東京ではこの夏から秋にかけて、複数のオペラ演目を二つの演出で見ることができた。舞台芸術のおもしろさの一つは、演出という営みを介して、同じ作品を全く違った光のもとに発見し直す瞬間にある。特に、東京二期会とメトロポリタン歌劇場(ライブビューイング)による二つの『トリスタンとイゾルデ』が示した対照性は、観客の思考を強く刺激するものだった(前者は9月18日、東京文化会館;後者は11月17日)。さらにウィーン国立歌劇場と東京二期会による『ナクソス島のアリアドネ』が見せた二つのヴィジョンは、『トリスタンとイゾルデ』を観たばかりの観客にとって特に興味深いものだったように思える(前者は10月25日、東京文化会館;後者は11月26日、日生劇場)。舞台芸術は場所や機器の制約によってどうしても鑑賞機会が制限されるが、他方でこうした偶然の隣接により思考が掻き立てられるという良さもある。今回は上記の4公演を順に振り返りながら、その比較のなかで浮かび上がってくるポイントを検討してみたい。
ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』は、古代の伝説をもとにした愛と死の物語だ。アイルランドの王女イゾルデ(二期会公演では横山恵子、以下同様)は、コーンウォールの王マルケ(清水那由太)に嫁ぐため、王の家臣トリスタン(ブライアン・レジスター)に連れられていく。この時2人が乗っている船は、二期会のウィリー・デッカー演出(舞台美術はヴォルフガング・グスマン)では、シンプルな舞台の中央に置かれたちょうど2人が乗り切れるくらいの大きさのボートによって示されており、2人はその上に立ってオールを握っている。彼らはすでに惹かれあっており、この状況に終止符を打つため2人は「死の薬」を飲む。しかしそれはイゾルデの侍女ブランゲーネ(加納悦子)がこっそりすり替えた「愛の妙薬」だった。2人は初めて愛を口にする(以上第1幕)。
コーンウォールの城内でマルケ王に隠れて密会する2幕でも、舞台の中央には相変わらずボートが置かれており、トリスタンとイゾルデはこのボートの上に立って愛の二重唱を歌う。おもしろいことに、2人は愛のドラマの主人公には似つかわしくないほどに、動かない。彼らは触れ合うことすらなくボートの上で静止している。これはボートの外に現れるブランゲーネやマルケ王らの機敏な動きと対照的だ。この場面では、ボートの中と外とで全く別の時間が流れている。トリスタンとイゾルデの2人は、外から切り離された幻想の世界に、あるいはプログラムに記された演出家自身の言葉を借りれば、もう一つの現実のなかにいるかのようだ。ワーグナーは元の伝説に反して、妙薬を煽る前から2人が惹かれ合っていることにするという設定の変更を行っているが、もともと好きな2人がなぜさらに妙薬を飲む必要があるのかという問いに、デッカーはこの演出で明確に答えている。愛の成立には、互いが惹かれ合うだけでは十分ではない。2人だけの幻の世界、あるいはもう一つの高次の現実に飛躍すること。妙薬を飲むことはその飛躍のメタファーなのだ。
けれどもこの2人だけの世界は、やがてマルケ王とその部下に侵入され、壊されることになる。イゾルデが王の妃でありながらトリスタンと密会していることが暴かれてしまうからだ。こうして2人の愛の燃え上りと破綻を描く2幕は、通常、トリスタンがマルケ王の部下メーロト(今尾滋)の剣に自ら身を投げ出し重傷を負うところで終わる。しかしデッカーはここで、トリスタンに自らの目を抉らせ、さらにはイゾルデにも同じようにさせている(イゾルデは普通ここでは負傷を負わない)。2人は失明し、3幕では目隠しをした状態で登場する。
演出家によるこの設定は第一に、トリスタンとイゾルデが2人だけの世界を諦めていないことを示唆するだろう。ボートの中の空間が外の人々によって侵されてしまった今、彼らは視覚の世界から盲目の世界へと逃げ込むしかない。さらにこの設定は、2幕から3幕にかけて一貫して登場する「昼」と「夜」をめぐる2人のやり取りを、新しい光のもとに照らし出す。2幕でトリスタンとイゾルデは、誰にも妨げられずに済む「永遠の夜」の世界に憧れているが、自らの意思による失明はこの理想を文字通り実現したものだとも言える。「まだ光は消えていなかったのか、屋敷に闇は訪れていなかったのか」(124)といった台詞も、実際に彼らには目が見えていないために、字義通りのレベルで受け取れ説得的に聞こえる。
第3幕は故郷カーレオールでイゾルデを待つトリスタンが、彼女との再会を果たして息絶え、2人を赦すためにマルケ王がやってくるも時すでに遅く、イゾルデが「愛の死」を歌い上げて死ぬところで終わる。舞台は依然としてシンプルな空間にボートが配されたままだが、壁は荒涼とした色に塗られ、ボートとオールは真二つに割れて転がっている。ボートと失明という二つのアイディアを中心としたデッカーの演出は最終的にどのようなビジョンを見せるだろうか。失明のモチーフは、一方で2人のすれ違いを引き起こす。イゾルデがようやく到着し、舞台の奥から手探りで入ってくるが、目が見えないゆえに2人は少しも触れ合うことができない。しかし他方で、彼らは割れて散らばったボートとオールを元通りの形に戻す。「もう一つの現実」を取り戻そうとするかのように。最終的に2人はボートのなかに身を横たえる。これは再生の物語でもあるのだ。考えてみれば、彼らが求めていたのは最初から、物理的な次元を超えた関係だった。このエンディングは、物質的な世界ですれ違ってしまう寂しさにも増して、もう一つの世界での結びつきを2人が再び見出し、真に獲得した可能性を示唆しているのではないだろうか。
英語圏のレビューを見る限りお世辞にも評判が良かったとは言えないメトロポリタン歌劇場でのマリウシュ・トレリンスキ演出による『トリスタンとイゾルデ』は、しかし、東京二期会によるデッカー演出を念頭に置いて観ると、対照的なビジョンを示していておもしろい。デッカーと異なり演出家の作為を前面に押し出すトレリンスキは、時代を現代(おそらく第2次世界大戦時)に置き換え、1幕、2幕の舞台を軍船の内部や武器庫といった具体的な場所に設定することで「死」のテーマを強調し、白い軍服を着た男、その男が手に持つ拳銃とライター、1人で眠る子供のイメージを、冒頭からあちこちに散りばめている(映像が中心だが1幕と2幕の最後には実際に白い軍服の亡霊が一瞬だけ登場する)。これらのモチーフがどのような意図で展開されているのか観客はなかなか理解することができないが、3幕に入ってやっと、それがトリスタン(スチュアート・スケルトン)の過去をめぐるオブセッションとして配されていたことが判明する。
それは、かつて、幼かった私に
父の死が告げられた折—
また、暁の薄明を伝って、
しだいに不安の思いを掻きたてた—
息子が母の運命を
耳にした折には。
父が私をつくって死に、
母が死の床で私を産んだ、あのとき…… (129)
両親の死を回想する台詞と同時に、舞台上ではトリスタンの幻覚として、彼の過去が明かされる。白い軍服の男はトリスタンの父、少年はトリスタン自身であり、父親は自殺した。拳銃とライターは父が自殺に使ったものだったのだ(3幕の前奏曲と同時にピストル自殺の映像が流れ、幻覚のなかでは少年がガソリンを撒くくだりがある)。ここまでくると、トレリンスキの描くトリスタンが、父の死に取り憑かれ、その死に憧れる人物であることが明確になる。彼は1幕から何度か1人でライターに火を灯すが、これも彼の自殺願望を示すものだったのだ。
そうなると、彼のイゾルデ(ニーナ・ステンメ)との関係も変わらざるをえない。イゾルデはトリスタンを愛したが、トリスタンは最初から、何よりも「死」に憧れていた。彼は3幕で愛の妙薬のことを語りつつ、父の軍服を指差す。トリスタンは死を望むがゆえにイゾルデを愛するのかもしれない。『トリスタンとイゾルデ』において「愛」と「死」は不可分の関係にあるが、単純化して言えば、デッカー演出が死のなかに永遠の愛を見るのに対し、トレリンスキ演出のトリスタンは愛のなかに死を求めている。デッカー演出の2人が自分たちだけの「もう一つの世界」を手に入れるのに対し、トレリンスキ演出では2人が別々の世界に生きている。妙薬のもたらすマジックは、デッカー演出の2人にとって新しい世界への跳躍の契機になるのに対し、トレリンスキ演出の2人にとっては住んでいる世界が異なることを明確にするものとなるのだ。
3幕の幕切れが、この2人が最後まで交わらないことを明確にしている。そもそも2幕最後の会話の場面からしてすでに、イゾルデはトリスタンの幻視になっていた。トリスタンは上記のような強迫的幻想に取り憑かれながら息絶えていくが、手首に傷をつけるイゾルデの死はワーグナーが意図しただろう恍惚からは遠く、やけにリアリスティックだ。最後までどこか噛み合わないようである2人の幕切れは、彼らが「愛」に見ていたものが同じようで微妙にすれ違っていたことの反映だろう。その意味では、ここでイゾルデが必死に歌い上げる「愛の死」は、デッカー演出におけるそれよりもはるかに悲しい。
トレリンスキ演出で思いの外掘り下げられていたように思ったのは、トリスタンに裏切られたと憤るマルケ王(ルネ・パーペ)だった。彼はトリスタンの父の亡霊と同じく白い軍服を着ており、どうしてもこの2人が重なって見えてしまう。これによってマルケ王のトリスタンに対する愛情は、父親の息子に対して持つ感情のように捉えられ、トリスタンを咎めるマルケ王は怒りよりも愛情に基づく悔しさと寂しさを感じさせる。2幕の終わりはその意味で、この舞台中最もエモーショナルな盛り上がりを見せる場面だった。
なお、多くの批評家の不評を買った、フィルム・ノワール的な1幕から2幕にかけての具体的な舞台装置(軍艦の船内、船の操舵室ないし灯台、武器庫)、及び、何度もスクリーンに投影される円形のレーダーは、確かに全てが有機的に結びついているのか分からず無用な混乱を招いたかもしれないが、「夜は私を昼の元へ投げやって、とこしえに我が苦しみを太陽の眼にむさぼらせる」(132)というトリスタンの台詞があるように、トリスタンの苦しみの原因が「昼」による<監視>だったと考えれば、それほど突飛なものでもないように思える。1幕にはトリスタンが監視カメラによって個室に入るイゾルデの行動を見ていることが示される場面がある。また2幕における、船の操舵室ないし灯台から武器庫へという場面の転換は、他人に見られることのない場所で「外」を監視するという立場から、逆に自分たちが監視される立場へと2人が追い込まれてしまったことを明確に示している(後半で2人はマルケ王の部下たちにいくつもの懐中電灯を向けられ囲まれる)。どの程度の効果を上げたかはともかく、少なくとも戦争における死のテーマと監視のモチーフを組み合わせようとしたことは理解できる。
このように2つの『トリスタン』を見てみると、幻想が一方では2人を結びつけ、他方では2人を遠ざけている。ではこの幻想に、さらに芸術の問題が直接結びついたらどうなるか。後編では作曲家や音楽教師が登場し、悲劇や喜劇が論じられて、この問題にダイレクトに関わる『ナクソス島のアリアドネ』の2公演を見てみたい。(後編に続く)
*『トリスタンとイゾルデ』の歌詞は、『トリスタンとイゾルデ』(高辻知義訳、音楽之友社、2000年)から、ページ数を括弧内に付して引用した。