新宿復興景観論 サイバーパンク・FF15・新海誠


 私は今、新宿をある程度一望できる場所に立っている。そこから新宿を見渡すと、この街がその途方もない欲望のもとに拡大してきた時代の流れに思いを馳せてしまう。本音を言えば、新宿というのは美しい街ではない。そこにはランドマークも存在せず、典雅な歴史の折り重なりとしての宗教施設もなく、かろうじてその任を果たしそうな都庁も、相対的に低い建築のためにビル群に隠れてしまう。町外れのNTTビルの時計台じみた威容の健闘もむなしく、名前も知らない企業が建立したいくつかの無個性な超高層ビル郡が前後を遮断する。こんな街を華々しく撮るにはよほど工夫しなければならない。要するにこの街は、中心もなく、統一感もないまま、無秩序に拡大し続けている。

 
(新宿駅の恐るべき複雑さ。まるで中世の神話上の生物の解体図のようだ。)

 現代の主要都市の景観は、人々がそこに求める複雑な理想と欲望の対立の中に横たわっている。確かに、理想を言えば、ヴェネツィアやローマ、京都のような、綺麗に整地された床と金で縁どりされた巨大な扉、そして統一感が街全体を支配していて欲しい。だが一方で欲望としての街は雑然さを手放すことができない。一つの街の中で、情緒を感じたいし、機能美もあって欲しいし、何より便利な街であることは絶対に外せない。結果的に理想としての街と欲望される街は常に緊張関係にあり、部分的な統一がいくつも点在するが、全体としてはカオスが勝利する。とはいえ、この資本主義時代に、観光都市でもなければ(いや人が集まる主要都市なら尚の事)高層ビルやデパートを立てない方が不自然であり、欧米がまだ自らの歴史を自己規範化して景観を守っているのが異常な中、ドバイやシンガポールは怒涛の勢いで苛烈な自己否定と更新を繰り返している。そして、この日本も例外ではない。

(ドバイの街並み)

 かつて、日本のこの雑然とした姿が、未来の都市景観の姿として鮮やかに描かれた時代があった。80年代のサイバーパンク作家の多くが、首都の主要都市を見て未来の資本主義・情報社会のあり方を夢想していた。そのサイバーパンク世界においてポスト・モダン的世界観としてしばしば徴用された日本の描かれ方は、特に『ブレードランナー』及び『攻殻機動隊 ghost in the shell』、または『AKIRA』にその特徴を見て取ることができるだろう。
そしてこの記事では、サイバーパンクの金字塔と呼ばれる『ニューロマンサー』およびスチームパンクの代表作『ディファレンス・エンジン』の作者、ウィリアム・ギブソンは、内々に抱いていた漠然とした未来観が、当時の日本において、すでに完全に再現されていたことに愕然とした事実が引かれている。 

 「現代の日本はまさしくサイバーパンクだった。 日本人自身もそれを知っており、そのことを喜んでいた。 渋谷を初めて目にしたとき、私をそこに連れて行ってくれた東京の若いジャーナリストのひとりが、まばゆいばかりのネオンサイン──塔のようにそびえ立ち、のたうち流れるコマーシャルの光──に濡れた顔でこう言ったことをおぼえている。『ほらね?ほらね?これがブレードランナーの街なんですよ』 その通りだった。まったくそれは疑いようがなかった。」 ──ウィリアム・ギブスン

 

 とはいえ、世界に鮮烈をもって迎えられた、サイバーパンク世界で描かれた日本の都市観は、多くの日本人からしたら、本来の日本の姿でないように感じるものだっただろう。むべなるかな、それらはいわば逆位相に向けられたオリエンタリズムとでも言うべきもので、近代西洋社会がエスカレートした結果の、未来の西洋社会の(ユートピアであれ、ディストピアであれ)一つのモデルが、当時躍進を続けていた日本に投射されていた。ちょうど未開人に人間のアーキタイプを見出した構造主義のように、日本こそ未来の西洋のあり方だと考える層が少なくなかったのだろう。それは日本がアメリカの注力の元、その発展史を熱病的に再現しようとした小国であるという観点からも伺える。

 

 日本が経済的な失墜を経験し、成長神話に幕を下ろすと時を同じくして、80年代の楽しい未来予想図は早々と折りたたまれていき、日本に幻想を持つ西洋人は少なくなっていった、と先ほどの記事は帰結する。この原因を簡単に考察してみよう。彼らはあくまで現代の資本主義の先の未来都市のモデルを探し、たまたま調子が良かった日本がそこで徴用されただけで、日本が過剰な都市化を達成したその固有の条件、および日本の固有の歴史に基づいた発展史自体についてはさほど興味がなかった。結果的に、外人の勘違いされた日本のエキセントリズムと全く調和の取れない高度な経済成長という危険な調合を施されたサイバーパンク世界は、日本人からしてもオリエンタルなものであり、当時の日本においてすら、まるで仮装大賞のような仰々しさ以上の感慨を受け取らなかっただろう。また、残念ながらウィリアム・ギブソンが興奮して信じた日本人自身の享楽は、ネオンの下に隠れたブラック労動に疲れきった顔を払拭してしまったようだ。そして日本の経済神話の崩壊とほぼ時を同じくして、彼らは早々と引き上げ、それと同時に、我々も成長神話の中で密かに温めていた楽しい妄想、日本のあるべき未来の景観を見失ったのだ。
 
 

 
 

 ところが長きに渡る沈黙の後、かすかな微風が吹いている。先日公開された映画《ファイナルファンタジーⅩⅤ KINGSLAVE》の中で中心として描かれる首都景観は、制作陣が明かす通り、大部分を新宿を元にしたものだったが、サイバーパンクにて描かれたものとは少し様態が違う、一つの未来像への提案だった。
 本作は、9月に販売される《ファイナルファンタジーⅩⅤ》のいわば前日譚に当る映像だが、2時間と非常にボリュームがある上に、映像の質も非常に高い。これは現実のロケーションをある程度映像に利用した結果でもあるだろう。だがここでは、個性的な、どの時代のものとも言いがたいランドマークとしての特別な建築や、見通しの良い大通りが画面の中央に据えられつつも、何度も画面は首都高や交差点、高架下の「土地整理に失敗した」と言われ続けた雑多な空間を洗練された形で描き直し、そしてANAやユニクロ、日清カップヌードルのブランドロゴが街を占めることを積極的に受け容れている。つまり、世界に匹敵するハイファンタジーの世界観を一から作り上げるのではなく、日本のブランディング、そして日本の持つ既存のキャラクターや景観をある程度商戦として有効に活用しながら、現在ある新宿の景色をリファインしようとしている。それは、奇しくもリオオリンピックの閉会式に流された動画で垣間見せた、日本のキャラクター化したコンテンツの露骨な利用と歩調を合わせていくようである。トヨタ・ニンテンドー・ユニクロ、なんでも結構。既存の都市の光景であっても、センスがあればなんでも使おうというポストコロニアルな貪欲さを含んだFF15の世界観は、今の日本の状況を鑑みても有効な未来都市の景観を想像させる。この景観がすぐに達成可能なものではないにしても、我々に必要な未来の日本像を、こうあって欲しい新宿像を与えてくれる。


(『ファイナルファンタジーⅩⅤ』のキービジュアル 都庁を翻案。)

(同じく。伊勢丹を彷彿とさせる。)

 
(『ファイナルファンタジーⅩⅤ キングスレイブ』内の映像。新宿駅南口にかかる橋。JALやUNIQLOのマークが見える世界でAUDIが走る。)

 これとは異なるもう一つの景観モデルをあげよう。『君の名は。』で大ヒットを記録し続けている新海誠の描く作品中の都市景観は、しばしば新宿を母体にしたものだが、ここではクリーンだが立体的で、それ自体が都市生活の多様化、複雑化を抽象化したような密集した景観がしばしば映像内で用立てられる。奥に向かって褶曲、湾曲する道路群、それらは、われわれの土地の特徴の強烈さを思い起こさせるが、同時に湾曲やクセを通した土地自体の再評価であり、新宿という街の固有性、歴史を、地面の波打ちなどによって表現することで、建物の歴史以前にある、土地の歴史自体を肯定する映像でもある。同じように都市景観の早々とした転換の演出を好む「『ヱヴァ』『シン・ゴジラ』の庵野秀明において、電柱や立体交差点は都市生活におけるあくなき欲望の無意識として悪意を持って描き出される一方、新海誠はその固有の条件を、回帰し、再興するための原風景として喚起しようとしている。それは比較的平地が選ばれやすい世界の主要都市郡に比べたとき、山間国としての日本の土地の固有性として際立って顕れてくるだろう。東京=都市という表面ではなく、 関東平野のとある歪な褶曲を捉え直すことで、サイバーパンクの時には戯画化されて描かれたあの日本の無秩序な雑然すらも、とある土地のリズムを持って隆起していることがわかるはずだ。

(Z会公式PR動画「クロスロード」より)

(「言の葉の庭」より)

(『君の名は。』メインビジュアルより)

 近代の日本の街の景観は、しばしば歴史がないと内外を問わず批判されてきた。
 それにいじましく内省を促されれば、我々のこの一世紀は、文化的地層のめくるめく刷新と自己否定を繰り返したことで、本来日本にある文化的土壌が、西洋=アメリカ的な注力によって撹乱され続けたのだ、と考えたくもなる。そこにきて、例えば「理想的な未来の日本の景観」とは何かと言われると、今持って京都のような和風都市がサイバーな発展を遂げたSF的景観を想像してしまうのも無理もない。なぜなら、現代の都市の自然な発展の先に、理想的な景観を想定する余裕など一度もなかったため、新宿の未来を想像する余地など我々には残されていなかったからだ。それはほとんど、東京全体の問題でもあると言えよう。 

 

しかし、翻って、東京オリンピックにおける交々の問題を見ると、新国立競技場を持って、2020年を新日本元年とする白昼夢は虚しく潰えそうだ。それでは、今や『シン・ゴジラ』のように、一度用意された景観はもはや大胆なスクラップ・アンド・ビルドによって以外には改変しようがないのだろうか。だが、この2つの作品の中で展開されている新宿の姿は、我々にはもっと自然な、この国の景観と向かい合い、発展させる方法がある、という可能性を、希望というの名の一つの具体例を提示している。そしてそのかすかな希望の複数の呈示こそ、サイバーパンクのそれよりもはるかに素朴だが、同時に現実的な方法であり、今の日本自体を捉え直すために必要なことではないだろうか。