「なぞる」の「謎」を「謎る」ーー山本浩生個展に寄せて


いわゆる画用紙大の紙から、壁一面、あるいは床一面を埋めつくすほど巨大な紙まで、大きさを異にする様々な紙には、どれも細かく皺が寄っている。一度くしゃくしゃに丸めて、再び元に戻した際にできた皺のようだ。そして、その皺の線に沿って、黒いペンで、ごく細かい線が「なぞられて」いる。果たしてこれは「絵画」と呼べるのか――そんな不粋な疑問は、もちろん後になって色々な考えが頭を渦巻く段になって出てきたものであり、まずはその圧倒的な迫力に言葉を失う。新宿眼科画廊で行われている、山本浩生の個展『なぞる謎る』は、その空間に立ち入った者に、のっけから文字通り大きな「謎」をぶつけてくる。この記事は、そんな「謎」に直面して少なからず戸惑い、心を動かされた私なりの一種の「応答」であるが、それがいかなる「解答」でもないことは、言うまでもないだろう。ここで中心的に扱う「なぞる」連作以外にも、山本は多様な作品を創っており、その全貌は、実際に会場へと赴くことでしか体感できない。しかし、そう述べ添えたうえで、やはり私は、山本の芸術的営為の「核」となる部分をここで描述してみたい欲望にかられる。重要な点から述べておけば、山本の作品群にあっては、「なぞる」とは一般にどういう行為であるか、といった凡庸な問いが、「なぞる」とはどういう行為でありうるか、という生産的な問いへと拡充させられているのであり、そこにこそ彼の芸術の「核」があると私は考える。さらに、この問いの転換は、鍵括弧の中身を入れ換えても成立するものであり、「絵画」とは、「観る」とは……といった当たり前の物事が、常に疑問に付される――それを「批評的」と呼ばずして何と呼ぶか!――のが、山本的空間なのである。

 

とはいえ、まずは先の凡庸な問いから消化しておこう。すなわち、「なぞる」とは一般にどういう行為であるか。それは、すでに与えられた線をたどり直すという行為の謂いである。何のために? 重要な箇所を強調するためである(「ここを見よ」とばかりに)。つまり、「なぞる」ことによって、見る者の視線は求心化されるとひとまずは言うことができるだろう。しかし、先述したとおり、山本の連作にあって、ありようはむしろ逆なのだ。彼の連作において、強調すべき「ここ」は常に複数化されており、見る者の視線は一箇所に定まらない。その強調の仕方は決して点的ではなく、線的であり、面的でさえある(強調スルモノ/サレルモノといった通常の図と地の関係が反転しているとも言えるだろう)。ここにおいて、われわれの作品に対する視線はより離散的なものへと変動する。「ブレッソンはまた、おそらく、映画に触覚的価値を再導入したもっとも偉大な映画作家でもあります」と述べ、フランシス・ベーコン論においては「視触覚的」という概念を展開してみせたのは哲学者のジル・ドゥルーズであるが、山本の作品にも、「視線の身体性」といった問題が存しているように思われる。「絵画を鑑賞すること」が、一般に、平面的なキャンバスに描かれた線や色彩の群れを視覚的に捉えるという行為であると考えられがちなのに対し、山本の作品はまずもってほとんどの作品が平面的ではなく――皺により凹凸が刻まれた「なぞる」連作以外にも、キャンバスそのものに剥がし跡が見られる作品もある――、そうした平面への苛立ちを捉えるにあたっては、われわれの視線のありようも必然的に変わってくるだろう。視覚的な「観る」という行為の中に、「描く」ことに本来備わっていた身体性が織り込まれてくる、とでも言えばよいだろうか。

 

また、通常の「なぞる」という行為が境界の固定化作用として働くのに対し、山本はその境界自体を常に疑問に付す。例を挙げよう。地下の展示室に降りてゆくと、壁面に、山本がコンクリートのひび割れを白いチョークでなぞっているところの映像が映し出されている。一見すると、境界を画定する行為に思えてしまうこうした行為も、よく見てみると、異なった様相を呈してくる。創り手にとっては、ひとつのひび割れを画定するということは、次の、より細かいひび割れを画定するかしないか、つまり凸凹のコンクリートのどこからどこまでを「ひび割れ」と認定するかという喫緊の問題へと直結するのであり(境界のゆらぎ)、あるいは、鑑賞者にとっては、通常ならば目に留まらないひび割れが、「なぞる」という行為によって初めて可視化され、それまであった世界にひとつ新たな襞が折り込まれるということを意味する。つまりそれは、お仕着せの境界をただ追従するだけの行為とはまったく逆のベクトルを持った、真に創造的なひとつのプロセスなのである。

 

ここまで、山本の「なぞる」連作の核を、通常の「なぞる」概念の脱構築として捉えてきたが、では、それがどうして魅力的なのか、という「謎」は依然として残っている。それを解く鍵になると私が考えるのは、「なぞる」連作とは少し毛色が異なった、こういう作品である。街の風景を写した、あまりピントの合っていない写真に、漫画用語でいう「集中線」の一種のようなものを描き加えた作品である。集中線というと、その中心にあるものを強調するような風に考えられてしまいそうだが、必ずしもそうというわけではない。むしろ、写真の中にあって、しかしこの線無しで写真だけを見せられたときには見て取ることのできなかった、ある「力の流れ」のようなものを、線は我々に見せてくれているかのようだ。この作品が最も興味深かったかと言われるとそうではないのだが、この作品をてこにすることで、山本の作品の魅力を言語化できるような気がしている。すなわち、山本の作品からわれわれが受ける感動は、一人の人間が膨大な時間をかけて成した営みへのリスペクトには留まらない。自然界にあって未だ眠っていた、未知なる「力の流れ」こそが、われわれを元気づけるのだ。私はこの「力の流れ」を、ある種の「磁場」のようなものとイメージしているのだが、それは、放っておくと自然の側から勝手に生成してくれるような有り難いものではおそらくない。山本独自の視線(世界への対峙の仕方)、そして「なぞる」という地道な作業なくしては、そうした諸力は現働化され得なかっただろう。細密画にありがちな、描き手のエゴのようなものの感触――「描いてます感」とでも言うのだろうか――はもはやここになく、彼の筆致は、むしろ世界の側にゆだねられている。たかだか自分という小さな枠組みの中で「内面」などといったものを「表現」するよりも、いっそその筆致を半分世界の側へとゆだねてしまうことから創造は始まるのであり、この発想の転換を持って人は「表現者」から「芸術家」への一歩を踏み越えるのだ。そして、観る者を単なる「鑑賞者」から「未知なる何者か」(とは一体何だろうか……?)へと変えてしまう力さえも、山本の作品は秘めているように私には思えるのだが、それが妄想でないかどうかは、ぜひ会場に足を運んで確かめていただきたい。

 

谷口惇