インディーズ・ゲームの幸福な「終焉」 PCゲーム”Everybody’s gone to the rapture”批評


 

 

 

 

 

 

 

 

本稿は、いまだ大手批評誌では姿を見ない、インディーズゲームの批評を執り行う。しかし、やはり多くの人にとって、ゲームは批評に至らないか、あるいは批評から離れた特殊な文化として扱われているかもしれない。そこで先にゲーム及びインディーズゲームの現状に少し触れるが、もちろん、以下の内容をある程度了承していると判断した方は、すぐにゲームの批評部に移っても構わない。なお、来るエクリヲ5について多くは未定ではあるが、何らかの形で(あるいは小企画として)ゲーム文化の批評が執り行われるはずである。本記事に興味を持ち閲覧されているような方にこそ、ぜひ御期待を請いたい。

 

 

 さて、先に我々が触れるのはあくまで「世界的な」ゲームの状況だが、日本でこそまだ微風なのが奇妙なほどで、欧米や日本以外のアジア諸国では、ポップカルチャーを代表する表層としてゲームの存在感は現在益々増しており、爛熟の域に達しつつある。例えば海外の様々な文化批評紙やサイトで、ゲームを通じた社会時評や文化研究も盛んに行われているし、社会学の側面でもしばしば現象として取り沙汰される。”Le monde”、”the gardian”、”The Times”のような世界的な新聞雑誌が、主要ゲームタイトルの販売の折になれば 記事を組むほどだ。そして日本では、プロゲーマーは職業としてしばしば失笑されているが、国際的にはスポーツとして権利の拡張の過渡期にあり、来る8月にはリオデジャネイロで「e-スポーツ」のオリンピックが開かれるほどである。

 そこにきて、インディーズゲームとは何か。その発生を説明するにはゲーム制作における経験曲線効果を引き合いに出すのが一番早いだろう。一昔前まではゲームは職人芸で、一般的な個人製作といえば「ブロック崩し」や「RPGツクール」程度の技術が精々だった。だがここ数年で一気に累積したゲーム制作のノウハウ及び熱気と、ゲーム世界の物理法則を司る「エンジン」の一般化によって、ゲーム制作のコストが格段に下がり、従来のようにスポンサーを立てて大規模なプロジェクトを立てる必要がなくなり、個人や小規模の独立起業でも小回りを効かせて作品を販売することが出来るようになった。(もちろん”Kickstarter”のようなスタートアップを促進する文化のアシストもあってのことだが。)

エンジンと個人製作の関係は、スマホの一般化とスマホゲームの普及の関係に比すれば容易に理解できるだろう。エンジンはしかも、大金を払う必要もなく、無料で使用することもできる。例えば大手エンジンのUnreal engineは基本無料化(使用した作品の収益の一部を還元)することで大部のシェアを獲得している。これを使用すれば、一般でも商業用とほぼ遜色ない「リアル」な世界が手に入る。リアルとはつまり、雨が降ったら水滴が舞い、カメラには露滴し、非透過性の物体の表面は水の皮膜を帯び、その水自体に雨の流れが反映される。中でも地面の大きな水たまりはある程度反射し、そこには反射した蓄光性のものが映り込む、というような世界の自然法則上の連鎖を意味している。試みに、最新ゲームのこのような物理表現を観察すると、ディティール=情報量の省略を行いながら、巧みにイリュージョンでもってリアルな世界へ接近していくのがわかる。

(最大手の一般エンジンUnreal Engine4のトレーラー。)

 なお、日本なら任天堂に比するようなメジャーゲーム会社は、巨額の資金を投じて専用のゲームエンジンを制作していることも多い。だが以上のような状況を苗床に、PCゲーム市場では、据え置きゲーム機(PS4.WiiU.Xboxなど)で販売されるメジャーソフトとは全く別の生態系が育ちつつある。つまり、趣味やささやかな収益目的で作っただろう多くの作品から、作家性や批評性を持った少人数の制作集団のゲームも潜んでいるということだ。そしてその中に、周到な意図でもってゲーム性をメタクリティックした作品もある。メジャーゲームの中の限定的な特徴にスポットを当て拡張することで、固有の作品性を確立させたものや、低価格でもメジャーゲームと遜色ない完成度を目指したものもある。一人で延々とやり込むためのシミュレーションゲームや、何か他愛無い材料で制作し、それを自慢したり競わせたりするゲーム、あるいは小規模でも他のプレイヤーとオンラインでプレイできるゲームや、ゲームを題材に社会や哲学についてあるシビアな問題への批評を含有した作品など、探せば探すほどに、従来では出てこなかったようなユニークな作品が見つかる。

(おそらく最も悪名高く、ナラティブを皮肉ったメタゲームである、”The Stanley Parable”のトレーラー)

 確かにこれらは「一発ネタ」が多く大規模なメジャータイトルのようなトータルな満足感は用意できないだろう。だがだからこそ、それらの中のいくつかのなかに、少しでも鮮烈な経験を残したいという意欲は尽きることがない。そしてこれらにはアクセスの難度を差し置いても批評すべき作品がいくつも存在する。そして例えプレイしない人々にとっても、それらについて語られる価値は一向に尽きない。そして今はyoutubeなど動画サイトで、ゲームのウォークスルー(プレイ動画)という便利なものもある。批評すべき作品がいくつも存在するということだ。

 しかしインディーズゲームについての言及および言説は、単純な販売促進以上の意味をマイナーゲーム文化に与え返すと考えている。インディーズゲームの製作者はシビアでクリティカルな作品を作っても発見されず、また正しく理解されていないのではないか、という恐怖と戦い続けている。彼らには広告に割く費用やネームバリューがない。多くの同価格帯の中からこれだ、と人に思わせなければ人は購入を控えてしまうだろう。このような状態では、メジャータイトルまでしかアクセスできず、どこか物足りなさを感じるような人々の手にも作品が届く可能性が失われてしまうかもしれない。その意味では誰かがキュレーターとなる必要があるが、しかしそのような作品を魅力的に紹介するために、やはり批評は有効である。

(この老婆を歩かせるだけの短く思索的なゲームを制作したスイスの”tale of Tales”は先日ゲーム業界からの撤退を宣言した。)

 さて、今回紹介する”Everybody’s gone to the rapture”は、大手PCゲーム販売サイトsteamだけでなく、PS4のダウンロードコンテンツとして発売されているので、上記のPCゲームよりはアクセスしやすいだろうと思われる。しかしマイナーゲームの豊潤な地脈を語るにはこれ以上ない俊峰だと思われたので、以下の紙面でこの作品を批評したい。

 

 

 

 ゲームを制作した”The chinese Room”は2009年の処女作であるインディーズゲーム”Dear Esther”で異例の大ヒットを記録し、発売後すぐに開発費を回収したが、”Dear Esther”も本作”Everybody’s gone to the rapture”も、基本的なゲームのコンセプトは変わっていない。ゲームのための大掛かりな仕掛けは全くなく、操作に使うのはクリックと移動ボタン、そして視点移動だけで、最もシンプルなゲーム経験だと言える。ドアを開ける、ラジオをつけるなどの操作は可能だが、基本的に(多くの一人称視点ゲームのように)ゲーム内のアバターがその世界に存在して干渉するわけではなく、ちょうどゲーム世界を我々自身の「視点」が探訪するような形でプレイしていく。

 

 

 

 

 

 

 舞台はイギリスのハンプシャーの片田舎。非常に狭いコミュニティで町というか村というべきかもしれない。ほとんど全員が互いの顔を知っているような町だ。荒々しい自然と多色の美しい花々の野生が一つの家屋の上で印象的な斜光のもとに融合している。ゲーム内の幾つかの画像を見れば誰の心にも不思議な感動と郷愁の感を呼びこむことは間違いない。本作のグラフィックの美しさ、及びロケーションの選び方、また細かい演出の美しさは抜きん出ているし、この映像世界を自由に練り歩くこと自体に既に相応の価値を感じる人は多いだろう。

 

 

 

 

 

 大まかな物語の設定だが、全世界的に喀血などの症状からの怪死が多発し、一気に世の終わりを迎えつつ在る中、田舎の村とそこに住む人々も、誰に認められることもなく静かな終焉を迎えていく。しかしその中で科学者である女性が、電波を通してその症状が進行することを突き止め、ラジオ塔に篭って謎の存在との交信を試みる。彼女の夫は事件の以前より、他の女性と関係を持っていたと疑われた角で不仲だったが、事件が起きてからは、町を守るために奔走する。そしてそれに呼応するように、二人に関わる人々の様々な愛憎模様や思惑もまた徐々に明らかになっていく。

 

 

 

 しかし全ては眼前で起こるのではなく、過去の出来事である。プレイヤーは、すでに何もかもが過ぎ去った町のなかに転々と残された光をたどることで光で象られた思い出を再生していく。光に触れると、その場を中心とした人物の状況が再生され、線で象られた人々の姿の会話劇が始まる。そうして光を追って町の場所を転々としていくと、主要な人物が移動する様を追尾するように再生することもあり、主部の物語が編まれていくこともある。しかしこの光は場所の記憶のようなものを再生しているようなので、事件と事件の連関は直接には存在しない。その意味では、事件を追うとは言っても、主人公以外の別の人々のやり取りや、消失のかなり前の事件を再生することもある。つまり、もろもろの情報の断片を手に入れることがあっても、事件の全容を知ることは出来ず、また最終的な解釈は常に視聴者に委ねられているのだ。この時系列は光と会話によっては直接に示されることがないため、多少の混乱を引き起こすこともままあるかもしれない。

 

 

 

 

さて、このゲームの最も大きな特徴は走れないことにある。最初、思ったよりも不自由に感じないこの現象は、途中折々忘却することはあっても、最後の方まで一定の負荷をプレイヤーに強いることになる。「走れない=早く移動できない」という経験に焦れてしまう自分を発見することも吝かではないだろう。しかしこれは、ある種のメジャーゲームのパロディでもあるのだ。というのも、ゲームでは基本的に歩くということは走ることよりはるかに意図的で不自然な所作であり、敢えて走ることから歩くことを選択することには、むしろ一定のドラマへの遷移がある。

 

 

 つまり、現実の常識では歩くことが自然だが、ゲームの常識では走るほうが自然な動きである。なぜならゲームには常に目的があり、魔王を倒してもお使いやレベル上げという目的が用意されており、そこに至るには走った方が当然都合が良い。だがその中でさえ「ここは走れるけどゆっくり行きたいし、歩いた方が雰囲気が出るだろうな」というドラマへのロールプレイとして、歩くことがしばしば機能する。例えば、新しい世界に訪れた時の最初の感動的な数歩ぐらいは、どうせ最後は駆け出すにしても歩きたいと人は感じる。この関係はいわば目的のために移動する=走るに対して、移動することが目的である=歩くの常の対立でもある。このかけ出すまでの最初の、そして最も豊かな数歩を、ゲームの設定で拡張するために、このゲームにおける「走れない」というシステムが成立するのだ。つまり、走れないことは、目的に対する遅延を意味している。

 

 

 走れず、目的地に移動できないとき、我々の視線は目的への精力を損ない、世界の捉え方からも、目的や意味が剥がれ落ちていく。そして残るのは、何の意味もなしに美しい、誰もいない世界のなかでの散歩だ。そしてその経験こそ、ポスト-アポカリプスとしてのゲーム世界の設定や、既に何もかも過ぎ去った世界の光をめぐるというゲームのナラティブ(主人公つまり我々)の目的とも相互に関わりあっている。確かにここにはもはや人の思いに応えるようなものは何もない、見方によってはひどく退屈な動きのない景色だ。

 

だが一方で、この世界は捉えようもなく自足していて、それを美しいとも感じる。というのも世界の美しさとは、もはや人間が一切かかわらないという形で、人間が評価を与えるような関係を超越した場所にあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 だが、やはりというべきか、”Everybody’s gone to the rapture”がSteamを通してPC版として発売された時、レビューは低評価で占められ、さほどの反響も起こらなかった。そこでは美しい景観へのささやかな賞賛の後、走れないこと、退屈なこと、話がわからないことなどを口々にやり玉に上げ、箱庭を歩くだけの粗雑なウォーキングシュミレーターだという意見もあった。しかしその指摘は皮肉なことに正鵠を射ている。なぜなら、全ての事件が過去に起きてしまったこと、そしてほかならぬ我々自身がとぎれとぎれの物語を収集し、我々の頭のなかで出来事を織り綴らなければならないという点で、この美しい過去の見捨てられた世界は、ゲームをする私に対して決定的に不親切である。全ては過去に起こったという点で、それはもはや何も反応を返してくれない世界でもある。

 

 

 

 

 

 

 とはいえ、多くの点で、このゲームがプレイヤーに対してウェールメイドではなかったという感じ方は正しい。なぜなら、(少なからず愉しんでいる身でこそ言うのだが)現在市場の大部分を占めているのは、眼に飛び込んでくるような凄惨な暴力や爆発のジェットコースター、ヒロイックなバトルアクションと終わらない「クエスト」の報酬、そして他のプレイヤーとの協力や敵対など、総じてインタラクティブ且つアトラクティブなゲーム経験、そして常に「最新のグラフィックと効果」を売りにしたもので、それこそがゲームをポップカルチャーとして押し上げたものだった。一方で内省的な、一人で物語を味わい感想を作るようなゲームは、ますます非商業的な(インディーズな)境地に立たされることになる。

 

(誰かにとってこの最も有名なFPS(一人称シューティング)”Call of Duty”の最新作に未だ期待があるのだろうか?商業的理由による映像頼みの低質なマイナーチェンジ、繰り返された陳腐な演出とプロット。)

 

 

 

 しかし、”The Chinese room”の前作、思索的なダイアログと隠喩に満ちた”Dear Esther”をプレイしたプレイヤー達は、その静かな余韻を誰かと共有するために、掲示板などでその世界観と結末について様々な感想や推察を寄せていた。例えば、プレイヤーが旅した小さな島は主人公の精神の中で、プレイングされている主観は実は主人公の意識であり、最後の飛翔は悩みからの開放だった。あるいは、過去に訪れた島に再び訪れた主人公は最後に自殺したが、精神は島を抜け、空に飛び上がったのだ、など。当然、”Everybody’s gone to the rapture”には十分それに匹敵する魅力がある。少しずつ非日常的な光が顕在化して世界を彩り、最後には人類をある上昇へ導くような結末であり、その後の確かな余韻こそ、やはり誰かに話したくなるものだ。

 

 

 

(”Dear Esther”の、洞窟を抜けた後に広がる絵画的な入江)

 

 

 

 とはいえ、それら喧々諤々の議論が終わったあと、やはり最後には完全に忘れられた世界があるのだろうか。確かにそこにおいて、ゲームはまさに訪れるもののない静謐な世界に変貌するかもしれない。しかしこのゲームは例え100年後であっても美しい世界のまま忘れられ続けるが、一方で常に思い出される可能性にも開かれている。映像技術をアップトゥデートされ続ければ、100年後でもささやかな数のプレイヤーの来訪を待ち続けるとは考えられないだろうか。その先では、もはや誰もこの作品が時代遅れだと揶揄することはなく、見つめたものの中でのみ、出来事が再生されるのだ。それは、この刷新が激しく、新しさのための競争の中で古びたものとして抹消されることから逃れる唯一の手段であり、常に忘れられつつある作品の美しさの、一つの幸福な終焉の形である。

 

 

付記 実はゲーム中特定の操作で走るという事実を確認はしたが、基本的に多くのプレイヤーが走らないという認識のもとにプレイを終えるのは変わりなく、サードもあくまで裏ワザとして用意したいようなので、やはり参考までに。)

横山 祐  twitter @karoshininja