ヱクリヲvol.5 編集外記


 編集委員T:
 文学フリマにご来場のみなさま、この度は『ヱクリコ』を手に取っていただきありがとうございます。『ヱクリコ』とは総合批評同人誌『ヱクリヲ』のチラシでありながら、新規文章が読めて『ヱクリヲ』のことを知ってもらうための「お試し版」となっています。
 当コーナーは「本誌の編集後記も書いたし、編集外記に書くネタがない」と編集長が弱音を吐いたので、「いや、あるだろ」と言葉絞り出させるコーナーです。それでは編集長の紹介なんて生ぬるいものは挟まずに、質問を投げていきたいと思います。よろしくお願いします。

 長々編集長にインタビューしたところで「お前誰だよ」となると思うので、早速本題に入りますね。本日発刊の『ヱクリヲvol.5』のA面が日活ポルノ映画監督・神代辰巳特集なのですが、神代特集に集まった論考を全部読んでみての感想をください。

 

編集長(佐久間):
 これまで弊誌で取り上げてきた映画監督の特集(レオス・カラックス、アンドレイ・タルコフスキー、D・W…グリフィス、楊徳昌)と比較しても、今号はもっとも充実したテクストが揃った特集が組めたと思っています。

   本誌に掲載された神代辰巳に関するテクスト群からは、彼の演出は本来映画に内在する「現実」と「虚構」の二元論を脱臼し、転倒させるものであることがわかると思います。そして、そこには本誌の論者らが指摘しているように、神代の死生観=「私」性が過剰に孕んでいますね。

 

T:
 はい。毎回のように映画特集はやっていますが、今回はなんか「濃い」ですよね。文章だけでなく、デザインも初参加のアニメーション制作/批評家である松尾奈帆子さんが手がけてくださったからかもしれません。編集長念願である「本誌に猫の画像を掲載する」ことも達成して気合の入りようを感じましたし。

 では、対するB面、わたしも所属しているゲーム特集ですが、こちらも全部読んでみてどんな感想を持ちましたか?

 

編集長:
 正直なことを述べれば、私はゲームをほとんどしないので論者が取り上げている大半の対象に関しては知識を持ち合わせていません。にもかかわらず、すべてのテクストを興味深く拝読することができました。つまり、ゲームに関する見聞がなくとも面白く読めるものになっているということです。

   今日においても、またこれからの未来に向けてもテクノロジーとしてのゲームはその漸次的進化は止むことはありません。他方、その進化過程の中で普遍的な事柄をあげるならば、当然の如く、そこには(ゲーム・)プレイヤーの意識と身体性が伴うものです。それゆえ、「私」性というテクストが生じます。多くの論考はこの私性(=人称)の問題を論じたものが多かったですが、だからこそゲームもまた一つの文学(=テクスト)と呼べるものになっているのではないでしょうか。

 

T:
「人称」はゲーム特集では編集初期の段階からひとつの大きなテーマでしたからね。ゲーム好きの中で「批評」とは「このゲームを買うべきかの価値判断」という面がとても大きく、私たちがこうしてやっている「批評」とは全然意味合いが違うものだという前提がありました。その状況の中で「ゲームを文化的に語る」ことを私たち自身が希求していた。わたしはなんか価値を「文学的」というものに回収する考え方は好きではないので「文化的」と言いましたが、編集長(=読み手)がそれを感じ取っていて安心しました。

 と、このように全く違う方向から二大特集を打ち立ててみたところ、なにやら共通点が見えてきたような気がしますね。神代辰巳、そしてゲーム特集の間で重なった部分であったり、『ヱクリヲvol.5』としての大テーマを掲げるならどのようになるんでしょう。

 

編集長:
 二つの特集で通奏低音となっているのは、神代辰巳(映画)とゲームから現実と虚構の狭間で揺れ動く「私」性のテクストを問い直すことだと思います。つまり、これは広義の意味で間違いなく文学(テクスト)の特集なのです。

 映画批評家の加藤幹郎の言葉を借りれば私たち「人間は『現実』をありのままに見ることはでき」ません。だから「理性的にも感性的にもつねになんらかのイデオロギーの色眼鏡ごしに『現実』を把握するしか」ない。それゆえ、私たちもまた神代とゲームのパースペクティヴを通してこの「現実」を見て思考したと言えるでしょう。

 

T:
 編集中期に「神代から虚構を、ゲームから現実を問い直す」みたいなことを仰っていましたが、実際やっているうちに両特集とも「虚構/現実」をより深く批評していたのは編集冥利に尽きますよね。期待を超えたものができあがった感覚です。

 

編集長:
 雑誌も一つの「物語」であると思っています。だから、編集ではテーマや流れを重んじて「物語」を構築するように編んでいくことを心がけてします。

 

T:
 ゲーム班的に言うと、『ポケモンGO』やVRブームのこともありとても簡単に「虚構と現実が混ざりあってるんだよ」と言える状況になって、でもそこにあるのはそんなに簡単で単純なものではないんじゃないかというところに割と早い段階から焦点を当てていました。しかし、そこで似たテーマが神代側からも出てきたのは意外でした。わたしは映画は門外漢なのでイメージでしかないですが。

 このタイミングに神代特集をやった理由であったり、特集決めの時点で虚構を問い直すみたいなテーマはイメージしてたかを教えてください。

 

編集長:
 実際に神代から「虚構」性というキーワードが出てきたのは荒井晴彦さんのインタビューや作品を振り返るなど、企画を推し進めていく過程においてです。基本的に現在のヱクリヲは全体のコンセプトを先に決めて編集・企画立てをするものではありません。だから、いつも編集中に全体を見通しながらテーマやコンセプトを後発的に決めていくことが多いです。

 面白いことに、神代特集のコンセプトの一つに「文学」を設けたら、他方ゲーム特集からは「人称」というキーワードが浮かび上がってきました。そこに「現実」と「虚構」の二元論が加わり、繰り返し述べますが、これは広義の意味で「文学(=テクスト)」の特集だと思ったんですよ。

 とはいえ、「現実」と「虚構」、「人称」と「私」性というのはとても現代的なテーマですから、元々私たちの問題意識が双方の特集の中で響き合っていたのではないでしょうか。

 

T:
 特集としてのテーマの一致だけでなく、神代班にもゲーム班にも偶然「音響」について論じた文章があります。神代班の音響担当として、対するゲーム班の音響批評を読んだ感想はなにかありますか?また、音響について語る意味も持論があればどうぞ。

 

編集長:
 神代映画には特徴的な音響演出があるので、当初から音響について論じなければならないと思っていました。分析やテクストを書いているうちに神代が音響による意味の付加よりも、音声の響きを重んじていたのではないかというのが私の出した一つの答えです。私はある種、それを実在的に追っていたわけですが、興味深いことに佐伯良介さんの『マリオ』のジャンプ音について実在的に問うてます。

 私たちの日常にはあらゆる音が溢れていますが、そこに人の耳は(厳密に言えば意識ですが)、聴取の取捨選択をしています。それは聞こえているはずなのに聴いてないという現象です。ジョン・ケージの無響室で自身の脈の音を聴いたというエピソードからもわかるように音は確実に存在しています。音(響)は人類が誕生する前、引いては生命が誕生する前から存在する森羅万象のものだと録音技術の誕生と発展は証明しました。さらに録音技術は私たちの聴取体験を画期的に変えました。なぜなら、私たちはテクノロジーを通して人間の可聴領域以下の音も聴取できるようになったからです(マイクロフォン/スピーカーを通して聴く音は現実の音をありのままに聞いているわけではありませんが)。

 ですから、音響について論じるということには不可避的に実在論的に問うことなのかもしれません。しかし、それを単に実在論的に追っていくのではなく、音が私たちにどのような効果(意味)をもたらすのかを考えなくてはいけないと思っています。

 

T:
 とまあこのように、様々なことを考えて作られた『ヱクリヲvol.5』について編集長に語っていただきました。正直、本誌掲載の編集後記よりも全然面白い事を言わせることができてわたしは盛大なドヤ顔をしています。

 『ヱクリヲvol.5』では神代特集とゲーム特集の他にも、書評や大人気映画『君の名は。』についての批評も掲載しております(1冊1000円)。また、既刊である『ヱクリヲvol.1~4』(500円、700円、700円、900円)も置いていて、各特集内容はもちろん、「音響担当の佐久間」「フィクション担当?の高井」というように各論者に通底している問題意識を追うような読み方も面白いと思います。

 それではブース【キ‐20】にて、お待ちしております。購入者先着40名くらいになにかいいことがあるかも……!?

 

(本稿は第23回文学フリマ東京会場にて頒布したミニコミ『ヱクリコ 2』からの再掲です。)