。

「確かに小説を書くということは何かその人の内側にある特別なものの所在を説明するかのような行為にも似ていて、(中略)そういった思考の背景には、複製の時代である近代が産み出した逆説としてのオリジナルへの憧憬があるようにさえ思います。複製されるものの前提はオーラに満ちたオリジナルがまず存在しており、そのオリジナルなものを産み出す能力が「複製していく社会」に於いては特権的な力を持ちます」  

 大塚英志はこの他にも複数の著述において、作品(主に私小説)が表現しているとされる人間の「内面」の存在を否定することを繰り返し行っている。「内面」の否定から作品の唯一無二性への懐疑、「オリジナリティ」という概念そのものを突き崩していく手つきは大塚英志の批評に通低して見て取ることができる。  この記述で大塚は明らかにベンヤミンの議論を参照していると思われる。しかし、繰り返しになるが実作者でもある大塚がこのような主張を行うことに大きな意味がある。

 大塚は自身が漫画原作を手掛けた『魍魎戦記MADARA』が手塚治虫『どろろ』の設定をいかにサンプリングしているか、また『多重人格探偵サイコ』でのヒッチコック始め多くのサスペンスの先達を模倣しているかを赤裸々に告白しながら、こう書き付けている。

「けれどもそもそも「盗用」や「盗作」は何故、後ろめたいのでしょう。そこにはやはり近代の創作行為を呪縛する「オリジナル」の神話が影を落としている気がしてなりません。それは創作とは無から有を作り出す行為であり、その能力は選ばれし作者に特権的なものである、という神話です」

 大塚英志は自身の創作体験からこの「オリジナル」や「作者」の神話がいかに虚構であるかを論じているのである。それは自身の表現もまた先行作品の「借用」でしかないという冷笑的な態度にも思える。しかし大塚は次の引用にも明らかなように、全てが「作家」の個性という説明に収斂しがちな作品受容が依然として存在感がある現状において、表現行為が持つ可能性と限界とに真摯に向き合っているともいえるのではないか。  

「新しい世代は前の世代の創り出したものを「引用」や「借用」や「盗用」して、少しだけ新しいものに作り替えて次の世代の作り手に引き継ぐ。(中略)大前提としてぼくたちの創作行為は世代間の「借用」や「盗用」の連鎖なのだという、著作権法や知的所有権のタテマエとは別の曖昧な領域の所在を許容しないと新しい才能は出て来にくくなるのも確かなのです」

 そして、その真摯さゆえに「大塚英志」が抱えることになる最大の屈折は自身のその批評が「作家」という神話を解体していく過程で必然的に自身の「作家」」性と対峙せざるをえないということである。

批評家の実作が抱えるジレンマ

 思えばあまりに多くの批評家が自ら「物語」を語り継いできた。小林秀雄が、ジャン=リュック・ゴダールが、蓮實重彦が、ウンベルト・エーコが、東浩紀が、ディビッド・ロッジが、佐々木中が、ジョン・バースが、自ら「物語」を語ることを選んだ。彼らが実作を行ったのは各々の理由や動機があるだろう。ただ一つだけ明らかなのは、実作を行った全ての批評家は手掛けた作品と自身の批評観との対峙を避けて通ることはできないということだ。  

 大塚英志もまた批評活動と並行をして膨大な量の漫画原作を手掛けてきた。そして批評家としての大塚が提示する批評観の冷徹さと実作との対峙こそがその両極性において、あらゆる批評家が手掛けたいかなる実作との対峙よりもスリリングであるということはできないだろうか。そこにはある種の「物語」のように批評を展開してきた小林秀雄や間章が実作を手掛けたところで生まれようのない緊張が張り詰めている。 次に引用するのは大塚英志の批評のなかでその基調にある『作家』神話批判と、自身の創作とを絡めて論じている数少ない箇所である。

「中世の語り部も近世の歌舞伎も、手塚治虫のまんがもギャルゲーも、それは確かにパターンの組み合わせの中に「オリジナリティ」を発生させています。しかし同時に、パターンやデータベースに決して還元し得ない個性やオリジナリティというものが、まんがにも小説にもアニメにもゲームにも全ての表現にやはりあるはずです。  それをなんと呼ぶべきものなのか。どうやったらそれが身につくのか。それを身につけていないぼくには語りようがありません。  それは、例えば手塚治虫にあって、ぼくにはないもの、としか言い様はありません。パターンの組み合わせによって商品たりうる程度のオリジナリティは成立し得ますから、商業的な作者には充分なれるでしょう。けれどもその先に、パターンの組み合わせ、データベースからのサンプリングでは決して至り得ない領域が常にあってほしい、とぼくは思っています。そのような作品への尊敬の念は決して忘れないで下さい」

 ここで大塚は「手塚治虫にあって、ぼくにはないもの」という奇妙に捩れた表現で「オリジナリティ」神話を肯定しているかのように読める。しかし、「あってほしい」と最後に記している大塚の態度はどこまでも両義的だ。大塚英志の批評がスリリングな物語性を帯びるのはまさにこの両義性ゆえである。

 かつて十代半ばで漫画家としてデビューした大塚英志は、自らの批評のなかで「オリジナリティ」を徹底的に解体していく。「作家」神話を自ら崩壊させていく一方で大塚はかつての「作家」としての自身を漫画原作者として維持してきた。  大塚英志の批評が切実に読む者の胸に迫るものがあるとしたら、それは大塚が「作家」神話の批判の先に自身の「オリジナリティ」との対峙という普遍的な命題に向き合っているからだろう。

S.Y

※参考文献

大塚英志(2000=2013)『物語の体操――物語るための基礎体力を身につける6つの実践的レッスン』星海社

大塚英志(2008=2014)『キャラクターメーカー――6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』